フランス旅行回想録 【 Voyage 】

こちらは管理人のフランス旅行記です。
旅行前の準備のこもごもや、旅行中にフランスからUPしていた雑文、帰国してからの回想録などを置いています。

★2013/5 回想録
旅行準備から現地UP版までは、かつて【Hermitage】というおまけノベルを集めたブログにUPしていたものからの転載。
回想録からが、この「Voyage」でUPしはじめたものです。
(今はクレーム等により一部公開していません)

また、この旅行記には、追随するコンテンツとして【Webアルバム】がございます。
アルバムでは、管理人の訪れた各地の画像が2000px以上の大判サイズでご覧いただけます。
ベルサイユ宮殿や大小トリアノン宮などのお部屋が、壁紙の模様や扉のひび割れまで見える詳細さでUPされております。
スライドショーにすることも出来ますので、ご覧になれる方はどうぞ。
全部で1183枚の写真がご覧いただけます。

★2015/4 回想録
2015/6/12よりUPを始めました。
こちらもWebアルバムをUP中で、ただいまは3410枚の画像がご覧いただけます。
最終的には、およそ5500枚程度のアルバムになる予定です。

 

    ギシギシと軋む床。築100年を軽く越えるアパルトマンは、音が響く。
    特に大きなスーツケースの開け閉めや、キャスターの音はよく響くらしい。
    アパルトマンを借りるとき、オーナーに注意点として言われていた。深夜や早朝の、スーツケースを扱う音に気をつけて、と。
    そうでなくても上階の水周りの音などはよく聞こえてくるし、隣家の声なども聞こえたりする。
    私はまだ暗いうちから、帰国のための荷物の整理をしていた。
    スーツケースをそぉっとリビングの中央まで押して、ゆっくり倒す。蓋が一気に開いて床で大きな音を立てないように、やっぱりそぉっと倒して。
    何しろ中身が重いので、押すにも開くにも力がいる。うっかりすると、重さの勢いで結構な音を立てそうだ。
    部屋に置いた目覚まし時計や、充電器類。洗面所に置いたコンタクトレンズ用品など、こまごましたものもすべてしまっていく。
    逆に使い切った消耗品や使い捨てのものもあるので、最終的なスーツケースの重さは何Kgになるだろう。
    私はだいたいの荷造りが終わるとスーツケースをそっと立て、それを持って体重計に乗ってみた。
    23Kg以下であればYクラスの受託手荷物として預けられるが、それを越えると荷物を2つに預けるか、超過料金がかかる。
    さて…
    アパルトマンに置いてある体重計では、スーツケースはなんとか23Kg以下に収まっているように思える。
    私は一応、そこで作業を終えた。
    個人の旅行ブログなどを読むと、重量が多少超えても大丈夫だったという記事も見かけるので、あとはもうシャルル・ド・ゴールのチェックイン時に考えようと思ったのだ。
    帰国のこの日。
    アパルトマンは夕方5時まで借りてある。
    朝から部屋を出て、あと何か所を観てまわれるか。
    行きたいところは主に美術館。
    その中でも、もっとも行きたいところの場所を確認する。
    旅行ガイドを開いて最寄り駅をもう1度確認し…て…
    え?
    私はここで、ものすごく初歩的なミスに気づいた。
    休館日…
    うそだろ?
    この日は火曜。
    自分のミスがあまりにも凡ミス過ぎて、信じられなかった。
    パリの美術館は、主に月曜と火曜が休館日。
    「あー。まじかよ」
    自分がぬかっただけなのに、私は本当に声に出すほど凡ミスを悔やんだ。
    行こうと思っていた美術館はいくつかある。けれど、ダメだ。ほとんど行けない。
    旅行中の予定はすごく練ってきたつもりだったのに、まったく何を考えていたのだろう。
    まだ夜明け前のアパルトマンで、私はさんざん悔しがった。
    そうだ、アパルトマンに着いた日。気力も体力も出てこないなんて言ってないで、無理してでも、あの日に1つ行けばよかった。
    ああ、本当に何をしていたんだろう。詰め気味にまわれば、閉館時間ギリギリに1時間ぐらいでも行けたところもあったのに。
    私はしばらくのあいだ結構なダメージを受け、薄暗い部屋に1人、しおれていた。

    ついていない日は、ついていないもの。
    しおれつつも気を取り直し、朝8時に部屋を出た私は、その30分後にメトロ9号線の車内で突っ立っていた。
    突然明かりの落ちた車内。
    止まったメトロ。
    は?
    混んだ車内は誰もが無反応で、ただ黙っているか、スマホをいじっているか。
    アナウンスが時おり流れるが、低い声のフランス語のみで理解出来ない。
    結果からいうと、メトロはしばらく停車したのち、人々がイライラし始めた頃に動き出した。しばらく缶詰になっただけで、何か大きな被害や損害があったわけではない。目的の駅にもちゃんと着いた。
    でもやはり、車内の明かりが突然落ち、暗闇の中で列車が止まったことには驚いた。恐怖や不安は感じなかったけれど、復旧にどれぐらい時間がかかるのか、救助を待つような事態になっているのかなど、情報がないことには“参ったな”という感じだった。
    停車中はあんまり暇だったので、iPadを取り出して、現地UP版に起きている事態を書き込んだりしていた。

