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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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    オスカル・フランソワ。
    父につけられたこの名で、私は呼ばれてきた。
    私の存在と共に、ごく自然にそれはあった。
    しかし。
    いつからだろう。
    その名が呪われたものだと気づいたのは。
    1755年のノエルの夜。
    誕生した私に、父は絶望とともにこの名を授けた。
    生まれ出ずるその瞬間まで、父は末に生まれるその子の誕生を心待ちにしていた。
    自分の後を継ぐ、嫡男の誕生を。
    上に生まれた子が5人目までが女子とあれば、期待するのも無理はない。
    7番目の子を望むのはもう難しいこともあり、父は祈りを通り越して、もはや妄執に近い想いを抱き、十月十日を過ごした。
    そして生まれた子を見た瞬間に、父の中に用意されていた我が子への祝福の言葉もくちづけも、妻へのねぎらいの言葉も何もかもが、忌々しいものへと変わった。
    神への感謝さえも。
    冬の雷鳴が響く中、父は叫んだ。
    この子の名はオスカル。我が息子なのだと。
    その姿は誰の目にも狂気と映っただろう。


    生まれた子につけられたオスカル・フランソワという名に、真っ先に傷つけられたのは母だった。
    子の名を聞かれるたび、近衛将軍家の嫡男を産めなかった負い目に、母は苛まれた。
    5人もの子を持ちながら、母は明るく闊達で、深窓の令嬢育ちだというのに、どこか少年のような人だったという。
    そんな母を私は知らない。
    いつも母は憂いを含んだ目で、少し離れたところから私を見ていた。
    いつでも母は優しく慕わしかったが、私を抱きしめてくれたことは1度もなかった。
    私は次期当主として、ものごころつく以前から屋敷に1棟を与えられ、5人の姉たち以上にたくさんの召し使いと教育係に囲まれて育った。
    皆、私を大切にしてくれたけれど。
    私はただ母の手だけを求めていた。
    次期当主の棟。
    重厚な扉の奥で、幼い私はひとりで眠る。
    眠りに落ちるまでのひとときを、天蓋にまぎれた闇に怯えている。
    同じ時間、奥方の棟に住む姉たちは母に童話を読んでもらい、子守歌を歌ってもらっているのを私は知っていた。
    けれど、私は男なのだから。
    ジャルジェ家の嫡子が、女子供のように甘えることなどあってはならぬ。
    幼い頃から、私はそうしてみずからを鼓舞してきた。
    自分が女だと知るまでは。
    そして、自分が女だと知ってからは、よりいっそう。


    真実を知ったのは、4つや5つの頃だったと思う。
    それが早かったのか遅かったのか、今となっては判らない。でも、いつかは知ることだった。
    母のサロンに来ていた客人が連れていた子供の、不用意で素直なひとこと。
    それがすべてを知るきっかけとなった。
    周囲の大人たちが作り上げた虚構の世界は、小さなほころびがから、あっという間に崩壊していった。
    そして私は、常に自然と共にあったこのオスカル・フランソワという名が、不自然極まりないものだと知った。
    本来なら、この世に生まれ出でて最初に与えられる贈り物。
    愛をこめられて授けられるはずの、名前。
    それが私には呪いの言葉だったのだ。
    『オスカル』
    そう呼ばれるたびに、なぜ男に生まれてこなかったのだと責める父の声が聞こえるようだった。
    嫡男の誕生を心待ちにしていた父の期待を裏切り、将軍家に嫁ぎながら後継ぎたる男子を産めなかったという負い目を母に背負わせ、私は生まれた。
