フランス旅行回想録 【 Voyage 】

こちらは管理人のフランス旅行記です。
旅行前の準備のこもごもや、旅行中にフランスからUPしていた雑文、帰国してからの回想録などを置いています。

★2013/5 回想録
旅行準備から現地UP版までは、かつて【Hermitage】というおまけノベルを集めたブログにUPしていたものからの転載。
回想録からが、この「Voyage」でUPしはじめたものです。
(今はクレーム等により一部公開していません)

また、この旅行記には、追随するコンテンツとして【Webアルバム】がございます。
アルバムでは、管理人の訪れた各地の画像が2000px以上の大判サイズでご覧いただけます。
ベルサイユ宮殿や大小トリアノン宮などのお部屋が、壁紙の模様や扉のひび割れまで見える詳細さでUPされております。
スライドショーにすることも出来ますので、ご覧になれる方はどうぞ。
全部で1183枚の写真がご覧いただけます。

★2015/4 回想録
2015/6/12よりUPを始めました。
こちらもWebアルバムをUP中で、ただいまは3410枚の画像がご覧いただけます。
最終的には、およそ5500枚程度のアルバムになる予定です。

 

    *この章は特に画像が多いです。そのため反映に時間がかかったり、画像が反映されない場合があります。その場合はリロードしてみてください。
    画像が反映されないのは不具合ではありませんので、お問い合わせいただいても解決することはできません。


    足がプクプクでパンパン…
    そんなことを思いながら、ごそごそと仕度をする。
    プクプクなのは足裏の血の溜まった水ぶくれで、あれから順調に大きくなっていた。そしてパンパンなのはふくらはぎで、浮腫みきって皮膚が突っ張り、ボイルしすぎのシャウエッセンみたいだった。
    デジカメ持ったし予備のバッテリー持ったし、iPadとwi-fiとSDの予備とフランス語の会話集と、バウチャーも持った…っと。
    まだ早朝。
    前日に仕度の済んでいるバッグの中身をもう1度確認しながら、何度も時計を見る。
    アパルトマンからルーブルの辺りまで、徒歩での移動時間も含めて… 大丈夫、間に合う。
    神経質な私はバッグの中身と時間を何度も気にしながら、頭の中で集合場所の地図を広げていた。
    この日の予定はパリ発1DAYのエクスカーション。
    観光も4日目となれば「絶対疲れが出てきているはず」と予想して、旅行の予定を立てるときに、この日は観光バスの予約を取っていた。
    私が選んだものは、ただ連れて行ってくれて、連れて帰ってくれるだけの日帰りバスツアーだ。
    ルーブル近くの集合場所からバスに乗り、午前中に城を1つ。午後にもう1つ観光する。そして2つの城を見終わったら、また集合場所に戻ってきて解散。その間観光ガイドは付かず、各城でもガイドは付かない。食事も付いていない。2つの城の入場料は含まれているが、他にはなーんにも付いていないツアーだった。
    もちろんガイド&昼食付きの日帰りツアーもあるし、方面によっては1泊や2泊するもの、隣国までTGVで行くものなど、さまざまなスタイルがある。
    パリにはこういったエクスカーションを企画しているオフィスがたくさんあり、日系のところなら当然日本語ガイド付きで、言葉の心配も要らなかったりする。
    私が選んだのはPARISCityVISION。
    PARISCityVISION 日本語HPは【こちら】
    なんでここにしたかと言えば、単純に安かったからだ。
    日系オフィスのパリ支店でも似たような日帰りバスツアーはあったけれど、やっぱり日系は料金お高め。
    申し込みも日本語で、当日は日本人ガイドが付いているので言葉の心配はないし、食事も付いていて、行き帰りのバスの中でのガイディングや気遣いなどの評判も良いよう。お高めなぶんの価値はあるらしい。
    一方、私が使ったPARISCityVISIONがそれほど劣るかと言えば… どうだろう。
    私がこの日帰りバスツアーの手配をしたのは、日本語HPからではなかった。…というか、日本語のHPがあることを、今リンク先URLを紹介しようと検索して知った。
    だから後付けな感想にもなるけれど、日本語のHPを見て思ったのは「ちょっと誤解しちゃうかもな」ということだった。
    例えばツアー紹介の「選べる言語」に、日本語があるところ。
    「あ、日本語!」と安心しちゃう人もいるかもしれないけれど、これは「このツアーは日本語が選択できますよ」という意味ではないと思う。少なくとも私が行ったときと照らし合わせるとそうではなかった。現地で借りられるオーディオガイドに「日本語のものもある」と。そんな程度だ。
    PARISCityVISIONをクチコミサイトで見てみると、よかったという意見が多い 。私もそう思う。
    でも、良くない評価の日本人からのコメントを読むと
    ・現地でのガイドがないからよく判らなかった。
    ・質問をしても英語で知らないと言われた。
    ・バスの遅延があったが謝罪の一言もなかった。
    理由はこんな感じだったけれど、ガイドに付いて欲しかったらガイド付きツアーを選べばいいと思うし、ガイドじゃない人に質問をしても「知らない」と言われるのは、仕方ないと思う。これが日本だったら、ガイドさんじゃなくても判る範囲で答えてくれたり、携帯でオフィスに連絡を取って調べてくれたりするかもしれないけれど、海外では自分の担当している部分以外には手を出さない人も多い。バスの遅延はあってはならないことだけれど、20分や30分の遅れであれば、海外ではよくあることかとも思う。遅れてきても、ペコリと会釈して「Sorry」程度だったことが、私の経験上は多い。
    日本のサービス業は質が高くて、「気を使う」という目に見えない部分を重視する。それに慣れた日本人には、こうした現地発のツアー催行会社が「冷たい」 「サービスが悪い」と感じることがあるのだと思う。
    (*PARISCityVISIONはいろんなオフィスのツアーを扱っているから、日系オフィスの日本人ガイドの付く日本語ツアーも手配できます。まぎらわしいので、内容をよく確認して申し込むことが大切だということ)


