フランス旅行回想録 【 Voyage 】

こちらは管理人のフランス旅行記です。
旅行前の準備のこもごもや、旅行中にフランスからUPしていた雑文、帰国してからの回想録などを置いています。

★2013/5 回想録
旅行準備から現地UP版までは、かつて【Hermitage】というおまけノベルを集めたブログにUPしていたものからの転載。
回想録からが、この「Voyage」でUPしはじめたものです。
(今はクレーム等により一部公開していません)

また、この旅行記には、追随するコンテンツとして【Webアルバム】がございます。
アルバムでは、管理人の訪れた各地の画像が2000px以上の大判サイズでご覧いただけます。
ベルサイユ宮殿や大小トリアノン宮などのお部屋が、壁紙の模様や扉のひび割れまで見える詳細さでUPされております。
スライドショーにすることも出来ますので、ご覧になれる方はどうぞ。
全部で1183枚の写真がご覧いただけます。

★2015/4 回想録
2015/6/12よりUPを始めました。
こちらもWebアルバムをUP中で、ただいまは3410枚の画像がご覧いただけます。
最終的には、およそ5500枚程度のアルバムになる予定です。

 

    秋らしく晴れ上がった空。
    観光2日目の朝、私たちはシテ島にいた。
    初パリの連れのため、市内観光を予定していたこの日。最初に訪れる場所は、ノートルダム大聖堂と決めていた。絶対に混むことが判っている大聖堂の“塔”。まずはそこから攻略してしまおう、という算段だ。


    西側正面ファサード

    まだ8時過ぎ。
    「1番のりかと思ったけどね」
    大聖堂の前の広場には、もうすでに観光客と思われる人たちがいた。
    朝も早めではあるが、時間的にはもう開いているはず。
    けれど人々は皆、大聖堂の閉ざされた扉の前で、所在なさそうにウロウロしている。
    「今日はまだ開いていないのかな」
    「かもね」
    私たちは遠目からその様子を眺め、そして広場の端にある石造りのベンチに座った。
    さっそくテイクアウトのカフェを取り出し、クロワッサンをパクつく連れ。ここへの道すがら、ブーランジェリーで買ってきたものだ。
    少ない滞在日数のため、今日は朝からガンガン動く。あえてホテルの朝食は取らず、あらかじめ軽食持参でここへ来ていた。
    普段から朝食を取らない私は、連れの様子を写真に撮ったり、今まで見忘れていたゼロ・ポイントを観に行ったりしていた。


    ゼロ・ポイント

    大聖堂の広場、西側の石畳には「ゼロ・ポイント」を示すプレートがある。日本でも幹線道路の標識で「××まで△Km」などと書かれたものを目にするが、パリの場合はノートルダム大聖堂のこのプレートが、各地への距離を表す起点(ゼロm)になっている。
    私は今まで何度かここに来ているが、このゼロ・ポイントはいつも見逃していた。日中の混みあう時間などには、広場は人でいっぱいになるし、聖堂内部で見たいものが多くて気が急いたり、ミサに出るために気持ちがそちらへ向いてしまっていたり。ホテルに戻って画像チェックをしているときなどに「あ!」と思い出すことがしばしばだった。

    ゼロ・ポイントをしげしげと眺め、数枚の写真を撮る。
    そして。
    「ちょっと、連れ!」
    私はパタパタと小走りに連れのところへ戻った。
    「聖堂の中から歌が聞こえる…気がする」
    私は耳管開放症という持病があり、耳の聞こえが不安定だ。体調などにだいぶ左右されるので、いつも聞こえがおかしいわけではないのだが。(耳管開放症
    連れは食べ終わっていたので、私は連れを連れて大聖堂のまん前まで戻った。
    大聖堂の大きな扉は、依然3つとも閉ざされている。
    ノートルダム大聖堂では、通常右の扉から入り、左の扉から出る。
    「もう見学時間のはずなんだけどな」
    他の観光客たちも、時計を見ながら右側の『聖アンナの扉口』の前を行ったり来たりしていた。



    中からは、微かに歌声が漏れている。
    「ね?聞こえるでしょ?」
    私は聖アンナの扉口を離れ、左側の扉へも行って見た。


    『聖母戴冠の扉口』

    こちらの扉もやはり閉まったまま。
    うーん…
    せっかく来たノートルダム大聖堂。私はなんとはなしに、連れにノートルダム大聖堂についての簡単な案内を始めた。
    (ノートルダム大聖堂についての私なりの案内は【こちら】



