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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【6】

UP◆ 2012/10/12

    「そんなに難しい話だった?」
    国王夫妻の姿が消えるなり、月を仰いだきりの彼女。
    「ん?」
    彼に話しかけられて、ようやく視線を戻した。
    「おまえは表情がすぐれないし、国王さまは怒って帰ってしまわれたし」
    「ああ…」
    そのことか。
    「難しい話、というわけでもなかったのだが、いや」
    …難しい。難しいかもしれない。
    持てあましている妖しい鼓動。
    『判った?オスカル・フランソワ』
    軍服の中に押しこめた小さな胸を焦がすのは、今も確かにあの男。それなのに、見慣れた幼なじみに今、こんなにどきどきしているのはどうしてだろう。
    今の私が猥褻物だから?
    それもある。
    彼のしっかりした首の線が浅黒い胸板へと続き、ちょうど目の高さでチラチラしているから?
    もちろんそれもある。
    でも。
    原因はアレだ。
    彼の髪がサラサラとこぼれ落ちて、王妃の頬にかかったあの場面。
    なんだかすごく“男と女”みたいに見えた。
    うち掛かる髪を払う刹那に、王妃と彼は一瞬、見つめあったようだった。そして彼は優しく笑って。
    あのとき感じた痛み。
    だって、本当に胸が痛かったのだ。
    侍女たちがたまに、誰ぞと目が合って心臓が止まりそうになっただの、誰ぞを思うと胸が疼くだのとおしゃべりしているのを聞いてはいたが、まさかそれが自分の身に起きるとは思っていなかった。
    それも、アンドレ相手に。
    彼女だってあの男を想って涙にむせびながら、夜の石畳に馬を駆ったこともある。でもそれは、長きに渡りフェルゼンに抱えてきた恋慕が引き起こすことで。
    私はアンドレのことなど、なんっっとも思っていないのだぞ?
    時に兄、時には弟のようでもあり、けれどもっとも信頼しあう親友。それが2人の有りようだと、今の今まで思っていたのに。
    「はぁぁ」
    なんとも微妙な表情で、言葉を探す彼女。
    このとまどいを、どう説明すればいい?
    しかし彼は、そんな彼女の様子をあまり気に止めず、こざっぱりと話を進めた。
    悩み深そうな彼女の扱いに慣れているのだ。
    「職務上の守秘義務だろ?大丈夫、俺も無理に聞こうとは思ってないし」
    「あ…ああ。ありがとう。でも…守秘義務…か。うーん。今回は陛下ご自身のことではなくて、いや、もちろんそれもあるのだが」
    「?」
    「むしろ難しいのは私の方らしく」
    彼女はいっそう眉根を寄せて、気難しい顔をする。
    「おまえ、国王さまになにか失礼なことでもしたのか?」
    「まさか!そうではなくてだな」
    ああ、駄目だ。うまく言えない。
    だいたい、こんなふうにグズグズしている自体が、このとまどいを大きくしている気がする。
    いっそ洗いざらい……話してみるか?
    あっさり口に出してしまったら、案外簡単なことなのかもしれない。
    『アンドレ。実は私、今夜はなんだか、おまえにどきどきしちゃっててさ』
    軽くそんなふうに言ってみれば、こいつはカラカラと笑って『おまえは考え過ぎなんだよ』とかなんとか答えて、いつも通りに安心させてくれて、そうしたら私も憑き物が落ちたみたいに、こんなややこしい気持ちから解放される。
    それが正解に思えてきた。
    きっとそうだ。
    よし、言うぞ!
    「あのな、アンドレ」
    彼女はどきどきを抑え、ゆっくりとした口調で切り出した。
    けれど。
    ひゅうぅぅぅ~~~
    「なにごと!?」
    笛ともつかない変わった音に、彼女の声はぶった切られた。
    続いて、下っ腹に響く振動と、とっさに耳をふさぐほどの爆発音。
    砲撃?
    彼は反射的に彼女を引き寄せ、胸に抱きこむ。
    反乱?テロ?
