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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【7】

UP◆ 2012/10/26

    タタタっ。
    彼の背中を追いかけた彼女。
    彼は2歩か3歩先を行っただけなのに、普段より狭い歩幅しか取れない彼女は、小走りになる。
    くっそ。動きにくいな。
    裾がはだけるのも気にしない彼は、ザクザク行ってしまうけれど、猥褻物な彼女には、そうはいかなかった。
    うっかりキュロットの調子で動けば、裾の合わせがあっさり開いて、素足のふくらはぎぐらいは見えてしまう。
    こんな危険な装束を平然と身につけているなんて!
    かの国の女性とは、なんと開放的なのだろう。
    彼女はもどかしく追いついた彼のひじをつかみ、グイと振り向かせた。
    「アンドレっ」
    「なんだい?」
    不愉快にさせたかと思いきや、彼の表情はまったく普段通りだった。
    慣れているのだ、こんなことには。
    ただ、空回りしている自分がほんの少し哀しくて、ため息をつくための僅か数秒、彼女から離れたかっただけ。
    「どうしたの?オスカル」
    「どう…って、だって、おまえが先に行ってしまうから」
    「ああ、ごめん。そうか、その装束じゃいつも通りには歩けないもんな」
    彼女から離れたのが故意ではなく、ゆかたのせいだと印象づける。こんなときにまで、彼は芸が細かかった。
    案の定、彼女はちゃんと騙されて、ホッとした表情を見せている。
    急に手を離し、ぷいと背中を向けたことで彼女を不安にさせたのだと、彼にはたやすく予想がついた。
    自信たっぷりに見られることの多い彼女だけれど、本当は過剰なほどに繊細なのを、アンドレはよく知っている。
    女性に生まれたのは、彼女の落ち度ではない。
    けれども、それを全否定されるような人生の中で、オスカル・フランソワの中には両極端な彼女が育っている。
    誰もが知るジャルジェ伯爵大佐と、傷つきやすくて臆病な、小さな子供のままの彼女と。
    そのことに気づく者は少ないけれど、もし、そのアンバランスさに気づいてしまったら、それは男にとってたまらないものになるだろう。
    守ってやらずにはいられない、ガラス細工のような女。
    「置いてったわけじゃないんだけど…悪かった」
    「そうだぞ。急に放り出されて」
    寂しかった。
    そう言いかけて、彼女は押し黙る。
    寂しい?
    寂しいだと!? この私が!?
    そんなこっぱずかしい台詞…うぅ…む。
    「貸せっ」
    「あ、おい!」
    彼女はやおら、彼が肩から吊したままのひょうたんを手に取った。ちゅぽんと滑稽な音を立てて栓を抜き、そのままごっきゅんごっきゅん飲む。
    「ちょっ、オスカルやめとけ。この酒は半端なく強い」
    彼は慌ててひょうたんを取りあげたけれど、中身はすでに半分ほどになっていた。
    「おまえ、このキツい酒をよく」
    「ふん。これしきの酒、なめてもらっては困る」
    強気にそう言いながらも、べらぼうに強い酒のせいで彼女の目元はもう、薄赤く潤み始めてきた。
    「まったく。きれいな顔してラッパ飲みはやめろ」
    「きれい?私がきれいだと?ふふん、王后陛下のお美しさに見とれていたくせに」
    そうだ、あのとき。
    プティ・トリアノンの一室に入ってくるなり、呆けたような目をして、うっとりと王妃に見惚れていたアンドレ。
    あのときだって。
    「本当はちょっと寂しかったんだ」
    「え"?」
    おまえ今、『寂しかった』って言った? 王妃さまに見とれた俺のことを?
    およそ彼女らしくない発言にびっくり顔のアンドレだったが、挑むような目で見上げてくる彼女の頬は、赤味が増してきている。
    それはこのクソ強い酒のせいなのか? オスカル。それとも…?
