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【オルゴール ~下~】(2012 / ヴァランタン)
UP◆ 2012/2/19「……」
1人の部屋の暗がりの中で、久しぶりにあの人の名を呼んでみる。
しかし、それは口の中でほんの少し空気が震えただけで、言葉にはならなかった。
あの7月の夜、眠るあの人を見送ってからずっとこうだ。
おそらくは、もう二度と会うことのないあの人。
ただその名を口にしようとするだけでも、未だ胸が詰まる。
ざっくりと一房切り落とした髪と共に断ち切るはずだった想いは、年月を経てなお増していた。
自分でも、どうかしていると思うほどに。
俺だって、あれからそれなりに恋はした。
緊張を強いられる毎日の中、女に安らぎを求め、癒されたような気持ちになったこともある。
けれどそれは、記憶の底にしまいこもうとしているあの人の面影を、よりいっそう引き出すことにしかならなかった。
細い背を伸ばし、決してうつむくことのなかった、白百合のようなたたずまいを。
あの人と俺の最後の場面。
それは、午後の司令官室だった。
出勤して来なくなったヤツの代わりに、事務的な雑務を手伝うようになっていたからだ。
1度はキレて、ヤツらから離れようとした俺。
けれどしばらく後には、俺は嫌々ながらも連隊長に詫びを入れ、その計画に加わっていた。
俺が荷担しようがしなかろうが、ヤツらは行動する。
今離れたら、きっと生きて会えることはない。
だとしたら俺はもう、傍観者ではいたくなかった。
しかし。
あの人を連隊長と結婚させようとしたヤツ。
その申し出を退け、それ以上の条件を出してきた連隊長。
2人の男のそれぞれの決断は、俺の気持ちをさらに歪んだものにした。
自分からヤツらの元へと戻ったというのに、屈折した劣等感にさいなまれた俺は、あの人と過ごすことのできる僅かな残り時間のほとんどを、何も出来ずに無駄な焦燥感だけで過ごしてしまっていた。
なんてバカだったのだろう。
決行はもう、今夜にまで迫っている。
俺にできること。
何がある?
何ができる?
考えろ。今、俺にできることを。
「どうした? アラン」
「いえ、別に」
手元から目を上げると、ちっとも仕事のはかどらない俺を、あの人が不思議そうに見ていた。
珍しく静かな午後。
少し開けた窓からサヤサヤと風が入り、あの人の額髪を揺らす。
射しこむ光に淡いまつげの影。
くちびるのつや。
凜とした青い眼差し。
羽根ペンを走らせる指先の動き。
ひとつひとつ思い返せば確かにそうだったと記憶にあるのに、あのとき、あの人がどんな表情で俺を見ていたのかが思い出せない。
不思議そうな顔をして、じっと俺を見ていたのは覚えているのに、その表情を思い浮かべようとすると、波紋の生じた水面のように、揺れてぼやけて消えてしまう。
誰もいない司令官室。
あの人が俺を見て、俺があの人を見つめ返すことのできた最後の瞬間だったのに。
今の俺に鮮明に思い出せるのは、闇夜にほの白く浮かぶ横顔だけだ。
どうにも集中を欠く俺に、あの人は休憩をすすめてきた。
自分も手を休め、当たり障りのない雑談を口にしていたようだが、俺はそれをろくに聞いていなかった。
隊長。
あんたがジャルジェ准将として、ここで執務を取るのは今日が最後なんだよ。
あんたは今夜、何も知らされぬまま故国から離され、名を無くし、おそらくもう帰ることはできない。
それがあんたのためか?
本当に?
