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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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貴賓室へ
ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。


    「アンドレ!」
    重い扉を開けると、振り返った青い瞳が俺をとらえた。
    花が咲きほころぶような笑顔。
    司令官室にいたときと変わらない端正な顔なのに、表情のせいか、年齢(とし)よりずいぶん若く見える。
    「どこへ行っていたんだ。私を1人にしないと言ったのに」
    格子のはまった窓際から駆けよると、俺の胸に飛びこんでくる。
    額を押しつけ、寂しかったと訴えた。
    「悪かったな。大切な用があったもんだから」
    そう言いながら軽く抱きしめてやると、安心したのか顔を上げ、俺の首に腕をまわしてきた。
    誘うような、それでいて、恥じらうような瞳。
    今まで見知っていた理知的な眼差しが別人かと思うほど、恋の彩を隠さない。
    ベルサイユ1耳目を集める武官、オスカル・フランソワがこんなにも女だったとは。
    「アンドレ?」
    無防備に見つめられ、情けなくも見とれていた俺は、甘くねだる声に気を取り直した。
    くちづけが欲しいのか。
    俺は小さなため息を
    ──決して覚られないぐらい小さなため息をつくと、身をかがめる。
    掠める程度にくちびるを触れさせ。
    俺がさり気なく離れようとすると、首にまわされた腕に力がこもった。
    「もっと」
    ああ…
    俺は絶望的な気分になり、かいくぐるように腕をはずすと、肩を抱いて部屋の奥へ連れて行く。
    燃えさかる暖炉のそば。
    豪華ではないが、ゆったりと大きなソファに座らせた。
    「今日は何をしていた?」
    「おまえがいないから… 雪を見ていた」
    「朝からずっとか?」
    「そう、ほら」
    座らせたばかりなのにフラリと立ち上がり、軽く足を引きずりながら窓辺へと駆けて行く。
    なまり色の空。
    ふわふわと落ちてくる雪。
    それは窓枠にも、そして窓にはめ込まれた蔦模様の優美な格子にも降り積もっていた。
    金髪の後ろ姿は、薄く忍びこむ冷気も気にせずに、窓の向こうを見上げている。
    「おまえは何をしていた?私を置いて」
    空に目を向けたまま、問いかけてきた。
    「俺‥は‥」
    「私も外に出たいな」
    「それはだめだ」
    「どうして?」
    何度も繰り返されてきた会話。
    俺は根気よく言い聞かせる。
    「おまえは病気だ。咳もひどいし、熱もよく出る。それから大きなケガもした。体にはたくさんの傷跡があって、まだ上手く歩けない。だからもうしばらくは、静養していなければならない」
    「でも少しぐらい」
    あの7月14日から、この部屋だけが世界のすべて。出たいと思うのも無理はない。
    だが。
    「俺と違って、おまえは顔を知られ過ぎている。まだ外に出すわけにはいかない。王家に反旗を翻したと、王党派からは未だ厳しく捜索されているんだからな」
    「反旗…?」
    不思議そうにつぶやく、小さな声。
    そして笑って振り向くと、俺の隣に駆け戻ってきた。
    「何を言っている?我がジャルジェ家は代々続く近衛将軍家だぞ。この私とて、はたちになるやならずやのうちに近衛連隊長を拝命し、日々、心をこめて王后陛下にお仕えしているというのに。それを王家に反旗などと」
    「…ああ、そうだったな」
    俺が頷くと、満足したように一緒に頷き、ぴたりと寄り添ってきた。
    俺はギリギリと奥歯を噛みしめる。
    これから交わされる会話の内容が、判っているから。
    「アンドレ。…愛して」
    「まだ陽が高いな。そう、夜になったらゆっくり」
    「嘘だ。そんなことを言って、いくらもしないうちにまた私を置いて行ってしまうつもりだろう?そしてしばらくは帰ってこない」
    「そんなことないさ。今夜は」
    俺の言うことなど少しも聞かずに、苛立った細い指先がブラウスのボタンを外していく。
    喉もとから鎖骨、デコルテへと露わになっていき、コルセットでメイクされた谷間までもが目に入ってきた。
    「さぁ、アンドレ」
    俺の手に冷たい指がからみつき、強引にふくらみへと導く。
    ソファに深く姿勢を崩しながら、熱っぽく俺を誘う瞳。
    密かに想い続けてきた女にここまでされて、その気にならない男なんかいない。
    もちろん俺だって。
    だけど。
    「体に障るだろうが」
    俺は目をそらし気味に、外されたボタンを掛け直した。
    そのとたん、それまでどこかふわふわと柔らかく漂っていた雰囲気が、ガラリと変わった。
    剣呑な表情と、厳しく詰問するような口調。
    「なぜだ、アンドレ。なぜ抱いてくれない?」
