フリーエリア2


薔薇の芳香がそよ風に乗って鼻腔をくすぐる。

辺り一面の薔薇の園。

遠くで子どもたちのはしゃぐ声と弾く剣の音が聞こえる。

その声に導かれるように歩を進める。

こちらに気づくと、二人は弾かれたように私の元へ走り寄ってくる。

ブロンドの少女を黒髪の少年が透かさず後を追う。

まるで光と影のように。

額に光る玉の汗が陽光に映えて、眩しいほどに清々しい。




─── まあ、こんなに汗をかいて…本当にあなたたちは熱心だこと。

さあ、拭いてあげましょう。二人ともこちらにいらっしゃい…



さあ…


こちらに…







 …さ…ま、 …奥…さま…

「こんな所でお休みになっては、お体に障ります。そろそろお部屋にお戻りください」

ゆらゆらと覚醒し、夢から引き戻された私は、バルコニーの椅子でうたた寝をしていた。
首筋に僅かに感じる、汗の感触。
仰ぎ見れば貫けるほど蒼い空に一朶の雲が流れてゆく。
陽光に手を翳せば確かに熱く、日差しが日々強さを増している。



─── もう、7月なのね…


…… オスカル …… 私の愛しい娘


あなたが神に召されて、あなたの夢を見るのはもう何度目かしら…?

この季節が巡り来ると、あの時と同じ陽の光のまぶしさ、風の香りを感じて、胸の奥底が波立つのを抑えられない。

決して忘れることのない、7月14日のことを…



*************************


代々王家の軍隊を統率してきたジャルジュ家にとって、パリ出動時、市民側についたオスカルは反逆者だった。
「処分は免れないだろう。私は甘んじる覚悟だ」
夫は私に静かに告げた。
そして、ヴェルサイユから離れ、領地であるアラスに向かうよう、私に命じた。
アラスならベルギーに近い。いざとなれば亡命もできるだろうからと。
初めて夫に抵抗し、傍にいたいと懇願した。
しかし、夫は決して首を縦に振らなかった。

最小限の荷物と数人の従僕と侍女たちとでアラスに向かうことになった私は、屋敷を離れる直前、大広間の壁に掛けられたオスカルの肖像画の前で立ち尽くしていた。
若き軍神マルスの如く神々しいオスカル。


あなたの姿を目に焼き付けるように…

決して忘れてしまわないように…


それでも、時の流れは残酷なものね。
あれほど慈しみ、愛した娘の記憶が薄れていく…
サラサラと指の間から、こぼれるように剥落していく…

夢でもいい…
夢でもいいから、あなたに会いたい。

私は寝室で伏せることが多くなり、夢と現実のはざまであなたの記憶を手繰り寄せていた。



ある日のこと。
私の元へ一人の男性が訪れた。
オスカルが肖像画を依頼した画家の弟子だった。
画家はオスカルの肖像画を完成させた後、程なくして、故郷のアラスに帰郷していたが、持病を悪化させ昨年亡くなったという。
画家は生涯独身で、身寄りもないため一切の遺品の整理を任されているとのことだった。
「先生の遺品を整理しておりましたところ、こちらのものが見つかりまして…」

クロスに包まれ、上から紐を架けられた遺品がテーブルの上に置かれた。
この遺品には手紙が添えられていたという。
画家は自分亡き後、可能であればこれをジャルジュ家の人に渡して欲しいという内容であったという。
「私は中を確認しておりません。先生の意向で持ってまいりましたが、こちらさまのご迷惑になるようなものでしたら、すぐに持ち帰り、処分したいと思っております」
男は強張った顔つきで私を見た。


─── いったい何かしら…?

屋敷にいた頃は、夫も私も専属の画家がいて、あの画家に仕事を依頼したことはなかった。
画家の遺品と接点があるのは、オスカルだけだった。

オスカルに関することなら見てみたい。
躊躇いがちに包みを解く指先が、期待と不安が入り混じり小刻みに震えた。

やっとの思いでクロスを広げると、中にはやや古びた一冊のスケッチブックがあった。
厚い表紙をめくるとそこには、様々なオスカが描かれていた。


─── モーツァルトの曲でも奏でているのかしら…

愛用のヴァイオリンを手にしている。
オスカルの好きだった曲のフレーズが耳に甦ってくる。

ブロンドの巻き毛を指先で弄んでいる。
それは、オスカルの幼い頃からの癖だった。
夫はそれを咎めたけれど、私はそのしぐさが愛らしくて好きだった。

幼い頃からの想い出が走馬灯のように、脳裏に浮かんできた。
愛おしさと懐かしさで胸がつまった。
指先で微かにスケッチを撫でると、零れかけていた想い出が掬い取れるようだった。


ふと、数枚捲った所で手が止まった。

長椅子に座るオスカルが、その後ろに佇むアンドレを愛しそうに見上げている。
アンドレもまた、その瞳に応えるべく、全てを包み込むような愛しい眼差しで見つめている。

二人の笑顔の甘やかなこと…

このスケッチに色が付いていたならば、娘の頬は一刷薔薇色に染まっていただろう。
日常の一齣を切り取ったような自然なスケッチは、二人がどれほど信頼し、愛し合ってきたかを物語っている。

