フランス旅行回想録 【 Voyage 】

こちらは管理人のフランス旅行記です。
旅行前の準備のこもごもや、旅行中にフランスからUPしていた雑文、帰国してからの回想録などを置いています。

★2013/5 回想録
旅行準備から現地UP版までは、かつて【Hermitage】というおまけノベルを集めたブログにUPしていたものからの転載。
回想録からが、この「Voyage」でUPしはじめたものです。
(今はクレーム等により一部公開していません)

また、この旅行記には、追随するコンテンツとして【Webアルバム】がございます。
アルバムでは、管理人の訪れた各地の画像が2000px以上の大判サイズでご覧いただけます。
ベルサイユ宮殿や大小トリアノン宮などのお部屋が、壁紙の模様や扉のひび割れまで見える詳細さでUPされております。
スライドショーにすることも出来ますので、ご覧になれる方はどうぞ。
全部で1183枚の写真がご覧いただけます。

★2015/4 回想録
2015/6/12よりUPを始めました。
こちらもWebアルバムをUP中で、ただいまは3410枚の画像がご覧いただけます。
最終的には、およそ5500枚程度のアルバムになる予定です。

 

    ずっと訪ねてみたいと思っていたヴォー。
    そこは私の憧れを裏切らない城で、そしてやっぱり、バスツアーでまわるには大き過ぎるところだった。
    …ああ…
    次の城に向かって動き出したバスの中で、しばらくはため息しか出なかった。美しいヴォーと、その歴史に。
    そして馬車博物館での喜びを伝えたくて、現地UP版の更新をしたり、コメントへのお返事を書いたりしていた。
    ツアーバスでの移動は気楽。
    ただ乗っていればいいし、目を離していても手荷物やカメラなどを引ったくられる心配もない。バスの揺れも心地よく、ほにゃ~っと眠たい気分になってくる。
    いかんいかん。せっかくのフランスの風景が。
    私はバッグからカフェオレとおにぎりを取り出した。どちらも朝、ちゃちゃっとアパルトマンのキッチンで作ってきたものだ。おにぎりは簡単に食べられるよう、2くち程度のサイズにしておいた。
    このバスツアーに参加する人の多くが、フォンテーヌブローのカフェなどで昼食を取る。でも私にはそんなつもりはまったくなくて、飯を食う暇があったら、その時間を見学にまわす気まんまんでいた。
    私は普段から朝食と昼食は取らないので、食べなくたってかまわない。それでもおにぎりを作ってきたのは、海外を1人旅中に低血糖で倒れるとか、予測出来る凡ミスを防ぎたかったからだ。
    たいしておなかは空いていないが、鮭のおにぎりなど食べてみる。そして、甘いカフェオレ。
    あー、なんか目が覚めたわー。
    そんなことをしているうちに、バスは次の見学地のフォンテーヌブローに着いた。


    路肩に停められたバス

    ここから各自、城まで向かう。
    この塀づたいに少し行けば、城の入り口があるらしい。


    城門前の街の様子


    鉄柵門

    鉄柵門は宮殿正面の門で、1808年にナポレオン1世が造らせたもの。
    これを建てた理由は、立派な門構えで威厳を示すためと、街に向かって開かれた宮殿にするためだそうで、ここに建っていた翼館を取り壊してまでこの門を造らせた。
    門にはナポレオンの“N”と、皇帝を象徴する鷲を2羽組み合わせた図案で装飾されている。



    「フォンテーヌブロー宮殿と庭園 Palace and Park of Fontainebleau」が世界文化遺産に登録されたのは、1981年。
    この城の特徴は、なんと言っても長い歴史だと思う。
    フォンテーヌブローが歴史の中で最初に確認されるのは、1169年。
    フォンテーヌ・ベル・オー (Fontaine Belle Eau=美しい水が湧き出す泉) もしくは、フォンテーヌ・ブロー (Fontaine Belleau) との名が見られる。
    この時期、この領地には古城があり、すでにルイ7世が使用していたようだ。
    13世紀には、フィリップ2世やルイ9世が好んで滞在していたらしいし、14世紀ではフィリップ4世がフォーンテーヌブロー城で誕生し、そして逝去している。
    これらのことから、フォンテーヌブローは12世紀には王を城主とする城であるか、王家の城であるか… そのような位置づけであったと考えてよいようだ。
    この城がはっきりと王の居城として示されるのは15世紀、フランソワ1世から。
    レオナルド・ダ・ヴィンチを招き庇護したフランソワ1世によって、フランスにルネッサンスが持ち込まれ、フォンテーヌブローはひとつの城から王宮へと大きく体制を変えていった。そのため城には、その時代ごとの建築や芸術によってさまざまな増改築がなされ、フォンテーヌブローには今も、12世紀から18世紀までの建築様式が混在している。
    フランソワ1世から数えても、ルイ16世まで7代もの王がこの城の主となったフランス史上で類のない王の城。その期間だけでも約300年。
    そしてフランス革命後には皇帝の居城ともなったので、フランス統治者を主とする期間は、12世紀の小城時代からナポレオン3世の19世紀まで約800年にも渡る。
    その規模はベルサイユ宮をしのぐ、フランス最大の宮殿だ。