    「だから陽が落ちたらと言って」
    おまえは激しく首をふり、俺の言葉を遮る。
    「一昨日の夜、初めて結ばれたときに私が嫌だと言ったから?」
    「違うって。ちょっと落ちつい‥」
    「本気で言ったわけじゃなかった。ただ思っていたより少しばかり苦痛で、それでつい、そう口走ってしまっただけで!」
    「判ってるさ!あんまり辛そうだったから、思い直して途中でやめた。おまえは大丈夫だと言い張ったけれど、『続きは、この出動から帰ったらね』、そう言って笑った。そうだろう?」
    「おまえはそれを怒っている。だからもう私に触れようとしない。そういうことなのだろう!?」
    「違うって言ってる!」
    ヒステリックに高くなる声に、俺までつられて語気が荒くなる。
    「あの夜に、そんなことを思えるわけないだろうが!」
    「そうだ。あの出動前夜。風がサヤサヤと吹きこむ静かな夜だった。とても静かな…夏…の……?」
    勢い込んで聞く耳も持たなかった女の瞳が、宙をさまよう。
    「今日は何日だ?アンドレ。……7月…14日……だろう?」
    「ああ。…そうだよ」
    けれどその整った顔は、さらに瞳を歪んだ色合いに染め上げて、ぱちぱちと薪のはぜる暖炉を見やり、そして俺に目を移した。
    俺の双眸を射抜く、冷えきった青。
    顔色までもを蒼くして、でも瞳だけが異様にキラキラと美しかった。
    「7月…14‥‥日‥‥」
    「もうよせ。考えなくていい」
    「昨日…私は何をしていた?昨日。……昨日‥は、7月…13…」
    「考えるな!」
    俺は細い手首をつかむと、まだ上手く歩けないのも気遣わず、ずかずかと部屋を横切って次の間の扉を開けた。
    そんなに抱いて欲しいのなら、望み通りに抱いてやる!
    ひと気のなかった寝室の空気が鋭く吹き込み、華奢なからだが冷気に震えた。
    俺はつかんだ手首を放り出すように、あなたを寝台へと倒しこむ。
    重みにギッと軋む木組みの音。それは静かな薄闇に鋭く耳障りで、あなたは僅かに眉根を寄せた。
    妖しく煌めいていた瞳に、かつて見慣れた理性の光が戻ってくる。
    今、この一瞬だけ、あなたはすべてを正しく理解しているようだった。
    しかし、それも本当に一瞬のこと。
    何もかもを一度に思い出してしまったあなたは、蒼ざめた顔色をさらに白くして、恐怖に引きつった悲鳴をあげた。
    「あ‥あ‥‥あああああ────!!」
    ばんっっ!
    部屋の扉が跳ね返るほどの勢いで開けられて、ルイとミシェルが飛びこんでくる。
    「アランっ!?」
    「大丈夫だ。ショコラ持って来てくれ、早く!」
    「判ったっっ」
    なにが視えているのか、虚空に目を向けて悲鳴をあげ続けているあなた。
    俺は寝台にどっかり座ると、膝の上に抱きとった。
    「大丈夫だよ、オスカル」
    混乱して暴れるのを力ずくで抱きしめて、耳もとで何度もささやいてやる。
    「大丈夫だ、オスカル。俺はここにいる」
    「いやぁだぁぁっ!」
    無理矢理に後頭部を押さえつけ、深く何度もくちづけてから、胸に顔を埋めさせる。
    ぎゅっと強く押しつけると、あなたは激しく身悶えして俺を押しのけようとしていたけれど、やがて徐々におとなしくなっていった。
    「アラン、待たせた!」
    ようやく届いたショコラのカップ。俺が手を添えて持たせようとしても、あなたの手は力なく滑り落ちる。
    どんな薬よりも、あなたを落ちつかせるぬるめのショコラ。
    俺はひとくち含むと、放心したあなたのくちびるをふさいで流しこんだ。
    コクンと小さく動く喉。
    俺は気長に少しずつ、ショコラを飲ませる。
    そして。
    甘さとほろ苦さに濡れた舌が俺のくちびるをたどる頃、ようやく部屋から異常な緊張が消えた。
    俺はあなたの舌を受け入れてやりながら、目線でルイたちに退がるように合図する。
    あなたを刺激しないように、そぅっと閉められる扉には内側からのノブがない。
    「大丈夫だよ、オスカル」
    落ちついたのを見計らい、確認するようにそう言うと、あなたは無垢な瞳で俺を見返した。
    くちづけを中断されて、なぜかと不満そうなその表情は、まるきりおもちゃを取り上げられた子供だ。
    「アンドレ、もっと」
    じれったそうに見上げてくる瞳に俺は根負けし、諦めを以てくちづけを再開する。
    けれど。
    諦め半分の重苦しいくちづけは、徐々に俺を本気にさせた。
    こんなのおかしい。
    こんなの納得いかねぇ。
    ……アンドレの、代わりなんて。
    そう思いながらもズルズルとくちづけにはまり、懸命に理性を保とうとする俺をからめとる、白磁のごとき冷えた指。
    しっかりと首に腕をまわし、あなたは積極的に密着してくる。
    しっとりした女の肌。
    柔らかいくちびるの感触が、首筋へと這い降りていく。
    「アンドレ、愛している」
    きっと伝えきれなかった言葉なのだろう。
    何度言っても言い足りないのか、くちびるはそれだけを繰り返す。