    風に吹かれて翳る月。
    彼女は彼の手をガッとつかんだ。
    「今夜の私たちは、恋人同士なのだろう?しかも今は月が翳っている」
    王妃の目をさけて、手をつなぐのは月が翳ったときだけ。当初はそんな約束もしたはず。
    「そう。そうだよ、もちろんさ」
    まるで親のかたきでも捕らえるかのように、がっつりと手をつかんできたオスカル・フランソワ。
    おまえには、色気も情緒もあったもんじゃない。
    そんなふうに思いながらも、彼の胸が甘く疼く。
    ドキ…ン。
    先ほどまでなら、彼の手の中に、ただ預けられていただけの彼女の手。それが今は細い指が少しずつ動いて、ジワジワと彼の指にからんできている。
    ドキ。ドキドキ。
    少し乱れる彼の鼓動。
    今までだって手をつないだことはあるけれど、こんなふうに指をからめ合うようなつなぎ方は、初めてだった。
    「やめてくれよ、オスカル。おかしな気分になるじゃないか」
    平手打ちでも返ってくるかと思ったくちづけでさえ、うやむやなまま受け入れてくれた彼女に、アンドレが期待するのは無理もない。
    それなのに、彼女はもう一方の手まで肘にからませてきた。
    ‥う‥わ。ダメだろ、こんな。
    二の腕に押しつけられる、ふっくらした胸。見おろす彼の角度からは、襟の重ねが… 頑張ればその奥まで見える気さえしてしまう。
    「あんまり俺を煽るな。“コレ”だって、ようやく落ちつき始めたんだから」
    彼女の手に触れた、生暖かくて硬いモノ。それは、今はなんとか“まだちょっとアレなモノ”ぐらいにまで、緊張が和らいでいる。
    「煽ってなんかない。確かめているだけだ」
    「なにを?」
    「…自分でも判らない」
    彼の腕を抱き込むように、寄り添い歩く彼女。真っ赤になっているのは頬だけかと思ったら、耳まで赤くなっていた。
    熱くて、ジンジンしていて。
    『自分でも判らない』
    それは正直な気持ちだった。
    本当に私は、この幼なじみにときめいているのだろうか。愛しているのは、あの男だというのに?
    判らないから、確かめてみているのだ。このどきどきの正体を。
    彼女の、洗いざらい話してしまおうとの企ては、彼に『あとで』と制されてしまった。けれど、こんな胸の内のままで、いつになるか判らない『あと』なんて、とても待っていられない。
    ならば。
    みずから探求するしかあるまい。
    根の真面目な彼女。
    まずは自分のしたいことに忠実に、と思ったら、彼の腕を抱きかかえていた。
    だって。
    いきなり手を離されて背中を向けられたとき、本当に寂しいと思ったのだもの。
    そして、他に気になっているのは。
    「私が国王陛下のお相手をしている間、おまえは王后陛下とどうしていたのだ?」
    「“どう”って、おまえに言い付けられた通り、露店をエスコートしてまわってたけど」
    「楽しかったか?」
    「う~ん。なるべく肩肘張らずに、でも失礼のないようにっていうのは、余計に気を使うもんだな」
    「それで、楽しかったのか?」
    いやにこだわる彼女。
    「そりゃあ、楽しかったか楽しくなかったかと聞かれれば、楽しかったよ。初めて見る余興ばかりだし、王妃さまは明るくて気取りのない方だし」
    …マヌケづらで見とれるほど、お美しいしな。
    「なんか言った?」
    「いや、別に。それより、私もそこへ連れて行け」
    「王妃さまと巡った露店にか?」
    「そうだ」
    「いいけど」
    …ヘンなヤツ。
    彼は腑に落ちない思いだったけれど、でも、それ以上に気分が浮き立ってきた。
    どうした風の吹き回しか、甘えるように腕にまとわりついてきた女。
    気疲れのする王妃と一緒ですら楽しかったのだ。彼女と2人きりで露店を巡るのは、どんなに楽しいことだろう。しかも、今は恋人同士なのだから。
    「じゃあ最初は、さっきのいけすの店へ。せっかくだから、オスカル。勝負でもする?」
    「お? おお。オスカル・フランソワ、受けて立とう!」
    国王夫妻が退場してから、どうにも気難しげな顔をしていた彼女が、勝負という言葉につられて少しばかり“らしい”顔になる。