    おそらく同じことを考えて、腕の中から飛び出そうとする彼女をさらにガッチリ抑えつけ、アンドレは素早く周囲に目を配った。
    もっとも安全なはずのベルサイユ宮のさらに奥。このアモーで有事が!?
    2人の緊張は一気に高まったが、彼の目に映る異国の人々の表情はなごやかだった。むしろ期待に満ちた明るさで、皆、同じ方向を向いている。
    彼もつられて空を見上げ。
    「すご…い!」
    星屑がきらきらと降ってきていた。
    金も銀も赤も緑も、全部がきらきらとした小さな光の粒になって、流れ落ちてくる。
    「打ち上げ花火だ」
    ホッと力のゆるんだ彼の腕の中で、彼女がつぶやいた。
    これが王后陛下がおっしゃっていらした、異国の花火か。
    最初のひとつの余韻も消えぬまま、細く高い風切り音が次々と響く。木々に囲まれた広場の狭い空は、一瞬の静寂のあと、咲き乱れこぼれ落ちる星屑たちでいっぱいになった。
    あるものは色を変えながら大きく開き、あるものは彗のように光の尾を長く引きながら、そしてあるものは小花を散らしたごとく可憐に光り輝き、闇に還ってゆく。
    打ち上がる細い音を追って弾けた音が響くたび、ゆるんだはずの彼の腕には少しだけ、力が入った。
    からだに響いてくる破裂音のせいなのか、それとも、そのどさくさにまぎれて彼女をもっと抱き寄せたい下心なのか、彼にもよく判らない。
    ただ、キュッと密着するたびに彼女のからだが柔らかくて、結い上げた髪に露わになったうなじがぼんやりと白くて…
    その淡い白さは、先ほど盗み見たゆかたの中、意外と肉感的だった内ももを連想させた。
    やば。
    躓きかけた彼女を受け止めたときの指先の感触。うっかりやり過ごしてしまったソレまでが甦ってきて、彼のからだの奥で熱が溜まる。
    …オスカル…
    打ち上がる花火に見とれる彼女は、2人が今、寄り添いあっていることにも気づいていない。彼の左手が腰に回っていて、自分の手だって彼の胸に添えられているのに、それが若い男の前でどんなに無防備か、彼女はちっとも判っていなかった。
    マジでヤバい。
    少しずつ、存在感を示していくある部分に、彼はそっと腰を引かせる。
    ぴっちりしたキュロットならともかく、この自由度の高いゆかたでは、なんの弾みで「こんにちは~、オレでーす!」なんてことになるか判らない。
    ゆかたの構造にも、自分の理性にも、信用できるところなんてなかった。
    それなのに。
    「あぁ」
    しっとりとした女の溜め息が聞こえた。
    仰向けられた顔。青い瞳に色とりどりの小さな光が映っている。頬にもさまざまな色あいが照り返していて、うっとり夜空に魅入る彼女を幻想的に見せていた。
    グラグラする理性。
    小さく開かれたくちびるの濡れた艶に、吸い寄せられそうになる。
    「アンドレ?」
    つい食い入るように見つめてしまい、気づいた彼女が不思議そうな目を向けてきた。
    「花火、見ないのか?素晴らしくきれいだぞ」
    ほんの20㎝ほどの距離で見つめあう2人。
    こんな距離感、珍しいことじゃない。子供の頃からさんざんじゃれあってきて、大人になってからだって兄弟そのもののあいだ柄だったのだから。
    でも。
    「アンドレ、どう‥し‥」
    不意に彼女の視界が暗くなる。
    「素晴らしくきれいなのは」
    花火よりも
    「…え?アンド…レ…?」
    おおいかぶさってくる彼。
    …な‥に?なにが起きてる?