    「ほんとだ。生首持ってる人がいる」
    連れは自分の首をしっかり抱えたサン・ドニの像を、しげしげと眺めている。その横で、私は時計を気にしていた。
    もう9時過ぎ。
    ファサード左端の道路沿い(大聖堂北面側)では、塔に登りたい人たちが並び始めているようだ。
    どうしたものか。
    扉の前に並べられた金属の柵。サン・ドニのいる聖母戴冠の扉口の柵は小門が閉ざされているが、聖アンナの扉口の前の小柵は門は開いている。
    私はそこまで行くと、皆が遠巻きに見ている小門から内側に入り、閉ざされている聖アンナの扉口を押してみた。
    大きく厚い木製の扉。
    それは重くはあったけれど、普通に開いた。
    『え?入っていいの?』という、周囲の人たちの気配。
    中に入ってみると、大聖堂の中は暗く、歌声が静かに広がっていた。





    私は拍子抜けしてしまった。
    「なーんだ、自由に開けて入ってよかったんだ」
    内陣壁の内側では、朝のお祈りがされているよう。
    それさえ邪魔をしなければ、ヴィジットはO.K.だったのだ。少なくとも、このときは。
    私が聖堂の中へ入って行くのを見ていた人たちも、少しずつ後から入ってきた。
    足音も潜めるように、私と連れは内部を観て歩く。
    要所要所で、私はささやき声で説明をした。
    まさかその3年半後に、ここが火災に見舞われるとも思わずに。
    連れは私の宗教建築や宗教美術の趣味について、「そういうのが好きなんだな」という、ざっくりした印象しか持っていなかった。そのため、ゴシック建築について滔々と語りだした私に、「すごいな」と半笑いになっていた。

    聖堂内部をぐるりと観た連れは、それで納得したようだった。
    「もうひとめぐりする?」
    「もういいかな」
    私は内心“もういいのかよ!?”と思ったが、連れがいいならそれでよい。私ならここで3時間は使いたいところだが、それはまた、ひとりで来たときに楽しめばいいことだ。
    「んじゃ、塔に登るか」
    私たちが聖堂内部から出るときには、聖母戴冠の扉口も金属の小門も開けられていて、大聖堂前の広場は混み始めていた。そして、塔に登るための行列も。


    ペーパークラフト

    私はハンドクラフト系の講師を職業としているので、こういった工作ものについ釣られる。サイトのお客さまにもこの手のモノが好きな方がいらしたので、お土産に即買いしてしまった。

    激混みの観光名所“ノートルダム大聖堂の塔”。
    私たちが行ったこのときは、並ぶしかアクセスの方法がありませんでした。けれど今は変わっていて、なんとアプリで予約が出来るようになっています。
    現在の塔へのアクセス方法は、下記の2通り。
    1 当日に西側ファサード横の道路沿い(つまりは北壁側)の予約機から予約する
    2 当日にアプリから予約する
    いずれも当日の朝7時半からの予約開始で、アプリもパリとその近郊でしか動作しません。
    便利なような、不便なような。
    でも、初めてここを訪れたとき、吐く息が白く煙る寒さの中で、みぞれまじりの雨をよけながら長時間並んだ経験のある私にとっては、効率的になったと思っています。
    大聖堂の内部は自由見学ですが、塔は予約必須。
    いらっしゃる方はお気をつけくださいませ。

    私たちが内部見学をしている間に、塔への行列はだいぶ長くなっていた。
    先に塔に登れば良かったのでは?と思う方もおいでかもしれないが、塔は大聖堂より、開くのが2時間遅いのだ。私たちはその2時間のラグのあいだに、しっかり内部見学を済ませておこうと思っていた。
    この目論見は、“正面の扉が閉まっていた”というだけのことで、外れてしまったのだが。


    塔内部



    塔の内部は、踏み面の狭い螺旋階段だ。
    途中には小さな扉があったり、明り取りのためか窓もある。
    「この扉はなんのためにあるんだろうね」
    「屋根のメンテ用じゃない?」
    そんな会話も息切れしてくる69mの塔。階段は387段ある。登り切った展望台のその上に、さらに少し狭い展望台もあるので、階段の総数は422段になる。(らしい。自分では数えていない。そんな余裕もない)


    展望台からエッフェル塔方面


    モンマルトル方面


    ラ・デファンス方面

    見上げても大きいノートルダム大聖堂は、見下ろしても大きく、高い。
    「思った以上に高いな」
    秋晴れに見事な眺望。
    「こわー」
    高いところが比較的楽しめる連れは、地上を覗き込んで、その高さを楽しんでいる。
    これだけ古い石造りの建築物。地震大国・日本に生まれ、東日本大震災で震度6を体験している私は、“もしここであの揺れが起きたら”なんていうことを、いつも考えてしまう。


    シメールのギャラリー

    2019年4月15日の火災の一報を、私は自宅のテレビで見た。
    朝っぱらからのその映像に、頭の中に広がったのはシメールのギャラリーと塔だった。



    奇怪な姿をし、ノートルダムを、そしてパリを守護するシメールたちは塔の展望台に無数にいて、さまざまな表情を見せていた。どれひとつ同じものがなく、私は観るたびバカみたいに写真を撮りまくっていた。
    そして、塔。