そう、二人は確かに愛を育んでいた。
幼い頃から兄妹のように育ってきた。
光と影のように片時も離れず…

男女の愛を育むようになったのは、ごく自然なことだったのかもしれない…

その事実を初めて知ったのは、計らずも二人が神に召された後であったけれど。



******************************


バスティーユ陥落後、混乱するパリからオスカルとアンドレを連れて帰ってくれたのは、シャトレ夫妻とオスカルの部下であったアランという隊員だった。
ロザリーが化粧を施してくれたのだろう、オスカルの頬と唇には赤みが差し、まるで眠っているようだった。
アンドレも安らかな寝顔のように見えた。
それは、二人が幼い頃、剣の稽古に疲れて、庭の木陰で昼寝をしていた頃を思い起こさせた。

ロザリーは、すでに泣きはらしたであろう瞳に涙をいっぱい浮かべて言った。
「オスカルさまは、お亡くなりになる直前、私にこうおっしゃいました。『どうか私をアンドレと同じ場所に…私たちは夫婦になったのだから…』と」


─── やはり、そうだったのね… この子たちは…


パリ出動の朝、夫と私に挨拶をするオスカルは、それは穏やかな表情だった。
「たとえ何が起ころうとも、父上は私を卑怯者にはお育てにならなかったと、お信じくださってよろしゅうございます」
夫は黙って頷いた。
「それでは、行って参ります」
踵を返し、後ろに控えているアンドレと視線を交わす。
互いが柔らかく微笑んだ刹那、オスカルの長い睫がそっと伏せられ、頬が淡紅色に染まった。

私はオスカルの艶やかな横顔に目を見張った。
初めて目の当たりにする、娘の艶やかな表情に目を奪われてしまった。

二人のまとう空気が、春光のように柔らかかった。
穏やかで清澄な空気に包まれているようだった。

私は見惚れるように、二人の後姿を見送っていた。


******************************


娘は己の信ずる道を生き、女性としての幸せを掴んでいた。
私が常に危惧を抱いていた、女としての幸せを…


オスカルは生まれてすぐに男として、軍人として生きる運命を夫に強いられた。
私は跡継ぎを産めなかった負い目があり、心ならずも夫に従うしかなかった。
娘は父の期待に応えるべく、立派な軍人になろうと努力を重ねてきた。
娘を誇らしく思う反面、私たちが強いてきた運命に、この子自身の幸せはあるのだろうかと胸をいためてきた。

オスカルの姉たちは、それぞれ穏やかで幸せな結婚生活をおくっていた。
それゆえ、余計に末娘が不憫でならなかった。
普通の女性として生きられたら、おそらく姉たちと同じように平凡だが穏やかで幸せな人生をおくれただろうにと。

私の唯一つの願いだった。
オスカルが女として、愛し愛される喜びを得られることを…

私の願いは間違いなく叶えられていた。
このスケッチ画が、まさに証明していた。

私は二人を抱きしめるように、スケッチブックをそっと胸に抱いた。
すると、一通の書簡が足元に滑り落ちた。
手に取り、中を開けると書簡には几帳面な文字が綴られていた。


『 私の画家人生において、オスカルさまにお会いできたことは最高の幸せでございました。
オスカルさまはモデルをなさっている間、私に様々な出来事をお話してくださいました。
王妃さまがフランスにお興し入れになった時のこと。アラスに視察された時のこと。アンドレさんがお屋敷に引き取られた時のこと。
幼い頃、お二人でよく剣の稽古をされたこと。日が暮れるまで庭で遊んだり、悪戯をして叱られたこどなど…
ことさら、幼い頃のことをそれは楽しそうに、懐かしそうに話してくださいました。
ある時には、アンドレさんがお茶の給仕をして、お二人で何やら楽しそうに会話されると、オスカルさまはそれは花がほころぶように微笑まれていらっしゃいました。
私は、そのようなお二人を拝見していて、こちらも胸が温かく幸せな心持ちになったのです。
お二人には、計り知れない程の絆も感じておりました。
言葉では言い尽くせない、魂の絆とでも申しましょうか…

お二人が、日を置かず神に召されたことを耳にした時、私が感じた絆の深さを想い返さずにはいられませんでした。
しかしながら、お二人を亡くされたジャルジュ家の方のお悲しみは、心中を察するには如何許りかと存知上げます。
私の拙いスケッチ画が僅かなお慰みになり、ささやかな希望の光になりますよう、願ってやみません』



─── ありがとう、ムッシュウ… あなたの心遣いに感謝します。

あなたが感じられていたとおり、二人の絆は永遠でした。
二人は与えられた生を懸命に生き、愛し合い、満ち足りた幸せのうちに旅立ったのですね。
私は大切なことを忘れていました。
オスカルを失った悲しみだけに囚われていました。


─── オスカル、あなたはアンドレと共に幸せにしているでしょうから、もう悲しむことは止めましょう。
この頬につたう涙は、哀惜の涙ではありません。
あなたたちは、神の御許で永遠に結ばれたのですから…



***********************************


開け放った窓から入り込む朝風が、夏の終わりを告げていた。
照りつける陽光が少しずつ影を潜めている。
再び季節が巡ってゆく。


─── おはよう。 オスカル、アンドレ 、今日も天気が良いようですね。

私は寝室のサイドテーブルの上に飾られたスケッチブックの二人に話しかけた。
傍らには、二人の為に誂えた結婚指輪が、朝日を受けて優しい光を放っている。



─── オスカル…私の愛しい娘

私の元へ生まれてくれて、ありがとう。
己の信じる道を貫き生きた、あなたは私の誇りです。


         
                 Fin
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。