    …あいしているあいしているあいしているあいしている…

    アンドレに向けられたその言葉は、途切れ目のない環となって俺の頭をおかしくさせる。

    あいしているおまえをあいしているおまえをあいしている…

    事実がぐにゃりと歪められ、アンドレのための言葉が自分のためのものに思えてくる。
    俺を見つめてそらさない瞳。
    熱っぽい、俺を欲しがる女の…
    「俺も、愛してるよ」
    「本当に?」
    「あんたを愛してる」
    「嬉しい。アンドレ、もっと言ってくれ。ずっと、ずっと」
    「俺で良けりゃいくらでも言ってやる。愛してるよ、た」
    俺はハッと言葉を止めた。
    “愛しているよ、オスカル”
    そう言うべきの、台詞。
    あなたはそれを待っている。
    でも。
    …それは俺の台詞じゃない。
    なのに。
    「アンドレ。愛している」
    呪文のように繰り返される言葉。
    「おまえは?私を愛してくれているか?」
    「俺… 俺だって」
    ああ、だめだ。
    こんなの到底気に入らないのに、あなたの瞳は俺なんか見ていないのに、相反する混乱に惑わされ、俺は甘えてくる肩を押し倒す。
    そのまま組み敷いて首筋に顔をうずめ、ブラウスを開くのももどかしくて服の上から体中をまさぐって。
    脳裏を掠める黒い隻眼。
    すまない、アンドレ。
    俺はありったけの詫び言で頭の中をいっぱいにし、ヤツを締め出しにかかる。
    謝って謝って、これだけ詫びたんだからと許された気になりたがっている。
    汚ねぇよな。
    ……アンドレ。俺はどうしたらいい?
    そうくちびるを噛みながら、それでも俺には、引きずられていく自分を止めることが出来ない。
    ごめん、アンドレ。でも、おまえなら許してくれるだろう?
    心からすまないと思いながらも、そんな都合のいい言い訳をきめこみ、俺はあなたの香りに揺さぶられていく。
    俺の下で、甘えてねだる女の瞳。くちびる。
    今までさんざん妄想してきたすべてが、目の前にある。
    気が急いて、目が眩みそうだった。
    でも。
    「ア…ンドレ、早く。おまえのもの…に」
    掠れ気味の声と熱い息が耳にかかり、ほとばしりかけた欲望の奔流はぶった切られる。
    「俺…は」
    アンドレじゃねぇ。
    飛び退くように寝台から離れ、俺は振り向くこともせず寝室を出た。
    足早やに歩きながら、イラつく指でポケットをかき回し、大きな厳めしい鍵を取り出す。ノブのない鍵穴にそれを突っこんで錠を解き、鍵をノブ代わりにして引っ掛けるように手前に引けば、扉は簡単に開く。
    あなたには、決して開けることはできないけれど。
    細く開けた隙間から、俺は転げるように部屋を出た。
    バタンっ!
    荒々しい音をたてて扉を閉め。
    「大丈夫だったか?」
    顔を上げると、ユラン伍長が見下ろしていた。
    俺は扉に寄りかかったまましゃがみ込んでいて。
    「すみません。判りません。俺の方が、つい感情的んなっちまった。落ちつかせることは出来たと思うけど」
    「隊長のことじゃない。アラン、おまえが大丈夫かと聞いている」
    「俺?」
    …ああ、俺。
    「大丈夫です。ええ、もちろん大丈夫に決まってるじゃないですか」
    俺は目線を外し、ドッと疲れがまとわりつく体で立ち上がる。
    ユラン伍長から顔をそむけたまま、その横をすり抜け、溜まり場になっている居間へ向かった。
    冷えこむ廊下は、1歩進むたびにミシミシ音を立てる。