    焦る気持ちとぼんやりした気持ちが同居して、身じろごうにも、彼女のからだは上手く反応しなかった。
    「待っ…」
    隠していた胸のどきどきが、バクバクに変わっていく。
    たくましい腕が腰に回っていることに今、気づき。
    ひときわ大きく響く音。降りかかるかと思うほどの煌めきの粒子たち。湧き上がる歓声と拍手。彼の匂い。
    なにもかもが混ざり合って、彼女はそのとき、なにも考えられなかった。
    「いやか?」
    そう聞かれた気もするけれど、それだってもうよく判らない。目を閉じることも忘れて、動けずにいる。
    それを彼はOKだと受け取った。
    いや。
    彼女が自失気味なのは、オスカル・フランソワという人間をよく知る彼には判っていた。
    卑怯だと思う。
    悩んでいるらしい彼女の揺らぎにつけ込んで。
    だけど。
    止めらんないだろ?
    今、くちづけられるなら、あとでいくらなじられてもいい。
    女性らしく装った彼女。くちびるの誘うような紅。まだ残る湯浴みの香り。襟足に淡い金色の後れ毛。
    そのひとつひとつが彼から自制心を剥いでいくけれど、それにあらがうには、アンドレはまだ若かった。
    だって腕の中に、押し殺して愛し続けた女の、柔らかな体温があるのだから。
    ぼうっとしている彼女を覚醒させぬよう、彼は慎重にくちづける。
    「…ん」
    憧れ続け、密かに愛し続けた女のくちびるに、不覚にも声が出た。
    ああ、ダメだ俺。くちびるを重ねているだけだっていうのに。
    抑えようと思っても、彼女とつながっていると思うだけでバカみたいにテンションが上がっていく。
    …もっと。これじゃ足りない。あと、もう少しだけ深く…
    夢中になり過ぎた彼は、うっかり彼女を強く抱きしめてしまい。
    びくん。
    ハッと気を取り直した彼女は正気の瞳で彼を見返し、そして、次の瞬間には厚い胸を突き飛ばしていた。
    「おま…、おまえっっ」
    「悪いっ」
    首筋まで真っ赤に染まった彼女の顔。
    その“真っ赤”が、くちづけへの恥じらいなら、まだよかった。
    けれど。
    「きさま、どさくさにまぎれて、私になっ…ナニを…いや、なにを握らせてっっ…!」
    「違っ、誤解だ誤解。偶然そうなっただけだ!」
    くちづけに感極まった彼が、ついギュウッと彼女を抱きしめてしまったとき。
    彼は微かな後悔の中で、でも、儚い望みも抱きしめていた。くちづけのあと、彼女が照れくさそうに微笑ってくれるのではないかと。
    しかし、実際はそうはいかなかった。
    ぎゅっと抱きしめられた彼女。片手は彼の胸に添えられたままだったが、もう片方の手は、なんの弾みか2人のからだの間に挟まれていた。
    しっとりと押しつつみ、忍びこんでくる彼のくちびるの感覚に、焦りや混乱がごちゃ混ぜになって、奇妙に漠然としてくる。
    そのくせ頭のどこかはヘンに冷静で、彼女はおとなしくくちづけられている自分を不思議な気持ちで観察していた。
    いつもなら、すかさず 鳩尾 (みずおち)を膝で蹴り上げ、自慢の右でぶっ飛ばしているはずなのに、と。
    …こんなの、おかしい…
    ゆかた姿の彼を見てから、ずっと胸のうちをグルグルしている気持ち。
    ……こんなの、絶対おかしい。だって私が愛しているのはあの男で……
    そう思っても、しっかり抱いている彼の腕が力強くて、それはとても安心できて、密やかに吸われているくちびるの感触は心地よくて。
    ……こんな…駄目だ。でも。
    結局彼女はよりぼうっとしてしまい、彼とのくちづけに溺れそうになった。
    ……アンドレ、も…っと。
    もしそうなっていたら、彼女はくちびるが離れたあと、彼の期待通りに頬を染めて微笑いかけたのかもしれない。
    けれど。
    感極まったアンドレが、さらに力を込めたとき。
    挟みこまれていた彼女の片手に、なにかが触れた。
    今までに感じたことのない手触り。
    なんだか判らないけれど、本能的な嫌悪を感じ、肩がびくんと震える。
    それでもさらにグッと抱きしめられて、得体の知れないものも手のひらにグッと押しつけられ。
    コレって…
    いかに鈍い彼女でも、ソレがどういう状態のナニかが判った。
    ひゃあぁぁぁ~!
