フランス旅行回想録 【 Voyage 】
こちらは管理人のフランス旅行記です。
旅行前の準備のこもごもや、旅行中にフランスからUPしていた雑文、帰国してからの回想録などを置いています。
★2013/5 回想録
旅行準備から現地UP版までは、かつて【Hermitage】というおまけノベルを集めたブログにUPしていたものからの転載。
回想録からが、この「Voyage」でUPしはじめたものです。
(今はクレーム等により一部公開していません)
また、この旅行記には、追随するコンテンツとして【Webアルバム】がございます。
アルバムでは、管理人の訪れた各地の画像が2000px以上の大判サイズでご覧いただけます。
ベルサイユ宮殿や大小トリアノン宮などのお部屋が、壁紙の模様や扉のひび割れまで見える詳細さでUPされております。
スライドショーにすることも出来ますので、ご覧になれる方はどうぞ。
全部で1183枚の写真がご覧いただけます。
★2015/4 回想録
2015/6/12よりUPを始めました。
こちらもWebアルバムをUP中で、ただいまは3410枚の画像がご覧いただけます。
最終的には、およそ5500枚程度のアルバムになる予定です。
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★2013/5 回想録
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★2015/4 回想録
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最終的には、およそ5500枚程度のアルバムになる予定です。
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☆ ベルナデットの奇跡の泉 -ルルド- 2
UP◆ 2016/5/15中央に広く芝生の敷かれたサンクチュアリ。
夕方過ぎの日没前という中途半端な時間のせいか、行く人よりも戻りの人たちの方が多い。おおむねの人が、21時過ぎから始まるろうそく行列のためにいったんホテルに引き上げたり、食事を取っている時間帯だからだろう。
歩道として整えられた比較的広い道を、きょろきょろと見回しながら奥へと進む。
サンクチュアリ略図。
1が入ってきた正門であるサン=ミッシェル門付近。
2 サン=ジョゼフ教会付近
3付近
4付近
5 ロザリオ広場付近。
5 ロザリオ広場中心。
1877年に建てられた冠の聖母像。
花壇の花は、近づいてみると植えられているものではなく、花束だと気づく。
ルルド城塞。
ルルドは中世から、ピレネー地方の重要な軍事拠点だったところ。
この城塞は11世紀頃には在り、牢獄として使われたことや、16世紀~17世紀にはビゴール伯爵の居城として使われたこともある。
11~12世紀のロマネスク様式の部分と、13~14世紀のゴシック様式が混在し、今は博物館として内部を公開している。
私は残念ながら、この城塞には行っていない。
博物館は中世の暮らしの伝わるさまざまなものが見られるそうなので、行かなかったことを今になって後悔している。
なるべく後悔しないようにと、旅先では貪欲に動くようにしているのだが、徒歩移動の多いルルドでは結構疲れがたまってしまって、“公共のバスに乗って、もしくは徒歩で城塞まで”という気合が入らなかった。
迷ったら、行く。
迷ったら、やる。
やっぱりコレなんだなー…
急峻な崖の上に建つ。
宗教戦争や17世紀の地震のために何度も修復を重ね、約70年もの月日をかけて復元されたルルド城塞。
観ておけばよかった。
6あたりから観る大聖堂。
この大聖堂は「両手を広げ人間を迎える神を思わせる形をしている、まるで人間愛の体現」という表現で紹介される美しい姿をしている。