    こんな、ついていない始まりをしたパリ最終日。
    最初に私の向かった場所は、16区だった。
    前日に訪ねたカヌレの人気店「ルモワンヌ」。“電気系統のトラブルでしばらく店休”というお知らせの張り紙には、営業中のパッシー店の案内が書かれていた。
    私はその張り紙をiPadで撮り、アパルトマンに戻ってから、詳しい場所を検索したり、ルートナビで見てみたりしていた。
    検索で開いたパリ市内16区の地図。そこには、張り紙に書かれた通りの名前は見つからなかった。
    ルートナビの検索もうまくいかない。建物の名前も、一致するものが見つからない。
    パリ最終日をどこにあるか判らない店探しに使うのは、ちょっとリスキー。
    そんなふうに思ってはいたのだが、地図上でなんとなく気になる場所があったので、結局私はそこに行ってみることにしていた。
    張り紙に書いてあった最寄り駅の9号線ラ ミュエット(La Muette)まで行ってみて、1時間だけ探す。それで見つからなかったら諦める。
    そう思ってメトロに乗ったものの… 停車トラブル。
    ついていない気配をビンビンに感じながら、予定よりだいぶ遅れてラ ミュエットに着いた。


    La Muette駅構内

    メトロを降りてすぐに、駅前に立っている地図板を見に行った。
    「ああ、そういうことか」
    その場所まで行ってみて、ようやく判った。検索しても、場所がよく判らなかった理由が。
    16区の検索で出てきた地図に書かれていた通りの名は、大きな通りの名前で、正しい名前だった。
    駅前の地図板の端から端までを貫くような、メインストリート。
    一方、案内として張り紙に書かれていた通りは、検索であがってくるような大通りではなく、そこよりは若干小さな道のものだった。
    そしてパリでは、通りの名前や駅名などは、地図によってはちょっと昔の名前だったり、正式名称ではなく、一般的に呼ばれている名前で書かれていたりと表記が違うこともある。
    そういうことが重なって、検索では場所がよく判らなくなっていたようだった。
    地図板で見たラ ミュエットの周辺地図には、張り紙に書かれた通りの名もちゃんと書かれていた。行こうとしている屋内型マルシェの建物も。
    “1時間探して”どころか、メトロのトラブルで予定よりかなり時間がかかってしまったが、ここまで来た以上は行くしかない。
    私はその地図板と自分のiPadの地図を見比べて、どの建物がそこなのかを確認した。


    ラ ミュエットの街並み


    ようやく見つけた屋内型マルシェ

    ああ、あった。
    建物を見てほっとし、私は足早に店内へと進んだ。


    生活雑貨店のかたわらにいる犬




    野菜屋さん






    魚屋さん


    いろんな種類の牡蠣や貝


    肉屋さん


    チーズ屋さん


    別の魚屋さん






    剥きたての牡蠣が食べられるスタンドも

    魚屋さんだけでなく、チーズ屋さんも肉屋さんも他のジャンルのお店も、複数ずつ入っているので見比べて歩くと面白い。

    【Bigsize Photo】には、ここにUPしていないお店など、たくさんの画像があります。
    種類が豊富で珍しいものもたくさんあって、華やか。
    場所の判る方はご覧になってみてくださいね。

    店内をきょろきょろと歩く中、目的の「ルモワンヌ」はすぐに見つかった。



    旅行ガイドにあったように、店頭には日本人女性の姿がある。
    日本語で買い物が出来る楽さに、私は躊躇なくその女性に話しかけた。
    「カヌレはありますか?」
    いかにも観光客風な日本人に話しかけられて、その女性はにこやかに対応してくれた。
    「まだ揃ってはいないですが、出来立てがあがってきたところですよ」
    「販売開始の10時にはすぐに売り切れてしまうということだったので、間に合うようにかなり早めに出てきたんです。パッシーに土地勘もなかったので」
    私が前日にサン・ドミニク通りに行ったことを知ると、女性は「わざわざこちらへ」とちょっと驚いたようだった。観光客が張り紙を見てまで来ることは、珍しいのかもしれない。
    「こちらのカヌレをお土産に渡したい人がいるんです。カフェのマダムなんですけど」
    私がそう言うと、女性はカヌレについての説明をしてくれ、そして「どうぞ」とひとつ手渡してくれた。
    「カヌレは食感が変わるんです。出来立てを食べてみてください」
    ふっくらとも、もっちりとも言える食感。
    「この食感は、焼きたての今だけなんですよ」
    カヌレは大きいサイズのもので10日、小さなベベサイズで5日の日持ちがする。
    焼きたての熱が取れると、カヌレはしっかりとした生地に変わっていくのだとか。



    このあと私はここで何箱かのカヌレを買い、それから少し、この女性と立ち話をした。
    主に、祈ることについて。
    異国に暮らし、異なる宗教を持って、その国で祈ること。
    他人さまの持つ宗教観なので、私がここに勝手に書いてしまうことは控えるが、とてもよいお話を聞かせていただいた。

    このフランス旅行の中で、印象深く残っている事柄のひとつだ。



    お土産にベベカヌレが届いた方もいらっしゃったでしょう?
    あれはここで買ったものなんですよ。


    日本語表記もあるフランクリン・ルーズベルト駅

    ルモワンヌを後にして、私は再びメトロに乗った。
    向かうのはオルセー美術館。
    これはこの日の予定通り。オルセーの休館日は月曜で、旅行の最終日にはオルセーに行くつもりでいた。
    ただこの時も、ついてない日のついてないことが起きた。
    オルセーにもっとも近い駅が、工事の関係で使えない。
    そのため少し遠回りすることになり、私はテュイルリー庭園などを観ながら余分に歩くことになった。