    それまでの妖しく惑わせてくる混乱と違う、はっきりとベツモノの混乱に陥り、彼女は声をあげることも出来ずに彼を突き飛ばしたのだった。
    「きさま、さっさとソレをなんとかしろ」
    「なんとかって言ったってなぁ!コレばっかりは、自分でどうにもならないときがあるんだって」
    「私の知ったことか~!ソレのおかげで花火の終盤が見られなかったじゃないか!」
    「え"?」
    振り仰いで見れば打ち上げ花火は終わってしまっており、空には薄い煙が残るだけ。むしろ花火よりも、自分たちの方が周囲の視線を集めていた。
    そうだ。
    国王夫妻が退場してしまった以上、この広場にいる者たちにとって、もてなすべき対象は彼と彼女のみ。
    2人が楽しんでいるかどうかは、さりげなく気にされている。
    偽りの夏祭りの、偽りの登場人物たち。
    そして、今や2人に割り当てられた役割は、花火に魅せられてくちづけを交わす
    「――偽りの」
    「――恋人同士?」
    ……こんなの。
    杓子定規な声は依然、胸の中で漂っているけれど。
    網膜に残るきらきらした星屑たち。人々の高揚した顔。ざわつく人いきれの中に混ざりこむ異国の言葉。
    作り物だと判っていても、祭りの空気は熱をはらみ、些細な感情の揺らぎなど暴力的に押し流す。
    「おまえが思い悩んでいるのは判ってる。なにかを言いかけていたことも。だけど今は。今夜は」
    「でもアンドレ」
    「おまえの話はあとで全部聞くよ。さっきの くちづけ (ぶれい)も謝る。だから今夜だけは」
    “祭りの夜に、つい気分が盛り上がってしまった若いカップル”
    周囲の人々はそんな表情で2人を見ていて、その目は限りなく優しいものだった。もちろん小っちゃなからかいや好奇心もチラチラしているが、それがまたなんともこそばゆく、彼女はそんな気持ちになっている自分が意外だった。
    アンドレと私が、恋人同士だと誤解されているのに。
    それはちっとも不快じゃなくて、どちらかというと、ちょっぴり嬉しいような。
    ……!
    「な?オスカル」
    偽りの恋人を演じようという、彼の真意。
    彼女は闇を映す双眸にそれを探すけれど、答えを見つけるより早く、ぽぅっと額が熱を持った。
    国王から、くちづけが授けられた場所。
    『判った?オスカル・フランソワ』
    い…いえ。いいえ、陛下。これは違うのです。私たちを見守る人々の目があたたかいから。この者たちの気遣いを無にしたくないから。
    そう。こんなときに、たかがくちづけごときで咎め立てるほど、私もコドモじゃないから。
    だから。
    「私はこの場の空気を読んでいるだけ、だぞ?」
    「も…もちろん!」
    ボソボソと同意を唱えた彼女の手を、彼はつかんだ。
    警戒感でちょっと引き気味な手首に、漆黒の瞳には苦笑が宿る。
    「なんにも握らせないってば」
    「ば…かやろうっ。早くその猥褻物をなんとかしろ!」
    ――猥‥褻物?
    って私のことじゃないか。
    一瞬手のひらに触れた、生暖かくて固いモノ。そして、ゆかたの内はあられもない装備の自分。くちびるには彼の弾力がまだ残っていて。
    ああ、だめだ。
    めまいがしてくる。
    とにかく、頭を冷やさなければ。
    「アンドレ、なにか飲ませてくれ」
    「あ、ああ!そうだな。うん、こっち」
    どうあれ彼女が提案らしきものをしてくれたので、彼はその気勢をそがない内に、思いついた露店へと足を向けた。
    「さっき王妃さまと回ったときに、見つけたんだけど」
    手をつないだ2人が訪れたのは、ショットバーのような露店だった。
    「これが専用の杯みたいなんだけどね」
    渡されたのは小さな器。本当に小さくて、浅い。量だって、きっと1口ぐらいしか入らない。
    「人形遊びで使う玩具のようだな」
    「おちょこ、というそうだよ」
    露店の店主役は、テーブルに並んだ酒びんの中からひとつを選び、しげしげとおちょこを見ている彼女に差し出した。
    小さな杯にとろりと注がれる、無色透明な液体。
    でも、香りが強い。
    甘ったるい…ような?