    この名と共に、私という存在は誰にとっても疎ましいものでしかなかった。
    私のような者がジャルジェ家に生まれてきたこと自体が、神の手違いだったのだ。
    その想いは、信仰のように深く私に根づいていった。


    自分がジャルジェ家の嫡男ではなく、末娘であったと知ってから、私は完全に手のかからない子供になった。
    父の言いつけをよく守り、よく学び、馬術、武術に励んだ。
    そうすることにしか、自分には価値がないと悟ったから。
    姉たちには大甘な父。
    それが私にだけは、いつも厳しかった。
    少しでも期待に応えられなければ、容赦なく殴られた。
    躊躇もせずに手を挙げる父と、派手にすっ飛ばされて床に打ちつけられる幼い私。
    止めてもくれない母。
    どうしたものかと困惑し、遠巻きに見ているだけの使用人たち。
    それを特に冷たいとも思わなかった。
    出来損ないの私には、お似合いの仕打ちだろうと。
    殴られたところで、痛みはどこか実感がなく、ただ一時の苦痛にしか過ぎなかった。
    そんなもの、放っておけばすぐに消える。
    『オスカル』
    そう呼ばれるたびに感じるうしろめたさと、胸の奥で呪いの言葉に開かれる膿んだ傷口に比べたら。
    父に買い与えられる様々な品も、屋敷を訪れる来客からの趣向を凝らした贈り物も、私を喜ばせることはない。
    嬉しいという気持ちが多少はあっても、やはりそれは希薄なものだった。
    ちょうど良い程度の微笑みを用意して、私はそつのない礼の口上を述べる。
    「まあぁ、まだお小さいのに、しっかりしておいでですのね!」
    「末が楽しみでいらっしゃいましょう」
    貴婦人たちの甲高い賞賛も、私の心には響かない。
    将軍家の跡取りに女が生まれて、なんの楽しみがあるというのだろう。
    適当な笑顔の裏で盗み見る父の顔には、苦々しい影が射している。
    つまりは、そういうことなのだ。
    『ジャルジェ家のオスカルさま』
    社交界でも、私の評判はそれなりに上がっていたようだが、なんの興味もなかった。
    「なんてお美しいこと!こちらにおいでなさいな」
    サロンの客が珍しい菓子を持って手招きする。
    そのたび私はぞっとした。
    美しい?私が?
    首を振って後ずさっても、白い指先がのびて来て、頬や髪に触る。
    「噂以上におきれいなお嬢さまですこと」
    私はその指を邪険に振り払う。
    美しい?この私が!?
    「あら、失礼。お嬢さまだなんて。お気を悪くされたかしら」
    その頃、もう7歳にもなる私は、自分の置かれた特異な環境をきちんと理解していた。
    来客たちに『御令息』と呼ばれようが『御令嬢』と呼ばれようが、感覚はとっくに麻痺していて、痛くもかゆくもなかった。
    しかし。
    美しいと言われるその言葉にだけは、麻痺したはずの神経がチリチリと焼かれた。
    おっとりとクラブサンを奏でる長姉。
    伸びやかなソプラノでアリアを歌う次姉。
    中の姉はその傍らで優美に舞い、父はいつもそれを目を細めて眺めている。破顔したその眼差しは、私には決して向けられることのないもの。
    麗らかな午後の陽射しの中で、母と刺繍を楽しみながら談笑している下の姉たち。
    美しいとは、曇りのない微笑を浮かべる彼女たちのことだろう。暖かく優しいものだけを与えられて育った5人の姉。
    もし私が美しかったら、父が私にこのような生き方をさせるわけがない。
    本当に私が美しかったのなら、母が私を慈しんでくれぬわけがないのだ。
    この瞳も、くちびるも、髪も肌もなにもかもが厭わしかった。
    私が美しいなどと!
