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【15日の贈り物】(2013 / ヴァランタン)
UP◆ 2013/2/14蹄鉄の音も軽快に滑り込んでくるジャルジェ家の馬車。
「お帰りになられたぞ」
「オスカルさまのお着きです」
御者が見事な手綱さばきを見せ、毛並みも艶やかな馬たちは、車寄せのちょうどよい位置でぴたりと止まった。
「お帰りなさいませ」
出迎えに揃っていた次期当主付きの侍女たちは、そろって恭しく頭をさげる。
エントランスで扉番を務めている見目のよい従僕が、様式美に叶った所作で馬車の扉を開いたのだが。
…あ。
降りてきた主人を見て、誰もが彼女の不機嫌に気がついた。
もちろん彼女はひと前で、あからさまな仏頂面などしない。
わずか14歳にして近衛隊に招かれ、士官学校も終えぬうちから大尉の位をいただいたオスカル・フランソワ。その特異な存在から、公私のけじめにはきっちりとした線引きが出来ている。
にも関わらず、今回、彼女の不機嫌がバレてしまったのは、なにもお付きの使用人たちの洞察力が特別優れていたからではない。
先に降りたアンドレの差し出す手を、彼女が無視したからだ。
…おかんむりだな。
侍女や従僕たちの間に、そんな目配せが走る。
今日はまた、久しぶりにスゴそうな…
いつもの帰宅なら、側仕えを任されている侍女が数名、彼女のあとに付き従って部屋へ行き、着替えを手伝い、髪など梳いたりするところなのだが。
カツカツと、ことさら高く響く軍靴の音は、彼女の心情を反映するよう。
一同はうち揃い、自室へ引き取る次期当主の背中に、またも恭しく頭をさげる。
ホールを進み、アンドレを背後に連れて大階段をのぼっていくオスカル・フランソワ。
その姿が見えなくなると、皆はホッと緊張を解いた。
「久しぶりのご機嫌ななめ!」
「このところ、とっても穏やかにしていらしたのに」
「いやいや。あれは“穏やか”というより、たおやかですらあったぞ」
「時に女性らしい色香までもが漂っていたような」
一同は寄り集まってボソボソと喋っていたけれど。
「ともかく今日は、お呼びがない限りお部屋に近づかないことね」
「こういうときは、アンドレ1人に任せた方がいい」
経験からそう判断した召し使いたちは、それでなんだか一件落着した気になって、またバラバラと、それぞれの持ち場へと戻っていった。
彼女の不機嫌の原因は、それこそ、そのアンドレだというのに。
ぱたり。
扉が閉まると、彼女ははっきりと不機嫌な顔を見せた。
そして彼の方も、扉を閉めきったとたん、露骨なほど挑戦的な表情になった。
それでも彼は従僕としての習慣から、上衣を脱ぐ彼女を手伝うべく手を伸ばす。
が。
「触るな。着替えぐらい自分で出来る」
彼女は邪険にアンドレの腕をはねつけた。
しかし彼はそれを絶妙にかわし、彼女をすっぽりとからめ取ってしまう。
そのまま、ぎゅうっと抱きしめてくる彼。
最近は、その抱擁を愉しむ余裕も身につけ始めた彼女だったが、今日はそうはいかない。
こんなことでなし崩しにしようだなんて!