    早朝のリヴォリ通り。

    私はもっとも移動効率の良い駅ではなく、手前のテュイルリー駅でメトロを降りた。
    初めてパリに来たときには、この駅からすぐ近くの『Hotel des Tuileries』に泊まった。なぜそのホテルを選んだかと言えば、そのこぢんまりした建物は18世紀からそこに建ち、マリー・アントワネットの第1侍女を務めた女性の館だったからだ。かつてはルイ16世夫妻も、その館に滞在したことがある。
    そのことに惹かれて『Hotel des Tuileries』を選び、メトロ1号線のテュイルリー駅はよく使ったのだ。そのときにも足にひどい水ぶくれを作り、慣れないパリに今以上に右往左往して。
    それが懐かしくて、私はテュイルリーでメトロを降り、朝のリヴォリ通りをルーブル方向に歩いた。
    PARISCityVISIONのオフィスは、リヴォリ通りを少し外れたところにあるらしい。目印はピラミッド広場の黄金のジャンヌ・ダルク像で、そこから続くピラミッド通りに入って1ブロックの交差点近く。地図上ではそうなっている。
    距離的には徒歩15分もかからないはず。


    リヴォリ通り沿い、とても判りやすいジャンヌ・ダルク像。



    この像の足元には、いつもたくさんの花束や花輪が捧げられている。きれいに片付いているのは早朝だからかも。


    「オルレアンの乙女」の凛々しいお顔。

    このジャンヌ像を奥に進むとピラミッド通りに入る。
    実際のオフィスの場所はジャンヌ像から1ブロックも離れていなくて、ピラミッド広場のほぼ角口。すぐ見えるところだった。


    想像していたよりも狭い間口。

    重い扉を開けて中に入ると、すでに何人かの人たちがカウンターでチェックインの手続きをしていた。早朝なので、店内はまだ空いている。
    私も手近なカウンターへ進んで、まずは予約の確認をした。予約自体は1か月ぐらい前に、自宅からネットで済ませていた。
    ホームプリントしてきたバウチャーを渡すと、受け付けのマダムはPCの画面をしばらく見ていたが、納得したような顔をした。どうやら予約はきちんと通っていたようだ。
    チェックインはこれにて終了で、あとは出発までの簡単な説明をされた。
    このあと集合時間になったら、店前の歩道にバス停が立てられるらしい。このバス停は公共のものではなく、 PARISCityVISIONの営業用で、私の場合は集合時間になったら5番のバス停に並んでいるように言われた。そこでツアーの担当者が改めて氏名の確認をして、その日に乗るバスに案内するからと。
    説明を聞き終わって、なんとなく腕時計を見る。時間に余裕を持って出てきていたので、集合時間にはまだ結構な時間があった。
    よぉし!
    私は早朝のルーブルを散策しに行くことにした。