    その言葉はなにより耐え難く、私はますます日々の研鑽にのめり込んだ。いつか父が、私自身を見てくれるのではないかと期待して。
    父が私につらくあたるのは、きっと私の努力が足りないからなのだ。
    私が美しくないから、母は陽だまりの中に私を招き入れてくださらないのだ。
    私は醜い姿を人に見られるのを嫌い、だんだんと屋敷うちから出なくなった。
    サロンへの来客にも姿を見せず、私の社交界デビューはどんどん遅れていく。
    読書と剣と馬。
    それだけが私の世界だった。
    その少年に出会うまでは。


    聞き分けがよく勤勉で、高尚な物言いをする落ちついた子供。
    見た目、私はそういう子供だった。
    泣きわめいたり、ばか騒ぎもしないが、はしゃぐことも大声で笑うこともない。
    表情に乏しく、情緒の欠けた私にようやく気づいた両親は、遊び相手と称してさまざまな人間をあてがい始めた。
    大方が父とつきあいのある貴族の子供たちだったが、少し年上のその子供たちは、皆、一様に同じ空気をまとっていた。
    十重二十重に護られて、両親からの愛情にどっぷりと浸ってきた彼らは、いつも柔和な笑顔を浮かべている。
    礼儀正しく知識に富んでおり、そしていつもどこかそらぞらしい。
    顔立ちはそれぞれ違うというのに、私には皆、同じ顔に見えた。
    彼らはいつも、ちょうどよく暖かいところで漂っている。
    どの子も軍人の子だったから、剣を持たせればそれなりだった。いや、優秀とすら言えたかもしれない。
    けれど彼らと私には、根本的に違うところがあった。
    その年齢なりに使い手ではあっても、彼らの剣は決してたしなみの域を出ない。
    そのように教育されていた。
    砂糖菓子のように甘い、彼らの両親によって。
    太陽王が築いたこの国の安寧。
    身分を考えれば、有事の際に彼らや私が直接剣を振り回し、最前線に出ることなどありはしない。
    たしなむ程度の剣だとて、ことはじゅうぶん足りている。
    それに必死ですがらなければ、存在に価値を失う私と彼らは違う。ただそれだけのこと。
    切っ先がほんの少し頬を掠めただけで「遊び相手」は怯えた顔をし、母親のドレスに、父親のキュロットの陰に転げ込む。
    すると砂糖菓子の親たちは、大仰なほどにそのかすり傷を心配し、私に非難の目を向けた。
    親の陰に逃げ隠れるなど。
    私がそのような振る舞いを見せたら、父は私を庇ってくださるだろうか。
    ━━ 否。
    その女々しい行いに、頬が腫れ上がるほど殴られるのがおちだろう。
    「遊び相手というのなら、せめて遊べるぐらいの腕前になってから来て欲しいものだな」
    冷ややかに言い放つ私。
    自慢の令息がまさか7歳の、それも女に負けるとは少しも思っていなかった砂糖菓子たちは、不快な表情を露わにしたまま、かわいい息子を連れてそそくさと屋敷を出て行く。
    プライドの高い彼らは決してそのことを口外しないが、屋敷を訪れる「遊び相手」はだんだんと減ってゆき、やがて誰も来なくなった。
    そうして私は再び、読書と剣と馬たちと過ごす静かな毎日を取り戻した。
    ━━ はずだったのだが。


    1人の時間を取り戻してほっとしていた私の前に、ある日、また新しい「遊び相手」が用意された。
    ばあやの孫だというその少年は、私より1つ年上と聞いていたが、会ってみると痩せっぽちで貧相な子供だった。
    けれど。
    しっとりと黒い髪と、深い井戸の底に遥か月の光を映したような瞳。
    その濡れた艶に私はしばし魅入った。
