フランス旅行回想録 【 Voyage 】

こちらは管理人のフランス旅行記です。
旅行前の準備のこもごもや、旅行中にフランスからUPしていた雑文、帰国してからの回想録などを置いています。

★2013/5 回想録
旅行準備から現地UP版までは、かつて【Hermitage】というおまけノベルを集めたブログにUPしていたものからの転載。
回想録からが、この「Voyage」でUPしはじめたものです。
(今はクレーム等により一部公開していません)

また、この旅行記には、追随するコンテンツとして【Webアルバム】がございます。
アルバムでは、管理人の訪れた各地の画像が2000px以上の大判サイズでご覧いただけます。
ベルサイユ宮殿や大小トリアノン宮などのお部屋が、壁紙の模様や扉のひび割れまで見える詳細さでUPされております。
スライドショーにすることも出来ますので、ご覧になれる方はどうぞ。
全部で1183枚の写真がご覧いただけます。

★2015/4 回想録
2015/6/12よりUPを始めました。
こちらもWebアルバムをUP中で、ただいまは3410枚の画像がご覧いただけます。
最終的には、およそ5500枚程度のアルバムになる予定です。

 

    潮の満ち引きが常にあるとはいえ、普段は干潟に建っているように見えるモン・サン・ミッシェル。
    けれどこの日は大潮。
    観光協会の予測通りなら、私の1泊するこの日は3日間続く大潮のうちの最大満潮が観られるはず。

    大潮の情報はこちら

    お湯につかって少々の休憩をとった私は、カメラだけを持ってまた部屋を出た。
    やはり湾を見下ろすのがよかろうと、私は階段を1階まで降りず、途中から裏口に出た。
    裏口は、左に出れば修道院への近道に。右に出れば王の門の上部の警備用通路を通って、アルカード塔まで直線で行ける。




    もうちょっと判りやすいMAP


    レストランではディナーの用意が整い始めている。


    かつての警備用通路から裏口を振り返る。


    王の門から見下ろしたホテル前の通り。


    潮の満ちてきた対岸への道。


    みるみる満ちてくる。


    真ん中へんに写っている水没したパイプのようなものは、私が島内に入るのために歩いてきた通路の柵の一部。


    島に着いたばかりには、こんな様子だったところ。


    別角度。水没した通路の柵の様子が判るかしら。左手の小島っぽくなったところには、工事の作業用具が残っている。


    沖の方では、うねった潮の渦が巻きはじめた。このあたりはBigsize Photoで大写しになってます。


    すっかり満ちた湾。


    大潮のモン・サンに来て。
    当然私は、この日のモン・サン・ミッシェルに泊まる人は皆、この自然の驚異を楽しみに来ているのかと思っていた。
    だから、狭い城壁沿いの道は大潮を観る人でびっしりになり、観る場所を見つけるのも大変になるだろうと思いこんでいたのだけれど。
    写真を見てもらったら判る通り、大潮見物で鈴なりになるほどの見物人はおらず。
    人はいるにはいるけれど、拍子抜けするほど少なくて、むしろオーシャンビューのレストランがにぎわっている。
    時間的にはディナータイムだし、“座って飲みながら大潮観賞”もいいだろうとは思うけれど、それでは眺めがかなり遠くなる。
    やっぱり城壁のギリギリから、目の前で満ちていく潮の様子が観たいじゃないか。
    私は島内をあちこち移動しながら、よく見える位置を探した。
    できれば修道院の北西側から観たいのだが、そちらへまわれる道が見つからない。
    かつては聖オベール礼拝堂まで行くことも出来たようだけれど、今は観光客は行けないみたいだし、修道院の哨兵門へも行ってみたけれどもう閉まっていて、そこから島の北側へまわりこむことは出来なかった。
    哨兵門を下ったところにあるクロディーヌの塔には、順路から外れる小さな階段のようなものがある。そこは壊れてはずれた鉄柵でふさいであるだけだったから、実は柵をすり抜けそこの奥にも入ってみた。でもすぐに行き止まりになってしまった。
    行き止まりの壁は低く、数メートル下にはどこからか続く北側への小道が見下ろせる。