    ピラミッド通り、PARISCityVISION前。

    あとになって判ったことだけれど、本格的な営業時間帯になると、この道の両脇には大型の観光バスがたくさん並ぶ。







    早朝の冷えた空気。澄んだ空は今日も晴れ渡り、濃く青かった。


    カルーゼル凱旋門。

    カルーゼル凱旋門は、ナポレオンのオステルリッツの戦いの勝利を祝うために、1806年から1808年にかけて建設された。
    高さ19m、幅23m、奥行7.3m。小ぶりにも見えるが、近づいて見るとやっぱりそこそこ大きい。



    凱旋門全体のベージュがかった色合いと、ピンクの支柱。アンヴァリッドでも思ったことけれど、優美でちょっと姫系。
    ピンクマーブルにも見える特徴的なコリント式の支柱は、花崗岩で出来ている。
    アーチの内側は、ナポレオンの勝利の場面のレリーフで飾られている。


    こうしたレリーフが何枚も貼りこんである。


    凱旋門のトップ部分。

    上部の馬はヴェネツィアのサン・マルコ寺院正面入り口の上に置かれている「サン・マルコの馬」の複製で、多くの凱旋門がこのデザインを取り入れているらしい。


    まだ人の少ないテュイルリー庭園。

    こうして眺めると、ルーブルからテュイルリー庭園、コンコルド広場、エトワール凱旋門までが一直線上にあるのがよく判る。

    私はゆっくりと庭園を見てまわり、頃合をみて集合場所のPARISCityVISION前に戻った。その頃には店前にはバス停が並べられ、それぞれに人が並び始めてにぎやかな様子に変わっていた。
    出発時間近くなると、5番のバス停に担当者らしきおじさんが現れ、点呼があった。そして時間になると、すぐ道沿いに停車していた大型の観光バスに乗り込むように言われた。席は自由だったので、私は特に理由もなく、前から3番目あたりに座った。
    このあたりの流れの写真を撮ることは出来なかった。人が混んでいたし、どう撮っても誰かを被写体に選んでいるようで、撮りづらかったからだ。


    唯一撮った車内の写真。

    この日のバスは8割がたの席が埋まっていて、日本人は私だけだった。概ねが2人以上のグループで、1人参加は私とアジア系の女性がもう1人だけ。アジア系と言っても、かなり大版なスカーフで頭のてっぺんから顔を覆い隠し、からだにまでまとっていたので、日・中・韓といったタイプのアジア系ではなかった。とても人懐こい感じの人で、あとでこの方とは、城の庭園などで写真の撮りっこなどをしたのだけれど。

    バスが走り出してしばらくすると、集合時に点呼を取っていた男性がおもむろに立ち上がった。
    このおじさんがこの日のガイド…というか…何もしてくれるわけではないが、一応この日帰りバスツアーの責任者的な立場の人で、簡単な自己紹介とドライバーの紹介を始めた。
    自己紹介は
    「ボンジュール!皆さん、フランス語は判りますか?英語は判りますか?」
    といった感じで、フランス語と英語で始まった。
    乗客の反応が英語だったので、その後は英語だけで進められ、スタッフ側の自己紹介のあとはスケジュールの説明だった。
    おじさんが各席をまわりながら、封筒を配っていく。その封筒には名前が書いてあって、開けてみると「ご参加ありがとうございます」みたいな内容のプリントや、ツアーのタイムテーブル、これから行く2つの城の入場券などが入っていた。
    おじさんはそれらの印刷物などを手にしながら、これからの行程について説明していった。

    この日、最初に訪ねるのはヴォー・ル・ヴィコント城。
    数奇な運命をたどったその城は、子供の頃からずっと、ずっと行ってみたかったところだ。
    ここもまた、今回の旅行で「これをやる!」と決めていた、非常に楽しみにしていた場所の1つだった。
    ヴォー・ル・ヴィコント城(以下ヴォーと略)は、個人で訪ねることも簡単で、電車に乗ってちょいちょいと行ける。それほど遠くもない。
    自分の性格からすると、個人で行ってじっくり観た方がいいと判っていた。私のことだから、おそらく1日いても飽きないと思う。
    ただ、問題は疲れだった。
    個人で訪問となると城自体が比較的近くても、徒歩での移動距離やら電車の乗換えやらで、なんだかんだ言っても結構な運動量になる。1日で2つの城を周るのはとても無理だ。
    あまり疲れすぎないように、 そして出来るだけ効率よく。
    2週間の旅程は、思うほど余裕のあるものではない。
    自分としてはヴォーに1日居たいところだが、今回の旅行ではこれが最適な訪問だと1DAYのツアーに決めた。
    これは結果的には良い判断だった。ただ乗っていればいい観光バスは気楽で、確実に座れるし混んでもいない。コメントへのお返事を書いたりしながら、車窓の風景を楽しむこともできた。