    白馬の中庭

    城門を抜け、城を真正面に立つと、なんとも言えない感慨がこみあげてきた。
    写真集で何度も見たフォンテーヌブローのファサード。独特な形状のその階段を、ようやく自分の目で観られる。


    馬蹄形の階段

    「白馬の中庭」の名は、かつてここに、ローマの皇帝マルクス・アウレリウスの騎馬像置かれていたことに由来する。
    1814年、エルバへ流されるナポレオンの旅立ちの儀式が行なわれたのもここで、そのため「別れの中庭」とも呼ばれている。
    ヴォーがフーケの理想を描いた城だったように、ナポレオン・ボナパルトはフォンテーヌブローを
    『ヨーロッパ中を探しても、これほどくつろぎを覚え、幸せが感じられる場所は他にない』
    このように語っている。
    エルバで。
    セントヘレナで。
    ジョゼフィーヌを想いながら。
    『Je désire que mes cendres reposent sur les bords de la Seine, au milieu de ce peuple français que j'ai tant aimé.』
    私は、私が深く愛したフランス国民に囲まれて、セーヌ川のほとりで眠りたい。
    そう言い遺し。
    それでも胸のうちのどこかで、この城に帰還する日を信じていたのかもしれない。



    旅行番組やガイドブックで何度も観て、ずっと来てみたかった馬蹄形の階段。
    むき出しの石造りは質朴と見えるけれど、球形の装飾や独特な曲線、細かな装飾が施された手すり子など、近づいてみれば、手をかけられた贅沢な造りであることが判る。
    初めて写真集でフォンテーヌブローを観たときから、ここに来て、この階段にのぼってみたいと切望していた。


    運良く貸し切り状態で、テンションの上がる階段


    のぼりきった中央、城の扉

    この扉は残念ながら閉ざされていて、観光客がここから入ることは出来ない。でも、ノブを握ったり、扉面を撫で回し、誰もいないのをいいことにさんざん堪能してきた。
    ちなみに2016年のサイトデザインのWeb拍手ボタンは、この獅子の扉をイメージして作ったものだ。




    馬蹄形の階段から眺める白馬の中庭。右側に見えるのが「フランソワ1世の翼館」で、左側に見えるのが「ルイ15世の翼館」

    1814年、フォンテーヌブロー条約によってナポレオンは皇帝位を退いた。
    流刑地はエルバ島。
    その旅立ちに、ナポレオンはそれまで近く仕えてくれた愛する部下たちへ、この階段下で最後の演説を行った。
    かつてナポレオンも立ったであろう馬蹄形の階段の中央。
    そこからは白馬の中庭がくっきりと四角く見え、そこに隙なくピシリと整う隊列を想像させた。
    そんな光景を、きっとナポレオンは何度も何度も見たことだろう。


    フランソワ1世の翼館



    城内へはいったん馬蹄形の階段から戻り、ルイ15世の翼館から入る。
    入場料は11ユーロで、ミュージアムパスも使える。
    簡単なセキュリティチェックがあり、そこを過ぎると、順路的にはまず階段が現れる。


    ルイ15世の翼館の中央にある入り口




    古めかしくもありながら、やはり華やか



    第一印象は、「古い」ということ。
    でも、それは古ぼけているということではなく、歴史の深みがじっくり沁みてくるような古さで、階段をのぼりながら嬉しくて胸が詰まり、何度もため息をついた。
    のぼりきったときに広がるのは、どんな空間なのか。
    ナポレオン・ボナパルトがもっとも愛した城…


    ローラン・シャルル・マレシャルの自画像

    階段をのぼりきると、真正面には大きなステンドグラスがあった。
    階段はさらに上に向かっているが、規制のロープがかかっている。
    このステンドグラスも素晴らしく、特に手が美しくて、言葉では説明出来ないので、撮ってきた写真の元サイズを切り取って貼ってみる。


    指先までが本当にきれい

    これは「芸術家」と題するステンドグラスで、1867年のパリ万博でナポレオン3世が購入したもの。
    下部に皇帝のイニシャルと日付を付け加えている。
    【Bigsize Photo】ではその文字も見られるので、URLの判る方はご覧になってみてください。

    ここはルイ15世の翼館の2階で、棟の半分がナポレオン1世博物館になっている。
    このステンドグラスに突き当たって、右へ行くと城の内部へ。左に行くと数段の下り階段があり、ナポレオン1世博物館への入り口がある。
    この辺りは、「暦の回廊控えの間」と呼ばれているようで、引きで見るとこんな感じだ。


    暦の回廊控えの間

    奥の扉の間から少し見えていのが「暦の回廊」で、城内部への入り口。画像手前の小さな階段を下りると、この廊下↓につながっている。


    絵画がびっちり並ぶルイ15世の翼館

    廊下の右側は窓が並んでいて、白馬の中庭を見下ろすことが出来た。


    真横から見た馬蹄形の階段


    博物館への入り口

    フォンテーヌブローは大変大きな宮殿なので、ここからはとにかく画像をどんどん貼っていきます。
    お部屋によっては明かりを入れていないところもあるので、不鮮明な場合もあります。(画像編集で見やすく加工している場合があります)
    ヴォーでちょっと細かくやり過ぎ(て引かれ)たようなので、あまり細かい解説は付けずに貼っていきますので、興味を覚えた部分があればご自身でお調べくださいませ。


