フリーエリア2


「それ、オスカルのだろ?」


うわっっ………!!!



いきなり後ろから声を掛けられ、座っていた椅子から飛び上がらんばかりにアランは驚いた。
兵舎の食堂で昼食を済ませた直後のことだった。

「なっ、なんだよ!急に!」
「悪い。驚かすつもりはなかったが」
漆黒に濡れた隻眼が、アランを宥めるように穏やかに見つめた。

── アンドレ、お前…
いくら隊長の影のような存在だとしても、物音立てずに近づくなよ。
寿命が5年は縮まったぜ。
いや、俺が単に呆けていただけか…

軍服のポケットから、俺には全く不釣り合いなハンカチを取り出して、眺めていたところだった。
ハンカチは、極細の白糸で緻密に織られたリネンで、縁には繊細なレースが豪奢に施されていた。
ジャルジュ家の紋章とオスカルのイニシャルが刺繍されていれば、ハンカチの持ち主が誰なのか、アンドレには一目瞭然だった。

アンドレは俺の隣に座ると、ハンカチを取り上げて言った。
「このハンカチ、かなり上等なものだぞ。あいつのお気に入りで頻繁に身に付けていたのを見かけたことがあったからな」

─── 今更ながら、こいつは隊長の一挙一動を見逃さないんだな…
まあ、惚れた女と四六時中一緒にいるんだ。
当然のことか…

「だけど、なんでアランが隊長のハンカチ持ってるの?」
テーブルを挟んだ向かい側に座っていたフランソワが、不思議そうな顔つきでアンドレを見た。
「オスカルがここへ来て間もない頃、アランと剣の勝負をしたことがあっただろう?アランは腕に傷を負った。その時の止血に使ったんだよ」
あ~あの時の、と合点してうんうんと頷くフランソワ。


それは、隊長が衛兵隊に着任して間もない頃だった。
女なんかの命令なんぞ聞いてられるかと、俺たちは真っ向から反発した。
隊長の憐憫とも挑発ともとれる物言いに、俺の怒りは沸点に達し、剣の勝負になった。

剣の腕には自信があった。
元近衛連隊長だったそうだが、王妃の寵愛の下、貴族の女が軍人ゴッコをしているにすぎない。
軽く手合せして、剣を叩き落とせば尻尾を巻いて逃げだすだろう。
そう、高を括っていた。
しかし、剣を合わせ数分もしないうちに、胸の内で己の思慮の甘さを痛感していた。
力任せに切り込んだ剣を身の軽さで去なされる。
華麗なフットワークと技の正確さに息を呑んだ。
勝負は互角だった。
しかし、俺が両手使いを以っても、隊長の身の軽さには僅かに及ばなかった。
止めの一撃をひらりとかわされ、剣を弾き飛ばされた。
反撃を右腕に受け、鋭い痛みが走った。
宙を舞った剣は隊長に掴み取られ、仰向けに倒された俺の首に2本の剣が振り落とされた。

これが男であれば、見事な剣捌きだと素直に称賛すべき相手だ。
だが、相手は事もあろうに女。
しかも、最も嫌悪する大貴族だ。

首を2本の剣で固定され、身動き出来なかった。
隊長は俺の傍まで来ると膝をつき、貴婦人が持つような繊細なレースのハンカチを取り出して袖をまくり上げると、惜しげもなく俺の腕を縛った。
─── なんなんだ、この女…

並みの男以上の剣の腕前と、切り込むような猛々しい光を放つ瞳を持つ女。
准将という地位にありながら、たかが一兵卒の怪我の止血を、ごくあたりまえのように手ずからする女。

『いま…わたしの胸は感激でいっぱいだ。アラン… はじめておまえほどのつかい手に出会った…!』

先ほどまでの猛々しい瞳は消え、穏やかに微笑む女の顔が俺を見下ろしていた。
白い額に玉の汗が、陽光を受けて眩しく光っていた。




「へぇ~こんな綺麗なハンカチをアランの止血に使うなんて、隊長って気前がいいんだね~」
フランソワは、至極素直な感想をつるりと言った。
「ああ、そうだな。オスカルは必要とあればそれを惜しげもなく差し出す。それが奥様から贈られた大切な贈り物であってもな」
「奥様って、ジャルジェ夫人のことか?」
俺はアンドレが使う『奥様』の言葉に反応した。

奴は隊長の従卒だが、ジャルジェ家の使用人でもある。
たしか、両親を早く亡くして子供の頃に引き取られたという話を聞いたことがあった。
使用人としての仕事っぷりを俺は知らないが、奴に身についた立ち振る舞い、言葉使いや物腰の柔らかさは、長年、貴族に仕え培ってきた証だろう。
こんな軍服より、さぞやお仕着せの方が格段似合ってるはずだ。
上背ある痩躯に容貌は精悍だが、それだけじゃない。
憂いを帯びた隻眼と相まって、色男っぷりを際立たせている。