    この壁を超えて、あの道に飛び降りらんねぇかな。

    そんなバカなことも考えたけれど、結構な高さがあったのと、けがでもして、そんなことをしでかしたのが人さまにバレたら日本人の恥になるのでやめておいた。
    クロディーヌの塔から北望桜、そして北塔へ下りていくと、沖の方で渦潮が出来始めているのが見えた。
    ショレ塔あたりまで戻る頃にはすっかり干潟は満ちていて、たっぷりと海水を湛えた湾になっていた。
    たくさんの巡礼者たちが、ここで潮にのまれて命を落とした。
    モン・サンのガイドの言葉を借りるなら、潮の満ちるスピードは「馬車の速さ」なんだそう。
    そして、ガイドによると、ここで命を落としたのは巡礼ばかりではないのだそうだ。
    子供。
    多くの子供が、この大潮にのまれたのだと。
    それはときおり日本の昔語りにも出てくる“くちべらし”で、親なり保護者なりにモン・サンで祈りを捧げてくるように言いつけられた子供たちが、子供の足では干潮のうちに海を渡りきれずにたくさん溺れ死んだと。そういう歴史もあるのだということだった。

    この日は3日間続く大潮の中日、最大満潮の日だった。
    私にとって貴重な、モン・サンで過ごす1夜。
    もちろん眠る気なんかない。
    私は深夜になると、最低必要な身の回り品をバッグに詰め、真っ暗な夜の島内へと出た。
    5月下旬だというのにすごく寒かったので、部屋からブランケットを持ち出して、それにくるまってモサモサと徘徊する私は見た目ちょっとしたE.T.で、出くわした人がいたならきっと悲鳴をあげられたと思う。まぁ、E.T.だと思われなくても、間違いなくおかしい人だとは思われただろう。
    けれど、深夜の島内にはひとっこひとりいなかった。
    私としては、深夜のモン・サンをうろついたり、朝陽の昇る風景を楽しみに待つ人がそこそこいると思っていたのだけれど。




    深夜の裏口。


    王の門の上部通路。数枚上に昼間の裏口の写真があるけれど、三角に切り取ったように写っているのは、この通路の中から振り返って撮ったから。


    アルカード塔からの月と干潟。この時間、まだ霧なんて出ていなかったけれど、もやといくつかのオーブが写っている。このあとのBigsize Photoには、画面が無数のオーブだらけになっている写真もある。


    跳ね橋あたり。


    郵便局まえの通り。


    ホテルのレセプション。翌朝用のパンが届いている。
    左側の小さなカウンターがホテル ラ メール プーラールのフロントデスク。両手を広げたぐらいの幅しかなくて、ほんとに狭い。右のシャッターの向こうは、オムレツで有名なレストランにつながっている。
    上の方に写っている扉がホテルの宿泊客用の入り口なので、いわゆる“ホテルのフロント”といえる部分はここに写っているのですべて。超狭。スーツケースを持った大人が3人も入れば、いっぱいになりそう。


    チェックインに訪れるなら、こんな位置関係。左側からレストラン、そしてホテルの小さな入り口。扉を開ければ色あせたコーラルピンクのフロントデスクが向かえてくれる。この色あせ具合がなんともいいのよ。


    夜明けが近づくとともに霧が立ち込めてくる。潮の引いた干潟。


    ぼうっと浮かびあがってくる修道院。


    哨兵門から見上げる。強風にはためく三色旗が撮りたくて何度も撮り直しをしたけれど、冷え切って震える手ではきれいに撮れなかった。


    深夜ホテルを出た私は、まずはアルカード塔に向かい、夜の干潟を眺めた。
    しんとした島内。
    冷えた空気。
    とうに潮の引いた干潟が月下に照らし出されている。
    私は何枚かの写真を撮ってから、王の門の上部通路を引き返し、裏道の急な階段を登った。
    ラ メール プーラールの裏手を這い上がる小さな階段はそれほど整っておらず、滑りやすくて崩れているところもある。
    わさわさと樹木が繁り、風にあおられた枝葉が大きな音をたてた。
    真夜中に1人でほっつき歩くなんて、おすすめできたことじゃない。渡航先で巻き込まれる犯罪には、強盗や殺人など、凶悪なものもあるし。
    でも私はどうしても、深夜の修道院のできる限り近くまで行ってみたかった。
    革命の頃、監獄だったところ。
    ここに収容されたら生きては出られないのだと、囚人たちはどんな夜を過ごしたのか。
    夜にしみこむ海風の湿り気と、射しこむ月あかりの影。行かなきゃ判らないこともある。
    行ってみたら、なんのことはない、ど田舎の自分の家と変わらないありふれた夜かもしれないけれど。
    そう思いつつ、私はぜいぜい言いながら斜面を登った。
    グランド リュからぐるりとまわっても良かったが、岩山に張りつく昔ながらの狭い山道に惹かれ、ときどきずるりと足を滑らせながら傷んだ階段を進んだ。
    ときおり大きな羽音がするだけの、暗い木立。
    登りきれば修道院の真下に出る。岩山中腹の、テラス様になった場所。
    そこで電子手帳を取り出して、しばらくノベルを書いた。
    これをUPすることは、おそらくもうないと思う。
    しかし。
    深夜の元・監獄近くで、液晶画面の青い光に下から照らされる女の顔。
    はたから見たらホラーじゃないかね(笑)