強引にくちづけにもっていこうとする彼に、余計に頭にきた彼女は、慣れてきた腕の中でもがいた。
抱きすくめられ、彼の胸に添えるような形でたたまれてしまった腕。それを懸命に押し広げようとするけれど。
…ちっ。この馬鹿ぢからめ。
密着した距離は少しも開かない。
「どう?謝る気になった?」
顔を真っ赤にして無駄な努力をしている彼女に、アンドレの声は、小ばかにしたような半笑いだった。
「誰が謝るか!」
「ふうん。じゃ、お言葉に甘えてやっぱり出かけよっかな」
「好きにすればいい」
「かわいくないなー」
ことの発端は、その日の勤務が終わる直前だった。
新年を祝う行事が怒涛のように続き、特別警戒に忙殺される衛兵隊。12月も末あたりから、ろくに休みも取れていない。
けれど。
『明日からは、しばらくゆっくりできるな』
彼女はちょっとだけ熱のこもった声音で、彼につぶやいた。
それは本当に用心深く小さな声で、いつも影のように付き従う黒髪の恋人にしか聞こえない。
2月になり、ようやく確保できた年末年始の分の休暇。今日の勤務が終われば、隊員たちは奇数班と偶数班交代で、10日ほどの連休に入る。
それに合わせて、さりげなく自分の休みを被せてある彼女。
どっちに?
それはもう、当然奇数班の休暇に決まっていて…
ふっふ。今日の勤務が終わったら、一目散に屋敷に帰って仕事して、それからえーっと。
彼女は帰宅してからの段取りに思いを巡らせる。
大貴族の後継者たるオスカル・フランソワ。屋敷に帰ったら帰ったで、こまごまとした内向きの執務が待っていた。
けれど。
今夜はそんなものなど適当にうっちゃって、彼にまとわりついて過ごしたい。
ここ数日は、特にすれ違い気味だったからな。ふっふっふ…
今宵の甘い妄想に、彼女はふうっとため息をつく。
なんなら少し気分が優れないとか言って、早めに部屋に引きこもってしまおうかな。食事は軽めのものを運ばせて。でも不用意にそんなことをすれば、心配性のばあやが黙っていないかも。うーむ。
『アンドレ、おまえどう思う?』
うつむきかげんで腕を組み、ご思案中だった彼女は、ついと顔を上げて彼を振り仰いだ。
いつも後ろからそっと見守ってくれている恋人。
ただいまラブラブ最高潮の彼も、きっと同じことを考えていると思ったのだが。
アンドレ?
たった今までそばにいたはずの彼は、アランに引かれるようにして、少し離れたところにいた。
肩口を寄せ合い背を向けて、まるで聞かれたくない話をしているよう。
軽く癇に障るコソコソした様子に、彼女は素知らぬふりでにじり寄り、耳をそばだててみる。
『休暇前だし、アンドレも、な?』
『いや。悪いけど俺は』
『ミシェルがさ、未だに連日通ってて。さすがに俺も体がもたないんだよ。アレがすんごい溜まっちゃってるから、付き合ってくれればおごるってさ。あいつ、あの店に1人で行くのは、恥ずかしくてイヤなんだと』
『俺、今夜はちょっと… おばあちゃんに用を頼まれてるんだ。だから』
『そんなもん明日だっていいじゃんよ。それに、おまえだってけっこう溜まってんだろ?澄ました顔して、キライじゃないくせに』
『そりゃまぁ、俺だって多少は溜まってるけど』
『じゃ、付き合えって。そんなもん溜めこんどいたって意味ねぇんだから。使ってなんぼだろーが』
『でも…うーん。男としちゃ……やりたい気持ちはあるけどなぁ』
会話の内容を察した彼女の眉間に、すぅっとシワが寄る。
言い訳がましく優柔不断な恋人に、瞳が険しく細められ。
『なぁ、アンドレ。どうせ屋敷に帰ったって、あのオトコ女の顔見てるだけなんだろ?だったら今夜は、若くてカワイイ女の子とさ』
『そうだぞ、アンドレ。気兼ねなく行ってくるがいい』
『って、うっわぁあぁぁ!!』
寄せ合ったいかつい肩の間から、ヌッと顔を覗かせた彼女に、男2人は盛大に驚いた。
『げっ、隊長』
『オスカル…っ』
微妙なスマイルを顔に貼りつけ、後ずさり気味になるアンドレとアラン。
彼女はそのアランだけに、にっこりと笑った。