    最初の部屋






    2部屋目はお皿を中心にテーブルウェアなどがたくさん展示されている




    遊戯室






    勲章がたくさん飾られた部屋

    ここは人が多すぎ、部屋全体の写真は撮れませんでした。












    野営のテントや携行品などを展示した部屋






    よくまとまった日常品のセット



    『容姿に気を配っていた皇帝は、遠征のときにも野戦用のビデと浣腸を携帯した』んだそう。


    引きで撮るとこんな状態で見学している

    このフォンテーヌブローでも、子供たちの見学とドンかぶり。ヴォーのときはまだ幼稚園児ぐらいだったからよかったけれど、このときは小学校低学年だったので、一部の子供が飽きて走る・わめく。
    とても見学にならなかったので、子供を避けて見学順を前後させたのですが、城自体が混んでいたのと、子供たちが結構な人数の団体だったのでほぼ避けられませんでした。
    写真も、人の隙間からなんとか撮っていたので、ただ物をズームで撮っただけの写真ばかりになってしまいました。


    美麗な剣などが見られる部屋




    剣をはわりと観るけれど、剣帯を観ることはあまりないので、一応アップで






    2番目の妻 マリー・ルイーズの部屋


    ローマ王の部屋

    あまり語ると引かれそうなので、ローマ王についてを少しだけ。
    ローマ王(1811/3/20~1832/7/22)はナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の嫡男。
    「ローマ王?変な名前」と思う方もいらっしゃるかもしれないけれど、全名はナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト(Napoléon François Charles Joseph Bonaparte)という。
    「ローマ王」という名称は、説明すると長くなるので簡単に言ってしまうと「帝位の第一継承順位者」という称号のようなもので、ボナパルトは嫡男が生まれて3か月も経たぬ6月9日に、その子をローマ王とした。
    1814年4月にボナパルトが退位し・流刑になっていることから、ローマ王にとっての父は、幼少期のほんの一時期を暮らした記憶の中の父であり、またそれ以降、父子が会えることはなかった。
    ボナパルト失脚後は、オーストリアに帰国する母のマリー・ルイーズに伴った。(マリー・ルイーズがハプスブルク=ロートリンゲン家出身のため)
    オーストリアでのローマ王は、ナポレオンの残党による奪還を恐れ、監禁同然の暮らしだったようだ。
    1815年、ボナパルト復位。このことでローマ王の即位が公的なものとなり、6月22日~7月7日の僅かな期間ではあるが、ローマ王はナポレオン2世としてフランス皇帝位についた。
    この後、ボナパルトがワーテルローで再び退位に追い込まれたり、母がパルマ統括を任されて単身赴任したりで、ローマ王=ナポレオン2世=フランソワは、打ち捨てられたような存在になったらしい。フランソワはフランス語を話すことも、フランス語の本を読むことも禁じられ、父・ボナパルトのセントヘレナでの死を知ったときには大変嘆き悲しんだという。
    母マリー・ルイーズはその後、ナイペルク伯と再婚・数度の出産をするのだが、その約10年もの間に、フランソワに会ったのはたった1回だけだった。
    けれども、母がナイペルク伯と結婚したことによって、フランソワはライヒシュタット公と呼ばれる身分になり、好きなように本を読んだり勉強したり出来るようになった。
    それまでオーストリア側の教育を受けて、父ボナパルトを否定される環境にいたライヒシュタット公は、父の真実の姿を求めて懸命に勉強したらしい。そして、父への尊敬を深めていったようだ。
    結核に罹ってしまったのもこの頃だったが、父に憧れていたライヒシュタット公は厳しい軍事訓練も厭わず、結果的にこのことが病気を悪化させてしまった。
    病も重くなったライヒシュタット公はうわごとでも父のことを口にしていたそうで、孤独に育った彼は、きっと英雄であった父を敬愛することで、得られなかった愛情や自分の存在を確認したかったのだろうと思う。
    1832年7月22日、ライヒシュタット公21歳で死去。
    「皇帝の御子を」という国民の希望で離婚した、ボナパルトと年上の妻ジョゼフィーヌ。けれど、ナポレオン1世の直系はここで絶える。
    ライヒシュタット公はハプスブルク家の墓地に埋葬された。
    1940年、ライヒシュタット公の棺は、敬愛する父の眠るアンヴァリッドへ移される。幼い記憶に在るか無きかの父に憧れ続けたフランソワは、約100年の月日を経て、ようやく父のそばに還ることが出来た。
    この命令を出したのは、ナポレオン1世を崇拝していたアドルフ・ヒトラーだった。
    …というのが、ローマ王についてのざっくりしたまとめなので、興味を惹かれた方は、ご自身でお調べになってみてください。
    ローマ王はなかなかの美青年ですよ。