    テュイルリー庭園


    テュイルリー庭園から観るオルセー


    コンコルド橋から観る国会議事堂


    ようやく着いたオルセー


    かなりの行列

    パリにたくさんある美術館。
    その中でも知名度、人気ともに高いオルセーは、いつも行列が出来ている。
    私はとても待つ気にはならず、シャルトルの帰りにモンパルナス駅構内にあるフナック(FNAC)で、チケットを買っておいた。
    フナックはブックチェーンで、パリ市内あちこちにある。イメージ的にはTSUTAYAのような感じで、書籍だけでなく、CDやゲームソフト、カメラなども置いていて、チケット販売もやっている。
    「ミュージアムパスを使うほど観てまわらず、でも行列はしたくない。日本でチケットを手配しておく時間もなかった」
    そんなときには、あちこちにあって比較的遅くまで開いているフナックが便利。何かのついでにちゃちゃっと買っておけば、楽だと思う。


    FNACで買ったオルセーのチケット 11ユーロ

    ミュージアムパスや前売り券を持っている人は、一般入場口(入場口A)を通り過ぎて建物の裏手にまわる。すると、すぐに入場口C(ミュージアムパスか前売り券を持っている人の入り口)専用のレーンが目に入るので、最後尾に付いて並んでいればいい。
    パスや前売り券を持っていても、ある程度は並ぶ。それでも入場口Aよりはかなり早いはずなので、これはもうしょうがない。


    入場口A付近


    入場口Cの扉

    この扉は閉まっていて、勝手にここから入ることは出来ない。職員の指示で開けられてから、10人ぐらいずつ中に入る。
    中には持ち物検査場があり、それを通り抜けると、ようやく美術館らしいフロアに入れる。



    オルセー美術館(MUSEE D'ORSAY)は1986年12月9日に開館した国立美術館。
    美術館の多いフランスでも、来館数ランキングトップ3を誇る美術館で、1日の来館者数は2万人を超える。
    19世紀~20世紀初頭の作品までを鑑賞することができ、絵画だけでなく、彫刻、家具、工芸品、建築、デッサン、写真など、展示物のジャンルも幅広い。
    特徴的で美しい外観は、元が駅舎だったことから。
    1939年まで、ここはオルセー駅として使用され、名残のように残されている大時計は鉄道ファンにも人気。
    建物正面には、セーヌをはさんでルーブル美術館やテュイルリー庭園がのぞめる。
    【オルセー美術館】





    このあたりが1階のメインホールなのだが、オルセーは非常に説明しにくい構造をしている。
    メインホールの両サイドにも展示スペースは広がるが、なんというか…階段が設えてあるほどの高低差があるけれど、そこは2階ではなく、2階はさらに上にあるというか…
    中2階というのもなにか違うような。
    メインホール自体も数段の階段でフロアがつながれているというか…
    とにかく説明のしにくい構造をしている。
    部屋の配置も同様で、狭い展示室と狭い廊下が集まった部分もあれば、非常に大きな展示室もある。
    元駅舎という成り立ちでそうなっているのだろうけれど、見学しにくい。パンフレットの館内の見取り図を見ても、目当ての絵がどこにあるのか探しにくく、自分がどこにいるのかもつかみにくい。
    だからといって魅力がないかと言えばそんなことはなく、非常に美しい姿をしている。この建物を観るだけでも価値のある、興味深い美術館だと思う。



    ホール奥から入り口方向を振り返ると、こんな風景になる。


    ほぼ同じ位置からの、駅だった頃


    大時計

    こう見ると、“ああ、確かに駅舎だな”という印象。
    大時計の奥が美術館の入り口なので、入館してすぐから下り階段で、そのあとまたすぐにのぼり階段があり…と、やたらと階段が多い構造をしている。


    大時計の裏から、1階を見下ろす

    今こうして画像を見直してみても、複雑な構造をしていると思う。
    ホールの左右には小さな展示室がたくさんあるのだけれど、そこの内部にも階段があるので、本当に階段が多くて複雑な造りという印象。



    オルセーに置いてあるパンフレットをUPしてみる。
    4つ折りなので、表紙と裏表紙、開いたものを↓



    内側の見取り図4枚を1枚ずつでUPしてみる。






    “0(ゼロ)階”は地上階。日本でいう1階にあたる。
    5もあるけれど、だからと言ってこの建物が5階建てというわけでもなく。
    それがこの建物の複雑な造りで、オルセーも館内見取り図を作るのに、こうするしかなかったのだろうと思う。
    この見取り図を見ても、どう動けばいいのやら…
    建物としては、日本でいう3階建て。
    「0階:地上階」「2階:中階」「5階:上階」
    ガイドやWeb上では、このように説明されている。
    こんな造りの美術館なので、順を追って館内の様子をUPするのは無理。
    順路らしい順路もないし、場所の説明もしにくいし…
    私ははじめ、オルセーについては自分の好きな絵画をUPして、それを描いた画家についてなど、自分なりの解説のようなものを書くつもりだった。実際、途中まではそういったものを書いていた。
    けれど絵画や画家については、研究者や美術ライターによる書籍が既にたくさん出版されてあり、個人の趣味のサイトやブログも星の数ほど存在していて、ど素人で美大卒でもない私がペラい知識で書いたところで意味がない。そう思い直して、結局オルセーは、内部や見学している人々の様子が判る画像だけをUPしていくことにした。
    【Bigsize Photo】では私が特に楽しみにしていたところや、足を止めてじっくり観ていた場所などが詳細にUPしてあるので、興味のある方はご覧になってみてください。










