私がここに着いたときには西陽が強く射していて、どう工夫しても真正面からの写真が撮れなかった。
ので、正面からの様子を別日の画像でご紹介してみる。
建物だけをUPしたかったのだが、引きで全景が撮れている画像が私も写ったものしかなかった。
この美しい大聖堂、一見ひとつの建物に見えるが、実は2つの大聖堂が並んで建っている。
“神が両手を広げたような”と言われる部分が、ロザリオ聖堂(Basilique Notre-Dame-du-Rosaire de Lourdes)。
そしてその真後ろに建つのが無原罪の御宿り大聖堂(Sanctuaires Notre-Dame de Lourdes)で、この大聖堂は通常“上部聖堂”と呼ばれている。
ロザリオ聖堂は、崖の上に建つ上部聖堂の台座を成すかたちで造られた。
この2つの聖堂は、合わせて上空から見るとギリシャ十字架の形をしていて、そういうところは数日前に訪ねたシャルトル大聖堂と同じ。
2つの聖堂を合わせると、総面積は2000平方mにもなる。
上部聖堂は1866年に着工し、1871年に完成。
一方ロザリオ聖堂は1883年7月16日に着工、約6年後に工事が完了し、献堂式は1901年10月6日に行われた。
2つの聖堂の位置関係は、文章で説明するより見た方がずっと判りやすいので、画像をどんどん貼ってみる。
6から見るロザリオ聖堂左側(南側)。
小さなアーチ状の祭壇部分を、左から順に。
1
2
3
4あたりから見る聖堂中央部。
6あたりから見る聖堂中央部分。
5 中央、聖堂への入り口部分。
入口の上部のレリーフは、聖ドミニコにロザリオを手渡す聖母。
7 ろうそくの無人販売所。
こういった販売所はロザリオ広場を中心に、サンクチュアリのあちこちにある。
ろうそくの大きさによって値段が違い、好きなものを選んでコインを投入口に落とす。
ろうそくはただ積まれているだけで、鍵が掛かっているとかホルダーで留めてあるとかいうわけでもない。勝手に持っていこうと思えば、いくらでも盗れる。料金だって、その通りに払わずとも誰にも判らない。
でもこのルルドという地で、それが出来る人はいないだろう。
8 ロザリオ聖堂を北側に回りこむ。
8 人の集まる水汲み場。
ここで今さらだけれど、ルルドの奇跡について簡単なご紹介を。
ルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境に近いラングドック=ルシヨン=ミディ=ピレネーと呼ばれる地域圏のオート=ピレネー県にある。
山あいの小さな街でありながら、700年代には歴史の中で既にこの地について記載が見られ、かつてはピレネー地方の軍事・軍隊の要所で、宗教戦争にも巻き込まれている。
この地が広く世に知られるようになったのは、19世紀後半のこと。
当時人口4000人ほどの小さな村だったルルドに住む、貧しい14歳の少女 ベルナデット・スビルー。彼女の前に聖母マリアが降臨した。
それは1858年2月11日。
山で薪拾いをしていたベルナデットは、白いドレスに白いベールをまとい、青いベルトと黄色のバラの花を身につけた婦人に出会う。彼女は当初、その婦人を聖母とは思わず「
その婦人は2月11日の最初の出現から7月16日にかけて、ベルナデットの前に18回も現れた。
(ちなみに最初の出現のときには妹のマリー・トワネットと友人もいたのだが、ベルナデットを離れたところから見ていた2人には、聖母の姿は見えなかったのだそう)
婦人はこの地に聖堂を建てるように望み、ベルナデットには「泉の水を飲んで、顔を洗うように」と告げたという。聖母の指す洞窟の岩の下をベルナデットが掘ると、そこには泥水が湧き、やがて飲めるほどの清水の湧き出る泉となった。
(これが万病に奇跡をもたらすといわれるルルドの泉の始まりになる)