    田舎に向かう空いた道。
    バスが軽快に40~50分ほど走ると、写真集などで見覚えのあるヴォーの風景が広がってきた。


    のどかな郊外の風景。


    写真集やカレンダーで、ヴォーの風景としてよく使われる並木道。


    アンカーと鎖で囲まれているのがヴォー・ル・ヴィコント城の敷地。

    画像左側の生垣の向こう側がかなり広い駐車場になっていて、バスはここに停められた。
    「着いた」という気配が一気に広がり、バスの中がざわつく。
    ガイドのおじさんがタイムテーブルと時計を示して、早口の英語で注意事項の念押しをした。渡されたチケットの使い方とオーディオガイドについて、そして
    「出発時間に必ず戻ってきてください!バスは出発してしまいますよ。遅れたらおいていってしまいますからね」
    私はそれらを理解できたが、皆がバスを降りてから、最後に残ってガイドに自分の英語で確認をした。こういうところは自分でも少し神経質だと思うけれど、ちょっとでも心配に思うことがあれば、1人旅の場合は必要かな、とも思う。
    私とガイドとドライバーが一緒にバスを降り、ドライバーはタバコなどを取り出して息抜きをするようだった。
    私はドライバーにも話しかけた。
    「必ず戻ってくるから待っていてね」
    私がそう言うと、白人系で初老のドライバーは自分の目を片方ずつ指差した。
    「目を大きく開けて見ているよ。待っているから、行っておいで」
    薄いブルーの瞳。
    ウィンクをしながら見送ってくれた。
    しかし白人系のちょっとお年を召した方って、どうしてこうもチャーミングなんだろう。映画みたいなしぐさが自然に出てきて、それがピタッとはまっている。


    ヴォー、正面。



    残念ながら正面の門は閉ざされていて、ここを通ることはできない。観光客はこの景観を眺めながら、先ほどの鎖の打たれた歩道を進み、城から少し外れた建物から中へ入る。


    見学を終え、駐車場へ戻るらしい人たち。


    観光用の入り口。


    まず目に入ってくるギフトショップ。

    ベル宮も傾斜地に建っていて高低差があるけれど、ヴォーもまたそうだ。道路沿いの建物に1歩入ると、そこからは内部を見下ろす格好になる。
    明るく可愛らしいギフトショップを左手に眺めながら、廊下をまっすぐ進めば下る階段に出るので、受け付けまでは迷うことはない。入り口から受け付け用のカウンターまでは、一方通行だからだ。


    車内で配られた封筒とチケット。

    このカウンターでチケットを見せ、城へと進む。
    ここからは主だった場所・部屋の様子を貼ってみる。
    この城もまた、重要な部屋は灯りが抑えられていることが多く、暗い。フラッシュも禁止なので、見づらかったり画質が悪かったりする画像もあることをご了承ください。



    受け付けをした建物を出ると、こんなところに出る。周囲をぐるりと建物に囲まれた中庭風のところだ。矢印などの案内表示は見当たらないので、皆、なんとなくの感覚で城方向に向かう。
    どうも角にある小さな扉っぽいところから、中庭を出ればいいらしい。


    上の「角にある小さな扉っぽいところ」から出ると、この白い小道に出る。


    遠くに私たちが乗ってきたバスが見える。




    徐々に近づいてくるヴォーの美しい姿。


    城を囲む堀。鯉も住んでます。


    意外と狭く簡素な門。






    この階段に立ち、見下ろした風景がこちら↓


    広がるヴォーの前庭。

    一般観光客は左側の建物から出入りしている。かつては何のために使われていた建物だったのだろう。
    受け付けからここまではそこそこ距離があるのだが、城の職員らしき人には1人も会わなかった。


    ファサードの装飾のアップ。

    左側には獅子を撫でている天使たちがいて、右側の天使たちは


    口に手を入れたらあかん(笑)