    美しい彫像たちに護られるように建つこの塔を観るのが私は好きで、ゴシックの大聖堂らしい屋根のクロスとともに、いくら見ても見飽きない風景だった。




    尖塔の風見鶏

    この風見鶏が墜ちるなど、誰が想像しただろう。




    瓦礫の中から見つかった風見鶏

    “奇跡の風見鶏”と呼ばれたこの風見鶏は、火災の年の9月21日と22日(ヨーロッパ文化遺産の日)の2日間、パレ・ロワイヤルで公開された。
    見たかったと思う。
    また観られることを、切に願う。



    ここでひとつ、ノートルダム大聖堂の名称についてのおことわりを。
    私は前回の旅行記で、この場所について「ノートルダム寺院」と表記している。それは現地で配布されているリーフレットによった。



    けれど今回表記する名称を変えたのは、大聖堂の火災事件が大きく扱われた際に、名称が「ノートルダム大聖堂」で統一されていたように思ったからだ。
    こういった細かいことについても、さまざまなクレームが届く。
    そのため、表記を変えた理由も書き加えておくこととした。

    大聖堂の見学を終えた私たちは、コンシェルジュリーに向かってブラブラ歩く。



    コンシェルジュリーには翌日も行く都合があるのだが、今日はそのための予習といったことになる。予習(それ)はもちろん、“連れに取っての”だ。
    途中でアイスを買い、それを食べながら歩く。



    コンシェルジュリーは空いていて、待つこともなく入場できた。
    ここは1歩入ると天井の高い静謐な空間が広がっていて、独特な空気感がある。王妃さまの終の場所だと思うから、私が過剰にそう感じるだけなのか。
    それを連れに聞いてみようと思っていたのだが。
    「なんじゃこりゃ」


    武人の間

    入ってすぐ(画像左側あたり)は記憶通りの空間なのだが、でもいくらも進まぬうちから、よく判らないメッシュ状のボックスが放置されていた。
    それも1個や2個じゃなく、コンシェルジュリーで最も広い61.2m×27.4mの大広間にドカドカと。



    なぜここに作ったのか、意味の判らない現代アート。
    このときは、ここだけでなく、コンコルド広場にもナニやらよく判らないオブジェが置かれていた。それには後ほど大変泣かされることになるのだけれど。
    このアート作品はこういうものらしい↓



    ある1か所から見ると、赤い部分がつながって帯状に見えるという…トリックアート的な?
    ここにある意味がますます判らなくなりながら、私はそこを通り過ぎた。

    コンシェルジュリーに関しては、以前の旅行記にも書いているので、ここではそこで特に触れていなかったところを。


    女囚の中庭




    洗濯場

    ここは日中女性囚人たちが散歩したり、休憩の場として利用したところ。洗濯場ではおしゃべりなども出来たらしい。
    そしてこの中庭で、王妃さまは断頭台へと向かう馬車を待った。
    このエリアは、ほぼフランス革命の頃のままで残っている。歴史あるコンシェルジュリーの中でも、数少ない貴重な場所だ。


    王妃さまの独房を再現した部屋

    この部屋は、今はない。
    コンシェルジュリーはリニューアルされ、今はタブレット型のオーディオガイド「HISTOPAD」を5ユーロでレンタルして見学するようになった。レンタルは強制ではないが、あった方がやはり良いようだ。タブレットがないと、何もないガランとした部屋を見学することになると聞いた。
    もうなくなってしまったこの場所を、観ることが出来てよかったと思う。


    マリー・アントワネットパスの案内

    コンシェルジュリーにはいくつかのチケットがある。コンシェルジュリー単体のチケットに、入場だけのものや「HISTOPAD」付きのものがある他、サント=シャペルとセットになったコンボチケットもある。
    そしてマリー・アントワネットパスというものもある。これはアントワネットにゆかりの深いコンシェルジュリーとランブイエ、贖罪教会、サン=ドニ大聖堂が周れるもので、リーフレットの裏面が、その4か所のスタンプが押せるラリーの台帳になっている。
    さらに、パリなどでアントワネットに関する特別なイベントがある場合、マリー・アントワネットパスで入場出来る場合もあるようだ。ちょっと調べてみたところ、2019年10月16日~2020年1月26日までコンシェルジュリーで開催された「マリー・アントワネット イメージのメタモルフォーゼ展」にも入場出来た。
    「マリー・アントワネット イメージのメタモルフォーゼ展」は私も観に行ったので、後ほど何かの機会に感想を書くことがあるかもしれない。