『たまにはアンドレも、羽根を伸ばしたいだろうしな』
『え”‥はい‥あの、すみません』
思ったより理解のあることをいう女隊長に、アランはへどもどしてしまうが、彼女はそれを気にすることなく、彼へも目を向けた。
『アンドレ。ばあやのことなら、気にせずともかまわないぞ』
優しげに微笑んでみせるが、もちろん瞳はちっとも笑っていない。
“おばあちゃんに用を頼まれてる”
それが
そして。
“ばあやのことなら気にせずとも”
この台詞が“ばあや”=“私”という意味なのは、彼にもちゃんと判っていた。
『ではアラン。休暇あけにまた会おう』
ちょうど過ぎた勤務時間。
彼女はくるりと背を向けて、その場を立ち去った。
『隊長もああ言ってることだし。さ、アンドレ、行こうぜ…って、アンドレ?』
上官であり、主人でもある彼女の許しも得たことだし、アランはてっきり彼が同行すると思ったのだが。
『アンドレ!おい、アンドレっ!?』
彼はアランを振り返ることもなく、彼女のあとを追ったのだった。
彼女の部屋で、まだ続く小競り合い。
「ほんとに出かけちゃうぞ?」
「だから、好きにすればいいと言っているだろう?」
「おまえなぁ、」
なおも言いつのろうとした彼だったが、半笑いを引っこめて腕を解いた。
ふくれっ面で意地になっている彼女。
「……うん、判った。おまえも疲れてるだろうし…うん」
彼はむしろ自分に言うように何度か頷き、恋人の額にくちづける。
それはおとなしく受け入れてくれた彼女に小さな満足をして、彼は部屋を出ていった。
ぱたんと閉まる扉。
たいした音でもないのに、静かな部屋には大きく響く。
「あ~、もうっ」
思わず情けない声をあげ、彼女はしゃがみこんだ。
…やってしまった…
大人げないと判っていながら、つい苛々する気持ちに振りまわされてしまった。
だって。
あいつがビシッと断らないのだもの。
コソコソと聞こえてきたアランとの会話。それは男性特有のものだった。
…アランめ。私のアンドレを娼館に誘うなんて。
これだけ男ばっかりの中に身を置いているのだから、そういう心理や生理は判るつもりでいた。
男には、恋愛感情とは別に、そういうところが必要だと。そして疲れているときなどには、特にそういう欲求が高まったりするらしいことも。
それに娼館のお姉さん達だって、妙な感情抜きに、プロ意識を持って職業に従事しているのだと理解していた。
今まで偽りなくそう思ってきて、だって、青春のすべてを捧げて愛したフェルゼンにさえ、何人も愛人がいたのだ。
金銭の受け渡しを以て成り立つ関係であれば、中途半端な好き心で浮気されるより、どれほど明快なことか。
私はそんな、もの判りの悪い女ではないぞ?はっはっは。
彼との恋に落ちる前は、本当にそんなふうに思っていたのに。
「はあぁ」
彼女はまん丸くしゃがみこんだまま、しおれた息を吐き出した。
明日からは連休だぞ?久しぶりに、翌日の勤務を気にせずに過ごせるんだぞ?楽しみにしていたのは私だけだったのか?
「それにアンドレ。今日はヴァランタンじゃないか…」
子供の頃からずっと、この日は一緒に過ごしてきた。互いに小さな贈り物を用意して永遠の友情を誓い、心を寄せ合った幼い2人。成長してからもそれは、儀式のように続いていたのに。
くすん。
一緒に帰ってきた彼を、へそを曲げて追い出したのは自分のくせに、ちょっぴり涙がにじんでくる。
…いい年をして何をやっているのだ、私は。
彼と恋人同士のくちづけを交わしてから、どうもそっち方面の情緒だけが不安定な彼女。変わっていく自分に、誰より自分がついていけていなかった。
「しっかりしろ」
ぼそりと彼女は独り言ち、うっそり身を起こす。
「着替えを… 終えなければな」
いちいちと口に出せば、早くいつもの自分に戻れる気がした。
「まずは、と」
彼女は脱ぎっ放しでぱさりと置かれていた軍服を、長椅子から取り上げる。
トルソーに着せかけていたら、ほとほとと扉が鳴った。
アンドレ!?