    扉口上部の装飾。

    3つ並んだ扉口から少し暗めの内部に入ると、再びカウンターがあり、おねえさんがいた。
    ここで忘れてはいけないのがオーディオガイド(3ユーロ)だ。
    ここのオーディオガイドは、とても内容がいい。ヴォーになんの予備知識のない人でも、ヴォー・ル・ヴィコント城とその城主フーケの数奇でドラマティックな物語を堪能できる。
    ナレーションも素晴らしいので、借りることを強くお勧めする。
    ベルを愛する人には、この城の持つ特異な歴史にもきっと興味を惹かれることと思う。


    さて、上へ行ったものか下へ行ったものか。

    高低差のある立地のヴォー。最終的に庭園へ出るなら必ず下ることになる。
    ので、まずは上階へと進んだ。


    階段を上がると真っ先に目に入るのは、この絵。


    華やかなりし頃のヴォーの風景。


    最初に開ける廊下。

    ヴォーの絵を過ぎて左へ曲がると、暗めの廊下が眼前に開ける。そこにはたくさんの額がかかっていた。
    この城に関わった人々や、その家系図etc…かなりの枚数だ。




    城主 ニコラ・フーケ(1615~1680)

    ニコラ・フーケはルイ14世の財務長官を務めた財務官であり、法律家だ。身分はいくつかあるけれど、ヴォーを中心とするのであれば子爵からでよいと思う。
    パリ生まれの有力貴族の子息で、13歳にして高等法院の弁護士として認められた。そこからフーケは法律家として順調に駆け上がっていく。
    枢機卿であったマザランにも気に入られ、マザランが一時期亡命していた際にも忠誠を誓い続けた。フーケはマザラン不在のあいだ、その財産を守り、混乱する政府や法廷の情報を送っていた。このときに出来たつながりで、フーケは帰国後のマザランから大蔵卿の地位を優遇される。このことはフーケをルイ14世とも近づけ、フーケは着々と権力を得て、そして財力も得ていく。
    フーケの経歴をざっと挙げればこんな感じだ。

    そしてこの経歴の中の1641年、フーケはヴォー・ル・ヴィコント城と領地を購入する。
    ベル宮がかつては狩猟用の小さな館であったように、ヴォーもまた、この頃は小城にすぎなかったようだ。
    フーケは夢見ていた。
    このヴォーを、最先端の建築技術と芸術の粋を集めた理想の城とすることを。

    1656年に着工したヴォーの工事は、完成に5年を要した。
    そのあいだにフーケはマザランとルイ14世のために尽くし、信頼を得、財務長官に任命されるまでになった。
    その裏で。
    フーケはさまざまな不正も重ね、私財を増やしていたと言われている。
    このあたりの「フーケは悪人であった」という考え方は、最近の研究では見直されつつあるらしい。このあとフーケは裁判にかけられることになるのだが、その裁判は不当なものであったとの議論は未だ、ヨーロッパの法曹界では談義の種になっているそう。


    控えの間。


    なぜ壁から腕を生やす(笑)




    黒檀のキャビネットは大変貴重で高価な品だったよう。


    おなじみ隠し扉。


    こちらのお部屋はフーケの書斎。

    この書斎はそれほど大きな部屋ではないのだけれど、フーケの椅子の後ろの壁にわざわざと小さく凹んだスペースが作ってある。


    凹みにぴったりサイズで収まっている黒檀のキャビネット。


    上部にはきちんと天飾りが。




    廊下の片隅から見えた階段。

    剥げた壁、剥げた天井。簡素な木造りの螺旋階段は屋敷裏にある。
    使用人が使ったものなのか、城に住んだ高貴な方々が非常用に使ったものなのか。


    フーケの寝室。

    特別大切に保存されているようで、フーケの寝室にはほとんど灯りがない。
    そのため画像編集をして、少しだけ画像を明るくしています。




    壁は前面ゴブラン織りのタペストリーが貼りこまれている。


    貴重な織り物の数々。


    次の間への小間。

    かかっているのはシャルル・フーケの肖像画。(本当はもっと長い名前だけれど、肖像画のネームプレートに習ってこの名で)
    シャルル・フーケはニコラの孫だ。
    子爵から後に侯爵になった軍人で、ベル=イル侯爵を名乗る。元帥、そして陸軍大臣までもを務め、政治家でもあり外交官でもあった。
    息子が戦死し、シャルルの弟もその息子もが戦死しており、ニコラ・フーケの血を引くベル=イル侯爵家は断絶している。