    ほんと、こいつって直情型。
    クスッと小さな笑みをもらすアンドレ。
    気分が落ち気味の彼女を乗せるのは、きっと誰より上手い。
    2人が連れ立って顔を見せると、小さないけすを囲んで興じていた数人が、愛想よく場所をあけてくれた。
    「また来たね、べっぴんさん」
    ニコニコ顔の店主は、2人に道具を渡す。
    「これは“ポイ”というらしいよ」
    彼女は手にしたポイを灯りに透かしてみる。
    「ふぅん。思ったよりもしっかりしている、か?」
    「見てて、オスカル」
    彼はそういうと、ちょっとだけ真剣な顔をして、いけすに手を漂わせ…
    「ほいっ」
    あっという間に2匹ほどの魚をすくい上げた。
    「ほぉ!」
    その見事な手際に、彼女がぱぁっと明るい表情を見せた。
    「私もやってみる!」
    俄然やる気になった彼女は、ひときわ優美な尾ヒレを持った黒い魚に目をつけた。
    ポイを持った右手で慎重に魚を追跡し、頃合いをみて…
    「てやあぁぁぁっ」
    素早く水面を切ったのだが、魚をすくうどころか、水に濡れただけでポイは破れてしまった。
    「ちぃっ、なぜだ」
    狙った魚は尾ヒレをゆらゆらさせて、離れていってしまう。
    「おい、おまえちょっと待て」
    彼女はすかさず魚を追って、いけすのまわりを移動しはじめた。
    「待て、魚。待てというのに」
    新たなポイを手に、彼女は懸命に捕獲を試みるが、黒い魚は優雅な尾を広げて逃げていくばかり。
    次々と破れていくポイ。
    店主は面倒になったのか、ポイを束でよこしてきた。
    「悪いね」
    彼は苦笑混じりに受け取って、1つずつ彼女に渡す。破れてしまったものは、彼女の近くにいる者が受け取って店主に戻し…
    おいおい、なんのマニュファクチュアだ?
    ますます笑いの深まる彼だったが、次の瞬間、彼女を見てギョッとした。
    袖がいけすに浸りそうで、邪魔になったのだろう。彼女はいきなりバックリと袖を捲り上げ、手近な者に押し付けた。
    「すまないが、ちょっとこの袖、背中でまとめていてくれないか?」
    むき出しになった両腕。二の腕の内側までもが、ほの白くさらされている。
    そればかりか、あまりにも大きく捲っているため、肩が…ほんの少し、背中へ続く辺りまでもがチラ見えしていて、店主の男のみならず、いけすを囲んでいた男連中や、冷やかしで立ち寄った(もの)までもが、そこを凝視していた。
    い…いかん。
    彼だって初めて見る、彼女のそんな部分。
    二の腕の内側だの、チラ見えする背中だのは、妄想がかき立てられるだけにタチが悪い。
    これは、断固阻止しなければ。
    彼はかんざしを構える必殺仕事人のように、瞳をキラーンと光らせると、電光石火の早技で黒い魚をすくい取った。
    器にぽちゃりと収まった、美しい魚。
    「はい、オスカル」
    目当ての魚が手に入り、当然、彼女は喜ぶと思われた。王妃だって喜んでくれたのだし。
    けれど。
    「ひどい、アンドレ」
    彼女はムッとふくれて、彼を見返した。
    「自分で捕まえたかったのに。この魚の美しい尾ヒレが、リボンで束ねたおまえの黒髪のようだったから」
    「あ」
    「だから自分ですくって、おまえに贈りたかったのに。誕生日、おめでとうって」
    「…覚えてたのか」
    「当たり前だろう?私がおまえの誕生日を忘れたことがあるか」
    ふくれていたはずの彼女の目には、薄く悔し涙がたまっている。
    あちゃー。オスカル、悪酔いしてんな。
    異様に強い、かの国の酒を一気飲みしたのだ。妙な酔い方をするのもおかしくない。
    「じゃ、魚をいけすに戻そうか。そしたら自分ですくえばいい」
    そう言いながら、彼はさり気なく彼女の捲れた袖を直す。コレさえ直れば、彼には魚なんぞどうでもいいのだ。
    「な?オスカル」
    「それじゃあ意味がないんだよっ」
    彼女はプンプンと怒って、露店を離れた。
    どうにも今夜は、妙に子供っぽい彼女。
    やっぱり酔っているのか?いや、これは…プティ・トリアノンで顔を合わせてからだよな。