    私には特別なコンシェルジュリー。だが、連れにはピンとこなかったらしい。
    ごく軽く一巡しただけで、私たちはサント=シャペルへと移動することになった。
    のだが。
    ノートルダム大聖堂の塔と並ぶ激混みスポットのサント=シャペルは、コンシェルジュリーと極近。同じパレ通り沿いにあるため、そばまで行かずとも、かなりの行列が見えていた。
    「サント=シャペルってね、あそこに見える入り口が入り口じゃないんだよ」
    「?」
    行列を眺めてそう言う私に、意味が判らぬといった様子の連れ。
    「あそこから入ってセキュリティチェックを受けたあと、さらに少し歩くの。サント=シャペルの入り口は、建物の向こう側にあるから」
    「??」
    極度の方向音痴である連れには、イメージがつかめないらしい。
    「この辺りの建物は、シテ宮っていう14世紀の王宮のあとなの。それぞれ別の建物といえば別の建物だけど、サント=シャペルもコンシェルジュリーも、今、横に建っているパレ・ド・ジュスティスも、一体と言えば一体なんだよね。だから通り沿いに見えている入り口は、サント=シャペルだけの入り口ではないの。サント=シャペル自体の入り口は、パレ・ド・ジュスティスの裏というか脇というか…」
    「とにかく、入り口からすごい行列が出来てるってことか」
    「そう。私もここまで並んでるの、初めて見た」
    観光シーズンの秋だけあって、サント=シャペル待ちの行列はパレ通りにまで伸びて、なお折り返している。チケットを切っているサント=シャペル自体の入り口を埋める行列だけでも、1時間ぐらいは待つというのに。
    私と連れは相談し、サント=シャペルは後日にすることにした。
    そして次に向かうのは、連れの希望で奇蹟のメダイユ教会と決めた。
    のだけれど。

    ここで私と連れは、派手にやりあってしまった。
    原因は疲れからくるイライラだ。
    予想し、懸念していた原因(ソレ)
    連れは、初めてのヨーロッパでの気疲れと、長時間フライトのために疲れていた。
    私は私で、旅行前からプランや手続きを丸投げされていたうえ、渡仏してからのアレコレは、多少パリに慣れのある私がほとんどやっていたため、それでも疲れたとのたまう連れにイライラしていた。
    「疲れてるんだよ」
    「私の方がよっぽど疲れてるわ。旅行準備もパリに来てからのいろいろも、全部私がやってるでしょう?あなた、疲れるような何かした?」
    20年近い付き合いなので、やりあうとなると互いに遠慮がない。
    大好きな奇蹟のメダイユ教会でのつまらないやり取りに、私のがっかり感は大きかった。またこのことが原因で、奇蹟のメダイユ教会では写真が1枚も残せず、お土産にしようと思っていたメダイユも、買うことが出来なかった。
    教会を出たあとは昼食を取る予定でいたので、私はメトロに乗ってサンジェルマンに向かった。連れはふてくされて、無言でついてくる。
    今回の昼食の場所に、私は『ル・プロコープ/LE PROCOPE』を選んでいた。
    前にも利用したことがあるパリ最古のカフェレストランで、パリとしてはリーズナブルなお店だ。お店の雰囲気もいいし、メトロの駅からも歩いてすぐ。パリで最初に入るレストランにちょうどいいと思ったからだ。が。
    「高いな」
    席につくなり、不満を言う連れ。
    「じゃあ出る?自分でお店決めてくれる?私はどこでもいいのよ、もともとお昼ご飯食べないんだし」
    私がそういうと、連れは黙った。
    「高いって言うけどさぁ、私も安めなお店を選んでるんだよ?ここを日本のファミレスだとでも思ってるの?」
    連れが高いと言うのでランチのコースはやめて、軽食的なものを適当にオーダーする。
    ル・プロコープのランチのコースは良心的な価格で、楽しみやすいと言われているのに…


    私のオーダーのカフェ・グルマン(Café gourmand)

    カフェ・グルマンは、基本的にはエスプレッソ・コーヒーと、少量のスイーツ数種類をワンプレートにしたデザートのセット。
    この店ではコーヒー以外もチョイス可能だったので、私は紅茶にした。“グルマン”は食いしん坊という意味なので、どれにしようか選びきれない食いしん坊さんが、アレもコレもと少しずつ食べられる楽しいメニューだ。
    私がこの旅行をした2015年は、パリではカフェ・グルマンが流行っていた。この店で頼まなくても、どこかしらの店で頼んでいたと思う。
    ちなみに連れが何を選んだのかは、なんにも覚えていない。神経質で、そのため記憶が過剰に細かい私にしては、珍しいことだ。
    それぐらい、キレていた。
    この日。いや、その前夜から、実はずっと連れには、ネガティブなことばかり言われていた。悪気はなかったのだと思う。ただ、姑や小姑が言うようなチビチビチクチクした不満を言い続けられていて、もめたくない私は、努めて笑顔でいるようにしていた。
    でも、席につくなりの「高いな」のひとことで、私はいいかげんキレたのだった。
    「今回のパリ旅行の興味として、あなた、“ナポレオン”って言ってたよね」
    「うん、まぁ」
    「だから私はこのお店を選んだんだよ?お店の入り口にある額に気が付かなかった?帽子が飾ってあったでしょ?あれ、お金のなかった若きナポレオンが、食事代の代わりに店に置いていったものなんだよ。ここ、ナポレオンのファンがわざわざ写真を撮りに来るようなお店なんだよ?このお店の中だって、革命家たちの言葉なんかがあちこちに刻んであって、直筆の手紙が置いてあったりお気に入りの席が残っていたり、あんたの趣味に合いそうなお店だからここにしたんだよ?」
    私がそう言うと、連れは“しまった”と思ったらしい。私の機嫌を取るためか、慌てて写真を撮りに行った。