当初はベルナデットの話に懐疑的だった神父や街の人々も、出現が回を重ねるうちに、その姿や言葉から、婦人が聖母マリアだと信じるようになる。
この聖母降臨の話は瞬く間にフランス全土に広まり、さらにヨーロッパ中に伝わっていった。
小さなルルドの街にはたくさんの教会が建てられ、聖母が示した洞窟の泉近くには大聖堂が建てられた。
聖母降臨から約150年。
これまで2500の奇跡が起きたとされ、公式に認定された奇跡は66にもなる。
今ではカトリック最大の巡礼地とも言われるルルド。
奇跡を求めて、世界130カ国から年間500万人もの人々が訪れている。
…というのが、とても簡単なルルドの泉のまとめ。
資料によっては出現が13回だとか17回だとか、泉は湧いたんだとか掘ったんだとか、細かく言えば諸説のある長い話なので、興味を持たれた方はご自身でお調べください。
ベルナデット・スビルー(Bernadette Soubirous)。
ベルナデットは1844年1月7日、貧しい家の長女として生まれた。
生家が次々と不幸に見舞われたために里子に出され、羊飼いの仕事に従事する。養い親のもとでは、週に1度、勉強をする日がもらえる約束だったが果たされず、彼女は読み書きの出来ぬまま成長してしまったらしい。
後にベルナデットは聖母降臨について「聖母が私をお選びになったのは、私がもっとも貧しく、もっとも無知な者だったからです」と言っている。
1866年7月、ヌヴェール愛徳修道会に入り、「シスター・マリー・ベルナール」という名で修道女となる。
持病の喘息と、肺結核や脊椎カリエスといった病に苦しみながらも人々に尽くし、1879年4月16日35歳で死去。
その亡骸はベルナデットが過ごしたサン・ジルダール修道院に安置され、今も眠っているかのような姿を保っている。
1933年に列聖。
カトリック教会で、写真に撮られた最初の聖人となった。
このベルナデットと奇跡の泉の話をいつ知ったのか、どうも思い出せない。
幼稚園がカトリック系だったので、週に1度神父さまの“お話の時間”があったのだが、その時に聞いたような気もするし、小学生の頃に通った教会の図書室の絵本だった気もする。
何にせよ、この奇跡の泉の物語は私にとって忘れがたく、子供の頃から「いつかそこに行ってみたい」と思っていた。ただ、ミディ=ピレネーというあまり便利ではない土地柄ゆえ、本当に行く日が来るとは思っていなかった。
ロザリオ聖堂の北面、蛇口が10個以上も並ぶ。
ここがルルドの泉の水汲み場で、泉から引かれた水をいつでも好きなだけ汲むことが出来る。衛生面からも安全な水なので、ここで顔を洗ったり、手ですくってガブガブ飲んでいる人もたくさん見かけた。
私ははじめ“泉の水が汲める”ということに、童話っぽい幻想を描いていた。西洋の絵本の挿絵に出てくるような、金属の取っ手をキュコキュコ押し下げて水を汲む、そんな手押しポンプの汲み上げ井戸のようなものを想像したのだ。そのため、この無機質に並んだボタン式の蛇口を雑誌で見たときには、ものすごく機能的な水道設備の様子にバカウケしてしまった。
泉の水を汲むことに、あまり叙情的なイメージを抱いてはいけない(笑)
ごく普通に水道な感じ。
蛇口の上のボタンを1回押すと、一定時間水が出る仕組みになっていて、もちろん無料。
サンクチュアリの門はいつでも開いているから、聖堂が閉まっている時間でも、水を汲むことは自由に出来る。容器に詰めて持って帰る人も多く、私もそのためにペットボトルを持参していた。
8 引きで見たロザリオ聖堂北面。
この北側を壁沿いに奥(画像右側)に進むと、聖母出現の洞窟がある。
8 切り立った上部聖堂の北壁。
だんだん洞窟らしさの出てくる壁面。
聖堂の壁面を左手に見ながら進むと、すぐに洞窟の入り口が見えてくる。本当に極近で、人が集まっているので場所はすぐに判る。
洞窟の入り口。
引きで見る洞窟付近。
聖母像の建っているところに、アケロが出現したそう。