    千々に考えを巡らせながら、彼は彼女の手を捕らえると、グイと引き戻して別の露店を指差した。
    「じゃあ、オスカル。あそこに行こう!王妃さまとは行っていないけれど、おまえと一緒にと思って、楽しみにしていた店だから」
    ご機嫌ナナメなままの彼女をグイグイ引いて、彼が連れて行ったのは射的の店だった。
    「コルク栓式空気銃か」
    さすがに気が惹かれるのか、台に並べられた空気銃を手に取り、重さなどを確かめ始める彼女。
    その目はちょっと鋭くて、彼女の方こそ仕事人のよう。
    「オスカル、遊びだよ?」
    「判ってる」
    そう答えながらも、彼女はチャキッといい音なんかさせて、空気銃を構えてみたりしている。その姿はゆかたを着ていても怖ろしくさまになっており、なんともシュールだった。
    「俺、あれが欲しいんだよね」
    露店には、奥に向かって近めの棚から遠めの棚がいくつかあり、それぞれ景品が並べられている。
    彼が所望してきたのは。
    「チェスの駒?」
    「そう。この店主さんの手彫りなんだって」
    塗装のしていない、樹の風合いそのままの駒。黒檀のキングと白木のキングが、1番遠くて高い場所で他の景品に埋もれている。
    「キングを落とせば、その色の16駒がもらえるそうだ」
    「ほほう」
    ときおり2人で楽しむこともあるチェス。
    「俺用の駒に、黒のキングを落としてくれよ」
    「それを誕生日のプレゼントにしろと?」
    「そう!」
    彼はにこりと笑うなり、ピシピシと黒のキングを狙い始めた。
    「おまえより早く、俺が取っちゃうかもしれないけどね」
    まだ魚のことを根に持って、ちょっとふてくされ気味だった彼女は、この言葉に触発された。
    「何をちょこざいな」
    シャキーン!
    彼女はまるで効果音が聞こえそうなアクションで空気銃を構えると、鬼のごとき手際のよさで発砲しはじめた。
    彼と彼女。
    ものすごい勢いと精度の撃ち合いに、だんだんと人垣が出来てくる。
    ピシっ。パシっ。
    手前にある邪魔くさい小物を粗方撃ち落とし、最終的に黒のキングを穫ったのは。
    彼だった。
    「あ"~っ」
    悔しさにしゃがみこむ彼女。
    「まぁまぁ。今のはタイミングだったと思うよ。どっちが取ってもおかしくなかった」
    本当は彼だって、彼女に穫らせてあげようと思っていたのだ。思いもよらない自分の凡ミスに、なだめる言葉も気が利かない。
    「ま、チェスは楽しめるわけだし」
    「ち…くしょう。次はあれだ。行くぞアンドレ!」
    彼女が向かった先は、隣の露店。またしても的もので、弓矢の店だった。
    「いらっしゃい、お兄さん。また来たね」
    店主は快活に言って、彼に弓矢を差し出したが、おや?と彼女に目を向けた。
    「今度は違うべっぴんさんと一緒かい」
    「まぁね」
    彼も朗らかに受け答えをし、彼女に弓矢を渡してくれる。
    「どういうことだ?アンドレ」
    「もちろんさっき、王妃さまと一緒に来たからだろ」
    「王后陛下と一緒に」
    …ズキ。
    「ぁ」
    「オスカル?どうしたんだ?」
    「いいや、なんでもない」
    また少し、胸が痛んだ彼女。
    「おまえはここで、どんなふうに陛下のお相手をしたのだ?」
    そんなことを問いかけていた。
    「ん~、王妃さまはほんとは射的がやりたかったんだけど、怖いからって結局こっちにしたんだよなぁ」
    でも実際弓矢を手にしたら、王妃には全然弓が引けなかった。
    「だからこうやって」
    彼は彼女に矢をつがえさせると、後ろから背を覆うように一緒に弓を引いた。
    いきなりの二人羽織り状態。
    彼女の背中に、男の胸が密着する。
    彼の体温が薄いゆかたの生地ごしに伝わってきて。
    それは、固い軍服を通して感じる熱より、ずっとリアルだった。
    引き絞られてキリキリと音を立てる弦。
    うしろから手を添えられて、彼の上腕二頭筋の動きまで伝わってくる。
    …ちょっ…だめだ、これ。
    簡単にどきどきしはじめた胸。
    間違いない。
    これはときめきだ。
    私、アンドレにときめいちゃってる!