    日の出の直前。干潟が童画のようにやわらかな色彩に染まる。


    ようやく姿を見せてくれた朝陽。


    干潟に光の帯が映る。


    徐々に引いていく霧。



    濃紺だった空の色に少しだけ蒼みがかかると、島の空気に湿り気が増す。
    ただでさえ冷えた空気がじっとりと冷たくなって、降りおりる霧に寒さがしみこんでくる。
    私は島のあちこちを歩き回りながら写真を撮った。
    夜明けが近くなってきても、人の気配はまだない。
    もやもやと漂う霧。
    昔はこの要所要所に衛兵が立って聖堂を守り、あるいは監獄を警備したのだろう。
    私は城壁沿いの外周の道まで降りてくると、城壁の内側の壁の上にブランケットを敷いて座った。
    そこは眺めがよく、昼間も疲れるとそうして座っていたが、通りすがる人からは「危ないわよ」とか「落ちないでね」とよく声をかけられていた。内側といっても、そこは地形の落ち窪んだところに面していたので、結構切り立っていたから。


    いい年をして、こんなとこに上がりこんでた。この壁の向こうは数メートルは落ちこんでいる。

    足の爪もはがれていたし、膝下がむくんでパンパンだったので、靴を脱いで壁の上にあがりこみ、日の出を待つ。
    ブランケットを敷いていても石作りの城壁から這い上がってくる冷たさで、震えがのぼってくる。
    私はwi-fiをonにして、web拍手コメントとメールの新着を拝読してから現地UP版の「Voyage」を更新した。