彼女はパッと顔を向け、でも、聞こえてきた古参の侍女のしなびた声にガックリと床に崩れた。
「どうなさったのですか?オスカルさま」
「…ちょっと落とし物を」
「そんなこと!お呼びくだされば、私どもでいたしますのに」
長く勤める老侍女はことさら古風で、次期当主が床に這って探し物をするなど、とんでもないと思ったのだろう。銀のトレイを手にしたまま、小走りに寄ってきた。
「いや、大丈夫だ。今!たった今、見つけたところだから」
彼女はあたふたと立ち上がり、問題ないと侍女をなだめた。訪れたのがアンドレじゃなくて、がっかりしたなんて言えたことではない。
「そんなことより」
侍女の手にするトレイの方が気にかかって、彼女はヒョイとのぞいてみた。そこには、ころころと可愛らしく膨らんだマカロンが並んでいる。
「皆の評判はどうだった?」
「それはもう!お茶の時間にふるまいましたら、みんな喜んでいただいておりましたわ」
「私が作ったとは?」
「大丈夫、気づかれていません」
「そうか」
彼女は安心してニコリと笑い、トレイを受け取った。
夜明け前に作ったときには、もっと大きなトレイに結構な量があったのだけれど、今はずいぶん減っている。好評だったというのは、お世辞ではないらしい。
それに、ベテラン侍女の気遣いなのだろう。ことに形のよいものだけをより分けて、残しておいてくれたようだ。
着替えを促す侍女に身を任せながら、彼女はここ数日の慌ただしさをふり返ってみる。
例年なら、ささやかながらも趣向を凝らした贈り物を選んできた、彼とのヴァランタン。けれど今年はどうにも忙しくて、買い求める時間などなかった。
どうしよう?
人に頼んで適当なものを宛がう気は、毛頭ない。
うーむ…
良い案が浮かばぬまま日々は過ぎ、いよいよ困った彼女は、たまたま近くにいたこの侍女に、なんの気なしに言ってみた。今年のヴァランタンの贈り物が、まだ決まっていないのだと。
2人の子供の頃からを知る老いた侍女は、慈愛のこもったしわくちゃの目で、孫ほど年下の次期当主に優しく笑った。
「それほど難しく考えることもないのではありませんか?私たちなどは、ちょっとしたお菓子や花などを贈りあうだけですわ。ようは気持ちですもの」
…お菓子?
そして、気持ち。
「それだ!」
彼女は一気にひらめいて、このヴァランタンに手作りのお菓子を贈ることに決めた。
これなら、忙しい合間に無理して買い求めることもなく、帰宅したあとの時間でもじゅうぶん用意できる。
それに。
手作りの菓子など、実に恋人同士らしいではないか。ふっふっふ…
そう思い立った日から、彼女は皆が寝静まる頃になると厨房へ降り、老侍女に教えてもらいながら、たくさんの菓子を作った。
おかげで寝不足にはなるし、彼との時間は余計に減るし、はじめは上手くいかなくて、材料をずいぶん無駄にしてしまったけれど。
「我ながらこれは、会心の出来だったな」
着替えの手伝いを終えた侍女が退がると、彼女は長椅子に座り、改めてトレイを眺めた。
今朝がた仕上げたマカロンたち。
クリームを挟んだものや、果肉多めなコンフィチュールを詰めたもの。アクセントに刻んだナッツをあしらったものなどが、とりどりに並んでいる。
今までで1番よい出来で、彼に披露する瞬間を心待ちにしていた贈り物。
「アンドレ…」
クッションを抱え、彼女はばったりと倒れこむ。
どうしてこんなことになってしまったのか。
それはもちろん、私がつまらぬヤ‥キモチ‥を焼いたせいで、いや、別にヤキモチなど焼いていないが、なんと言おうか、んー、少しばかり気分を害して…… そうだ。そもそもあいつが最初から、アランの誘いをバシッと断わっていればこんなことには…うう…
どう考えても自分が悪かった。
なんで素直に謝れなかったのだろう。
あいつはちゃんと一緒に帰ってきたのだし、あんなに怒るほどのことじゃなかった。
「ああ、近頃の私ときたら!」
侍女に聞いたところによると、彼は本当に出かけてしまったらしい。
誘われていた娼館に行ったんだろうか。
そんなの……
「いやだ」
ぼそりとつぶやいていた。
“私はもの判りの悪い女ではないぞ?”