    「疲れているのはお互いさま。私が疲れていないとでも思ってる?私がちょっと前に入院したの、知ってるよね?」
    この旅行の数か月前に、私は半月ほどの入院をしていた。そのうちの4日間はICUにいたのだった。
    「楽しもうって気はないのかな?疲れているのは私も判る。12時間も飛行機乗って、当たり前だよね。でもさ、不満ばっかりに目を向けるんじゃなくて、嘘でも楽しそうに振舞うって出来ない?おとなだよね?」
    私は手付かずのカフェ・グルマンを連れに押す。
    「食べないの?」
    「もともと昼は食べないの、知ってるでしょ。あなたも要らないなら、もう出よう」
    私はスタッフの目線を拾って、チェックを頼んだ。
    支払いをし、少し残っていた紅茶を飲みきる。
    「ねぇ。これってなんの旅行?これから先、私たちに大きな諍いがあったときにこの旅行を思い出して、“ああ、あんなに楽しかった。あんなに幸せな時間を過ごしたんだ”って思い返して、そしてその気持ちを取り戻してまた次に向かうために。新婚旅行ってそういうもんじゃないの?」
    私は連れの返事を待たずに、席を立った。
    「だから嘘でも楽しそうにしろっつってんだよ!!」
    言うだけ言って、私は店を出た。
    異国で過ごす貴重な時間。不満しか言えない人間に用はない。だったら私は連れにではなく、パリに集中するだけだ。
    「ゆずさん!」
    連れはまさか自分がパリのど真ん中で放り出されるとは思わなかったらしい。
    サンジェルマンに多少の土地勘があって動く私と、見失ったら迷子になる方向音痴の連れ。
    今思うと、どんなに焦ったことだろう。
    でも私は振り返らなかった。
    ガイドブックは渡してある。英語も出来る。ホテルの場所も判っている。
    おとななら、自分でなんとか出来るはず。私にだって出来たんだから。
    キレた私は、そのままカルナヴァレ博物館に向かった。前回の旅行で、時間が足りずに外観しか観られなかったところだ。
    ドレ男が付いて来れようが来れまいが、どうでもよかった。

    ところで、この“ドレ男”呼び。
    連れを指しているのだが、この呼び名は古くから「軍服の令嬢」にお見えの方なら、ご存知のことと思う。
    私と連れは20年を超える付き合いで、この旅行のときはたぶん18年目ぐらいだったと思うのだが、拍手コメントや当方のブログなどでは、この男のことを隠す気もなく書いていた。
    「週末や休日なんかは泊まりに来る、週に半分ぐらいはうちにいる付き合って10年以上にもなる男」
    はじめはいちいちそう書いていたが、それもだんだん面倒くさくなり、最終的に“ドレ男”という仮称をつけた。
    今でもブログにそう書くし、ブログにお見えの方もそう呼ぶし、拍手コメントにお寄せいただくコメントの中でも、ご存知の方は「ドレ男さんは元気?」といった感じで、もうすっかり“ドレ男”で用が済んでいる。
    本人は、ソレをとんと知らないが。


    カルナヴァレ博物館


    勝利像の中庭

    さて、カルナヴァレ。
    カルナヴァレ博物館と書かれていたりカルナヴァレ美術館と書かれていたり、またはパリ歴史博物館と呼ばれてもいたり。
    どれもが正しい名称のようなので、とりあえず博物館と書いてみる。


    チケット

    この博物館は大変広く、収蔵物も多い。3階にあるフランス革命についてのコレクションも多く、ベルファンならば、時間を忘れるようなところだと思う。
    しかも無料というありがたさ。
    私も時間を忘れるほど没頭したいのだが、イラついた気持ちが収まらず、ちっとも集中出来ない。視界にドレ男がチラチラ入ってくるのがまた、私を苛立たせる。
    …集中集中。


    シテ宮があったころのシテ島


    シテ宮周辺

    この辺りが、現在コンシェルジュリーやサント=シャペル、パレ・ド・ジュスティスなどがあるところ。パレ・ド・ジュスティスには司法機関が集まっており、1793年4月6日~1795年5月31日までのフランス革命期には、ここに革命裁判所が置かれていた。
    無理に拡大した画像なので画質が悪いが、シャンジュ橋の上に立ち並ぶ家屋なども見てとれる。
    13世紀から18世紀頃までは、橋は人が渡るためだけのものではなく、家や店が立ち並んでいた。シャンジュ橋の名前の由来は、14世紀ごろ、そこに両替商(シャンジュ)が店を構えていたからだ。
    シャンジュ橋には、この翌日に行くことになっている。