正面からだと1つに見える2つの大聖堂。
おおざっぱに分けると、画像左側、塔の建っているあたりまでがロザリオ聖堂で、そこから右、洞窟の真上に建つのが上部聖堂になる。
画像左側を歩く女性が、手を上げて洞窟の壁に触れている。これは、泉を見るために並ぶ人たちの多くがしていること。
日中や気候のよい頃などは、ここにはたくさんの人たちが行列を成す。ゆっくりと進むその列を、多くの人は洞窟の壁に触れながら小さくマリアへの祈りをつぶやきつつ、泉へと近づいていく。
つるつるになった洞窟の壁。
聖母降臨から約150年。この年月、泉を訪れるたくさんの人々が洞窟の壁を撫でさすったため、人の手の届くちょうどいい高さの岩肌は、ツルツルピカピカに艶が出ている。
泉をのぞきこむ人々。
お告げの泉。
ここが聖母の指示で、1858年2月25日にベルナデットが掘ったといわれる「ルルドの泉」。今はアクリル樹脂のようなもので保護されている。
洞窟の崖ぎりぎりに建つ上部聖堂。
洞窟の正面を流れていくガヴ・ド・ポー川。
想像していたよりも、豊かな水量のガヴ川。
休憩がてら川を眺め、架かる橋などに目をやる。山の間の川風に吹かれてぼんやり浮かぶのは、自分が書いた「100年の恋獄」だ。
この物語の中で、私はジェローデル少佐にミディ=ピレネーを旅させた。革命で命を落としたオスカル・フランソワの眠る地を、胸に深くうずめた後悔とともに探し求める物語。
聖母をアケロと呼び、その慈悲に逆らったアンドレと、革命以来に彼女との再会を果たしたジェローデル。ダークファンタジーの練習として書いたものだ。
本当に書きたいノベルはシャルロット嬢の物語で、でもそれを書くにはまだちょっと力量が足りなくて、比較的短めに完結出来そうな筋書きの「100年の恋獄」に、ルルドを舞台とした。
私が思い描いた「恋獄」のマッサビエルは緑深い森なのだが、こうして来てみると、私が1800年代として書いたその風景ほどに山深きところだったのかどうか…
捧げられたろうそく。
こんなに大きなものも。
泉を離れ、さらにサンクチュアリの奥へ向かうと、こうしたろうそくを捧げる場所に続く。
上の画像は大きなろうそくを立てるスペースで、その大きさは、特に大きなものだと小柄な人の身長ぐらいある。こうした巨大なろうそくは、街のお土産屋さんで買える。
そして、この巨大なろうそくが並んだブースを通り過ぎると、ここ↓に出る。
ろうそくを捧げるためのブースがずらりと並ぶ。
このブースには、無人販売所などで買えるサイズのろうそくを立てるのにちょうどいい軸がたくさん並んだレーンがある。
私が訪ねたこの時間はもう夜8時にも近かったので、捧げられたろうそくは既に回収されていた。燃え残りのろうそくや溶けた蝋、途中で火が消えてしまったものなどがかき集められて、裏でまとめて燃やされていた。
この通路をまっすぐ進むと、いよいよ今回のルルドで1番の目的の場所に着く。
沐浴所。
ルルドでは、泉の水で沐浴ができる。
誰でもが、無料で、奇跡の水に浸かることができるのだ。
私はこれが目的で、ルルドまで来た。
男女それぞれ約200席の待合所。
ここでは午前と午後の2回、沐浴がある。
上に貼った画像のマリア像はこの建物の真ん中にあり、待合席は像を挟んで男性用と女性用に分かれている。
…明日、ここで。
楽しみな気持ちより、胸の奥がシンと痛むような。
少しばかり涙目になりながら、私は沐浴所を離れた。
レジデンスへの戻りの道は川沿いを歩いていく。
道の右側に並んでいるのが、来るときに通ってきたろうそくを立てるためのブースの背面側だ。
流れの早いところもあるガヴ川。
レジデンスへ戻る道は上り坂。
そう若くもないお疲れ気味の体には結構きつい。
私は息を上がらせて部屋へと戻り、出かけ直す仕度をした。