    ベビーベッドのトップには、赤子を守護するように光輪を掲げる天使が


    こちらは子供サイズの剣や大砲のおもちゃが飾られた部屋


    ちっちゃな、でも精巧な食器セット



    この部屋は本当に小っさなお部屋で、きらびやかな勲章の横にデスマスクなんかも並んでいて、なかなかシュール。
    子供服も展示されていて、もうちょっと見やすい角度のものも貼ってみる…




    ナポレオン1世博物館の出口

    これで博物館の中をめぐった…というか直線的に抜けてきたことになる。
    ここからは廊下に並んだ絵画を鑑賞しながら、「暦の回廊控えの間」まで戻っていく。左手には窓が並ぶので、白馬の中庭を上からゆっくり眺めることも出来る。


    暦の回廊


    暦の回廊からルイ15世の翼館方向を振り返る


    小間がたくさん

    この時代の城には廊下があまりなく、とにかく間続きになっていることが多い。大きな個室や広間の間に小間があり、見学していると、そこは部屋というよりもほとんど廊下代わりになってしまう。
    こうした小間にもきちんと名前があるのだけれど、とにかく数が多いので、ここから先は有名な部屋や特徴的な部屋など、人気の高いお部屋だけを貼っていきます。
    ちなみに画像右下の小間は、元はルイ15世の王女の化粧室として作られた部屋。ベル原作での、デュ・バリー夫人との「ひとことをめぐる争い」でアントワネットをたきつけたオバサマたちの顔が浮かび、笑えた。


    ルイ13世妃 アンヌ・ドートリッシュの寝室

    この部屋に1歩入って、部屋の豪華さ以上に驚いた。
    生きた人間がウロウロしていることに。


    展示スペースを動き回るコスプレ美女

    豪華なシャンデリアと、重厚な色使いのどっしりとした寝台。
    「ああ!」と感嘆する手前で、生きた姫君がウロついているのが目に入り、本当に驚いた。
    姫君は展示スペースから出ないし、誰ともしゃべらないようだ。少々うるさい観光客に、「しーっ!」といった感じでくちびるの前で指を立てるぐらい。部屋の中を見回したり、考え事をしているようなパントマイムをしていて、観光客は皆、姫と部屋のいい感じの写真を撮ろうとシャッターを切りまくっていた。


    壁に貼りこまれたゴブラン織りのタペストリー「神々の勝利」


    大広間

    この部屋は大広間と呼ばれているけれど、アンヌ・ドートリッシュの控えの間だったこともあるそう。
    大広間としては、ルイ15世の王女アデライドやルイ18世が使った。


    1787年製作のテーブル


    天井の装飾

    この天井の装飾は、もともとアンリ2世の部屋のもの。
    この部屋を控えの間に改装する際にここに移され、アンヌの“A”をデザインに加えている。




    アンヌ・ドートリッシュの衛兵の間…のすごい装飾の扉



    この部屋は、全体的に眺めると四角ではなく…なんというか…歪んだ台形のような、狭くて中途半端な形をしている。
    ここがアンヌ・ドートリッシュの衛兵の間だった頃はもっと広い部屋だったが、1740年に、ルイ15世の王女たちの居室とするために分割された。


    時代感いっぱいの、ごつい鋲が打たれた椅子


    エントランスホール

    馬蹄形の階段をあがった獅子の扉から宮殿に入ると、このホールに出る。


    三位一体礼拝堂

    こちらの礼拝堂、2階からの見学はこの間口からのぞくだけ。
    王族は2階席でのミサを日課にしていた。
    この礼拝堂では、ルイ15世とマリー・レクザンスカの結婚式、ナポレオン3世の洗礼式、ルイ・フィリップ長男オルレアン公の結婚式などが行われている。


    マルタン・フレミネ作の天井画

    天井画のテーマは人間の贖罪で、「ノアの前への神の出現」から「最後の審判のキリスト」、「受胎告知」を描いている… のだけれど、ここからではそこまで観られず。


    フランソワ1世の回廊

    この回廊は、王のアパルトマンと三位一体礼拝堂を結ぶ目的で、1528年にフランソワ1世が作らせたもの。
    ネッサンスに傾倒していたフランソワ1世が、イタリアから芸術家ロッソ・フィオレンティーノを招き、回廊の装飾を依頼。ロッソによってイタリアやフランスから画家や彫刻家を集められ、芸術的な回廊が完成した。
    フランス・ルネッサンスはここから花開き、ロッソのもと、フォンテーヌブロー派が育っていくことになる。


    フランソワの“F”があちこちに

    フォンテーヌブローは代々多くの王が住んだため、城のあちこちに、改装を加えた王のイニシャルが残されている。もっとも多いのはフランソワのFとアンリのHだと思うけれど、ナポレオンのNもちょこちょこ観られる。
    フォンテーヌブローの外観にはレンガ造りの煙突が目立つけれど、その煙突にも王のイニシャルが刻まれている。


    イニシャルとフランソワ1世の紋章

    フランソワ1世の紋章はサラマンダー(火トカゲ)で、フランソワ1世が居城と定めたブロワ城にもその紋章が残っている。
    サラマンダーは火の精霊で、燃える勇猛さを表し、フランソワ1世は「Nutrico et extinguo(我は育み、我は滅ぼす)」という座右の銘を掲げ、これを己の紋章としたのだとか。