    ノートルダム大聖堂付近

    私は歩を早めて3階へ向かう。
    3階には、フランス革命関係の収蔵物が集められているのだ。




    1度だけ振り向いて、ドレ男に言った。
    「ついてこないで。私の好きな場所でいやな思いはしたくない。ここからホテルまで、歩いて10分ぐらいなのは判るでしょう?どこでも自分の好きなところへ行けばいい」
    極度の方向音痴で、初パリのドレ男。ガイドブックを持っていても、現在地とホテルの距離感を判るわけがない。そんなコトは百も承知で言った。

    私がここまでキレるには理由がある。
    それはあまりにもバカバカしくて、私のくだらないプライベートを平気でさらしているブログにも書いたことがないのだが、いや、オッサンとオバハンの痴話げんかをここでダラダラ書いている時点でかなりバカバカしいのだが、理由はPerfumeだ。
    パフューム。
    ぱふゅーむ。
    女性3人組のダンスヴォーカルユニットの、あのPerfumeだ。

    今回の新婚旅行は、本当なら2013年のはずだった。
    そのときも、手配は私に任せっぱなしにされていた。それでも私は、自分自身も初めてのパリ旅行に向けて、楽しく仕度をしていた。
    けれど仕度を進めていく中で、だんだんとドレ男と話がかみ合わなくなっていった。日程や予約ごとなどの確認をしても、なんともどうにも、ドレ男の歯切れが悪い。
    そのせいで仕度が滞り、手配はついに行き詰ってしまった。
    そこで「おい!」と聞いた私に、ようやく口を開いたドレ男。
    「実はPerfumeがワールドツアーを発表してさぁ」
    「は?」
    ドレ男はPerfumeのガチヲタで、特にのっちちゃんがお気に入り。
    P.T.A(Perfumeのファンクラブの略称。P→Perfume、T→To、A→Anata=Perfumeとアナタ)にはもちろん入っているし、コンサートツアーがあれば広島まで行く。
    (「だってPerfumeは広島出身だから、ファンなら広島公演を観なきゃ」by ドレ男)
    そしてもちろんファイナルの東京も行くし、グッズを買うためなら何時間並ぶことも厭わない。休日着るのはPerfumeのコンサートTシャツで、履くのはロゴ入り靴下。持って歩くのはPerfumeのロゴタグの付いたサコッシュだ。もしPerfumeがコンサートグッズとして、『ユニチャームとコラボした限定品生理用ナプキンとタンポン』を企画販売したならば、平気な顔でソレも買うだろう。
    広島公演も東京公演も、全日参加。もし広島公演が10日あれば、フツーに10日参戦するであろう、ゴリゴリのパフュクラだ。
    (パフュクラ→Perfumeクラスタ。Perfumeファンの非公式名称)
    そしてその大好きなPerfumeがワールドツアーを発表し、日程には07/07(日)パリ公演があるのだという。
    「んで?」
    そう問う私に、ヤツはPerfumeのパリ公演に行きたいのだと言った。
    「年に2回もパリに行くのは、仕事の休みも取れないしさ。経済的にも…ね。だからゆずさんとパリに行くのは、まぁ、なんというか」
    つまりPerfumeのワールドツアーのために、私との結婚及び新婚旅行はやめたいということだった。
    …おまえ、Perfumeと結婚しろよ…
    このPerfumeワールドツアー事件がきっかけで、私たちはこの時に別れている。復縁したのは、当時私が飼っていたねこが大病し、その助かる見込みのない苦しい闘病がきっかけだったのだが。
    (えーと、ブログのパスを持っている貴婦人の皆さんはたぶん、「あ!もしかして」と過去ログの中にピンとくる部分があるんじゃないかと思います。「いつの記事だっけなー」とログを洗う方もいるかもしれない(笑)ので、ブログの左カラム最上部に、ブログ内検索を設置しておきました。この件について、鍵を持つ貴婦人の皆さんは、三色旗の拍手ボタンの方からツッコミまくってくれい)

    と、過去にこんなことがあったため、私はドレ男のせいで、パリにまつわるイヤな思い出を、これ以上増やしたくなかったのだった。
    一定の距離を保って、私のあとをついてくるドレ男。それが私を余計にイライラさせる。
    Perfumeがワールドツアーやったバタクラン劇場にでも観に行ってこいよ、ここから近いんだから。
    心の中で、そう毒づく私。
    そのバタクラン劇場が、この半月後には血の海になるとも知らないで。
    パリ同時多発テロ事件