    瞳の奥には、私を惹きつける何か、のぞき込まずにいられない何かが見える。
    ━━ 黒い髪と瞳が珍しいだけだ。
    私はそう理由を付けた。
    父も母も姉たちも金髪碧眼だったし、使用人たちには栗色の瞳や赤毛が多かった。だから、ここまで見事な黒葡萄色の髪と、黒曜石のごとき輝きが珍しいだけなのだと。
    私は早速、この「遊び相手」に、いつも通り、現実を教えてやることにした。
    私という人間に何がしかのイメージを抱えているならば、早々に壊してやった方がよい。
    そして、さっさと私の前から消えてくれ。
    「初めに言っとく。僕が欲しいのは遊び相手じゃなくて剣の相手だ」
    私がかつて使っていた剣を放り投げてやると、その少年は判りやす過ぎるほど、びっくしていた。
    「おばあちゃんの嘘つき!お嬢さまだなんて言って!!」
    アンドレ・グランディエと名乗った少年の素直な反応に、私の方が逆に驚いた。
    だって。
    今まで私の前に現れた人間は大人も子供も皆、取り澄ました笑顔の裏に、好奇の眼差しや女だからと侮る気配を忍ばせていて、私はもう、それにうんざりしていたから。
    「悪夢だ。何かの間違いだぁ~っっ」
    男装が似合い過ぎる私を見て騒ぎ立てるアンドレは正直で、私は心がふわりと楽になるのを感じた。
    そんな感覚は初めてだった。
    「さあ、庭に出るよ。早く!」
    気がつけば私は、彼に全開の笑顔を見せてしまっていた。
    醜い自分が好きになれず、人前で笑ったことのない私が。
    今思えば、このときからすでに、私の歯車は彼によって狂わされていたのだ。
    8歳の子供だったくせに、なんと狡猾な男だろう。
    私の心に忍びこむなんて。
    あのとき感じた初めての感覚。
    あれは、そう。
    まだ本当に何も知らない子供だった私の、自分でもまったく気づいていない、極めて淡い、本当に微かな、一目惚れのような気持ちだったのかもしれない。


    彼が屋敷に来てから、私はそれまで通り、この遊び相手を蹴散らそうと躍起になっていた。
    剣ではこてんぱんにしてやったし、無理難題をふっかけては困らせた。
    しかし、彼はなかなかしぶとく、意外とへこたれない。
    驚いたことに、彼は8歳にもなるというのに、ろくに読み書きもできなかった。
    識字率が男子で50%以下。
    地方によっては77%もの人が、読み書きができないというこの国の現状を、そのとき私は知らなかった。
    彼を私の部屋に連れこみ、絵本や童話を見せてやる。
    「私の遊び相手をするのなら、本ぐらい読めてもらわなければな」
    私はわざと馬鹿にしたように言う。
    けれど、彼はそんな私の態度にお構いなしだった。
    美しい挿し絵の入った童話に夢中になり、話の続きをせがむ。
    「それで?それでこの頭巾の女の子はどうなるんですか?
    ……あ~っ!オオカミに食べられてしまった。
    どうしよう、オスカルさま!!
    しっかしよく食うな、このオオカミ。2人目だ。食べ過ぎはよくないって母さんが言ってたのに」
    読み古しの童話なのに、彼と読むのは楽しくて、私たちはいつの間にか四六時中、一緒にいるようになっていった。
    「仲のおよろしいこと」
    侍女たちにそう言われるたびに、私は小猿のようにキーキーと否定した。
    「そんなんじゃないっ!」
    私はただ、このやたらと人なつっこい「遊び相手」を、一刻も早く追い払いたいだけだ。
    私がこんな子供と仲がいいなんて、そっ…そのようなこと、あるわけないだろうがっっ!