    彼女は躊躇せず、手にした杯をキュッとあける。
    「うわ。なんだこれ!?」
    酒には強いはずなのに、クラッときた。
    口に広がる、思った以上の芳香。
    喉と頬がカッと熱くなる。
    「ちょっとすごいだろ」
    彼がクスクス笑っている。
    「うん。でもうまい」
    「じゃあ、オスカル。ちょっと目を瞑って」
    「え?」
    「大丈夫だから」
    どことなく不安そうに、彼女は目を閉じる。
    何気ないふりはしているが、先ほどのくちづけを彼女が気にしていないわけがなかった。
    彼の前で目を閉じるのを、ほんの少し怖いと思っている。
    いや。怖いのは彼ではなく、あのとき溺れそうになった自分なのだが。
    しかし、目を瞑っていたのは、葛藤を感じるほどの長さでもなかった。
    「はい、もう目をあけてもいいよ」
    「?」
    露店の簡素なカウンターには、酒の注がれた3つのおちょこが並んでいた。
    「さて、この中で最初に飲んだものはどれでしょう?1発で当たったら、あれがもらえるんだ」
    彼が目線を店主役に向けると、その男はなんとも滑稽な形のものを掲げて見せた。大小の球を重ねて丸みをおびたフォルム。
    「まるで間延びした雪だるまのようだな」
    「あれは“ひょうたん”というんだって。中がくりぬかれていて、酒びんになってるらしい」
    「ほう。それは…ちょっと欲しいな」
    「ひょうたんが?それとも、中身の酒が?」
    「当然、どちらもだ。私はおまえが思うより、なかなかに欲が深いのだぞ?」
    彼女はスッと目を細めて、杯を手に取る。
    本気になった証拠の眼差しで、1つめを飲みくだし。
    「アンドレ。おまえ、やけに詳しいようだがやってみたのか?」
    「一応ね」
    彼女は2つ目もクイッと飲む。
    「で、結果は?当たったのか?」
    「それが全然。この酒、どれも強烈だろう?」
    確かに。
    3つとも個性が強いから、慣れぬ者には味覚がやられて、どれがどれやら判らなくなる。
    最後の杯も難なくからにしたけれど、初めての味ばかりで舌がビックリしたのか“これ!”とひらめくものがない。
    どれもが濃くて甘くて、でも辛さもあり、香りが強く…
    「ううむ、判らないな」
    「難しいだろ?」
    まるで自分が問題を出しているかのような口ぶり。
    軽く得意気な彼に、彼女はじろりと目を上げる。
    と。
    彼女の手。
    つながれたままの手の中で、彼の指先が蠢いた。
    手のひらを、指先でツツッと撫でられる。
    …や…っ…
    小さく声をあげそうになって、でもそれはとても恥ずかしいことみたいな気がして、彼女はくぅっと声をこらえた。
    こいつ、つい今しがたあんな無礼を働いたばかりで、まだふざけるのか!謝るとか殊勝なことを言っていたくせに。
    拳をグッと握って、こっそり手のひらを刺激してくる指先を追いだそうとしたら、彼が妙な目配せをくれてきた。
    むむ?
    信号を送るみたいに、拳を突ついてくる指。
    ツン‥ツンツン‥ツン‥
    手を、開けと?
    彼女が再び手をゆるめると、素早く彼の指が滑りこんで来る。
    ツツッ。ツツツッ。
    文字…?
    N o n
    酒のことか!