    収蔵品の多いカルナヴァレ。
    ベルファンが興味を惹かれそうな画像を選んで貼ってみる。


    ダヴィッド作 『球戯場(テニスコート)の誓い』

    右側にいる胸像はミラボー。王権に有利な憲法を作ることをルイ16世と密約していたお方。
    左のお方は天文学者のバイイ。第3身分の総意とし、憲法制定を行う誓いをしたひと。
    絵画の方は、ダヴィッドが1791年に国民議会の後援を受けて製作したもの。
    絵画の画像の一部を拡大すると、こんな感じだ。




    教科書でおなじみ、アンシャンレジームの風刺画

    バスティーユ牢獄4連で↓









    このバスティーユのミニチュア、なんと本物。解体されたバスティーユの石材から作られている。
    バスティーユを解体したときに出た大量の石材の一部は、こうしたミニチュアになってフランス83県庁に贈られた。
    さらに瓦礫の一部は、お土産や記念品として販売もされた。
    さらにさらに、その石材でコンコルド橋も作られた。
    1791年の建設当時、コンコルド橋は「革命橋」と呼ばれていたが、1830年に「コンコルド(調和)橋」に改名された。
    現在のコンコルド橋は修復されたものなので、残念ながら牢獄の石材ではない。


    でかい鍵


    『バスティーユ襲撃』

    もうすぐ白旗が上がりそうなこの絵は、ジャン=バティスト・ラルマン作。



    コンシェルジュリーの王妃さまの部屋に、衝立を隔てて衛兵がいるのだが、見張りに立っている者とカードで遊んでいる者がいた。
    アランも夜勤の夜には、詰め所でカードを楽しんでいたのかも。


    幽閉されたタンプル塔

    ぬぅっとそびえ立つタンプル塔は、元は森に囲まれていたらしい。しかし、幽閉した国王一家の監視をしやすくするために、周辺の木立を切り倒したそうだ。


    王妃さまの部屋



    この部屋は、タンプル塔3階に与えられたアントワネットの部屋を再現したもの。
    壁紙が、ベルサイユ宮の王妃さまの部屋の壁紙の色に似ている気がした。
    マリー・アントワネットの好んだ青りんご色。
    偶然なのか、そのように改装できるだけの権限が、まだこのころの国王一家にあったのか。
    タンプル塔での国王一家の暮らしは、イメージよりは悲惨なものではなかったよう。正餐では1人につき17~20品程度が給仕され、食費だけで35万リーブルにもなった。国民が日々のパンに困っていたときに、一家の食費が約3億5000万円。しかも、わずか3か月半という期間で。
    また、王妃さまは水にこだわり、ヴィル・ダヴレ(Ville-dAvray)の水しか口にしなかったという。
    ヴィル・ダヴレは、ベルサイユから車で15分ほど。豊かな森に囲まれた小さな湖畔の村だ。王妃さまはこの村から、タンプル塔に水を運ばせていた。
    このある程度優遇された生活も、徐々に暗く押しつぶされていくのだけれど。


    一家が遊んだチェス


    朽ちかけた人形


    ルイ・シャルル


    ハウア作 『タンプル塔に於ける家族との最後の別れをするルイ16世』





    このドームのようなものの中には、国王一家の遺髪が収められている。




    別角度を画像編集して拡大



    この棚には特に目を惹かれた。
    拡大してみる。


    グラスと皿

    これはルイ16世がタンプル塔で使っていたもの。



    タンプル塔の牢の鍵と、ルイ・シャルルの文字の練習長。
    ルイ16世はタンプル塔に地球儀なども持ち込み、子供たちの教育に熱心だった。
    また、王の部屋には237冊もの本が並ぶ書架があったという。


    王妃さまの遺髪が編まれた指輪

    出来る限り画像を編集してみたのだけど、やっぱり判りにくいのが残念だが、これは指輪。
    オーバルの台座を真珠で飾ったその中には、王妃さまと、彼女の寵愛を受けていたランバル公夫人の遺髪が、平織りのように編まれて収められている。
    その部分をさらに拡大し、明るさを少したす編集をしたのがこちら↓




    ロッククリスタルとシルバーのメダイ

    この中に入っているのも、王妃さまの遺髪。
    シルバーはすっかり酸化して、黒くくすんでしまっている。
    遺髪といえば、カルナヴァレにはこの方のものも。


    ロベスピエールの遺髪

    私はこのあとも館内を巡り、特にナポレオンについての収蔵品でも時間をかけた。
    ここに画像を貼っていくと、とんでもなく長い旅行記になってしまうので割愛する。
    (のちほど今までの旅行記と同じように、すべての画像をBigsize PhotoにUPしますので、URLが判る方はそちらへどうぞ)