    そんな毎日を過ごす中、ある日、私はまた父の期待に応えられず、ひどく張り倒されていた。
    はね飛ばされて転んだ私は、無表情なままむくりと起き上がり、くちびるの端を袖で拭う。
    ブラウスの白に掠れた赤い色。
    血相を変えて駆け寄った彼が、助け起こしてくれる。
    しかし私はその腕を、力いっぱい振り切った。
    「こんなこと、気にすることではない。珍しくもない」
    そして私は自分で言った通り、何ごともなかったかのように、その日を過ごした。
    ごく普通に両親や姉たちと晩餐を取り、湯浴みのあとには勉強。
    腫れた頬がこわばり、切れたくちびるがしみて食事はすすまなかったが、父は私に一瞥もくれず、母も特に何も言わなかった。食後に姉たちが、新しく覚えたダンスを父に披露するというので、私は勉強があるからと自室に引き上げたのだ。
    燭台の灯りのもと、カリカリとペンを走らせる。
    1時間ほど経った頃だろうか。
    扉の辺りで小さな音がした。
    細く開けると、ひっそりと夜食の乗ったワゴンが置かれている。
    きっとばあやだ。
    屋敷の中で唯一、私に包み隠さぬ愛情を傾けてくれる人。
    おしゃべりな彼女が、私をそっとしておいてくれる。
    ばあやのさりげない優しさに、固まった胸がじんわりと暖かくなる。
    しかし。
    「どうしたものだろう」
    晩餐ではろくに食べられなかったので、おなかはすいているのだが、これは私1人には多すぎる。
    もし残したら、きっとばあやは心配するだろうし。
    うーむ。
    私はちょっと考えて、いいことを思いついた。
    アンドレだ!
    あの痩せっぽちの少年。
    あいつに半分、分けてやろう。
    屋敷の下働きもしているようだし、あいつはもう少し太った方がいい。
    よし。
    私は皿の1枚を取り上げると、料理を適当に盛り合わせ、彼の部屋へと向かった。
    ときおり通りかかる侍女たちに身をひそめ、使用人が寝起きをしている裏手の棟の最上階を目指す。
    勝手知ったる屋敷の中だというのに、普段行くことのない場所なのと彼が驚く顔を想像して、私らしくもなくワクワクしていた。
    けれど。
    いざその辺りまで行ってみたら、私は困惑してしまった。
    屋根裏に位置し、天井の低い廊下にはたくさんの扉が並ぶ。どれが彼の部屋なのか判らない。
    ちっ。しくじった。どうしよう?
    自室に戻ることも考えたが、せっかくここまで来たのだ。
    彼をびっくりさせるのを諦めるのは、惜しい気がする。
    私は扉のひとつひとつに耳を澄ませながら、廊下をうろついた。
    ここも違う。……ここでもないか…
    そしていくつ目かの扉に耳を寄せようとしたとき、いきなり内側から扉が開いた。
    「ひいぃぃっ」
    2人して、まぬけな悲鳴をあげていた。
    「アンドレ?」
    「オスカルさま!?」
    予定通りにびっくりする彼を見られたものの、自分も盛大にびっくりしながら、私は素早く彼の部屋に押し入った。
    「どうしたんです、こんなところに!」
    「しっ!声が大きい」
    私は小さなテーブルに夜食を置くと、ことの顛末を大ざっぱに説明し、彼に夜食を勧めた。
    「わぁ。ありがとうございます。いただきます!」
    たいして珍しいものでもないのに、彼はとても喜んでくれた。どうやら今まで、あまり豊かではない暮らしをしていたらしい。
    彼は男の子らしい気持ちよさで、パクパクと料理を平らげていった。
    痩せっぽちのくせに、なかなか豪快なその食べっぷり。
    こんなに間近で、食事をする男の子を見たことがなかったので、私はまじまじと見つめてしまった。
    ふむふむ、重要なのはあの脇の締め具合と手首の角度だな。あとはやはり勢いか。
    私は入念に、男らしく見える食べ方を観察していた。
    それにしても、この少年はなんと美味しそうにものを食べるのだろう。
    先ほどまでの、重苦しい晩餐が思い出された。
    きっと彼は今まで、慎ましくとも暖かな食卓を囲んできたのだろう。優しく慈しんでくれる両親と共に。
    私は彼に見とれ、けれどあまり彼ばかり見ているのもおかしく思われそうで、なんとなく部屋を眺め回した。
    簡素な部屋。
    主の人となりを感じさせるものが何もない。
    必要なものは足りているようだが、そこはただ、寝起きするためだけの場所だった。
    そうだ!ヴァランタンには本でも贈ってやろうかな。
    ノエルのプレゼントに、私は練習用の剣を用意していたが、この少年には本の方が似合う気がする。
    寝台の横あたりに本棚を設えて、私の部屋で彼が夢中になっている童話集でいっぱいにしてやったらどうだろう。
    きっと喜ぶに違いない。
    追い払ってやろうと意地悪をしていたくせに、そんなことも考えていたのだから、まったくもって私もお子ちゃまだった。
    いつの間にやら私にとって、彼と一緒にいることが、ごく自然なことになってしまっていたのだ。
    「これは…?」
    寝台の上。小さな何かが目に入った。
    「俺のっ……え、と、ワタシの宝物です」
    これが?