    2階 彫刻テラス


















    レストランへの回廊

    オルセー美術館には内装の華麗なレストランがあって、そのゴージャスさには似合わぬお手ごろ価格なランチが人気。
    私が行ったこの時間はちょうどお昼頃で、数人が並んでいるだけだった。けれどその1時間ぐらいあとにここを通りかかったときには、長蛇の列になっていた。
    私はここでお茶する気満々だったのだけれど、メトロの停車トラブルなどでここに来る時間が遅れたため、カフェ利用は出来なかった。
    このレストランは、サービスの内容がカフェタイム、ランチタイム、ディナータイムで異なる。まずはレストランの入り口で簡単に目的を聞かれるので、私のようにお茶やケーキなどを楽しみたい人がランチタイムに行ってしまうと、さっくり断られることになる。


    ル レストラン(LE RESTAURANT)

    ガブリエル・フェリエ作の天井画とたくさんのシャンデリアがいかにも豪華なこの部屋は、駅舎時代には来賓用のレストランとして使われていた。歴史建築物に指定されていて、ロココ調の内装が麗しい。
    夜間開館のある木曜の夜は、コースディナー(55ユーロ)も楽しめる。
    また、木曜夜以外は貸切も出来て、プライベート鑑賞付きパーティなども出来るそう。


    ゴッホの展示室入り口

    「オルセーは2011年から館内撮影禁止」と書かれているブログ等もあるのだけれど、私が行ったときは皆普通に写真を撮っていたし、ハンディカメラで撮っている人もたくさんいた。有名な絵画の前では“絵と私(たち)”の写真を撮りたい人が、順番待ちの列を作っていた。旅行者同士が互いにカメラを渡して、撮りあったりする様子も普通に見られた。
    上の画像で中央に立つカメラ目線の男性は美術館の職員で、「写真撮ってもいいですか?」との質問にも「いいですよ。でもノンフラッシュでね」という対応だった。
    オルセーが撮影可なのか不可なのか、行ってみた私にも判らない。



    この美術館には絵画や彫刻だけでなく、家具なども展示している。
    椅子やテーブルなどを単体で並べているだけのところもあるが、撮影現場のセットのように、一部屋として展示されているところもある。
















    2階 窓辺からのセーヌ川とルーブル


    5階 大時計裏の回廊


    5階 カフェ・カンパナ(Cafe Campana)

    カフェ・カンパナは、2階のル レストランと違ってセルフサービスの気軽なカフェ。
    印象派ギャラリーと隣接したオープンなエリアにあり、お店としてきっちり区画されていないので、ここは常に多くの人が行き来している。
    食事をするというより、休憩がてら何か食べておくか…といった程度のお店なので、ル レストランがランチタイムのときにお茶や軽食程度の目的で行くと、「5階へどうぞ~」と勧められたりする。


    印象派ギャラリー

    印象派ギャラリーは最上階である5階にあるため、天窓からの自然光が入る。
    が、オルセーでは、日中の光を再現できるという最新のスポットライトも導入して、印象派特有の豊かな色使いを際立たせる工夫をしている。















    オルセー美術館のセーヌ側面には、大きな時計が2つある。
    上の画像の大時計を外から観ると、こんな位置になる。






    大きな針の間から見えるルーブル美術館


    レユニオン・デ・ミュゼ・ナショノー(Reunion des Musees Nationaux)

    ミュージアムショップ。
    2階にあるショップがメインで、カタログやグッズなどさまざまなアイテムを揃えている。この5階では、建築や美術関係の専門書籍などを置いている。




    屋外テラス



    最後に、私がオルセーを訪ねるにあたって、もっとも楽しみにしていた絵を数枚まとめて。



    ゴッホは、ゴッホ自体がどれも楽しみだったのだけれど、上の2作は特に実物を観られることを楽しみにしていた。
    左の「自画像」(Portrait de I'artiste 1889年)は、耳切り事件のあと、サン=レミの精神病院入院中に描かれたもの。
    そして右の「オーヴェルの教会」(L'église d'Auvers-sur-Oise1890年)は、死の約2か月前に完成した。
    サン=レミの病院を退院したあと、ゴッホはオーヴェル=シュル=オワーズに向かった。そこで暮らした人生最後の10週間に、ゴッホは70作とも100作ともいわれるほどの絵を描き、この「オーヴェルの教会」もその中のひとつ。
    全体に歪んだ印象を与えるこの絵の背景に使われているコバルトブルーは、当時作られたばかりの最先端の色だそうで、ゴッホは1889年6月、このような手紙をに書いた。
    「教会の大きな絵を描いた。混じりけのないコバルトの空に教会の建物が紫がかり、窓のステンドグラスがウルトラマリンの青いしみのように見えた。すみれ色の屋根はところどころオレンジ色をしている。陽のあたった砂は薔薇色だ」
    とても有名なこの絵は、とても緻密に計算されて描かれている。
    それについては、未だ研究者のあいだで物議がかもされているようだ。
    この絵に散りばめられた技巧が、その個性(才能)のなせる業なのか、それとも気の狂ったゴッホには、そのように見えただけなのか。
    絵画に詳しくない私にはとんと判らないけれど、祖父、父ともに牧師という家に育ち、自らも聖職者の道を歩もうとしながら果たせなかったゴッホが、死の数週間前に選んだモチーフが教会であったことを、限りなく想像する。神に背く、自殺という死に方を選んだその胸の底を。