    建て付けの狂った厚い扉を押し開けると、振り返ったみんなの目が俺に集中した。
    「隊長は?」
    「たぶん落ちついてる。あっちに戻ったみたいだ」
    「そう…か」
    みんなの、納得と苦渋が入り混じった顔。
    「アラン。もう少し、この隠れ家に帰って来れないか?」
    あの7月14日。
    テュイルリーで逝ったアンドレを追うように、凶弾に倒れたあなた。
    あの日、あのバスティーユで、オスカル・フランソワは死んだ。
    そういうことになっていた。
    瀕死の重傷を負ったその身が王党派の手に落ちれば、反逆罪を問われ、手当てを受けることもなく牢獄に打ち捨てられるのは、判りきったことだった。かと言って市民側にかくまわれたとしても、寝返った大貴族として祭り上げられて、ゆくゆくは矢面に立ち、結局命を狙われる立場になる。
    バスティーユにひるがえる白旗に、怒号と歓喜の声が湧き上がる中、とっさにそう判断したユラン伍長と俺は、あなたの身を隠すことに決めた。
    確実に信頼できる1班の生き残りと一緒に、混乱に乗じてパリを離れ…
    あんなむちゃくちゃな状況下で、正直なところ、あなたが助かってくれるとは思わなかった。この数カ月、みんな、ただ夢中でやってきただけだった。
    ヤツが遺したあなたを、護るために。
    「なぁ、アラン。おまえ、もうちょっと隊長に優しくしてやれないのか?」
    ラサールのひと言に、俺は過敏に反応する。
    「優しく、だと?」
    「そうだよ、アラン。せめてあんなときだけじゃなくて、普段から“オスカル”って呼んであげなよ」
    一緒になって重ねてくるフランソワの声が、そうでなくてもささくれている俺の神経を逆なでした。
    「黙ってろ、フランソワ。おまえなんか隊長と一緒に拾ってきてやんなかったら、今ごろ凍った土の下だぞ」
    ギッと睨んでやったけど、フランソワは一瞬怯んだ様子を見せたものの、なおも言いつのる。
    「アランがちょっと顔を見せるだけで、隊長がどんなに喜ぶか、アランには判らないんだよ」
    ぁあん?俺には判らない?
    俺は震えるぐらいにギチギチと拳をかためる。
    「だって、ろくに隠れ家(ここ)にいないんだから。アランに“オスカル”って呼ばれた隊長が、どんだけ幸せそうに微笑うか」
    「…黙れ」
    「それに、隊長があんなに望んでるんだから、だっ…抱いてあげればいいじゃないか。そしたら隊長だって、もしかしたら戻っ」
    「フランソワ、てめぇ!」
    ただでさえここに来るとピリピリしてしまう俺は、がまんしてたぶんだけ一気に感情が振り切れ、フランソワに飛びかかった。
    「黙ってろっつってんだろうがっっ」
    胸ぐらを掴みあげ、利き手を躊躇なく振り上げる。
    だけど俺に出来たのはそこまでで、次の瞬間には元衛兵隊員たちの見事なチームワークで羽交い締めにされ、床に膝をつかされていた。
    「ちくしょ…離せてめぇら!」
    押さえつけられて、余計頭に血がのぼる。
    おまえらなんかにっ…
    おまえらなんかに、俺の気持ちが判るか!あんな目をして、アンドレと呼ばれる俺の気持ちが…っ!!
    「おまえたち、そこまでにしとけよ~」
    睨み合う緊迫感が高まり、誰もが引っ込みがつかなくなったとき、のほほんとした声がした。
    開いた扉から、ヒョイと顔だけ出している
    「ユラン伍長!」
    「夏からのこんな状況でイライラするのは判る。みんな疲れているんだろう。でも」
    コツコツと靴音をさせて入ってきたユラン伍長が俺に手を差し伸べると、四方八方からガッチリと俺を押さえこんでいた腕がゆっくり離れていった。