    この回廊で、たぶん1番有名な絵画

    絵の中心に描かれたゾウは、判りづらいのだけれどフルール・ド・リスの模様の象衣で盛装していて、額縁の中央にあるサラマンダーと合わせて、盛装したゾウ=フランソワ1世自身であることを表現している。
    すべてのものを圧倒するゾウの力は王の権力を象徴で、ロワイヤル・エレファントは、王家が永く続いていくことへの象徴でもある… らしい。
    ということで、ゾウの部分を切り取って、色調を強めに調整したみた。


    円で囲った部分が、フルール・ド・リスの模様なんだな


    60mもの回廊

    全長60m、幅6mのこの回廊は、当初は両側に窓があった。
    けれど17~18世紀に回廊北側に建物が増築されたため、一部の装飾部分を残して窓は壁にしてしまったそう。


    中央のお方がルネッサンス王 フランソワ1世


    衛兵の間

    王を警護する衛兵が詰めていた部屋で、衛兵=衛兵隊というだけで単純にテンションが上がる。
    ルイ16世夫妻もフォンテーヌブローを離宮として使っているので、もしオスカル・フランソワたちが実在したなら、国王夫妻滞在時には、ここにアンドレやアランたちが詰めていたことになる。
    ナポレオンはこの部屋を、少人数で晩餐を取る際の食堂として使っていた。
    白い暖炉の中央の胸像はアンリ4世。


    凝った梁の装飾

    ルネッサンス様式で装飾されたこの部屋は、梁が特に見事で見とれるほど。
    シャンデリアも金属部分が結構厳つかったりして、でも曲線の描く美しさもあり、ベル宮の洗練された軽やかさとは違う重厚さがグッとくる。
    シャンデリア付近を2カ所ほどアップにしてみる。





    この部屋にはちょっと面白いものがあって、この大きな花瓶↓なのだけれど


    花瓶真ん中あたりの人物の彫刻にご注目

    このたくさんの人物の中に、フランソワ1世とレオナルド・ダ・ヴィンチがいます。
    人物群の前列右端、足を組んで座っているのが、フランソワ1世。


    ダ・ヴィンチは、王の左隣でパレットを持って立っている

    フランソワ1世はアンボワーズ城にダヴィンチを招いて庇護し、クロ・リュセという館を与え、住まわせていた。
    ダ・ヴィンチはアンボワーズでもたくさんの発明をし、その死の間際まで、クロ・リュセでモナリザに手を加え続けていたという。
    アンボワーズ城とクロ・リュセは地下道でつながっていて、そのことは、王とダ・ヴィンチの深い交流を今も偲ばせている。


    舞踏会の広間

    フランソワ1世代の着工で、息子のアンリ2世が完成させた祝祭用の広間。
    長さ30m、幅10m。
    建築の指揮を執ったのはロッソではなく、あとを継いだフィリベール・ドロムルとプリマティッチオ。
    豪華に装飾された柱には、ギリシャ神話をテーマにしたフレスコ画がびっしり。これらのオリジナルは1550年代のものだが、その後、数度の修復がなされている。
    こちらは広間の入り口側で、扉口上部には階上席の出入り口も観られる。
    その部分の元画を切り取って貼ってみる。


    楽器の演奏はここで行なわれたそう

    バルコニー部分、中央には王家の紋章が。そしてアンリの“H”の紋章も両端に置かれている。


    フレスコ画の中にもイニシャルが


    太く、がっつり飾られた柱がぼんぼん並ぶ様子は結構な迫力


    こちらが出口側で、大きな暖炉が設えられている


    ドロムル作の暖炉

    暖炉の両脇にある2体のブロンズ像は、フランソワ1世代のプリマティッチオ作がオリジナル。
    今展示されているのは1966年に復元されたもので、オリジナルはなんと、フランス革命のときに溶かされてしまったそう。
    規制のロープの内側、暖炉前のステージ様の部分も、演奏家のスペース。
    画像左側の扉はサン・チュルナン礼拝堂に続いている。


    スゴイもも毛!…と思ったら、ヒヅメ生えてる(笑)

    もも毛像の左側にある、板部分に刻まれた紋章のようなもの。
    これは図案化されたアンリの“H”の中に、王家の紋章を組み込んだもので、この広間のあちこちで観られる。
    また、これとよく似たこんなパターンも随所に観られる。


    Hと三日月を組み合わせたもの

    これはアンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエの名が、月と狩猟の女神・ダイアナと同じ名前だからだと言われている。
    この広間を彩るフレスコ画もギリシャ神話と「狩り」をテーマにしているので、アンリ2世がどれほどディアーヌを尊重していたかが伝わってくるよう。


    サン・チュルナン礼拝堂

    この礼拝堂のオリジナルは12世紀。
    1169年にイギリスのカンタベリー大司教トーマス・ベケットによって献堂されたが、今観られるのはルネッサンス期に建て直されたもの。