    オーヴェルの教会(l'église Notre-Dame-de-l'Assomption)

    ゴッホの描いた教会は現存し、12世紀~13世紀に建てられた。
    パリから電車で1時間~1時間半。オーヴェル=シュル=オワーズの駅から徒歩圏内にある。
    近くにはゴッホの住んだラヴー亭(Auberge Ravoux)があり、今も夏期は当時と同じくレストランとして営業している。
    1階がレストラン、2階3階を宿屋としたラヴー亭の屋根裏部屋にゴッホは住み、その4畳ほどの部屋は、現在「ゴッホの家」(Maison de Van Gogh)として観ることができる。
    (2階はお土産屋さんになっているらしい)
    1890年7月27日。
    ゴッホはラヴー亭近くの麦畑でピストル自殺を図った。しかし弾が心臓をそれていたために死に切れず、しばらく気を失ったあと、歩いて部屋に戻ってきたという。
    亭主は医師を呼んだけれど、手のほどこしようがなく、ゴッホは延々もがき苦しんだのち、29日の午前1時半に息を引き取った。
    ゴッホは今、オーヴェルの教会の裏手にある墓地に、弟テオと並んで埋葬されている。
    もしまたパリに行く機会があれば、もう1度オルセーに行き、この絵と、それからオーヴェル=シュル=オワーズの街を観てみたいと思う。

    オルセーで特に気にかけていた絵の、下の2つはルノワールとドガ。
    左のルノワールは、リュクサンブール美術館の依頼で描かれた6枚のうちのひとつで、「ピアノを弾く少女たち」( Jeunes filles au piano 1892年)。
    (この絵には、ピアノの前とかピアノに寄るだとか、いくつかのタイトルがある)
    小学生の頃、ルノワールが大好きで、美術図鑑でルノワールばかりを眺めていた。
    ノベルに書くオスカル・フランソワの髪色を、私は「陽のひかり」とか「はちみつ色」などと表現しているけれど、その髪色はこのピアノを弾く少女がモデルになっている。
    そして右の絵は、そのモチーフで判りやすく、いかにもドガといった「バレエのレッスン」(Classe de danse 1874年頃)。
    子供の頃からバレエが好きだったので、踊り子の絵を多く描いたドガにも小学生の頃から惹かれていた。
    また、ドガのある絵の女性の面差しが、早くに亡くなった私の母に少し似ていることも、子供の頃にドガに親しみを持った理由でもある。



    オルセーには、美術館の敷地あちこちに動物の像が置かれているので、何がいるか観てまわるのもおもしろい。

    オルセー美術館の内部の様子がとても判りやすいサイトがあったので、よろしければこちらも。
    【オルセー美術館 360度】


    オルセー前のバトビュス乗り場

    バトビュス(batobus)はセーヌを巡回している小型船で、その名は「バト=船 ビュス=バス」からの造語であるよう。
    単純な移動手段として、そして遊覧船代わりとして便利に使える。
    1日券が17€なので、料金としてはそんなに安くないけれど、ランチやディナー付きのセーヌ川クルーズは1日の出航本数が少なく、完全予約制でもっと高額だし、乗船している時間も長い。時間の限られた滞在の中で、クルーズにそれほど時間をかけられない人や、食事つきのパッケージツアーで来ているからご飯は要らないという人、セーヌ沿いに並ぶ観光名所を効率的に回りたい場合などには、バトビュスも選択のひとつだと思う。
    乗り方は簡単で、直接乗船場所に行ってチケットを買うだけ。(ネット予約可。空港や市内の観光局でも買える)
    季節によって違うけれど、営業時間は概ね朝10時ぐらいから夕方ぐらいまでで、乗船場所は9か所。ルーブルやエッフェル塔など名所に近い乗り場が多いので、判りやすい。
    時刻表等、詳しいことはこちら→【Batobus】
    セーヌ川クルーズにはいろんな催行会社があるので、食事なしのコースでバトビュスよりも安いものもある。
    クルーズ会社だけでなく、パリ市内にたくさんあるエクスカーションを扱っている旅行会社でも、コンビチケットなどお得なプランや手配の楽なものもあるので、旅行プランに合わせていろいろ比較してみるのも楽しい。
    ただ、バトビュスは観光用のクルーズ船ではなく、日常の足として巡回している船なので、遅れることや早く出航してしまうこともあるし、その乗り場で降りる人が少なければ乗れないこともある。


    バトビュス


    サンゴール橋からの眺め


    愛の南京錠はここにも


    南京錠売り

    私はたらたら歩いて橋を渡り、テュイルリー公園のアイスクリーム屋さんへ向かった。




    フランボワーズとレアチーズのダブル~♪

    それを食べながら、さらにたらたらと歩いてメトロ1号線に乗り、サンポール(Saint-Paul)で降りる。
    ちょっと見ておきたい場所があり、私は地図を見ながらリヴォリ通りをうろつき、見つけたその建物の外観と位置をしっかり確認した。
    (ここについては次の旅行記でUPします)
    時計を見ると、2時半過ぎ。
    アパルトマンのチェックアウトは5時なので、時間はそれほど残っていない。
    つくづく朝のメトロの謎停車が響いているなぁ、と思いながら、私はそこからマレ地区の小道へ入っていった。