    いくつかの粗末な玩具。
    「お屋敷に移ってくるとき、友達がくれたんです。
    でも、もう会えないかもしれないから」
    「もう会えない?なぜだ?おまえだってノエルには家に帰り、家族と過ごすのだろう?」
    私はそう言いながら、何かが胸の奥で弾けるのを感じた。
    この、感覚を共有するような不思議なシンパシーはあのサベルヌでも発揮され、のちに私を救うことになるのだが、このときの私たちはまだ子供過ぎ、自分たちだけのこの感覚を不思議だとも思わなかった。
    「おまえ、さっき、部屋を出ようとしていたな」
    彼の黒い瞳は、どことなく熱を帯びている気がする。
    まるで、少し前まで泣いていたような。
    「こんな時間に、どこへ行こうとしていた?」
    「……おばあちゃんに言わないでくれますか?」
    「ばあやに…? まかせろ、約束は守るぞ。男だからな」
    私は大きく頷いて見せた。
    「礼拝堂に行くところだったんです。夜はいつも礼拝堂にいるんです、お‥ワタシ」
    「礼拝堂?」
    「ワタシが今日も元気だったか、神さまに毎日報告しなさいって母が言ったんです。死ぬ前に。
    そうすれば神さまが、母さんにも教えてくれるからって」
    「…!」
    「そしてお屋敷でよくお仕えして、いろんなことに感謝しなさいって。住むところがあることも、着るものがあることも、毎日ごはんが食べられることも」
    彼が淡々と語る事柄は、私をじゅうぶん驚かせた。
    知らなかったのだ。
    何も聞かされていなかった。
    彼のお母上が、少し前に亡くなっていたなんて。
    ただいつも通り、わずらわしい遊び相手を押しつけられたのだとばかり思っていた。
    「おまえ… お父上は?」
    「ずっと前に死んでしまって、あんまりよく覚えていません。だから、ノエルに帰るところは、もうないんです。
    おばあちゃんといつも通りに、お屋敷で過ごします。
    仕事も早く覚えたいから」
    明るく人なつこく、すぐに屋敷になじみ、誰からも可愛がられていると思っていた彼に、そんな事情があったとは。
    初めて会ったときに、彼の瞳の奥に見えたもの。
    私を惹きつけたそれは、彼の孤独な魂の光だったのだ。
    吹きすさぶ風の中、消えそうに、でも懸命に灯り続ける小さなあかりのような。
    年老いた祖母しか寄る辺のない彼。
    まだたった8歳で。
    それにひきかえ、私は何をしていたのか。
    両親がおり、侍女たちに世話を焼かれ、じゅうぶんな教育を受け、趣向を凝らした調度品に囲まれて…
    粗末な玩具を宝物だと言う彼。
    それに象徴される彼の寂しさに、私は不意に涙が溢れ、慌てて隠した。
    ジャルジェ家の嫡子たる者が人前で涙など!