奴に心を寄せているジャルジュ家の侍女は、きっと一人や二人ではないだろう。
可愛くて素直で、自分を好いてくれる娘で手を打っとけばいいものを…
ふっ… 馬鹿な野郎だぜ。
わざわざ高嶺の花に囚われなくてもよぉ。


「オスカルは、旦那様の意向で武官として生きることを定められた。奥様は、旦那様のお考えに従っておられるが、娘が男の恰好で軍務に就いていることに、胸の内ではお心を痛めておられる。せめてハンカチくらい女性らしいものを身に付けてあげたいというお気持ちなのだろう」

隊長に担わされた数奇な運命に想いを馳せる。
何不自由のない名門貴族の家柄に生まれ、神より受けた性に添った人生であれば…
今まで歩んできた、そしてこれから歩む人生とは全く別なものだっただろう。



「お前から返しておいてくれ」
アンドレの方を見ず、さりげなく言った。
つもりだったが、奴は回り込んで、俺の顔をまじまじと覗き込んだ。

(なっ、なんだよっ!)
「いいのか?俺から返しても」
「ああ」
「本当に?」
「何が言いたいんだ? くどいぞ!」

── アンドレの奴、クスクス笑ってやがる。
『ケツの青いガキの考えることなんて、お見通しだぞ』
奴の心の声が聞こえたような気がした。

「お前がまだ大切に持っていたと知ったら、オスカルは喜ぶだろうな。その上、素直に返せば尚更なんじゃないか?」
アンドレはハンカチを軽くたたみ直すと、俺の手元に返してきた。
椅子から立ち上がると、爽やかな笑顔で一瞥を投げ、食堂の出口へ歩いて行った。

── 大切に…か…

剣の勝負の後、負けた悔しさから引き裂いて捨ててやろうと思った。
繊細なレースが豪奢に施されているこのハンカチが、大貴族の象徴そのものに思えて胸糞が悪かった。
だが、何故か捨てることができなかった。
あの女のことを考えると、無性に苛立った。
と、同時にザワザワと何かが胸の内で騒ぎ立った。
その正体が何なのか。
今の俺には、解っている。


アンドレの後ろ姿を目で追っていたフランソワが、俺に向かって言った。
「アンドレって、近頃は穏やかになったよね。一時は口を聞くどころか、傍に近寄るのも怖いくらいだったけど」
「ああ、そうだな…」

あれは隊長の結婚話が持ち上がっていて、ジャルジュ家で婿選びの舞踏会が開かれた頃だった。
アンドレが主従の関係を超え、隊長に惚れていたのは明らかだった。
だが、どれだけ惚れていたとしても、平民のアンドレにはジャルジュ家の婿に名乗る資格はない。
四六時中、傍にいる惚れた女が他の男のものになるのを、ただ黙って耐えるしか術はない。
隻眼の瞳が漆黒よりもなお深く、暗い色に沈んでいたのを、俺は知っている。

いつだっただろう。ある日、アンドレが右手に包帯を巻いて出勤してきたことがあった。
奴の目の状態が思わしくないのを知っていた俺は、酷く嫌な予感がして咄嗟に訊いた。
『おい、その手…どうかしたのか?』
アンドレの顔つきが俄かに強張った。
『…いや、なんでもない…ガラスで切っただけだ。大したことはない…』

── なんでもないわけないだろう
おまえ、今、自分がどんな顔つきしてるか解らないだろう?

俯いた横顔には悔恨とも慙悸ともとれ、引き攣り、,酷く消沈した影を落としていた。
おまえがそんな顔を見せるのは、どうせあの女に関係していることだろう?
それほどまでに、何故あの女に囚われる。
貴族の女にそれほどまでに。
そんなに想ってやっても、どうにもならないのによぉ。
アンドレ、お前は馬鹿だ。
どうしようもない大馬鹿野郎だ…

不思議というか、奇妙なことにその日を境にアンドレの雰囲気が変貌した。
それまで、苦渋に満ちた表情で暗澹とした影を落としていたのが、穏やかで晴れやかに、何か吹っ切れたというか、達観した様子だった。
奴の中で、確かに何かが変化した。
隊長の結婚話が頓挫したからか?
いや、その前には既に変貌は遂げていた。
惚れた女が他の男のものになることを承知しながら、何が奴を納得させたのか。
俺には全く考えが及ばなかった。


食堂では昼食の時間も終わりかけ、多くの兵士達は其々の持ち場に戻ろうとしていた。
俺も立ち上がり、出口に向かおうとしていた時、項垂れている仲間を見つけた。
「おい、ピエール、どっか具合でも悪いのか?全然食ってないじゃないか」
班長という立場上、班員の様子はいつも気にかけていた。
どことなく上の空で、やたら溜息が多い。
ここ数日、ピエールの様子がおかしいと感じていたのだが。

小さな溜息を一つすると、ピエールはボソリと言った。
「もうすぐ人事異動の時期だよね…」
「ああ?そうだったか?だけど俺たち一兵卒なんか移動もなにも」
「そうじゃなくって、隊長のだよ!」
ピエールは間髪入れず答えた。