    パヴェ通りから見たラモワニョン館

    この建物は、現在はパリ市歴史図書館(Bibliotheque historique de la Ville de Paris)として使われていて、パリとイル・ド・フランスの歴史に関する書物を所蔵している。
    ここもベルファンには心を動かされる場所なのではないかと私は思っていて、ぜひ訪ねたいところのひとつだった。
    この建物自体はベルとどうこうというわけではないのだが、ラモワニョン館は、クレチアン-ギヨーム・ラモワニョン・ド・マルゼルブが生まれた館なのだ。
    革命のさなか、裁判にかけられたルイ16世。
    王にとって、圧倒的に不利な展開になるであろうと予想されるこの裁判。そしてまた、王を擁護する者も非常に危険な… 革命政府によって投獄→処刑ということもあり得るなか、王の弁護人に名乗り出た貴族がいた。
    それが弁護士 クレチアン-ギヨーム・ラモワニョン・ド・マルゼルブ。
    当時彼は弁護士として引退していたけれど、ルイ15世代から王に仕え、ルイ16世をよく知る立場だったラモワニョンは自らの良心に従い、王の弁護を引き受けた。
    この行いだけ取り上げると、ラモワニョンが王党派だったと受け取られそうでもある。けれど彼は、どちらかといえば民衆よりの貴族で、ルイ15世代に租税局長を務めた際には王に庶民の生活の困窮を訴え、浪費を諌める忠言などもしていた。
    ルイ16世の裁判はラモワニョンの弁護も届かず、たった1票の差で死刑が決まる。
    そしてラモワニョンは逮捕され、さらには彼の娘とその夫、孫までもが逮捕され、投獄された。
    人道的な行いをしたラモワニョンには、多くの市民の同情が集まったらしい。
    しかしそのことは、逆に革命政府を刺激することになった。市民の力が、次には革命政府に向けられるのではないかと。
    結果、革命政府は同情の元を摘み取ってしまうことを決める。
    ルイ16世が処刑された翌年の4月23日。
    ラモワニョンは断頭台にかけられた。彼の目の前で、娘夫妻と孫が処刑されるという、愛する家族の最期を見せつけられたあとで。
    彼は見たのだろうか。我が子だけは助けて欲しいと懇願する娘の姿を。そして怯えて泣き叫ぶ孫の姿を。それとも“父の高潔な意志を共に”と、娘もその夫もそして子も、従容として断頭台に向かったのか。
    自らの危険をかえりみず、弁護士として人道的な行いをしたラモワニョンの正義と気高さは市民たちの心に残り、彼の名はパリの通りの名のひとつとして残っている。
    …というのが、ラモワニョンに関するざっくりとしたまとめ。
    彼の名を冠したマルゼルブ大通りは、ジャルジェ邸のモデルになった2つの美術館の間に位置することも、私には“ベルとつながっている”と思えることのひとつだ。
    ラモワニョンとその家族の処刑の様子については、調べても判らなかったので、ご存知の方がいらしたら教えてください。



    時間がない…
    私はラモワニョン館の門をくぐり、中庭をわずかばかり歩くのみで内部見学は諦めた。
    そして次に、ラモワニョン館からパヴェ通りを右に出て、館沿いにフラン・ブルジョワ通りへ折れ、次の建物に向かった。




    カルナヴァレ博物館(musée carnavalet)

    カルナヴァレ博物館はカルナヴァレ館とル・プルティエ・ド・サン=ファルジョー館の2つの建物からなる大きな博物館で、2つの館は渡り廊下でつながっている。カルナヴァレ館は16世紀に、サン=ファルジョー館は17世紀後半に建てられた。
    収蔵品は約60万点にも及ぶ、見た目以上に大きな博物館だ。
    カルナヴァレ館の名は、かつての所有者 Kernevenoy氏に由来する。


    門を入ったところ

    私は時計を見て、ここで少し考えた。
    3時少し前。
    あと2時間で、アパルトマンに戻っていなければならない。
    多少の遅刻はおおめに見てもらえる可能性は高いし、オーナーに電話を入れれば、たぶん1時間ぐらいの延長は無料でしてもらえるだろう。
    とても気になるカルナヴァレ博物館。けれどそれ以上に気になる美術館もある。
    アパルトマンまでは15分もあれば戻れるけれど、うーん…
    考えた末、私はカルナヴァレ博物館は入り口と中庭だけを眺めることにした。私はこの数か月後にまた渡仏の予定があったので、内部の見学はそのときにしよう、と。


    中庭


    門の紋章

    これはパリ市の紋章で、1853年11月24日、政令によって定められた。
    この政令を出したのは、ナポレオン3世代にパリ都市計画を実行したオスマン男爵で、今ある美しいパリの街並みはこの改革による。

    私はカルナヴァレ博物館を出ると、マレ地区でもっとも行ってみたいと思っていたドノン館へ向かった。


    ドノン館(Hotel Donon)

    ドノン館は16世紀に建てられた貴族の邸宅で、今はコニャック・ジェイ美術館(Musée Cognacq-Jay)として活用されている。
    サマリテーヌ百貨店創設者であるエルネスト・コニャックと、妻マリー=ルイーズ・ジェイの名前がそのまま美術館の名前になっていて、膨大な展示品の数とその建物自体が、当時の貴族の生活を映す美術品ともいえる。
    このあたりは、ジャックマール=アンドレ美術館と似通っていると思う。
    夫妻が集めた所蔵品は絵画や彫刻だけでなく、家具や陶器、タペストリーなど多岐に渡り、そういったところもまた、ジャックマール=アンドレ美術館と共通している。