これから始まる夜のミサ。ろうそく行列を撮るために、カメラのバッテリーをフル充のものと入れ替えて、新しいSDも予備に持つ。動画も撮るつもりだったので、ipadも忘れずにバッグに入れて。
帰りは23時か、それより遅くなるだろうと思われたので、一応の防犯上としてお財布は持たず、10ユーロ紙幣と適当な小銭程度をリストポーチに入れた。
それからメールと拍手コメントへのお返事を書いて…
よぉし、行くか。
バタバタと部屋に戻り、バタバタと出て行く。
こんなことなら最初から、必要なものを全部持って出れば良かったのだけれど、旅行なんてそんなにきっちり予見して動けるものでもない。
連れがいたなら「疲れた」とか「非効率だ」と文句も言われそうだけれど、こういうとき、1人旅はやっぱり気楽だ。
浮腫んだふくらはぎのパンパン感と足首や膝の痛み。
ああ、本当にもう若くない…
そんなことを考えながら、再びグロット通りをくだって行く。
聖堂へ向かう人が増え始めたサン=ミッシェル橋。
ルルド城塞も夕陽に染まる。
…といっても、時刻はもう夜9時近い。
写真で見ると、揺れるたくさんの灯りが幻想的なろうそく行列のミサなのだが、空はまだこれほどの明るさ。
どうなるのだろうと思いながら、ロザリオ聖堂へと急ぐ。
サン=ミッシェル門。
先ほどとそれほど変わらない風景のようだが
ミサの仕度が始まっている。
広場の片隅で時刻を待つ聖母像。
ろうそく行列は、このマリア像を掲げてサンクチュアリをゆるゆる巡るところから始まる。
日本風に例えるなら、御輿を担ぐような要領でマリア像が先頭を進み、それに多くの人々が続く大行列になる。私が調べたところでは、この行列に付き従っている人たちは事前に申し込みをしている巡礼の団体のようだ。
子供の姿も見られるので、地域のボランティアグループやボーイスカウト・ガールスカウトも入っているのかもしれない。
始まるまでにまだ時間があるので、ロザリオ聖堂の階段から上部聖堂に向かってのぼってみる。
ロザリオ聖堂は、建物全体がロマネスク様式で、内部装飾はビザンチン建築なのだそうだが、ビザンチン建築について私には知識ゼロ。
その内部には別日に行ったので、また後ほど。
北側を見おろす。
ろうそく行列には、車椅子に乗った人や台車のような形のストレッチャーに横たわる人も大勢参加していて、1台につき1人か2人、介助するボランティアがついている。
ルルドでは、こうした助けを必要とする人1万人に対して、3万人のボランティアがいるのだそう。ルルドではボランティアを望む人が多く、申し込みをしても、その順番がまわってくるのは3年後。
ここでボランティアとして働きたくて、仕事をしてお金を貯め、数ヶ月をボランティアとしてルルドで過ごし、また仕事をしてお金を貯めてボランティアを…ということを続けている人もいるのだとか。
洞窟のあたり。
洞窟周辺の位置関係。
1 水汲み場
2 泉を見る人の並び口
3 洞窟と泉
4 ろうそくを捧げるブースが並んだ小道
5 沐浴所
無原罪の御宿り大聖堂(Sanctuaires Notre-Dame de Lourdes)
通常“上部聖堂”と呼ばれるこの聖堂は、洞窟に出現した聖母の望みで造られた。
収容人数は700人。高さ70mの鐘楼があり、午前7時から10時まで、15分ごとに鐘が鳴り響く。
中央の扉付近に飾られている肖像画はピオ9世で、1854年に「聖母マリアの無原罪の宿りの教義」を宣言した人物。
この宣言は「聖母マリアがその存在の最初の瞬間からあらゆる罪から守られ、原罪の汚れなく宿られた」というもので、この教義とルルドの奇跡については長くなるので、またあとで。
上部聖堂入り口。
趣のある扉口をアップで。
「十字架の道」へ進む人たち。
上部聖堂からは南側のモンセニョール・テア通りに出ることが出来る。
この通りを渡ってそのまままっすぐ進めば「十字架の道」につながり、その道には山の頂上まで、キリストの受難の場面が展開している。