    立て直されたものとはいえ、ルネッサンス期の礼拝堂。じゅうぶん古い。
    1階は宮殿の使用人が使い、2階は国王とその側近用だった。
    ナポレオン1世の頃には改装され、図書館になっていたこともあるそう。


    石肌の重みや独特な配色


    石造りのため、音もよく響く


    2階は立ち入り禁止なのが本当に残念


    王族が参列したバルコニー部分のアップ


    天井ドーム部分のアップ

    バルコニーの“H”はアンリ4世のH。そしてドーム部分や装飾のあちこちに残る“M”は、アンリ4世妃のMなのだけれど、最初の王妃マルグリット・ド・フランスなのか、2番目の王妃マリー・ド・メディシスなのか、今となっては判らない。


    王の階段


    「アレキサンダー愛の物語」のフレスコ画

    この王の階段は、元はフランソワ1世の愛妾エタンプ公爵夫人の居室だったが、1748年にルイ15世が階段へと改装した。
    特に有名だとか人気があるとかいう場所ではないのだけれど、今振り返ってみると、私にはこのエタンプ公爵夫人の居室だった階段がもっとも印象に残っているので、紹介してみた。
    1540年ごろプリマティッチオが装飾し、仕上げは化粧漆喰。
    部屋から階段に変えられてしまったが、装飾はルネッサンス期ほぼそのままが残っている。
    装飾や飾られた絵画のトーン等、全体の印象がとても繊細で優しく、「大人可愛い」といった印象。ここが部屋のままだったら、どんな家具や寝台が置かれていたのか。
    観られないのが残念でならない。


    おねーちゃんの尻と尻の間に、小鬼

    …ってコレがルネッサンス期のセンスかぁ…
    小鬼の腕の先が気になる(笑)


    ルイ・フィリップ時代の天井画


    聖王ルイ(ルイ9世)の第1の間


    こちらにも生きたコスプレ夫人がウロウロ

    この日、もしくはこの時期だけだったのかもしれないけれど、城内ではこのあとも、所々で中世風な衣装をまとった人たちに遭遇した。
    侍女っぽい控えめドレスのお嬢さんだったり、クラバット+ジャケットの執事っぽい男性だったり。写真を撮りたかったけれど、1人でカツカツと歩いて来られると声がかけにくくて、撮ることはできなかった。
    他の旅行者のブログに、こうしたコスプレスタッフの話題がそれほど見つけられないので、いつもいるわけではないのかもしれない。


    聖王ルイの第2の間

    この2部屋は、ルイ9世の控えの間と寝室だったところで、フランソワ1世も寝室として使っていた。
    当時はそれぞれ独立した部屋だったが、それをルイ15世が「移動をしやすくするため」と壁を抜き、1757年から現在のような状態になった。
    そのため今は、控えの間が聖王ルイの第1の間、寝室だった部屋が聖王ルイの第2の間と呼ばれている。
    …ってかこうして見ると、ルイ15世のぶち抜いた壁の幅がすごい。すんごい分厚い。
    やはりこれだけの厚さを持たないと、宮殿の重みには耐えられないんだろうなぁ。

    第2の間には「美しき暖炉」というものがあったらしく、フォンテーヌブローには「美しき暖炉の棟」と称される棟もあったりするのだが、その暖炉はルイ15世が取り壊してしまった。


    美しき暖炉のあったところ。馬上のレリーフはアンリ4世


    ルイ13世の間

    この部屋はアンリ4世の書斎だったところ。
    1601年の王子誕生(後のルイ13世)を祝い、父アンリ4世がこの部屋を豪華に改装した。



    この当時の王妃は公開出産をしていて、それは通常王妃の寝室で行われていたけれど、アンリ4世はこの書斎で王妃に出産をさせた。
    理由は「王妃の寝室より自分の書斎の方が便利だったから」…って、ソレ、どうなんだろう…
    この部屋は、後には公務室や謁見室に使われ、ナポレオン3世代にはサロンとして使用された。


    家具や調度はサロン時代のもの


    フランソワ1世の間

    こちらはとても大切にされているお部屋のようで、灯りがかなり抑えられていた。




    よく似た趣だけれど、こちらは「タペストリーの間」


    ディアナの回廊

    長さ80m、幅7mの回廊。
    アンリ4世が王妃のために作った部屋で、2人はここを散歩していたそう。
    ナポレオン1世代には廃墟同然だったここを、ナポレオン3世(ボナパルトの甥)が図書館に改装した。
    本棚にはナポレオン1世の蔵書が並んでおり、その数16000冊。
    【Bigsize Photo】では、地球儀の模様や、うっすらとではありますが蔵書の背表紙の厚さも見てとれますので、URLの判る方はご覧になってみてください。
    天井画も美しいですよ。


    ナポレオン1世が1810年に作らせた地球儀


    マリー・アントワネットの小サロン 「白の間」


    王妃の遊戯室



    ここは王妃の公的な大執務室だったところを、マリー・アントワネットが新古典主義様式に改装させた。
    それはフランス革命のたった3年前、1786年のこと。
    王妃さまはゲーム好きで、夜中まで熱中していたらしい。バックギャモンなどのボードゲームや、カードがお好みだったそう。