    入り口にかかるプレート

    私はこの美術館をとても観たいと思っていて、かなり楽しみにしていた。
    が。
    「え?」
    入り口は閉ざされていて、入れない。
    開館日であることも、開館時間であることも間違いはないはず。しかもどう見ても、ここが美術館の入り口とは思えない、プライベート感のある扉。
    「ん?」
    扉には小さなお知らせが貼ってある。
    “反対側におまわりください”
    ああ、そういうことか。
    私の持つガイドブックには、このエルズヴィール通りが入り口のように書かれてるが、どうやら美術館の入り口は、反対側のパイエンヌ通りにあるらしい。
    反対側といっても道を1ブロックぶん回りこむことになり、距離的にもそこそこ歩く。しかも方向としてはカルナヴァレ博物館に戻る感じになるので、私は心持ちイラつきながら、パイエンヌ通り側へと急いだ。
    パイエンヌ側の入り口は、通りに面して花が植えられた庭園になっていてベンチもあった。エルズヴィール通りの入り口より、よほど美術館らしい。
    私が庭園をウロウロして入り口を探していると、通りかかった女性が私に話しかけてきた。
    「今日、この時間は閉館よ」
    「え?」
    女性は庭園の端にある案内板のようなものを指し示した。
    それはフランス語なので私には読めなかったけれど、どうやらこの日の午後は休館らしい。
    …ついてない。
    こんなことなら、カルナヴァレ博物館を観ればよかった。
    ロスした時間にそんなことを思いながら、私はガイドブックを見直して、スービーズ館とゲネゴー館を観に行くことにした。
    ここから歩いて移動すると、もう時間的にどこに行っても内部を見学するほどの時間は取れない。
    私はスービーズ館とゲネゴー館の外観だけを見るつもりで、いったんバルベット通りからヴィエイユ・デュ・タンプル通りへと向かい、とある建物に突き当たった。



    上の画像はバルベット通りからヴィエイユ・デュ・タンプル通りに突き当たる丁字の交差点なのだが、さて、この正面に見える建物。
    この建物も、ベルに少々関係がある。


    ロアン館(Hôtel de Rohan)

    “ロアン”という名で、ピンときた人は多いと思う。


    門に打たれたプレート

    このロアン館は、あの首飾り事件に関わったロアン枢機卿の邸宅で、今は国立古文書館として使われている。
    4Fils通りからは、また違った外観と入り口が見られる。
    今は知らないが、私が行った当時、ここの内部見学は予約制になっていた。そのため私は、旅行の計画を立てている段階で、ロアン館の見学は諦めていたのだが。
    ロアン館の閉ざされていた入り口。
    私が館の外観の写真を撮っていると、その扉を開けた女性がいた。
    …開いた?
    女性は通りへ目を向け、人を待っているようで、やがて開いた扉にゾロゾロと団体客がやってきた。
    パッケージツアーの予約客!?
    20人ほどの欧米系の人々が、開いた扉から次々と中へ入っていく。
    私はその人の流れに、ひょこひょことついていった。あわよくば、紛れ込めないかと思って。


    扉を入った館のエントランス

    紛れ込めないかというのは冗談だけれど、でも、もしかしたら交渉の余地はあるかも?と思った私だったが、この先であえなく「グループオンリー」と言われて退散することになった。
    それでも、ほんの少しだけでも内側の様子を観ることができ、このエントランス部分だけだけれど写真も撮らせてもらえて、このことは、ついていないこと続きの1日の中の小さな幸運だったと、特に印象に残っている。
    しかし、このロアン館の出来事でまた少々時間を食い、私は結局スービーズ館とゲネゴー館に行くことは、諦めざるを得なくなった。
    中途半端に余ってしまった時間。
    どこかを見学するほどは残っていないが、でも少しの余裕はある。
    仕方ないので私は、メトロの駅にも近いヴォージュ広場を観に行くことにした。


    ヴォージュ広場正面入り口

    ヴォージュ広場は、「パリを世界で一番美しい街にしたい」というアンリ4世の発案によって造られた。
    パリ最古の広場で、完成は1612年。当初はロワイヤル広場と呼ばれた。
    縦横140メートルの広場を36の邸宅が囲む。この邸宅は同じデザインで統一され、それもアンリ4世の発案だったそう。
    ここには貴族や政治家や作家が住み、ヴィクトル・ユゴーが暮らしていた6番地は、現在ユゴー記念館として一般公開されている。
    広場は馬術競技などが楽しまれ、たびたび決闘なども行われたとか。


    ヴォージュ広場(Place des Vosges)








    ルイ13世騎馬像

    広場の庭園中央に置かれたルイ13世の騎馬像は、革命時に1度破壊されている。
    今見ることの出来るこの騎馬像は、1818年に再建されたもの。



    ヴォージュ広場を出て、ビラーク通りからサン・タントワーヌ通りを左折する。
    いよいよ時間もなくなって、私はメトロに乗ろうとバスティーユ広場に向かった。


    マレ寺院(Temple du Marais)