どうしてそんなふうに思えたのだろう。
今、彼が娼館にいて、見も知らぬ女の肌に触れている。
そう思うだけで胸がきゅうっと痛み、混ざり合う哀しみと、チクチク棘の生えた嫉妬で涙がにじんでくる。
そんな自分に、またもや困惑する彼女。
自分で思う自分なら、こんなときにはむしろ、怒りが湧いてきそうなものなのに。
フェルゼンに恋をしていたときは、愛人の存在なんて織り込み済みだったし、王妃に嫉妬するなど恐れ多いことだった。
でも。
ちょっと想像してみる。
王妃と浮気するアンドレ。
アモーを手をつないで散策したり、木陰で秘密のくちづけを交わしてみたり。そして、推定Gカップといわれる白肌美乳に、恍惚の表情で顔を埋める彼。
アンドレ。おまえ、実は巨乳フェチだったのか。
若干視点がズレた気もするが、彼女の瞳にはうるうると涙がたまってくる。
尊いお血筋の方だから恐れ多いなんて、彼の前ではなんの関係もない。
そうだ。
アントワネットさまだろうがロザリーだろうが…
って、ロザリー?
ベルナールの目を盗んで密会する2人。亭主が留守の隙に家に入りこみ、昼下がりの若妻といけない情事。
アンドレ。やっぱりおまえも、女は若い方がいいのか。
「ああ…!」
着眼点が完全にズレたまま、彼女は美しい雫を一粒、まなじりに滑らせた。
いやなのだ。
相手が誰であろうと、そこに恋愛感情があろうがなかろうが、彼が他の女に触れるなんて。
“私はもの判りの悪い女ではないぞ?”
本気でそんなことを思っていた彼女は、本当の自分をちっとも判っていなかった。好きな男を独占したい、ごく普通の女でしかない自分自身を。
そういえば、お菓子作りに気を取られて、ここ何日かはろくにくちづけもしていない。これでは『多少は溜まってる』と遊びに出られても、仕方ないのかもしれなかった。
しっとりと、忍びこんでくるような彼のくちづけ。
彼女は長椅子に横たわったまま、目を伏せて、恋人の感触を想った。
そっと触れて、熱っぽい弾力で押し包んでくる彼。
やがて、だんだんと吸うように…くちびるを…開…いて…私を夢中にさ…せ…
「ぁ…っ……ん…」
そう…こんなふう……に!?
自分の漏らす甘ったるい息に、パッと目を開けた彼女の視界には、艶やかな漆黒の髪。
くちびるはすでに、しっかりとふさがれていた。
アンドレ?なんで!?
びっくりしてパタパタ暴れる彼女を上手に抑えこんで、突然現れた彼のくちづけは長い。
「んんっ!ん―――!!」
何か言おうとしても、徐々に激しくなっていくくちづけに、彼女は身動きもできなかった。
娼館には……行かなかったのか?