    あ、ここでクイズ。
    この人↓は誰でしょう。



    たくさんの収蔵品はどれも貴重で、その質量に圧倒される。
    もっと観たい。
    …出来れば誰にも気兼ねせず。
    私がチラリと後方に目線を向けると、これらの収蔵物にまったく興味のないドレ男がぼんやりしていた。
    そりゃそうだ。
    ドレ男がここで退屈するのは、判っていた。だからもめさえしなければ、今回の旅行では、ここには来ないつもりだったのに。
    私はカルナヴァレ博物館を出ると、次の目的地に向かった。
    どうしても行きたかったところではないが、ホテルへ帰る道すがら、近いから寄ってみた。


    axes femme パリ店

    私はaxes femmeを着ることが多い。
    と言ってもこのブランドの購買層は、若いお嬢さんや若いママ。自分がいいと思ったものすべてを私が着るには、無理がある。
    そのため、買うときにはいつも若~いショップスタッフに相談し、「これならうちのママが着ても大丈夫」と言われたデザインを選んでいる。
    この日もコートから時計までaxes femmeだったせいか、初対面のパリ店の店員さんは親しく話しかけてくれた。
    私のような年齢の者には、プチプラ過ぎるaxes femme。本来なら、もっとそれなりの価格帯のものを身につけて然りだとは思うのだが…

    ちなみに、近くにはこんなお店も。



    私がホテルに戻ると、ドレ男もついてきた。
    『18世紀のパリの架空の場所』
    楽しみにしていたこのホテルで美しいロビーを通り抜けながら、なんでこんなに不快な気持ちを抱えているのか、ムカついて仕方なかった。
    迷子にならないよう必死でついてきた方向音痴の男が、駆け込みでエレベーターに乗り込んできて、私の隣に並ぶ。
    互いに無言。
    無言のままエレベーターを降り、無言のまま部屋のドアを開け…
    ベッドで寝転ぶドレ男。
    私はライティングビューローでiPadに向かい、親しくお付き合いさせていただいているサイトのお客さまに、この顛末の愚痴をめちゃめちゃ綴っていた。というかル・プロコープにいたときから、リアルタイムで愚痴りまくっていた。
    (ぴ○○○さん、あのときは本当にありがとう)
    iPadの隅で刻まれている時刻。
    私はそれをチラチラと気にする。
    パリの市内観光を予定していたこの日。ホテルに戻ってはきたが、夜にもうひとつ予定があった。
    この旅の大きな目的のひとつ、観劇だ。
    「CATS」パリ公演。
    私たちはミュージカルが好きで、それまでもよく観に行っていた。私自身、裏方としてミュージカル劇団に所属していた時期もあり、ミュージカルは私たちの生活に、ごく普通にあるものだった。
    その中でも殊更愛し、もっとも多く観ている思い入れの深い演目が「CATS」だった。私たちが、この旅行をこの時期にしたのは、CATSパリ公演に合わせたとも言える。
    (「CATS」のあらすじは【こちら】

    日本では劇団四季が上演している「CATS」は、未だ世界中で上演されている。面白いのは、各公演地によって、演出やキャラクターが微妙に違うことだ。
    2015年の時点では、日本の「CATS」には“グレートランパスキャット”というナンバーがなかった。しかしそのかわりに、日本版には“グロールタイガー 海賊猫の最期”という人気の劇中劇がある。また、日本版ではキーとなる、生まれたばかりの無垢な白猫のシラバブが海外版ではいなかったり、逆に日本版ではいない猫がいたり、ストーリーの大筋は変わらないが、上演国によって微妙な違いがあるのだ。
    劇団四季のファンの中でも、「CATS」ファンは“猫オタ”と呼ばれたりして、コアなファンが多い。私もなかなかガッツリな猫オタで、ずいぶん劇場には通っていた。
    月に何回も… というか週に何度も観に行く人はわりといて、なんとなく顔見知りになったりもした。そして、そういう人たち同士でだんだんと、上演前後にお茶をするようにもなっていた。そのため多少目立っていたのか、某巨大掲示板のヅカ四季スレに、イロイロ書かれたりもしていた。(妙な憶測や詮索ばかりだったけれど)
    当時そのスレをウォッチしていた人なら「ああ、ゆずの香は○○○のグループの中のひとりだったのか」と、判る人もいるかもしれない。
    もっとも、心酔しているジェンヌさんがいて、熱心に応援している宝塚ファンの方々に比べたら、私の劇場通いなどヌルいものだと思うけれど。
    ともかくも。
    私にとって最も特別な演目である「CATS」。しかも初の他国演出。その上まだ観たことのない“グレートランパスキャット”をようやく観られることで、私は旅行の手配をしながら、この日の観劇をものすごく楽しみにしていたのだった。
    のに…
    チラチラと気にする時間。
    余裕で寝転んでいるドレ男。
    昼間からのイライラした気持ちを、私はまだ持ち越している。
    この男、このあとの観劇予定を判っているのか?
    明日には、この旅の目的であるベルサイユでのイベントが控えている。
    私はドレ男を目の端に映しながら、黙々と翌日の仕度をしていた。


    【猫たちの踊る夜 2】へつづく
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