    「オスカルさま?」
    私は涙を押しとどめようとしたけれど、どうしてもそれができず、顔を覆ってしゃがみこんだ。
    感情を抑制できないなど、今までになかったことだった。
    「寂しかったんですね」
    彼が私と一緒にしゃがみこんで、小さく言った。
    「何をばかな!この私が寂しいなどと!!
    私はジャルジェ家の次期当主で、たくさんの召使いがいて、いずれはそれ以上の部下を持ち…」
    「初めて会ったとき、すぐ判りました。おんなじだって。
    オスカルさまはきっと寂しいんだって」
    「黙れ、アンドレ!この私が」
    怒鳴りつけようとした言葉は、最後まで言えなかった。
    ……そうだ。
    いつだって私は寂しかった。
    『オスカル』
    そう呼ばれるたびに、男でも女でも次期当主でもなく、私自身を見て欲しかった。
    そして、私は私として存在してよいのだと言って欲しかったのだ。
    「来て!」
    「は!?」
    「いいものを見せてあげる。行こう!」
    急に立ち上がった彼が手を差し出してきて、とまどう私の手を握った。
    私は今まで、こんなふうに誰かと手をつないだことがなかった。
    しっかりとつながれた手の熱さ。
    強くつかまれて引っぱられ、私はものすごくどぎまぎした。
    ああ、やっぱりだ。
    そのときはまったく気づいていなかったけれど、やっぱり私は、このときにはもう恋に落ちていたのだ。
    永遠の私の恋人に。
    彼は私の手を引いて暗い廊下を走り、私を礼拝堂へと連れていった。
    「静かに!見つからないように」
    わけが判らなかったけれど、私は彼が言う通り、身をかがめて這いつくばり、細い扉の隙間からこっそりと内部に侵入した。
    奥の方に灯りが揺れていて…あれは…母上?
    腹心の侍女と一緒に、何かをつぶやきながら一心に祈っている。
    「やっぱりいたね」
    「どういう意味だ、アンドレ」
    「だんなさまがオスカルさまに手をあげた日には、奥さまは必ず礼拝堂に来るんだ。そして」
    私のために祈るのだという。
    「顔に傷が残りませんように。体に傷が残りませんように。
    あの子は女の子だから。
    そして難しい運命ではあるけれど、それでも、どうかあの子が健やかに育ちますように」
    夫とは言え、当主が決めた末娘の扱いにどうすることもできず、母はこうしてひっそりと祈っていてくれたというのか。
    ああ。
    私は本当に、なんと不遜な子供だったことだろう。
    否応なく与えられた特異な運命にとらわれて、自分を憐れんでいた。
    「だんなさまも初めてお会いしたとき、オスカルさまを自慢の後継ぎだって言ってた。ただ」
    「ただ?」
    「お嬢さまたちの中でも、オスカルさまが抜きん出て美しいので、ついニヤけてしまうから、必要以上に厳しく当たってしまうんだって」
    父上が?
    いつも私には、しかつめらしい顔しかしない、あの父上がそんなことを?
    『上の娘たちは着飾らせてやっと十人並みだというのに、なぜあの子はあれほど美しく生まれてきたのだろうな』
    そう言って、嬉しそうに笑ったと言うのだ。
    「…やめてくれ」
    「オスカルさま?」
    「私が美しいだと?そんなこと、聞きたくもない!!」
    身をすくめて吐き捨てるように言う私の頬に、彼が触れた。
    「オスカルさまはきれいだよ。そりゃ、おばあちゃんから聞いていたお嬢さまのイメージとは全然違ったけど。
    でも初めて会ったとき、なんてきれいな子なんだろうって」
    そして、母親と一緒に通った故郷の教会の彫像にそっくりだと思ったのだそうだ。
    右手に剣を掲げ、甲冑をまとった大天使ミカエルの像。
    「だから、オスカルさまといればお屋敷も寂しくなかった」
    「…嘘だ」
    両親を亡くした8歳の子供が、生まれ育った町も置いてきたのだ。寂しくないわけがない。
    …こいつ…
    私はみずから周囲を遮断することで、自分を鼓舞してきた。それが強さだと思っていた。
    けれどそれは、視野の狭い、ただのいじけた幼稚な振る舞いでしかなかったのだ。
    それまで自分を支えてきた信仰にも近い想いが根底から揺さぶられ、私は激しく動揺した。
    寂しさを見抜かれたとき以上に泣けてきて、懸命に抑えても嗚咽がこらえきれなかった。
    いけない。母上に気づかれてしまう。
    でも。でも!