    試しに違う杯を手に取ってみる。
    クルクルクルクル~
    手のひらに、何重もの環を描かれた。
    彼は澄ました顔で異国の店主役と話をしているけれど、手の中の指先の動きは弾んでいて、『それ!それだよ!!』と言っている。
    うーむ。多少インチキくさいが。
    これも祭りの余興なのだ。堅いことを言うのも、かえって格好が悪い。
    「これ、だろう?」
    彼女がひらめいたそぶりで1つの杯を突き出すと、店主役の男は“おおっ!”と眉をあげた。見ていた人たちからも、小さな拍手があがる。
    「大当たり~ぃ」
    「よっ、べっぴんさん!」
    にぎやかに囃したてられながら渡される、酒の入ったひょうたん。きれいな組み紐でくくられていて、このままプラプラと持ち歩けそうだ。
    「“べっぴんさん”ってなんだ?」
    「知らん」
    たいして重くもないそれを、アンドレが彼女から引き取って、また2人はなんとなく歩きだす。
    手をつないだ2人のあいだで揺れるひょうたん。
    彼女はときおり耳を近づけ、ちゃぽちゃぽという音を楽しんでいる。
    そうした仕草は子供の頃のようで、彼には懐かしく甘酸っぱかった。
    いつから彼女を愛するようになったのか。
    思い当たる場面はたくさんあり過ぎて、今となってはもう、出会ったことが運命だとしか思えなくなっている。
    「ありがとう、アンドレ。教えてくれて」
    「いえいえ。お喜びいただけてなによりです。それより、判ってくれてよかったよ。おまえ、ちょっと怒ってなかった?」
    彼はさっきのように、指先で手のひらをいじってきた。
    微かに引っかくような、秘密っぽい感触。
    馬車に乗る。馬から降りる。そんなときにがっちりと握ってくれるときとは違う、彼の大きな手。
    柔らかく包んでいるくせに、爪の先で探るみたいに繊細に動いている。手のひらだけでなく、指と指のあいだにまで這い回り、蠢いて。
    「おまえ、ちょっと怒ってたろ。不埒なコトされてるってドキドキした?」
    ぎくっ。
    図星を指された彼女は、無駄に声を荒げた。
    「ばかやろう、誰がおまえなんかにっ!」
    そう言い捨てた瞬間、彼はバッと顔を向けた。それは彼女がビクッとしてしまうほどの勢いで。
    そのままじっと見つめられ。
    …アンドレ?
    怒っているのにも似た、厳しい眼差し。
    でも違う。
    まっすぐに向けられた双眸がたたえるもの。
    それは。
    ああ、それは。
    彼女が一生懸命その意味を探しているのに、でも彼はニコッと表情を変えてしまった。
    「だよな。おまえが俺にときめくなんて、ないよなぁ」
    彼は冗談めかしておどけたけれど、自虐まじりのひと言は、彼女の胸をさっくりと貫いた。
    そしてストンと理解してしまった。
    ゆかた姿のアンドレを見たときからの妖しい鼓動が、ときめきだということに。流されるままにくちづけを許してしまったのも、そのせいだと。
    まさか。だって、私には愛している男が。
    混乱していくオスカル・フランソワをよそに、自虐的な笑みを浮かべた彼は、彼女の手を放した。
    「…あ」
    言い過ぎた?
    そうだ。言い過ぎた。
    『おまえなんかに』
    そして先ほどかいま見た、彼の真剣な眼差し。
    あれは、哀しみ?
    『判った?オスカル・フランソワ』
    陛下。ですが国王陛下。私には想う人がいるのです。
    『必要なのは、自分に正直になること』
    けれどそれでは…!
    『気持ちをもっと楽にしてみるといい』
    気持ちを、楽、に?
    頭の中で、たくさんのキーワードが浮かんではきらきらと弾ける。打ち上げ花火のように。
    とっ散らかった直情型の脳みそで、確実に判っていることはひとつだけだった。
    この偽りの夜に、彼の手がほどけてしまうのは
    「…嫌だ」
    2歩、3歩と先に行ってしまおうとするアンドレ。
    ゆかたの後ろ姿が胸にきゅんときた。
    ……こんなの、おかしい。
    でも。
    ……そんなの、構わない。
    彼女は彼のひじをつかむと、力まかせに振り向かせた。
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