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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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    「……」
    1人の部屋の暗がりの中で、久しぶりにあの人の名を呼んでみる。
    しかし、それは口の中でほんの少し空気が震えただけで、言葉にはならなかった。
    あの7月の夜、眠るあの人を見送ってからずっとこうだ。
    おそらくは、もう二度と会うことのないあの人。
    ただその名を口にしようとするだけでも、未だ胸が詰まる。
    ざっくりと一房切り落とした髪と共に断ち切るはずだった想いは、年月を経てなお増していた。
    自分でも、どうかしていると思うほどに。
    俺だって、あれからそれなりに恋はした。
    緊張を強いられる毎日の中、女に安らぎを求め、癒されたような気持ちになったこともある。
    けれどそれは、記憶の底にしまいこもうとしているあの人の面影を、よりいっそう引き出すことにしかならなかった。
    細い背を伸ばし、決してうつむくことのなかった、白百合のようなたたずまいを。


    あの人と俺の最後の場面。
    それは、午後の司令官室だった。
    出勤して来なくなったヤツの代わりに、事務的な雑務を手伝うようになっていたからだ。
    1度はキレて、ヤツらから離れようとした俺。
    けれどしばらく後には、俺は嫌々ながらも連隊長に詫びを入れ、その計画に加わっていた。
    俺が荷担しようがしなかろうが、ヤツらは行動する。
    今離れたら、きっと生きて会えることはない。
    だとしたら俺はもう、傍観者ではいたくなかった。
    しかし。
    あの人を連隊長と結婚させようとしたヤツ。
    その申し出を退け、それ以上の条件を出してきた連隊長。
    2人の男のそれぞれの決断は、俺の気持ちをさらに歪んだものにした。
    自分からヤツらの元へと戻ったというのに、屈折した劣等感にさいなまれた俺は、あの人と過ごすことのできる僅かな残り時間のほとんどを、何も出来ずに無駄な焦燥感だけで過ごしてしまっていた。
    なんてバカだったのだろう。
    決行はもう、今夜にまで迫っている。
    俺にできること。
    何がある?
    何ができる?
    考えろ。今、俺にできることを。
    「どうした? アラン」
    「いえ、別に」
    手元から目を上げると、ちっとも仕事のはかどらない俺を、あの人が不思議そうに見ていた。
    珍しく静かな午後。
    少し開けた窓からサヤサヤと風が入り、あの人の額髪を揺らす。
    射しこむ光に淡いまつげの影。
    くちびるのつや。
    凜とした青い眼差し。
    羽根ペンを走らせる指先の動き。
    ひとつひとつ思い返せば確かにそうだったと記憶にあるのに、あのとき、あの人がどんな表情で俺を見ていたのかが思い出せない。
    不思議そうな顔をして、じっと俺を見ていたのは覚えているのに、その表情を思い浮かべようとすると、波紋の生じた水面のように、揺れてぼやけて消えてしまう。
    誰もいない司令官室。
    あの人が俺を見て、俺があの人を見つめ返すことのできた最後の瞬間だったのに。
    今の俺に鮮明に思い出せるのは、闇夜にほの白く浮かぶ横顔だけだ。
    どうにも集中を欠く俺に、あの人は休憩をすすめてきた。
    自分も手を休め、当たり障りのない雑談を口にしていたようだが、俺はそれをろくに聞いていなかった。
    隊長。
    あんたがジャルジェ准将として、ここで執務を取るのは今日が最後なんだよ。
    あんたは今夜、何も知らされぬまま故国から離され、名を無くし、おそらくもう帰ることはできない。
    それがあんたのためか?
    本当に?
    あんたが本当にそんなことを望むだろうか。
    ……いや、違う。
    あんたはそんな人じゃない。
    そんなこと、決して望まない。
    ならば今、俺に出来ることは。
    「隊長!」
    窓辺に寄り、微風に吹かれていたあの人は、ほんの少し振り返った。
    「なんだ?」
    俺の切羽詰まった声音に、あの人の声も訝しげな気配を帯びる。
    言え。
    言ってしまえ、全部。
    ヤツらが計画していることを。
    それがこの人の本意なわけがないのだから。
    全部言ってしまえばいいんだ。
    それが俺だけにできること。
    握った拳に力が入る。
    「隊長。もし‥も」
    午後の陽が射しこむ司令官室の窓辺。
    俺はあの人の背後に立つと、勢いこみそうになる焦りを抑え、探るように話し出す。
    「隊長。もし‥も、衛兵隊にパリへの出動命令がおりたら。あなたはどうしますか?」
    「出動?命令とあらば仕方あるまい」
    「それが市民に向けられたものであっても?」
    「当然だ」
    「それがどういうことか、あなた判ってるんですか?」
    市民に向けての出動を『命令ならば当然』と言ってのけたあの人を振り向かせ、俺はつい肩をつかんでガクガクと揺さぶった。
    まさかそんなことを言うなんて、思いもしなかったのだ。
    が。
    …軽…い。
    なんなんだ、この軽さ。
    そして、手のひらに伝わる肩の薄さ。
    揺すった体はぺらぺらと頼りなく、異様に軽かった。
    かつて俺は激情にかられ、あの人を壁に押しつけたことがある。
    手首をつかみ、無理矢理にくちびるをふさいだとき、抗って俺を押し返してきたあの人の体。
    その熱と弾力が今はすっかりと失われており、薄っぺらくなった肉体から、精気がこぼれ出しているのがはっきりと判った。
    これほど悪くなっているなんて。
    きっと……助からない。
    「隊、長?」
    俺の声はみっともないほど、動揺していた。
    でもあの人は、その声の乱れを勘違いしたようだった。
    「もし、衛兵隊に出動命令が下ったなら、指揮はこの私が直接取る。出動だろう? アラン。進撃ではない。
    落ちつけ、どんなときでも。おまえが動揺すれば、皆にその動揺が伝わる」
    こんな体で、まだ指揮を取る気でいるなんて。
    あの人の肩をつかむ指に力が入り、抱き寄せてしまいたい気持ちになる。
    隊長…!
    「俺はあなたのことを」
    このとき、俺は初めてヤツを意識することなく、あの人の瞳を見つめ返せたはずだった。
    しかし、窓を背にして立つあの人は強い逆光に縁取られていて、俺はまぶしさと、そして後ろめたさで目をそらすしかなかった。
    「アラン?」
    「…それなら従いましょう。あなたの指揮なら」
    そう言いながら、俺はやっと、俺だけにできることを見つけていた。
    俺が、守る。
    もうすぐ出動命令が出るという衛兵隊。
    あんたの愛した隊員たちを、あんたの代わりに俺が守るから。
    そしていつか将軍にまで登りつめて、あんたの目指したものを俺が叶えてやる。
    だからどうか。
    この病状ではおそらく助からない。
    それでもどうか、俺を見届けてくれ。
    それまでは、頼むから隊長…
    抱きしめてしまいたい気持ちをねじ伏せ、あの人の肩から手を離す。
    結局俺は何も言えぬまま、7月の闇夜にあの人を見送った。連隊長の腕の中で眠る横顔だけを、胸の奥に封じこめて。