    王妃の遊戯室は、帝政時代に入ると「皇后の大広間」とされた。
    このやたらと並んだ椅子は、そのとき特別に製作されたもの。
    皇帝は礼儀作法を厳格に定めていて、皇帝と皇后は肘掛け椅子、皇子は椅子、婦人はスツールや折り畳み椅子と決められていた。


    ひときわ豪華なシャンデリア

    このシャンデリアはクリスタルで作られている。
    ナポレオンの1805年の戦利品で、イギリス製とのこと。


    王妃の寝室

    アンリ4世妃マリー・ド・メディシスから、代々の王妃・皇妃たちが寝室として使用した部屋(諸説あり)。


    ルイ13世代の装飾

    天井の円形部分は、ルイ13世妃アンヌ・ドートリッシュが、金箔を貼った木材で作らせたもの。
    1644年のことなので、アンヌ22歳頃のことと思われる。若っ!
    また、この部屋を拡張させたのはルイ15世妃マリー・レクザンスカで、そのイニシャルが部屋に残されているというのだけれど、コレ↓なのかなぁ。


    Mのイニシャル部分

    んでも、この部屋を最後に改装したのはマリー・アントワネットなので、その“M”とも取れるのだけれど、通常アントワネットのMの図案化されたものはこちら↓が多い。


    このMの紋章はプチ・トリアノンの手すりの一部


    王妃の寝台

    ヘッドボード部分をアップにしてみた。
    金色のTOP部分、女神に両脇から捧げられている図案化されたMは通常使われているアントワネットのものなので、天井の装飾に刻まれているのはレクザンスカのMだと思うのだが… 判らん。
    調べてみても判らなかったので、ご存知の方は教えてください。


    なんkgあるんだって程のシャンデリア





    マリー・アントワネット代に手を加えられたのは、扉や扉上部。そして寝台。
    寝台は1787年にアントワネットのために新調され、仕上げまでに3か月で作られた。これは当時として、かなり早い製作期間だったようだ。
    しかし約2年後にフランス革命が始まったので、残念ながらアントワネットが彼女のために作られた寝台を使うことは終になかった。
    この寝台を最初に使ったのは、ナポレオン1世妃ジョゼフィーヌ。最後の持ち主はナポレオン3世妃ウージェニーになる。


    王妃の私室

    ここは王妃の寝室と王の寝室の間にある王妃のプライベートな空間で、王妃にとってはくつろぎの場だったそう。



    この部屋は2階にあるのだけれど、左奥の小さな扉からは、1階の王子や王女たちの居住区へ直接行けるようになっている。


    王妃の浴室


    右側のガラス窓の中がお風呂


    バスタブを観られる


    玉座の間

    16世紀末からフランス革命まで、「王の寝室」だったところ。
    革命で家具調度品は略奪されたが、幸い建物の破壊は免れたので、ナポレオンが家具を新調し、1808年、ここを玉座の間に改装した。
    毎週日曜日にこの部屋で、拝謁式や宣誓の儀式が行なわれた。


    ルイ13世の肖像画


    ジャコブ・デマルデ社製作の玉座

    肘掛け椅子と天飾り、両脇に立つ2本の旗標。これがフランス最後の玉座一式で、旗標の先にはナポレオンの“N”と、皇帝を表す鷲が。


    天飾りの赤いビロードにはミツバチのモチーフが使われていて、ミツバチもナポレオンの紋章のひとつ


    もちろん玉座にもミツバチ


    会議の間

    フランソワ1世代からあった部屋を18世紀に改装し、ルイ15世様式とした部屋。
    ルイ15世代から会議用の部屋となり、ほぼ毎日、ここで王国の懇案事項が執り行われていた。
    家具調度品は、ナポレオン1世のために造られたもの。


    皇帝の寝室

    玉座の間の改装と同時期の1808年に、ナポレオンが寝室と定めた部屋。それ以降、1870年まで君主の寝室として使用された。



    ヘッドボードのTOP部分にはNの装飾文字があり、寝台の内側はなぜか鏡貼り(笑)


    壁にもNのイニシャルが

    中央に写る肘掛け椅子は、左右で肘掛の高さが違っている。これは冷たい風を防ぐためと、暖炉の暖かさを感じやすくするための工夫だそう。


    皇帝の小寝室

    ナポレオンが執務室として使用した部屋。
    中央に置かれた執務用の机は、玉座を造ったジャコブ・デマルテ社製。急に人が来てもすぐに書類を隠せるように、ひと押しで蓋が閉まる仕掛けになっている。
    ナポレオンは余り睡眠をとらず、多くの時間をこの執務室で過ごしていたために、1811年に仮眠用の簡易寝台が置かれたのだけど。
    天蓋なんかもついちゃって、これで簡易寝台かぁ…



    しかも天井を見上げてみれば、赤×金のフリル&金モールド。
    そして柔らかい色調の天井画。
    なんだかやっぱり、ボナちゃん姫系。


    皇帝の私室

    1814年4月6日、この部屋でナポレオンが円卓の前に座り、退位状に署名したことから、「退位の間」と呼ばれる部屋。
    印象的な赤いブロケード織りの壁布に、同じ布地の金箔張りの木製椅子などの調度品は、ナポレオンが皇帝として住んでいた当時のまま。