    夫人の書斎。

    この部屋はフーケの2番目の妻の小部屋で、かつては鏡張りだったそう。




    窓から庭園を望む。


    ルイ15世の寝室。


    美しい暖炉。


    女性らしい小物たち。


    可愛らしい寝台。


    寝室の窓。

    さて。このヴォーのお部屋の画像を見て…
    特にここ数枚、窓の画像から始まり、すぐ上の白い窓辺まででくくられたルイ15世の寝室を見て、「ベル宮に似ている」と思われた方はいらっしゃらないだろうか。
    だいたいなぜ、フーケの居城であるヴォーに、ルイ15世の寝室があるのか。
    なぜおっさんの寝室に、可愛らしい女性用の小物が置かれているのか。
    そして、鏡張りの間として装飾されていたというフーケ夫人の書斎…

    ヴォーは奪われた城なのだ。

    現在ルイ15世の寝室として公開されている部屋は、元はフーケ夫人の寝室だった。
    フーケが夢見た城。
    技術と芸術と趣味の限りを尽くしたフーケの理想の城として、ヴォーは人々の度肝を抜いたらしい。
    この城の建設について指揮を任された人物は3人いるが、その3人をフーケは自らが選んだ。
    建築師 ルイ・ル・ヴォー。
    画家 シャルル・ルブラン。
    庭園造営師 アンドレ・ル・ノートル。
    多くの芸術家を愛でて、そして育ててもいたフーケが、自身の持つ芸術的センスでこの3人を選び、城を託した。
    5年の月日をかけて造られた、当時最高に素晴らしいと言ってよい城。その美しさに、若きルイ14世は嫉妬した。
    太陽王と呼ばれる自分よりも優れた城を持つフーケに。
    そして、フーケがさまざまな方法で成した財に。
    フーケのもとに集う芸術家や才能たちに。
    ルイ14世にはもともとが、力と財をつけてきていたフーケが煩わしくもあったらしい。
    かくて王は画策する。
    マザラン亡きあと、財務を担当させていたコルベールと仕組んで、フーケを失脚させることを。

    1661年8月17日、ヴォーで宴が開かれる。
    この席にルイ14世陛下が光臨くださる!
    王がヴォーの訪問を希望したことに大変感激し喜んだフーケは、のちに語り継がれるほどの祭典を催した。
    この宴はフランスの祝宴史上1、2を争うほどの豪華さで、そのもてなしに、王はますますはっきりとフーケの失脚を心に決めた。これほどの力を持ってしまったフーケを、見逃してはおけないと。

    …と、まぁ、ここから先を詳しく書くと、とんでもなく長くなるので端折ってしまうが、要するにフーケはこの宴を以って、王とコルベールにハメられた。
    ヴォーでの歴史的な祭典のたった3週間後、フーケは逮捕され、3年間の裁判の末に有罪となった。
    裁判は非常に不当なものだったようで、今でもこの裁判については論議がされるらしい。
    王は密かに死刑までもを望んでいたが、コルベールに抱きこまれて選ばれた判事たちは、この裁判に良心の呵責を感じており、フーケに国外追放の刑を下すのが精一杯だった。けれどもその判決も、最終的には王の意思により終身刑に変更されてしまう。
    ヴォーを飾る美しい芸術品たちは押収、または買い上げられ、城は封鎖された。
    ヴォーと領地がフーケ夫人に返還されたのは、12年後のこと。
    一方ピニュロール城塞牢獄に収監されたフーケは、いつかヴォーへ帰る日だけを胸に抱いて17年を過ごし、1680年、獄死した。

    以上が簡単なヴォーとニコラ・フーケの歴史だ。
    かなりざっとまとめたので、興味のある方はぜひご自身で調べてみてください。本当にドラマティックで、興味をそそる史実です。
    いつか私もヴォーの物語が書けたらと思い描いていますが、とても手に負えそうにない(笑)

    面会すら叶わぬ夫を待ち続けた妻。
    未亡人となったフーケ夫人は、懸命に城を守った。
    時代の移り変わりとともに、ヴォーには援助の手を差し伸べてくれる人が現れ、時にはまた危機にも陥りながら、今ではかつての美しさと豪華さを取り戻し、一般公開されてる。
    フランスのこうした城には珍しくヴォーは個人所有で、個人所有の城としては国内最大規模。
    今はフーケ一族とはまったく関係のない、ド・ヴォグエ伯爵家がヴォーを管理している。