ここには別日に行っているので、画像も含めて、また後ほど。
少しずつ人が集まりだしたロザリオ聖堂。
扉口の前に人々が並び、歌声が流れ始める。
夜9時。
ロザリオ広場や聖堂にあかりが灯り、夕闇が濃くなってくる。
開始まで、あと15分。
ろうそくを手にした人々が次々と広場に集まりだし、その様子はさざめく光の波のよう。
アヴェ・マリアの歌声が広場に響く。
山あいだからなのか、建物の構造のためなのか、広がって反響する歌声で脳が揺すられているような感覚を覚える。
が、それも一転、アヴェ・マリアの余韻のあとには、情熱的なアコースティックギターがかき鳴らされ、ボーカリストの熱い歌声が人々の静かな熱気をあおっていく。
スペインとの国境寄りという土地柄なのか、激しく奏でられるアコギは予想外で、私は単純に驚かされてしまった。
アヴェ・マリアとギターが交互に流れる中、9時15分、ミサが始まった。
続々と押し寄せる人の群れ。
この小さな街に年間500万人もの人が訪れるが、やはりキリスト教団体や、教会が信徒を募って団体でルルド入りしている形での巡礼が多い。
ミサはフランス語、英語を中心に、いくつかの言語で進められていくが、そこに韓国語も使われているのが意外だった。(日本語はない)
ルルドで見かけたアジア系では韓国人が圧倒的に多く、大きな団体で訪れていた。
皆が手に持つぼんぼりの無人販売所。
この日はルルドに着いて最初のろうそく行列だったので、観るだけでいっぱいいっぱい。どこで観ればどんなふうに見えるのかも判っていなかったので、あたふたするだけで終わってしまった。
↓ろうそく行列、ミニ動画。
*IE以外で動作確認出来ていません。Flashを使っているため、ipadやiPhoneなどのapple系やスマホではプレイヤーが反映されません。
その場合はこちら【ろうそく行列】へどうぞ。
ミサが終わったあとも、水を汲む人が絶えない。
レミ・サンペ通りをはさんだお土産屋さん。
ロザリオ広場南側のサン=ジョゼフ門からサンクチュアリを出ると、レミ・サンペ通りに出る。
ルルドのホテルやお土産屋さんの集まる界隈は、私が泊まっているグロット通りの上の方(ルルド駅や観光案内所などのある辺り)と、このレミ・サンペ通りを奥に進んだ辺りに分かれる。
どちらに泊まっても、サンクチュアリまでの距離は変わらない。
グロット通り界隈は、まさに通りに沿ってホテルやお土産屋さんがびっしり並んでいて、「ベルナデットの生家」などの小さな資料館もある。けれどグロット通り自体が結構な坂道なので、サンクチュアリからの戻りの道が上り坂になるため、ちょっと疲れる。そしてレストランなど飲食店はあまりないのが、マイナスポイントだと思う。
一方、レミ・サンペ通りから入った奥の通りはおおむね平坦なので、移動は楽。そして飲食店も多いので便利。けれど深夜までにぎやかなので、ホテルの場所・階数によっては「うるさくて落ち着かなかった」とか「眠れなかった」といったクチコミも見られる。
ルルドのホテルの多さは、パリに次いで国内2位のホテル過密地帯。ルルドで宿泊先に困るということはない。
年間500万人もの人をさばけるだけの飲食店数があり、巡礼地という顔を持つルルドには意外だけれど、なかなかの歓楽街としての面も持つ。
お土産屋さんには、聖具やろうそくがたくさん並ぶ。
ガヴ川上流のビュー橋。
私は翌日には、このビュー橋を渡ってすぐのところにあるアパートメントホテルに移動する。そのホテルの位置を確認しがてら、ルルドの夜の街をブラブラ観て歩いた。
23時。
通り沿い、パブやレストランのテラスは、陽気にお酒を飲む人たちでいっぱいだった。
【ベルナデットの奇跡の泉 -ルルド- 3】につづく
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