    俺は伍長の手を取り、のっそりと身を起こす。
    「ラサールもフランソワも、ちょっと言い過ぎたな。そうだろう?」
    「でも」
    「……すみません」
    不服そうに口ごもりながら、一応、2人は謝る。
    けれど、まだ気がおさまらない俺は、奥歯をギッチリ噛みしめてフランソワを見据えていた。
    「おまえも悪いぞ、アラン。もういいかげん大人になれ」
    そう言いながら、ユラン伍長はクイと小さく顎を上げ、俺を廊下へと促した。
    雰囲気の重くなった居間。
    居心地の悪さも相俟って、俺は伍長の背中についていった。無言のまま短い廊下を進み、軋んで鳴く階段を2階へと上がっていく。
    つてを頼って、なんとか借りた郊外の一軒家。元は豪農の家屋だったらしい。
    1階の主人の私室と、その間続きの書斎をあなたの居室と寝室にし、家族がくつろぎのときを過ごしたであろう居間を、元隊員たちの歓談用の部屋としたこの隠れ家。2階の各室は、兵舎さながらにプライバシーのない、寝起きするためだけの場所になっている。
    あの夏の日から、あなたを護ってここに息を潜めているのだ。みんな神経が参っていて、ちょっとのことでもイラつくのは無理もないことだった。
    「すみませんでした」
    めったに使わない俺用の寝台に座り、頭を下げると、正面に座ったユラン伍長は俺をじっと見つめた。
    「…痩せたな」
    「…俺だけじゃないです」
    ここに詰めてるみんな。あののうてんきなフランソワだって、相当やられている。
    「こんな状況下じゃ、誰だっておかしくなる。みんな残してきた家族が心配だろうし、そりゃ交代で帰っちゃいるけれど、また、いつどんなことが起きるか判らない中、俺だけが」
    国民衛兵として市中に留まっていた。そのことも、みんなが俺にイラだつ理由の1つだった。
    反旗を翻した貴族の粛清をはかる王党派と、貴族の馬車を襲い、屋敷を焼き討ちし、徐々に暴徒と化してきた市民たち。この隠れ家を守るためには、どちらの情報も不可欠で、国民衛兵という立場は打ってつけ。誰かがやらなきゃならない仕事だった。
    「しかし、バレれば身の危険も大きい。ことに王党派には。すっかりと忘れているようだが、アラン。おまえだって貴族だろう?」
    「はっ、所詮うちなんざ。それにもし、俺に何かあったって」
    最も愛した妹は自ら死を選び、それからいくらもしないうちに、母親も失意のまま逝った。みんなと違って、俺にはもう、悲しむ家族だってない。
    「隊長が悲しむよ」
    「なに…言ってんですか、ユラン伍長。隊長は」
    蔦格子のはまった窓辺で、アンドレの帰りだけを待っている。
    「隊長を、愛している?」
    「なっ…なに…言ってんですかユラン伍長!」
    「アンドレの代わりを演じるのは辛いか?」
    「俺… 俺は」
    「名前を呼んでくちづけて、そして、」
    「いいかげんにしてください!抱いてやればあの(ひと)が戻ってくるとでも!?」
    俺が訪ねるたびに、ガラス玉のように透明な目をして、同じ問いかけをするあなた。俺をアンドレと呼んでくちづけをねだり。
    「…ただ…髪の色と瞳の色が同じなだけじゃねぇか…」
    「アラン?」
    「な‥んで」
    なんで俺なんだよ…っ!!
    気がついたら、俺はユラン伍長の胸を借りて大泣きしてしまっていた。
    どれぐらい、そうしていたのか。
    目の奥が熱くて、ほっぺたも熱くて、俺は涙と鼻水でグチャグチャだった。
    「す‥みま‥せ‥」
    どんな顔をしていいのか判らなくて、顔を伏せたまま借りた胸を押し返すと、ユラン伍長は俺の髪をくしゃくしゃとかき回した。