    ルイ16世様式の寝室。


    のちにヴォーの領主となったショワズール=プラズラン公爵の肖像画。

    この部屋にはあと2枚、肖像画がかけられている。
    部屋には規制線があり、それを超えると警報が鳴ってしまうため、写真を撮るにも角度や距離が限られた。そのため、その2枚をうまく写したものは撮れなかったのだけれど。


    誰か判るかな、奥の壁にかかった肖像画。

    2枚がなんとか一緒に写ったものを、一部切り取って貼ってみる。


    どうだろう?ルイ16世夫妻なのだけど。


    2枚の肖像画を画像編集して合わせてみた。

    王妃さまの方はだいぶ編集をかけてみたけれど、私ではこれ以上画像を鮮明にすることは出来なかった。
    レタッチを勉強した人なら、もっときれいに修正出来るのだろうけれど。


    この眺め、ベル宮だと強く言われたら、ちょっと見、信じてしまいそう。

    「似ていて当たり前でしょ、フランス式の城なんだから」
    そうおっしゃる方もいるかもしれないけれど、そのフランス式の城。フランス式の庭園。領地に意図的に高低差を作り、運河を引き、庭園を視覚的に演出する手法などは、17世紀、ヴォーによって確立されたものだ。

    ヴォーを妬んだルイ14世は、フーケの選んだ3人の技術者をそっくりと召し上げた。
    ベルサイユの荒地に建つ狩猟用の館。
    あそこに運河を引き、ヴォーを凌ぐ最高の宮殿を造らせようと。
    その結果、ベルサイユの地にはヴォーの面影をあちこちに映す巨大で壮麗な城が出来上がった。そしてそのベルサイユ宮を、さまざまな国の王や領主たちが憧れ、もしくは嫉妬し、模し、あるいは凌ごうと城を建てていった。
    フーケの愛した、彼の夢の城を。



    話を現実のヴォーに戻すと。
    先ほど何枚か貼った、白と黄色の配色がすっきりとしたお部屋。
    すぐ上の画像でも、また何枚か上の画像でも、寝台の横に扉が写っているのが判ると思う。
    この扉はここ↓に続いている。


    側仕えの使用人の部屋。

    この部屋には入ることが出来なくて、ガラス越しに観るだけ。
    使用人自身のプライベートな個室は別にあるのだと思うけれど、主人が寝んでいるときや寛いでいるときなどは、邪魔をしないようにこの小部屋に控えていたらしい。
    他の城ではあまり観られない部分なので、この部屋を観たときにはちょっと嬉しくなってしまった。ジャルジェ家における次期当主 オスカル・フランソワの部屋と、もっとも信頼されている従僕であるアンドレの部屋。どんな位置関係だったのかなー、なんて想像したりして。


    このフロアに上がって最初に観たヴォーの絵。大きさが伝わるかと。

    これで2階の片翼をぐるりと一巡りしたことになる。
    次はソミエの回廊を渡って、もう片翼へ行ってみる。


    結構長いソミエの回廊。

    この回廊に名づけられた「ソミエ」は、私の憶測が当たっているなら、ヴォーをこの姿にまで復元させたソミエ親子の名ではなかろうかと思う。
    19世紀、ヴォーは完全に立ち行かなくなり、競売にかけられた末に無人の廃墟となった。
    城も庭園も荒れ、領地を保つのも難しい危機的状況。そんなヴォーに偶然、アルフレッド・ソミエ氏が訪れた。
    太陽王を嫉妬させ、史上稀に見るほどの宴を開いたヴォーを、17世紀の姿に。
    アルフレッドはそう決意して、ヴォーを買収。修復し、復元し、生涯をヴォー再建に捧げた。
    このアルフレッドの意志は、長男エドムにも引き継がれた。貴重な調度品なども買い戻され、ヴォーはフーケの愛した華麗な姿を取り戻すことができたのだ。