    『底冷えが這い上がって、でも、私は今もガタガタ震えながらここから動くことができない。

    登り始めた朝日の熟した橙色。
    干潟に光の道筋をひきながら。

    この時間になって、ようやくちらほらと人がではじめる。
    そして数枚の写真を撮ると、寒い寒いと言いながら、足早に戻っていく。

    この美しい風景に、どうして背中を向けられるのだろう。

    震える指で、何度もミスタッチを繰り返し、鼻水を流しながら、今、修道院の7時の鐘が鳴った。

    すっかりと姿を表した太陽の、陽射しが少しだけ左の頬に暖かい。

    夜あけの冷えた空気が、這い上がってくる石畳の冷たさが、この走り書きを読む人に伝わりますように。』

    現地UP版の「Voyage」では、このような記述をした私だが。
    この前後にはあえて書かなかった印象的な出来事がある。
    私が城壁沿いに降りてきて、毛布を敷きこみ朝陽待ちの体制に入った頃、まだほとんど人はいなかった。
    日の出の見物人が出始めたのは、空がようやく染まってきたあたりからだった。
    それでもそれほどの大人数ではなかったけれど、外国人の人はたいがい私の存在には目もくれず、ブークレ塔や北塔の方へ進んで行った。
    けれどもやはり日本人観光客は私に話しかけてきて、陽は何時頃から出始めたのかとか、ここよりよく見える場所はあるのかとか、修道院の反対側へはいけないのかと聞いてきた。
    私が、暗いうちから外にいたけれど陽が昇ってきたのはつい先ほどで、ここからならきれいに朝陽が観られそうで、修道院の反対側への道は探したけれど見つからなかったといったことを言うと、どの人も満足そうだった。
    そして昇ってきた朝陽の写真を1~2枚撮って、無駄足を踏まなくてよかったと言いながらホテルへ戻っていった。
    そういった人たちは何組かいたけれど、その人たちには私がやっていることが無駄足に見えるのだ。
    いや、価値観はそれぞれだからいいのだけれど。
    私には、冷え込んだ真っ暗な夜を感じてこその朝のひかりで、それをここで観たかった。この世にも怪異なモン・サン・ミッシェルという場所で。
    でもまぁ、それは私の主観だからどうでもいい。
    「おねーちゃん、無駄したな」としたり顔で言われても、「ほんとにねー」とスマイリーに答えておくオトナ加減は持っている。
    そんなやり取りを数回繰り返し、最後に会ったのは2人連れのおばちゃんだった。
    私の母よりは年上そうで、やはり他の人たちと同じようなことを関西風なイントネーションで聞いてきた。
    私もそれまでと同じような返答をして、その方たちが写真を撮るのを眺めていた。
    2人連れだったので、私は写真を撮ろうかと声をかけた。
    おばちゃんたちは助かるわーと言いながら、それぞれ私にデジカメを渡したので、私は何枚かずつシャッターを切った。
    それを確認してもらって…
    写りに問題はなかったので、おばちゃんたちはそのままホテルに引き上げるのかと思われた。
    けれど。
    「あんたの写真も撮ってあげるわ」
    おばちゃんの1人がそう言ってくれた。
    私はそこで何回か写真を撮ってあげていたけれど、そんなふうに言ってくれた人はいなかった。
    私はありがたくそうしてもらうことにして、カメラを渡したのだが。
    「ちょっと見て?」
    差し出されて確認したプレビューは逆光気味で、写っている私は暗く影っぽい。
    おばちゃんたちと朝陽がきれいに撮れたのは、まだ陽が登りはじめで光がふんわりとやわらかかったからだ。
    結構姿をあらわした陽の光はすでにしっかりと明るく、もう逆光になるのは仕方なかった。
    私はそこまで厳密な写真を残したいとも思っておらず、影になろうが暗かろうが、そこに行ったことが振り返れればよかったので、この写りでじゅうぶんだとお礼を言った。
    けれども。
    「いーや、これでは私の気が済まんわ」
    おばちゃんはそう言うと、私の写真を何度も撮り直しはじめた。
    ちょこちょこ画像をチェックして、「おねーちゃん、ごめん。もう1回やらせて」と、もう1回もう1回と角度や場所を変え、20枚ぐらい撮ってくれた。
    結局「おばちゃん会心の1枚」は出なかったのだけれど、あきらかにもう1人のおばちゃんが飽きてきたので、幸い撮影会は終了した。
    私は改めてお礼を言い、おばちゃんたちは今度こそホテルへ戻るかと思われた。
    が。
    「わたしらイタリアから周って来たんやけど、あんたは行くん?」
    は?
    私はフランスだけで、しかもモン・サン以外はパリのみだと答えたのだが、おばちゃんは「いつか行く日のために」と、テンポよくイタリア旅行の諸注意を語り始めた。
    どこぞの広場にいるタクシーはぼったくりが激しいからダメだとか、バッグをひったくられた体験談だとか、そういったことを。
    話が体験談に移っていくと、飽きていた方のおばちゃんにもスイッチが入ったようで、どんなふうにひったくられたかを俄然語り始めた。
    ひぃぃ。朝陽が…
    私は朝陽が観たいんだよう…
    心の奥底で私はそう叫び、でも、親切でパワフルなおばちゃんの関西弁をさえぎることは出来ずに最後まで聞いた。
    そのときのお話で印象深く残ったのは、「イタリアではボられてもしゃあない。問題はどの程度ボられるかや」といった一節だった…

    ちなみに私に関西生まれのリア友はいないので、関西弁といっても、それが本当に関西弁だったかは怪しい。大阪でも府内の地域ごとで違いがあるというし(と、大阪で日本語を覚えたアメリカ人の友達が言っていた)、私には大阪も奈良も同じ関西弁に聞こえている。オフ会で和歌山とか愛知の方と話したときも、ひとくくり関西弁に聞こえてしまったし。
    だからこのおばちゃんたちが本当に関西弁を話していたのかは、実は判らない。