あんたが本当にそんなことを望むだろうか。
……いや、違う。
あんたはそんな人じゃない。
そんなこと、決して望まない。
ならば今、俺に出来ることは。
「隊長!」
窓辺に寄り、微風に吹かれていたあの人は、ほんの少し振り返った。
「なんだ?」
俺の切羽詰まった声音に、あの人の声も訝しげな気配を帯びる。
言え。
言ってしまえ、全部。
ヤツらが計画していることを。
それがこの人の本意なわけがないのだから。
全部言ってしまえばいいんだ。
それが俺だけにできること。
握った拳に力が入る。
「隊長。もし‥も」
午後の陽が射しこむ司令官室の窓辺。
俺はあの人の背後に立つと、勢いこみそうになる焦りを抑え、探るように話し出す。
「隊長。もし‥も、衛兵隊にパリへの出動命令がおりたら。あなたはどうしますか?」
「出動?命令とあらば仕方あるまい」
「それが市民に向けられたものであっても?」
「当然だ」
「それがどういうことか、あなた判ってるんですか?」
市民に向けての出動を『命令ならば当然』と言ってのけたあの人を振り向かせ、俺はつい肩をつかんでガクガクと揺さぶった。
まさかそんなことを言うなんて、思いもしなかったのだ。
が。
…軽…い。
なんなんだ、この軽さ。
そして、手のひらに伝わる肩の薄さ。
揺すった体はぺらぺらと頼りなく、異様に軽かった。
かつて俺は激情にかられ、あの人を壁に押しつけたことがある。
手首をつかみ、無理矢理にくちびるをふさいだとき、抗って俺を押し返してきたあの人の体。
その熱と弾力が今はすっかりと失われており、薄っぺらくなった肉体から、精気がこぼれ出しているのがはっきりと判った。
これほど悪くなっているなんて。
きっと……助からない。
「隊、長?」
俺の声はみっともないほど、動揺していた。
でもあの人は、その声の乱れを勘違いしたようだった。
「もし、衛兵隊に出動命令が下ったなら、指揮はこの私が直接取る。出動だろう? アラン。進撃ではない。
落ちつけ、どんなときでも。おまえが動揺すれば、皆にその動揺が伝わる」
こんな体で、まだ指揮を取る気でいるなんて。
あの人の肩をつかむ指に力が入り、抱き寄せてしまいたい気持ちになる。
隊長…!
「俺はあなたのことを」
このとき、俺は初めてヤツを意識することなく、あの人の瞳を見つめ返せたはずだった。
しかし、窓を背にして立つあの人は強い逆光に縁取られていて、俺はまぶしさと、そして後ろめたさで目をそらすしかなかった。
「アラン?」
「…それなら従いましょう。あなたの指揮なら」
そう言いながら、俺はやっと、俺だけにできることを見つけていた。
俺が、守る。
もうすぐ出動命令が出るという衛兵隊。
あんたの愛した隊員たちを、あんたの代わりに俺が守るから。
そしていつか将軍にまで登りつめて、あんたの目指したものを俺が叶えてやる。
だからどうか。
この病状ではおそらく助からない。
それでもどうか、俺を見届けてくれ。
それまでは、頼むから隊長…
抱きしめてしまいたい気持ちをねじ伏せ、あの人の肩から手を離す。
結局俺は何も言えぬまま、7月の闇夜にあの人を見送った。連隊長の腕の中で眠る横顔だけを、胸の奥に封じこめて。
燭台に灯を点すと、俺はキリキリとオルゴールのネジを巻いた。
流れ出す可憐な音色は、コメディフランセーズの一節。
テーブルの上には、乱雑に置かれた便箋や封筒がぼぅっと浮かび、俺を誘っている。
足がつかないように、あえてなんの趣向も凝らしていない、白無地のそれら。
インク瓶のふたを開け、俺は便箋の1枚を手に取った。
隊長。お元気ですか。
今日、勤務中にそちらからの早馬が来ました。
極力直接連絡を取ることを避けてきた俺とアンドレでしたから、初めて来た早馬に、何を知らせるものかと手が震えました。
このヴァランタンに、あなたがとうとう、母になられたとのこと。
正直俺には苦笑しか浮かびません。
あなたが赤ん坊を抱いて乳を含ませている場面よりも、アンドレの胸に吸いついている赤ん坊の方が、よっぽどしっくりと想像できるからです。
あなたが身ごもられたと伝え聞いたとき、俺にもあなた方の決意は伝わりました。
子を作ると決めたのは、あなたの病状が良くなったからではない、ということが。
今もなお危うくたゆたうあなたの命。
その身で子を産むということ。
そして、そんなあなたに子を産ませると、自分自身に許したアンドレの苦悩。
…子を持つと決めたとき、おそらくあなたの病状は、決してよいとは言えなかったのでしょう。
だからこそ、あえてその身に子を持とうと決めた。
命をつなぐもの。