思いがけなく戻ってきてくれた彼に、気が緩んでまた、何粒かの雫がこぼれる。
それには今度は、彼の方が驚いた。
「そんなにいやなの!?」
「違…っ」
身を起こしながら、彼女はふるふると首を振った。
「だったらおまえ、なんで泣いて」
「それよりも」
彼女は濡れた瞳で、彼の言葉を遮る。
「アランたちは?娼館には行かなかったのか?」
「娼…館?なんのことだ?」
ご機嫌ななめなお姫さまに、いったん彼女の部屋から出た彼は、あのあと確かに気がかりだったアランたちの元へ向かってはいた。
「ミシェルがね、ある女の子に一目惚れしちゃったんだ」
年末は忙しくなるからと、12月も始めに、皆で近くの酒場へ飲みに出た1班。
そこで働く女の子に、隊員の1人が恋に落ちた。
「新入りで、ちょっとドジな天然風で、ほっとけなくなっちゃったんだろうなぁ」
それ以来、その隊員は酒場に通いつめた。1人で行ってはバレバレだからと、いつも誰かを誘って。
しかし、ろくに休みもなくなっていく激務の中、同行してくれる仲間はだんだん減っていき。
「最近じゃ体力が余ってるのは、アランぐらいになっちゃってさ。来店ごとにもらえるドリンク券、すんごい溜まってるよ、あいつら」
「溜まってる…ってアンドレ、おまえも…?」
「まぁ、多少は溜まってる。俺もみんなで飲むのは嫌いじゃないからね。ミシェルは本気みたいだし、男としちゃ協力してやりたいだろ?」
「あ…ああ!」
そういう、ことだったのか!!
『澄ました顔して、キライじゃないくせに』
『俺だって多少は溜まってるけど』
『男としちゃ…やりたい気持ちはあるけどなぁ』
彼女のご機嫌を損ねた、いくつかの台詞。
そういう意味だったのだ。よく聞き取れていなかっただけで!
「なん…だ」
判ってみれば簡単なことで、1人大騒ぎしていた自分が馬鹿みたいだった。
「俺も出来るだけミシェルに付きあってたから、このところちょっとかまってやれなくて悪かったと思ってる。おまえ、それを怒ってたんだろう?」
「いや、あの、私のことなど…」
菓子作りに必死で、そんなことに気づいてなかったとは言えなかった。
「男は…な、うん。友情に厚くないとな。私はそんな、もの判りの悪い女ではないぞ」
多少ひきつりながら、にこりと笑って見せると、彼は理解のある恋人に、甚く胸を打たれたようだった。
互いにどこかズレた部分を感じながら、それでも良いものしか見えないのは、若気の恋の勢いなのだろう。
……そう若くもないけれど。
「今からでも、向こうに行くか?」
「いや、あいつらのところにはさっき顔を出して、俺の持ってたドリンク券、全部置いてきたから。そんなことよりも、オスカル」
彼は彼女を引き寄せると、涙に中断されていたくちづけを再開した。
「待ってくれ、アンドレ。私もおまえに話したい…こと…が」
彼の指先は早くも胸元のリボンを解いている。
「アンドレ待て、今日はヴァ…ラ…んっ…」
「もう、待てないよ」
アランたちに顔を出し、再び部屋に戻ったとき。彼女のご機嫌を案じて、そっと様子をのぞき見た彼の目に入ってきたのは、ひどく色っぽい彼女だった。
長椅子に身を横たえて目を閉じて、薄く開いたくちびるが今すぐ欲しいと言っているようで、ついフラフラと、惹きつけられるままくちびるを貪っていた。
こぼれた涙にセーブはしたが、それからはもう、キュロットの中身は大変なことになっていた。
友情を語る涼しい顔も限界で、なにかを言おうと彼を押し留める彼女の小さな抵抗にさえ、妙な欲情を覚えている。
「とりあえず1回だけ」
どストレートな彼の言葉に彼女は脱力して、伏せ気味の目線をテーブルの上へと向けた。
性急な男の動作が伝わって、ときおり僅かに揺れるマカロンたち。
これ、今日中に渡せるんだろうか…
いや。いつ渡すかなんて関係ない。
『ようは気持ちですもの』
そうだ、気持ちよければ… 違う!気持ちが伝わればよいのだから。
彼の行為に甘く崩されていく彼女の予想は大当たりで、アンドレがそれを賞味したのは、日付けも変わった夜明け前のことだった。
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