    燭台に灯を点すと、俺はキリキリとオルゴールのネジを巻いた。
    流れ出す可憐な音色は、コメディフランセーズの一節。
    テーブルの上には、乱雑に置かれた便箋や封筒がぼぅっと浮かび、俺を誘っている。
    足がつかないように、あえてなんの趣向も凝らしていない、白無地のそれら。
    インク瓶のふたを開け、俺は便箋の1枚を手に取った。


    隊長。お元気ですか。
    今日、勤務中にそちらからの早馬が来ました。
    極力直接連絡を取ることを避けてきた俺とアンドレでしたから、初めて来た早馬に、何を知らせるものかと手が震えました。

    このヴァランタンに、あなたがとうとう、母になられたとのこと。
    正直俺には苦笑しか浮かびません。
    あなたが赤ん坊を抱いて乳を含ませている場面よりも、アンドレの胸に吸いついている赤ん坊の方が、よっぽどしっくりと想像できるからです。

    あなたが身ごもられたと伝え聞いたとき、俺にもあなた方の決意は伝わりました。
    子を作ると決めたのは、あなたの病状が良くなったからではない、ということが。
    今もなお危うくたゆたうあなたの命。
    その身で子を産むということ。
    そして、そんなあなたに子を産ませると、自分自身に許したアンドレの苦悩。
    …子を持つと決めたとき、おそらくあなたの病状は、決してよいとは言えなかったのでしょう。
    だからこそ、あえてその身に子を持とうと決めた。
    命をつなぐもの。
    あなたにもしものことがあったとき、その遺志を継ぎ、あなたに代わって、遠くからこの国を見つめ続ける者を。
    諦めてはいない。
    これがあなた方の戦い方なのだと。