「俺達、隊長がここへ着任してから、かなり変わったよね。それまでは、昼間から酒飲んだりしてサボることは日常茶飯事だったし、訓練なんかまともにやった例はなかった。軍務は生活のため、食べてさえいければよかった。それでいいと思ってたよ。上官だって、俺達兵卒なんか虫けら同然の扱いで、まともに人間として見てくれることなんてなかった。 だけど、隊長はそうじゃなかった。そりゃ、訓練とかは厳しかったけど、的確な指導もきちんとしてくれた。隊長のおかげで自分でも兵士らしくなったと思うんだ。軍務にやりがいっていうのも感じるようになったし」

「それにさぁ…」
「それに、なんだよ?」
「やっぱ美人だし、いい匂いがするんだよね~」
なんだよ、結局そこかよ。と一人ごちて、俺は肩を落とした。
「おっ、お…俺だって、た、た…隊長が、い、いなくなるのは、ヤッ、ヤダヨ」
ピエールに引っ付いていたジャンも口をはさんだ。
「俺もさ~この前、『随分顔色が良くなったな』って声掛けてくれたよ。隊長が気に掛けてくれて、すごく嬉しかったしさ~」
破顔一笑するフランソワの顔には、確かに幾分赤身が射している。
兵士達の健康状態が良好であることは、延いては隊の士気に通じると、栄養管理を一新させたのは他ならぬ隊長だった。


そのうち、一班の面々が話を聞き付けて、わらわらと集まりだした。
「でも、隊長ってなんでここへ着任したんだ?」
「元近衛連隊長だったんだろう?超エリートだよなぁ」
「なんか、とんでもないヘマやらかしたとか?」
「まっさか~あの隊長がそんなヘマすると思うか?」
「王妃のお気に入りだったって噂だろ?王妃と喧嘩したとか?」
班員の面々は、自分達の勝手な憶測で話が盛り上がっている。

「班長なら知ってるんじゃないの?ねえ、アラン?」
「俺が知るわけないだろう!そんなもん!」
俺は、フランソワの頭を軽くこついて睨んだ。

其の実、上層部将校の異動理由なんて、兵卒にまでいちいち知らされることはない。
隊長が衛兵隊に着任時も同様だった。
しかし、士官学校時代、伝説のように聞かされていた«オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ»が衛兵隊に着任してくると耳に入った時、兵営内では将校達の間で様々な憶測が飛び交い、その噂を聞き付けた下士官、兵卒までもが騒ぎ立てていた。

名門剣帯貴族の令嬢にして軍人。
士官学校時代は、学業優秀で常に主席を維持していたという。
在学中に前国王の命により近衛隊に入隊し、十年もの間連隊長を務めてきた。
そんなエリートが何故、フランス衛兵隊へ…?
様々な憶測が飛び交っていたが、結局、真実を知る者はいなかった。


「そんなに知りたきゃ、直接、隊長に聞けばいいだろ?」
フランソワに向けた言葉ながら、ふと思い出した。
剣の勝負で負け、傷を負って衛生室で休んでいる時に直接聞いたことがあったことを。


『おまえの方こそ、いったいなにをやらかしたんだ。近衛隊の連隊長から、わざわざこんなところの隊長へ…』

『さあ… おまえのような男に会いたかったからかもしれない…』


柔らかく響くアルトの声が、優しく耳元を掠めた。
その刹那、胸の内でざわざわと何かが騒ぎ始めた。

── けっ! すかしたこと言いやがって!!

それを振り払うように、俺は慌てて背を向けて掛布を被った。



「頼むよ~アラン~ ここにいてくれるように、隊長に頼んでくれよ~俺達を見捨てないでって」
ピエールの奴、俺の片腕にぶら下がって懇願してくる。
目に涙まで滲ませて。
「そ、そーだよ、は、班を、だ、だいひょうしてさぁ」
またも、ピエールが同調している。
「…でもさぁ~もう異動届出してたらどうする?」
「ええっ~うわぁ~絶対イヤだ~」

── ったく、世話のやける野郎だぜ
内心毒吐いたが、ピエール達の心情は理解できる。

大貴族の上官など、兵卒は虫けら同然の扱い。
人としてまともに扱うことはなかった。
そういうものだと諦めの境地はあった。
しかし、明らかに見下す態度には我慢もするが、時として理不尽な暴力を受け辟易していた。
大貴族なんて所詮そんな輩ばかりだ。
ところが、そんな俺達の考えを隊長は良い意味で裏切ってくれた。
身分で差別することはなく、権力を笠に着ることもしない。
俺達にとって、心から上官と慕える人に会った。
その人の部下でありたい。ずっと従っていたい。
それは、偽りのない俺達の正直な心情なんだ。

── しかたねぇ、頼まれてやるか…

いつの間にか班員達に取り囲まれて、渋々承知した顔つきを見せると、一斉に歓声が上がった。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。