    くちびるを噛みしめ、私は懸命に声を殺す。
    すると。
    ━━ ぐいっっ!
    彼の手が伸びてきて、いきなり私の頭を抱えこんだ。
    「ちょっ、アンドレ、なんの」
    私は彼の腕を押し返しそうと、しばらくもがいてみたけれど。
    結局不覚にも、たかだか8歳の彼の胸で泣いてしまった。
    本当に不覚だったと思う。
    今思えば、これが決定的にまずかったのだ。
    このとき以来私は、どうしようもなくつらいことがあると、彼の胸に顔をうずめる癖がついてしまった。
    こんなふうに私を調教してしまうなんて、なんという8歳児であろうか。
    実はこの男、私が知らないだけで、たいしたスケコマシなのかもしれぬ。


    お互いの寂しさに触れ合ったこの夜、私たちは親友、そして兄弟の契りを交わした。
    まさか20年以上の後、男女の契りまで交わしてしまうとは、思ってもみなかったけれど。


    私たちが親友になった翌日。
    「がんばれ、オスカル」
    「うん」
    私は午後の暖かな光の中、奥方の棟を訪ねた。
    呼ばれない限りは近づくことのなかった、母と姉たちの住まう場所。
    1人お茶を飲んでいた母は、突然現れた私に驚いたようだった。
    『がんばれ、オスカル』
    私は勇気を出して、自分から母の膝にぺたりと抱きついてみた。
    「オスカル!?」
    母は本当に驚いた声音で私の名を呼んだけれど、そこにはもう、私を苦しめ続けてきた呪いの響きはなかった。
    母は私の髪を優しく梳き、姉たちに向けるのと同じ微笑みを向けてくれた。
    きっと母も悩み、苦しんでいたのだ。末娘に与えてしまった特異な運命に。
    「どうしました?オスカル」
    問いかける母は、私を抱きしめてくれた。
    ああ。
    私の欲しかったものは、なんとたやすく手に入るものだったのだろう。
    心を開きさえすれば。
    いくら考えても私には判らなかった、とても簡単なこと。
    それを彼が教えてくれたのだ。


    1755年のノエルの夜。
    この世に生まれ出でた瞬間に、父は絶望と共に私にこの名を授けた。
    『オスカル』
    そう呼ばれるたびに、胸の奥では膿んだ傷口が開かれ、じくじくとした痛みに私は苛まれていた。
    その少年に会うまでは。


    私を呼ぶ彼の声は、いつでも優しく私の内側へと響く。
    『オスカル』
    やがてその声は朗らかな少年のものから、低く思慮深い男の声に変わったけれど、それはいっそう私には心地よいものとなった。
    命萌えいずる春の陽射しの中で、陽炎揺らめく夏の太陽の雫の下で、枯れ葉舞う秋の風に吹かれ、音もなく降り積もる冬の使者を窓辺で眺めながら
    『オスカル』
    彼は私の名を呼ぶ。
    嵐の中を寄り添い、鳥たちがねぐらへと帰る夕闇に、月あかりに照らされ、星空の夜を、歩きながら、走りながら、ときに笑い、ときに涙し、いつか2人…小さな手を引いて。
    『オスカル』
    あなたは私の永遠の恋人だから。

    どうかいつまでも、私のなまえを呼んで ━━


    FIN
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