    こちらは皇帝の浴室

    さて。
    これでフォンテーヌブロー宮をぐるりとまわったことになる。
    見学できる場所の数は、小間や階段とされているところも含めて47あるので、紹介するにはずいぶん端折ってしまった。
    自分としては書き足りなくて不完全燃焼感いっぱいなのだが、1つの部屋についてだけでも、それにまつわる裏話的なものがぼろぼろあるので、全部書いていたらきりがないうえ果てしなく脱線していきそう。(私の記憶違いや思い込み、偏向もあるし)
    宮殿内、最後に観に行ったところの画像を何枚か貼って、それから庭園へ出てみよう。


    1階からの三位一体礼拝堂

    2階から観たときは、狭く開いた扉口からのぞくだけだったけれど、1階の入り口からならば中まで入ることが出来る。
    ここは正確には、三位一体修道会礼拝堂というようだ。聖王ルイが建てた礼拝堂を、三位一体修道会が引き継いだということらしい。
    ルイ9世が建てたとかフランソワ1世が建てたとか、資料によって成り立ちがまちまちで、着工の流れがよく判らなかったので調べてみたら
    聖王ルイによって献堂→三位一体修道会が引き継ぐ→フランソワ1世が再建に着工→アンリ4世が建物を完成させ、しばらく放置→ルイ13世が装飾し、調度を整えて礼拝堂として完成、ということのよう。


    ここから先へは立ち入り禁止

    三位一体を表す絵画を中心に、左にカール大帝に扮したアンリ4世、右に聖王ルイ9世に扮したアンリ4世の彫刻が置かれている。


    祭壇上部の装飾と天井画


    中央から後方へかけての天井画


    王族のための2階席を仰ぐ



    フォンテーヌブローの中ではときおりコスプレ姿のご婦人や紳士とすれ違ったけれど、話をすることはなかった。
    けれど、この礼拝堂の中では違った。
    中央にいる男性が本物の神父さまなのか、ただのコスプレ姿のスタッフなのかは私には判らなかったけれど
    (たぶん本物だと思うんだけど)
    ここでは、この男性にものすごくいじられる。
    私が行ったときには、席に座った右手と左手のグループに分かれて、歌を歌わされた。
    それが賛美歌を荘厳に歌うとかそういった感じではなくて、まずは男性が楽しげに1小節歌い、「はい、あなた!」みたいな勢いで誰かをいきなり指名する。指名された人は、当然その1小節を歌わなければならない空気になっている。
    そんな感じでいろんな人に振っていって、最終的には2グループに分かれた合唱になった。
    …すんごいヒヤヒヤしたわ。指名されるんじゃないかと。


    かつてのフォンテーヌブロー

    これは庭園方向から描かれたものなので、現在正門になっている鉄柵門は画像左側に位置する。
    星のマークを置いたところが白馬の中庭。


    領地の一部の空撮



    1=鉄柵門
    2=ナポレオン1世博物館
    3=馬蹄形の階段
    4=城内見学エリア
    5=白馬の中庭

    フォンテーヌブロー宮殿はとても広くて、私が見てきたのは城内のほんの一部分で、ここでUPしたのはそのまたごく一部。
    庭園も含めてきちんと観ようと思ったら、1日以上は絶対かかる。
    城と庭園、それ以外にかつて狩猟場であったフォンテーヌブローの森もあるので、フォンテーヌブローの領地は本当に広大。
    見落としたところもたくさんあるので、今回は予習と思うことにして、またいつか訪れたいと思っている。


    “鯉の池”横の並木道

    このあたりでSkypeを使って電話をしていたので、サイトをご訪問くださる方の中には、リアルタイムでこの風景をご覧いただいた方もいらっしゃいます。


    大花壇


    庭園、広っっ!

    この庭園の画像、よーく見ると奥の方にも建物が写っているのだけれど…


    アップにしてみた

    この画像の左上に写っている建物もフォンテーヌブロー宮殿の一部で、ほんとにどれだけ広いのかと思う。
    ちょうど城の職員らしき人がいたので聞いてみたところ、この建物は厩舎らしい。
    フランス語だったから、よく判らなかったけれど。


    サン・チュルナン礼拝堂のあたり


    内部見学の出来ない部分の外観


    鯉の池に浮かぶあずまや

    フォンテーヌブローの庭園では、馬車に乗ることも出来る。遠すぎて歩いては行けないあたりまで、ぐるっと廻ってくれるそうだ。
    ひと廻り30分ぐらいらしい(未確認情報)ので、私も乗ってみようと思っていたけれど、内部見学に予想以上に時間がかかってしまって無理だった。
    馬車に揺られながらの庭園廻り、やってみたかったなー。


    夜7時前のテュイルリー庭園

    無事パリに戻り、さて…。
    まだまだ明るいパリ。
    これでアパルトマンに帰っていいのか?

    疲れよりも貪欲な私は、メトロの路線図を取り出していた。


    【バスティーユの塹壕】につづく
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