    隊長。
    今まで言えなかったけれど、あの7月14日、フランソワ、そしてジャンが死にました。
    あなたの代わりに、衛兵隊は俺が守る。
    そう息巻いた俺だったけれど、あの日、俺は自分の身を守るので精一杯だった。
    隊どころか、1班の仲間さえ守ってやれませんでした。
    あれから必死に走り続け、「あなただったらこんなとき、どうするだろう」、「あなただったらこんなとき、なんて言うだろう」、そう思いながら夢中でやってきました。
    ずっと想い続け、追いかけ続けたあなたは、初めて会ったときから、俺にとって運命の女神でした。
    あなたの指し示す方に、俺の未来がある。
    絶対に縮まることのないあなたとの距離に、あの頃の俺はやり切れず、苛立つばかりだったけれど。
    不思議ですね。
    あなたと離れ、これほどの時が流れた今の方が、あなたのことを判る気がします。
    俺の愛したあなたは、出会ったときにはすでに、ヤツと心を共有していた。
    俺はあなただけを愛したつもりでいたけれど、あなたはいつだって、1人ではなかった。
    ひとつの心臓を分け合うように、あなた方はぴったりと、魂を重ね合わせて共にあったのだから。
    あの頃の俺はガキ過ぎて、それに気づけなかったけれど、きっとあの連隊長には何もかも判っていたのでしょう。
    あなたを見送った7月の夜。
    あれから俺と連隊長ははっきりと立場を違え、二度と会うことはありませんでした。
    おそらく、これから先も。
    でも、あのキザったらしい連隊長のこと。
    どうせ陰ながらあれこれと、あなた方の世話を焼いているに違いありません。
    あの男のことをよく知っているわけでもなく、まして好ましいと思ったこともないのに、なぜだか判る。
    あなたを通して、心の端っこがあの男と、そしてアンドレと深くつながっている。
    そんな気がするんです。
    …ちょっと気持ち悪いけれど。
    でも、きっとヤツらもそう思っていることでしょう。

    心がとらわれてしまうから、生まれた子のことは何も聞きませんでした。
    男だったのか女だったのか。
    髪の色。瞳の色は?
    そして、あなたに似ているのだろうかと。
    でも、俺の本当に知るべきことは、あなたと子の無事。それだけ。
    いつかあなたがその子を連れて、帰って来ることができるよう。
    司令官室に残されていたあなたの予備の軍服は、今は俺の執務室で主の還りを待っています。
    だから隊長、それまではどうかお元気で。
    そしてもう1度、軍服姿のあなたに会えたなら、どうしても伝えたい言葉があるのです。
    オスカル・フランソワ。
    俺はあなたを


    ピンとバネのはねる音がして、オルゴールが止まった。
    「時間切れ、か」
    キリキリと巻いたオルゴールのゼンマイが、止まるまでの僅かなひととき。その数分間だけ、薄暗い部屋で1人、俺はあの人に思いを馳せる。
    乾いてパサパサになってしまった金色の髪を、手のひらに包みながら。
    「…会いたい」
    母となったあの人は、よりまろやかに美しさを増したことだろう。
    あなたに会いたい。
    異国の瀟洒な白い館に住む、男装の貴婦人。
    今ごろ、ヴァランタンに生まれたというその嬰児と、すこやかな眠りについておられるだろうか。
    そしてその2人の寝顔を、ヤツは満ち足りた眼差しで見守っているのだろう。
    かつての俺なら、そんな場面を想像するだけでも、焼けつく思いがしたものだが。
    どこにいても、誰のものであっても、あの人が幸せでいてくれればいい。
    あの頃、俺の中で激しく逆巻いていた想いは、今はもう、すっかりと穏やかに凪いでいる。
    あの人への想いは、会えずにいる年月の中で、求めるものから、ただ胸にしみ入るような祈りに変わっていった。
    あの人とヤツのいた日々が、今の俺を唯一支えるあたたかいもの。

    俺は書きかけの手紙を取り上げると、いつものように燭台にかざした。
    炎にゆらりと燃え上がり、一瞬で燃え尽きる薄っぺらな一葉。
    この手紙は、誰にも見られるわけにはいかない。
    その宛て先も、綴られた想いも。
    燃えかすとなった手紙は、触れれば脆く粉々になる。
    叶うはずのないあの人への想い、そのままに。
    疲れた体を引きずって、たまにしか帰って来れないこの部屋で、俺はオルゴールが歌う僅かばかりの時間だけ、あの人を想う。
    窓から射しこむ月あかり。
    この淡い光の下、今もあの人が生きていてくれる。


    隊長。
    それだけで俺は、この上もなく幸せな気持ちになれるのです。


    FIN
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