    ソミエの回廊のはずれには、何やら意味ありげな看板とデスクがある。看板には写真が貼ってあり、「DOME」とだけ書かれている。
    デスクにいるマダムはいたって無表情で、興味深そうにウロつく私に一瞥もくれない。
    横を通り抜けて行く観光客も、こちらをチラリと気にはするが、このデスクより奥には興味がないらしく、階段を下っていってしまう。
    私もいったんは通り過ぎようかとも思ったのだが。
    もう、来れないかもしれない場所。
    後悔はしたくない。
    「ぼんじゅー、まだむ?」
    私が挨拶だけはフランス語で話しかけると、書き物をしていたマダムは初めて私に目を向けた。
    「Bonjour」
    「ここは有料ですよね?何があるんですか?」
    英語で聞く私に、マダムは短い英語で答えた。
    「DOME」
    いや、それは判ってるって。
    ヴォーでは有料でドームの見学ができる。そのことは知っていた。でも、その内容について詳しく触れている旅行ガイドやブログなどは見つけられなかった。
    出来ればその内容がどの程度なのかを知りたいが、バスツアーで時間が限られている中、マダムとの慣れない英語でのやり取りに時間が過ぎるのももったいない。私はそう思い直して3ユーロをマダムに払い、ドームとやらに向かってみた。


    誰もいない廊下。

    奥まで進むと、人の気配はすっかり遠のく。
    静けさがかえって耳に響くよう。
    開いた扉からは、螺旋階段だけが見えている。いわゆる階段室なのだろう。


    下方向は封鎖されているから、ここを上れということか。


    っつーわけで上った。



    明るく白い螺旋階段を上りきると、場面はぐっと薄暗くなり、次の扉が開いていた。先ほどとは打って変わって、狭く古めかしい階段室。



    だんだんと息があがってくる。
    階段を上り続けるという運動量にではなく、しみの浮いた壁や褪せた木目、時代の空気感に。


    ようやく見えてきた上階。



    上りきって出たのは、天井の傾斜した屋根裏部屋のようなところだった。
    とりあえず灯りが射す方へ行ってみる。





    背をかがめ、朽ちかけた梁をよけながら奥へ進む。


    ここがヴォーの中心部なんだろうか。




    金網越しに見える、天井の最高部らしき部分。


    そして、まだ続く階段。


    この踏み板は17世紀のまま…?

    まるで木工芸のからくり時計の内部にでもいるような、込み入った木組み。そこを突っ切るように一直線の階段を上りきると、いったん開けたスペースに出る。


    が。


    また階段かよ(笑)


    そんなこと言われなくても、触る気にはならないほど劣化した階段。


    金属の細い柵は錆だらけ。


    1歩上るたびに揺れ、軋む。


    出口の扉。

    今振り返ると、この螺旋階段は上っておいて本当に良かった。
    前回も今回も、螺旋階段はいろんなところでたくさん上った。けれどこんなふうに木造で、危ないぐらいにそっくりと残されたままの歴史的建造物を、誰に指図されることなく手で触れて、自分の足で自由に上れるなんて。
    私には初めての経験で、今も深い印象が残っている。


    扉を出るとこんなところ。

    人ひとりがすれ違えないほどの通路幅。
    ヴォーの最高部は展望台になっていた。展望台といっても、このように建物のTOP部分をぐるっと周る、小さな円周分しかないスペースだけれど。


    見上げれば、すぐ真上にヴォーの鐘が。


    前庭側の眺め。

    こうして見ると、私たちが入場口として配所に入ってきた棟が、中庭を持つ口の字型に立てられた別棟なのがよく判る。その距離感も。
    今見直してみたら、「白い小道」と表現した中庭の道もちゃんと写っていて、私の古くて安いデジカメでも結構写るものだとちょっと感心した。
    すごいな、Canon。





    城内にかけられていたヴォーの絵は、1番奥の泉から城方向への構図で描かれたものだ。




    戻るときにはもちろん、またこの階段を使う(笑)


    下りはよりいっそう揺れる気がする。

    ドームからの見晴らしは、大変気持ちのよいものだった。
    いくら好きでも、集中して部屋の見学ばかりを続けていると脳の感度も鈍ってくる。少し冷たい新鮮な外気は、頭の中をすっきりさせてくれたようだ。
    私はドームからの階段室を降り、ソミエの回廊からヴォーの階下へ向かった。
    見学時間は、早くも半分を切っている。
    今まで観てきたのは2階部分で、主に私的な部分に当たる部屋が多かった。でも、階下では客人をもてなすための公な部屋や、厨房なども公開されているのだ。
    まだ庭園だって観てないし!
    残り少なくなってきた時間に焦りを覚えながら、私は急ぎ階段をくだった。


    【歴史を動かした2つの城 / ヴォー・ル・ヴィコント 2】につづく
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