    「オスカル?」
    …そんな。嘘だろう?
    「オスカルって」
    …だってこいつは、きっと私のことなど妹ぐらいにしか思っていないのに。
    「おい、オスカル。大丈夫か?」
    急に頬をつかまれて顔を向けさせられ、彼女は我に返る。
    店主に渡された5本の矢は、既にすべて放たれており、彼が心配そうな顔をしてのぞき込んでいた。
    「さっきの酒が効いてるんだろう?もう帰った方がよくないか?」
    「そ‥んなことない。それよりも」
    王妃にも、本当にこんなふうにしたのかと、彼女は念を押す。
    「王妃さまにもしたけど。失礼だったかなぁ?」
    彼女に問いただされて、彼は少し不安になった。
    王妃さまは楽しそうなご様子だったけど、やっぱりフランク過ぎたかも。
    しかし、そんな彼の危惧もうっちゃりで、彼女は真意の測りかねる事を言ってきた。
    「それで、何回ほどこうして差し上げたのだ?」
    「何回…ってそりゃ最初の1回、だから5本ぶんだけだよ」
    彼の手を借りて、試しに5本放ってみた王妃は、やはり自分には難しいと、早々に輪投げの露店へ処を移したのだ。
    「なら私にはあと2回はやってもらおうか。そして、その後は輪投げだ」
    「は?」
    オスカル。おまえ、何に張り合っている?
    まるで元カノとの思い出を塗りつぶすのに、躍起になっている今カノみたいな彼女の言動。
    「まさかね」
    そんなことある訳ないと彼は独り言ち、愛する女の望む通り、二人羽織りのままあと10本、矢を放った。
    それを彼女は、たっぷりと翻弄されながら背中で感じていた。
    彼が息を詰め、弓を引く。
    大胸筋の盛り上がる気配。
    軋る弦。
    放たれる矢羽が頬を掠める音。
    集中を解き、短く吐き出される息が耳にかかる。
    ああ、だめ。
    背中で感じ取る彼は、顔が見えていないだけに、ものすごく“男”だった。
    手だって、とても大きくて。
    それに。
    矢をつがえながら、彼女のヒップラインにまで軽くフィットしていた、彼の体躯。ちょっと前までなら、とある部分が妙な変化を見せていたけれど。
    今はどうなんだろう?