    ホテルの朝食。席に案内されると、まずこんなふうにセットされて、あとの暖かいものはよくあるモーニングビュッフェ。


    夜明けまえに届いていたパンたちはこんなふうに並んでいた。


    レストランの、朝と夜。


    3日目の大潮。最大満潮より規模は小さいけれど、島の入り口のラヴァンセ門は海水に浸っている。


    帰ろうにも、島から出られなくて大通り門に溜まるしかない観光客たち。


    さて、明けたこの日は3日目の大潮。
    規模は昨夜ほどではないけれど、朝食後でチェックアウト前の時間であることや明るい陽射しの中で観られる大潮とあって、見物人も多い。
    前日の大潮で、水没するラヴァンセ門を撮り忘れた私はまずその様子をカメラに収め、それから高台に向かった。
    とりあえず、「北塔」と思い、王の門の横の階段を上がってアルカード塔から城壁沿いに走る。




    地図だと平坦に見えるけれど、こんな感じの勾配。


    こんな階段を登りついで


    右手に見えているのはこんな風景。


    走るといっても、ヨタヨタな私。
    気持ち的に走っているだけで、多分普通の人が歩いているのと変わらない程度の速さだったと思う。
    石段の勾配が手術を重ねた膝にくるし、肺病みで貧血だから息もあがってしまって、私は階段と階段の途切れ目で座り込んだ。
    上から降りてきていた金髪マダムが慌てて寄ってくる。
    「大丈夫?どうしたの?」
    「下から走ってきたの。北側の塔に行きたいの」
    「でも少し休んだ方がいいわ」
    「だって、今は大潮なのよ?これを観にモン・サン・ミッシェルに来たの。5歳のときから憧れていたのよ」
    「おお!5歳から!?」
    5歳のときに憧れたのはテレビ放送で観た宝塚の「ベルサイユのばら」のダイジェストであり、モン・サンを知ったのはその少し後だけれど、息が切れてフラフラの私にそんな細かいことを英語でしゃべる余裕はない。
    そんなことをやっていたら、4人ほどのおばちゃんグループがまた上からくだってきた。
    「どうしたの?」
    私が息切れしているので、金髪マダムが説明する。
    「このガールは5歳のときからモン・サン・ミッシェルに憧れていたんですって」
    5人の欧米系のおばちゃんたちには、私はガールに見えるらしい。
    「5歳?それはすごいわ!」
    「急がないと。潮が満ちてくるところが観たいんです」
    「ええ!そうね!!頑張って!!」
    おばちゃんたちに拍手され、やいやいと励まされる私。
    なんじゃこりゃ。
    そうは思いながらも、私はさらに高台を目指したのだった。




    朝陽の修道院。


    潔いほどあっさりと潮の引いていく干潟。


    明るい陽射しの照らす礼拝堂。


    前日と違って見学者も多い。


    グランド リュのあちこちでは、すでにおいしそうな品々が並ぶ。


    レストランのマダムが大きなバットに山盛りのフライドポテトをまく。


    ビスキュイットリー メール プーラール。モン・サンを訪れるお客さんのほとんどが、1度はここに立ち寄るかと。


    シャトルに乗って、遠ざかっていくモン・サン・ミッシェル。


    2回目の修道院は、たくさんの人だった。
    パリから日帰りで来ている人たちは概ねお昼頃にモン・サンに着き、4時間ぐらい島内観光をしてパリに戻るので、前日の私はわざと修道院に行く時間を夕方にした。
    そのおかげでラ メルヴェイユ棟はガラガラで、薄暗かったものの、静かでゆっくり見学できた。
    けれどこの2日目は、もろに観光のオンタイム。
    修道院には光が燦々と射していて、おっとりと幸せそうな老夫婦や、きゃらきゃらと笑いながら走り回る学生の団体がいたりして、とても観光地らしかった。
    私は写真を撮ってもらおうと、すみの方に座っている女性に声をかけた。
    「えくすきゅぜも?」
    ここだけはフランス語(笑)
    あとは英語で写真を撮ってくれるようお願いすると、ダークなブロンドのご夫人はとても親切で、何枚も写真を撮ってくれた。
    「どんなふうがいい?胸から上でいいかしら?建物も入るようにする?塔の先も入れた方がいいわね」
    そんなことを言いながら、立ったりしゃがみこんだりしながら色々と工夫して撮ってくれたので、私とそのご夫人は並んで座ってプレビューを見た。
    私はバッグから南高梅柿ピーを出して、ご夫人に差し出した。
    「日本の古くからあるお菓子なんですけど、よかったら」
    「まあぁぁ!これを私にくれるの?ありがとう」
    外国の方は、受け取るのが本当に上手い。嬉しそうに受け取ってくれる。本当はどう思っているのかは判らないけれど、でもたいがいはパァッと嬉しそうに笑って受け取ってくれる。
    「これはどんなものなの?ナッツと、ビスケットのようなものかしら」
    「うーん。ビスケットとは違うかなぁ」
    ぬかったことに、私は柿の種を説明する準備が出来ていなかった。柿の種って、どう説明すればよかったのだろう。それも梅味の。