    「やっと泣いたなぁ、おまえ」
    そうだった。
    あのティユイルリーから、みんなが悲嘆にくれて泣き崩れる中、俺だけが冷静だった。心がどんどん冷えていって、忙しく動き回る自分を、少し遠くからぼんやり眺めているような気がしていた。
    あれから秋、冬と。
    ああ。久しぶりに、からだに血の通う感覚がする。
    「ユラン…伍長…」
    「よしよし、ようやく生きた人間の顔になったな」
    額が触れんばかりに覗きこまれて、俺は軍服の袖でグイッと涙を拭いた。それからしっかり顔を上げ。
    「ご心配、おかけしました」
    そう言うと、ユラン伍長は何度も頷きながら笑ってくれた。
    そして。
    「なぁ、アラン。今思いついたんだが、隊長がおまえをアンドレと呼ぶのは、もしかしたら、おまえだけが軍服を着ているからじゃないだろうか」
    「!」
    あなたの目に焼きついているアンドレは、7月13日、軍服姿のあいつ?
    「今の隊長に、衛兵隊と国民衛兵の軍服の違いが判るとも思えない。アラン、ちょっと上着を貸してみろ。他の奴に着せて試してみよう」
    あんな瞳でくちづけを欲しがり、抱いてくれと言うあなた。
    「だ…っ、そんなのダメです!アンドレは俺がやる!!」
    勢い込んでそう言うと、ユラン伍長はケタケタと笑った。
    「やっぱりおまえはケツの青いガキだなぁ」
    かあぁっと耳が熱くなるのを感じて、俺は仏頂面で立ち上がった。
    「帰ります。俺、これから夜勤なんで」
    「そうか」
    ニヤニヤしたユラン伍長は、俺を玄関まで送ってくれた。
    「そういやアラン」
    「なんすか?」
    「おまえ、忙しいのに無理して毎日帰って来なくていいぞ。そんなに痩せて、ほとんど寝てないんだろう」
    「え?」
    なん…で、伍長?
    「俺も最初は気がつかなかったけどね」
    今年最初の雪の日。予想外に積もった雪が、蔦格子のはまった窓の下にだけは吹き上げていなくて、ユラン伍長にはピンときたという。
    「足跡はすでに風に消されていたけれど、それからは少し気にかけるようにしていたら、すぐ確信に変わったよ」
    バレてないと思ってたのに、ほんとカッコ悪くて、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
    「あ~あ、お見通しかよ」
    俺はカッコ悪いついでに庭へ足を向けると、あなたの部屋の窓辺に立った。
    暖炉のそば、ぺたりと床に座ったあなたは、揺れる炎に魅入っている。

      時はめぐり めぐるとも いのち謳うもの すべて
      懐かしきかの人に 終わりなき我が想いを運べ

    微かに聞こえてくる歌声。

      青い瞳 その姿は さながら天に吼ゆるペガサスの
      心ふるわす翼にもにて… ブロンドの髪 ひるがえし…

    「あれだけの重傷を負ったんだ。体にも、心にも。焦るな、アラン。ここから先の方が長い。隊長も、俺たちも、俺たちが口火を切った革命も」
    「はい」
    「もう少しだけ、そっとしておいてあげよう。隊長は今、アンドレの帰りを待つだけのただの女として、幸せな毎日を送っているのだから」
    「…はい」
    「それでも。隊長はいつかきっと、戻ってくる」

    そのとき、あなたが思うまま動き出せるように。

    明日来るかもしれないその日のために、俺は今日も、雪の舞い降りる隠れ家をあとにする。


    FIN
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