あなたにもしものことがあったとき、その遺志を継ぎ、あなたに代わって、遠くからこの国を見つめ続ける者を。
諦めてはいない。
これがあなた方の戦い方なのだと。
隊長。
今まで言えなかったけれど、あの7月14日、フランソワ、そしてジャンが死にました。
あなたの代わりに、衛兵隊は俺が守る。
そう息巻いた俺だったけれど、あの日、俺は自分の身を守るので精一杯だった。
隊どころか、1班の仲間さえ守ってやれませんでした。
あれから必死に走り続け、「あなただったらこんなとき、どうするだろう」、「あなただったらこんなとき、なんて言うだろう」、そう思いながら夢中でやってきました。
ずっと想い続け、追いかけ続けたあなたは、初めて会ったときから、俺にとって運命の女神でした。
あなたの指し示す方に、俺の未来がある。
絶対に縮まることのないあなたとの距離に、あの頃の俺はやり切れず、苛立つばかりだったけれど。
不思議ですね。
あなたと離れ、これほどの時が流れた今の方が、あなたのことを判る気がします。
俺の愛したあなたは、出会ったときにはすでに、ヤツと心を共有していた。
俺はあなただけを愛したつもりでいたけれど、あなたはいつだって、1人ではなかった。
ひとつの心臓を分け合うように、あなた方はぴったりと、魂を重ね合わせて共にあったのだから。
あの頃の俺はガキ過ぎて、それに気づけなかったけれど、きっとあの連隊長には何もかも判っていたのでしょう。
あなたを見送った7月の夜。
あれから俺と連隊長ははっきりと立場を違え、二度と会うことはありませんでした。
おそらく、これから先も。
でも、あのキザったらしい連隊長のこと。
どうせ陰ながらあれこれと、あなた方の世話を焼いているに違いありません。
あの男のことをよく知っているわけでもなく、まして好ましいと思ったこともないのに、なぜだか判る。
あなたを通して、心の端っこがあの男と、そしてアンドレと深くつながっている。
そんな気がするんです。
…ちょっと気持ち悪いけれど。
でも、きっとヤツらもそう思っていることでしょう。
心がとらわれてしまうから、生まれた子のことは何も聞きませんでした。
男だったのか女だったのか。
髪の色。瞳の色は?
そして、あなたに似ているのだろうかと。
でも、俺の本当に知るべきことは、あなたと子の無事。それだけ。
いつかあなたがその子を連れて、帰って来ることができるよう。
司令官室に残されていたあなたの予備の軍服は、今は俺の執務室で主の還りを待っています。
だから隊長、それまではどうかお元気で。
そしてもう1度、軍服姿のあなたに会えたなら、どうしても伝えたい言葉があるのです。
オスカル・フランソワ。
俺はあなたを
ピンとバネのはねる音がして、オルゴールが止まった。
「時間切れ、か」
キリキリと巻いたオルゴールのゼンマイが、止まるまでの僅かなひととき。その数分間だけ、薄暗い部屋で1人、俺はあの人に思いを馳せる。
乾いてパサパサになってしまった金色の髪を、手のひらに包みながら。
「…会いたい」
母となったあの人は、よりまろやかに美しさを増したことだろう。
あなたに会いたい。
異国の瀟洒な白い館に住む、男装の貴婦人。
今ごろ、ヴァランタンに生まれたというその嬰児と、すこやかな眠りについておられるだろうか。
そしてその2人の寝顔を、ヤツは満ち足りた眼差しで見守っているのだろう。
かつての俺なら、そんな場面を想像するだけでも、焼けつく思いがしたものだが。
どこにいても、誰のものであっても、あの人が幸せでいてくれればいい。
あの頃、俺の中で激しく逆巻いていた想いは、今はもう、すっかりと穏やかに凪いでいる。
あの人への想いは、会えずにいる年月の中で、求めるものから、ただ胸にしみ入るような祈りに変わっていった。
あの人とヤツのいた日々が、今の俺を唯一支えるあたたかいもの。
俺は書きかけの手紙を取り上げると、いつものように燭台にかざした。
炎にゆらりと燃え上がり、一瞬で燃え尽きる薄っぺらな一葉。
この手紙は、誰にも見られるわけにはいかない。
その宛て先も、綴られた想いも。
燃えかすとなった手紙は、触れれば脆く粉々になる。
叶うはずのないあの人への想い、そのままに。
疲れた体を引きずって、たまにしか帰って来れないこの部屋で、俺はオルゴールが歌う僅かばかりの時間だけ、あの人を想う。
窓から射しこむ月あかり。
この淡い光の下、今もあの人が生きていてくれる。
隊長。
それだけで俺は、この上もなく幸せな気持ちになれるのです。
FIN
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