    私はあちらこちらをゆっくり観ながら、修道院の中を下った。
    写真もさらにたくさん撮ったのだが…
    残念ながらその写真は、ある事情から削除することになってしまった。それはこのあと、サント=シャペルを観に行ったときに判るのだけれど。

    削除した写真の中で、残念なものが1枚ある。
    島内の銃眼のある城壁で撮ってもらった写真だ。
    サント=シャペルでの事情と、それから手ブレがひどかったので削除したのだが。
    「えくすきゅぜも?」
    その写真を撮ってもらおうと私が声をかけたとき、かっぷくのいいおじさんは「フランス語も英語も判らないよ」と、ちょっとだけ気難しい顔をした。
    でも、そのときはそばに誰もいなかったので、私は英語で写真を撮ってもらえないかと重ねて頼んでみた。
    おじさんはデジカメの使い方があんまりよく判らなかったので、私は英語で説明して、まぁ、なんとか写真は撮ってもらえた。
    「わたしはイタリア人だから、英語もフランス語も判らないんだ」
    おじさんはカメラを返しながらそう言って、立ち去ろうとしたので、私はとっさに「ぼんじょるの…?」と言った。
    それ以外のイタリア語が、瞬時には浮かばなかったのだ。
    するとおじさんはにこにこっと笑って「チャオ」と答えた。
    「こういうときは、チャオって言うんだよ。チャオチャオ」
    耳の横で小さく手を振るしぐさはイメージ通りの超イタリア男ふうで、若い頃はカッコよかったかもしれん…などと思ってしまった。
    「チャオ」
    人生で初めて言った。
    きっと忘れないな。

    修道院を出てグランド リュまで降りてくると、通り沿いの店ではすでに美味しそうな品々が並んでいた。
    私はプティブルトンに行って、もう何個目か判らない塩キャラメルソフトとフライドポテトを買った。
    それを持って、混んだ通りを離れて城壁沿いの道に出る。
    城壁に座ってポテトを食べていたら、わらわらと海鳥が集まってきた。
    ポテトが欲しいらしく、かなり近くまで寄ってくる。
    小さくちぎって投げてやると、ササッとくわえてバッサバッサ飛び去っていった。
    それがまぁ結構でかい鳥で、みるみるうちにすごい数が集まってきて、危うく鳥まみれになるところだった。そんな私の様子を、外国人観光客が写真に撮っていたぐらいだ。

    なんでこんなに集まる!?

    私は内心焦ったけれど、その理由はすぐに判った。たまたまそこは、普段鳥たちがポテトをもらっている餌付け場所だったのだ。
    すぐ横の、オーシャンビューのレストランから出てきた銀髪の女性が、バットに山盛りのポテトを城壁の上にどばーっとまく。
    鳥たちは城壁を掠めていきながら、結構な長さのポテトをひとくちで丸飲みにしたり、くちばしにくわえたり。
    すずめのような小さな鳥は大きな鳥たちに蹴散らされていたが、ポテトがまかれ始めると、大きな鳥たちはすぐに私にもすずめにも興味を失って、こぞってレストランの前に移っていった。
    本当に動物は判りやすい。

    私はそのあと、モン・サン最後の買い物をしに行った。定番だけど、ビスキュイットリー メール プーラールでお土産用のガレットと塩バターキャラメルを。
    これらのものが届いた方もいらしたでしょう?
    ガレットには種類がたくさんあるけれど、ビスキュイットリー メール プーラールでは試食が出来るので選びやすいからおすすめ。
    このお店はちょっと変わっていて、ここで品物は買えない。試食をして買うものが決まったら、それを道を挟んだ向かい側の店に自分で運ぶ。そこでお会計をしてもらうシステムなのだ。
    よく万引きされないなぁ、と感心する。
    でもここを利用するのには、気をつけなければならないことが1つある。
    時間だ。
    余裕があるならいいけれど、島を出る直前の時間のない買い物の場合、ビスキュイットリー メール プーラールはすいているように見えても、お会計場の店舗が超混みのときがある。
    会計待ちの人が店内でぐるぐる行列していて、すごく待たされたりするのだ。お会計場のマダムは、混んでいるからといって慌てたり急いだりしないし。