    輪投げの露店へと歩きながら、人並みに紛れて彼女はアンドレのプライベートなゾーンに手を伸ばした。
    「ひゃっ」
    ドン引きで素っ頓狂な悲鳴をあげる彼。
    「なっ‥なにするんだオスカルっっ」
    「男がいちいちうろたえるな。減るもんじゃなし。少しばかり、状態を確かめたいだけだ」
    「じょっ‥じょうたいぃ!?」
    「もしコレがそういう状態だったなら、場合によっては、私にも言わねばならん台詞があるらしい」
    神妙な面持ちで、でも彼女の瞳は熱っぽく潤んでいた。
    それはラッパ飲みしたクソ強い酒のせいなのか? オスカル。それとも。
    「さて、どんなコンディションなんだ。アンドレ?」
    「まったくおまえには、色気も情緒もあったもんじゃないよなぁ」
    彼は大げさにトホホといった仕草をし、それから徐に彼女の手首を取った。さすがに故意に握らせたのでは本物の痴漢なので、手の甲を軽~く触れさせてみる。
    「!」
    「ええ、おかげさまで再び血気盛んな状態ですとも、マダム」
    「おまえ」
    「すみませんねぇ、下半身の正直な男で」
    なんでこんな恥ずかしい告白をせねばならぬのかと、彼は心底、反応しやすい相棒を恨む。
    くっそぉ、オレめ。
    しかし。
    「王后陛下にも、こうなったのか?」
    「はあぁぁ!?」
    思いもよらないことを言い出されて、彼の羞恥心はぶっ飛んだ。
    「俺は誰にでも勃つわけじゃないっ」
    「だっておまえ、阿呆づらで陛下に見とれていたじゃないか」
    「俺はおまえに見とれてたんだよ。髪も結って化粧までして、ゆかたの藍が白肌に映えてて。見とれないわけがないだろ!」
    「私、に? …嘘だ」
    「こんな恥ずかしいこと言わされて、今さらウソなんかつくかよ~」
    彼はパタパタと、手で顔を扇いだ。
    「で、おまえの“言わねばならん台詞”って、なに?」
    「へ?」
    「人にここまでしゃべらせといて、とぼけるなんて許さないよ?」
    彼は身をかがめると、グッと顔を近づけて、目をのぞき込んできた。
    …ち…近いぞ、アンドレ。
    漆黒の瞳も、先ほど重なりあったくちびるも、すぐ目の前。触れそうなほど。
    だめだ。こんなんじゃ、ごまかすなんてできない。
    「アンドレ、実は私」
    彼女は声を小さくして、ひそひそと言った。
    「おまえにときめいてしまっているみたい…なんだ」
    「ウソだろ?」
    「プティ・トリアノンでゆかた姿のおまえを見たときから、もう胸がざわめいていた。でもおまえは王后陛下に見とれていたし、私のことなど、妹ぐらいにしか思っていないのだろうと」
    「あのな~、俺は妹に勃つほどマニアじゃ」
    …だからか、オスカル。
    だから彼女は、アンドレのシークレットな部分に手を伸ばしたのだ。女性として見られているかを、確かめたくて。
    「おまえってほんとに、直情型のバカ」
    そう言うと、彼はクツクツと笑い出した。
    『ときめいてしまっているみたい』か。“好き”とか“愛している”じゃないんだ。こんなときにもバカ正直で。
    「まったくおまえらしいよ」
    オスカル・フランソワが愛しているのは、フェルゼン伯ただ1人。
    それは彼にも判っていた。
    それでも。
    もう1度見つめ直した彼女の瞳には、今までにない艶がある。
    珍しくて美しい魚よりも、チェスの駒なんかよりも、彼にはその眼差しこそが、1番のプレゼントだった。
    何度も諦めそうになった恋だけど。
    少しは期待していいのかい?
    「アンドレ、私、どうし」
    「いいんじゃないか?今夜は」
    とまどい感満載の彼女の声を、彼はぶった切った。
    恋愛ごとには不慣れな彼女。
    今は安心させてやろう。
    「今夜の俺たちは、恋人同士だもの。ときめくぐらいでちょうどいい」
    「でも私には!」
    「無粋なことを言うくちびるなら、またふさいでしまうよ?」
    「それ…は」
    いいような、悪いような。
    「よし!じゃ、まずはあの踊りに混ざってみようか」
    笛吹き男を囲んで、輪になって踊っている人たち。
    「そのあとは、全露店制覇だ!俺が王妃さまと行った露店は、まだ他にもあるんだぞ?どこでナニしたかは、教えてやんないけど」
    つけ加えられた言葉に、ピクンと上がる彼女の眉。
    「おお!全露店制覇、受けて立つとも」

    今夜だけは恋人同士。
    互いにまじないのようにそう唱えながら、手をつないだ2人は祭りの熱気に浸されていった。
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