    33mもの高さのドームが印象的なこの寺院は、1634年にカトリック寺院として建てられたものが、1804年にプロテスタント寺院になったという変わった歴史を持つ。
    そのため、最初にこの寺院について調べようとしたときには名前がいくつか出てきてしまい、どれが正しい名前なのか、それとも他の寺院と混同してしまっているのか、結構とまどった。
    マレ寺院 Temple du Marais
    エグリーズ ルフォルメ デュ マレ Eglise Reformée du Marais
    現在、この2つがこの寺院を指す名称でよいようだ。(たぶん下が正式な名前で、上が通称なのかと)
    過去の名称としては、ヴィジタション サン マリー寺院とか、サン マリー デュ ザンジュ寺院という名があるようなのだが、パリにはサン マリー教会というのもあるので、私が最初に検索したときにはそちらの方が上がってきてしまったために、本当に混乱した。
    この寺院のクリプトには、かつてフーケの墓があった。
    (フーケが判らない方は【歴史を動かした2つの城 / ヴォー・ル・ヴィコント】をご覧ください)
    けれど残念なことに、そこはフランス革命のときに埋められてしまった。
    あのフーケの墓。
    どんな墓だったのだろう。

    マレ寺院を右手に眺めながらバスティーユ広場に向かうと、左手にはこんな像が現れる。


    カロン ド ボーマルシェ像

    ボーマルシェ(Beaumarchais 本名ピエール=オーギュスタン・カロン Pierre-Augustin Caron)は劇作家で、「フィガロの結婚」や王妃さまが演じた「セビリアの理髪師」の作者。
    ベル宮にも出入りしていて、王妃さまが一言をめぐる争いに至ったデュ・バリー夫人との対立を煽ったルイ15世の4王女のお気に入りでもあった。
    上の画像で、ボーマルシェの頭の形が妙な感じで写っているのは、こういうわけ↓で。


    鳩、座っとる(笑)

    カロン ド ボーマルシェについてはちょっとばかり思うところがあるのだが、それはまた次回の旅行記で。
    このボーマルシェ像を過ぎると、バスティーユ広場はすぐに見えてくる。


    バスティーユ広場(Place de la Bastille)


    メトロ バスティーユ駅入り口

    私はこのあとメトロに乗って、アパルトマンに戻った。
    まず、アパルトマンの敷地全体の入り口のデジコードを解除して中に入り、次に建物自体のデジコードを解除しようとして
    「あれ?」
    建物に入るための扉の横の、普段は閉ざされている扉が開いていた。
    倉庫程度にしか思わず、たいして気にもしていなかったその扉。
    何とはなしにのぞいてみる。



    「ちょっと、これ…!」
    そこには、いかにも古めかしい石壁と階段が見えていた。
    「階段室じゃないの」
    入りたい。
    この中に入ってみたい!
    私は辺りをきょろきょろ見回す。鍵のかかっていた扉が開けられているということは、近くに誰かいるはずだと思って。
    建物自体の入り口を通り過ぎると、大きなダストボックスが並んだ一隅と、木々や草花の植えられた中庭に続く。私はそちらの方まで見に行ってみたが、人の気配はない。
    階段室の扉まで戻って様子を窺っても、話し声も物音もしない。
    「えくすきゅぜも?」
    一応呼びかけてみたが、やっぱり返答はなかった。
    しんと静まった階段。
    降りてみたい。
    これには理由があって、それはパリの街の構造による。
    今あるパリの街。
    その地面の下には、もうひとつ、パリの街があるのだ。
    今のパリの街を整えるとき、当時の街並みがそっくり埋め立てられた区画がある。それが今のパリのどのあたりの地下に広がっているのか私は知らないけれど、以前にその様子をテレビで見た。
    そのとき取り上げられていたのは2区のあたりで、あるホテルにカメラが入り、ホテルの地下の様子を案内していた。
    そこには古いパリの街並みが残っていて、狭い路地や当時の店や部屋などがあり、そういった空間を、そのホテルや周辺の飲食店では、今は倉庫や配電室に使っているとのことだった。
    実は私はこの旅行で、パリに着いた初日に、このテレビ番組で取材されていたホテルに行っている。そして地下を見学させてもらえないかと聞いてみた。
    が。
    答えはあっさりと“Non”だった。
    ホテルに泊まっていればO.K.だったのかな、とも思ったが、私がパリ滞在中にこのホテルは満室で(立地もよく、歴史もあって人気のあるホテルなのだ)、部屋を取ることは出来なかった。そして、ホテル側によると「宿泊していただいても、お見せすることは出来ません」とのことでもあった。
    そんな経緯があったので、目の前にある古めかしい階段室に私はどうしても惹かれ


    降りてみた

    そこは石だけを積んで出来た部屋と通路があり、部屋は2つほどは見えていた。階段からすぐの方の部屋の真ん中には板やバケツや工事道具があって、補修でも行っているようだった。
    部屋に入り、もっと奥まで進んで行けば、さらに通路や部屋が続いていたのかもしれない。部屋の奥には、数段の階段が見えていたから。
    私はそこで数分ほど地下の様子を眺め、自分の部屋へ戻った。
    テレビで見たのとよく似た、石壁に土間のような部屋。
    あの空間が古いパリの街並みかは判らないけれど。
    見られるとは思っていなかった地下の様子に胸がざわざわと落ち着かないまま、私は部屋の電話を取り、アパルトマンのオーナーにチェックアウトの連絡を入れた。


    【帰国と小さな香水びん】に続く
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