    持参していた折りたたみ式のカートを開き、お土産を詰めて荷物を1つにまとめた私は、ラヴァンセ門を出て、シャトルバス乗り場に向かった。
    来たときも混んでいたシャトルバスは、帰りもぎゅうぎゅう詰め。
    人が動く時間帯は被っているから仕方なく、乗るのもほんの短時間なので、みんな文句を言うでもなく隙間を詰めていく。
    車窓から遠ざかるモン・サン・ミッシェル。子供の頃から思い描いていた場所。
    もしかしたら、もう来ないかもしれないところ。
    そう思ったら、不覚にも涙目になってしまった。
    やたらとまばたきをして目の水分を飛ばす。
    そんなことをしていたら、斜め前にいたご婦人とバチッと目が合ってしまった。
    なんとなく気まずくて私は苦笑いしてしまったけれど、そのご婦人はうんうんと頷きながら笑ってくれて、気がついたら他にも同じように微笑みながら私を見ている人がいて、私は余計に涙目になってしまった。
    もちろん、「なんなんだ、このバカは」といった目で見ている人もいたけれど。




    戻ってきたパリ。バスの車窓から見たコンコルド広場。


    明るく見えるけれど、もう夜も10時近い。


    オベリスク。ここにはまた日を改めて来た。


    予約していたフランス料理のお店で遅い夕食。


    帰りのバスは高速道路のサービスエリアで僅かなトイレ休憩があるぐらいで、一気にパリまで戻る。
    パリ着は夜の10時近く。
    私は予約していたカジュアルなフランス料理のお店へ行った。
    「女1人でも違和感なく入れて、写真を撮ったりしてもかまわない気軽な店」という私の希望に、ベルサイユ在住の日本人が紹介してくれたところ。
    ワイン選びはギャルソンに任せたけれど、疲れていたせいかやたらと酔いがまわった。
    本来私は、ザルなほど酒が強いのだが。

    食事を終えて店を出ると、やっと星が昇り始めたところだった。
    さぁて、ホテルまではどうするかなぁ。
    ガイドブックなどでは、夜のメトロは使わない方がいいと書いてある。遅くなったら、近距離でもタクシーを使った方がいいと。特に女性は。
    でも私は結局、Madeleineからメトロに乗って帰った。
    時間は午前0時前後。
    これもあんまり人にはすすめない。
    それでも深夜のメトロを使ったのは、乗る区間が短いことと、乗る駅も降りる駅も観光の中心地にあり深夜でも利用客が多いこと。何度か夜遅い時間のメトロに乗っていて、利用駅に治安の悪さを感じていなかったからだ。
    でもこんなのはただの幸運で、やっぱり危険な目に合う人もいると思う。
    だから、深夜の女1人のメトロ利用は人にはすすめない。

    私がホテルに戻ると、見送ってくれた人とは違うスタッフが出迎えてくれた。あいさつぐらいはしたことのあるスタッフで、私をちゃんと覚えていてくれた。
    「戻ってきたね。荷物は預かっておいたよ」
    そういって、私のスーツケースを引き出してきてくれた。
    「ごめんなさい。予定より帰りが遅くなっちゃった」
    「大丈夫、大丈夫。モン・サン・ミッシェルは遠いからね。どうだった?」
    「素晴らしかったわ」
    5分ぐらいそんな立ち話をして、私は部屋へと向かった。
    2度目のチェックインでは部屋が変わっていて、噂に聞くせっまいダブルルームだった。
    すんごく疲れていたけれど、とにかく最初にいろんなものの充電を始めた。
    その間にシャワーを浴びて、バスタオル巻き巻き状態でガイドブックを出す。翌日行く予定のシテ島周辺を開き、けれど。
    直前の下調べをしようと思っていたのに、私はパンツもはかない巻き巻き状態のまま寝つぶれていた。


    第11話 「王妃さまの終の部屋へ」へ続く
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