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【5】
UP◆ 2012/10/3「陛下、ご覧になって!魚が」
王妃がはしゃいでのぞきこんでいる。
美しい小魚をたくさん放した低いいけす。
「ほら、あれですくうのですって」
4人の目の先に並べられたのは、紙が張られて取っ手のついた珍妙なもの。
…なんだろう、コレは。
「本当はもっともっと薄い紙で作るらしいのよ」
「ですが陛下。それではすくおうにも、すぐに破れてしまうのではありませんか?」
彼女は至極当たり前な質問をした。
「も~っ、オスカルったら判ってないわね。それが面白いんじゃないの」
王妃が可愛らしくふくれて見せる。
「ふぅむ。水に弱い素材をあえて用いて、小魚をすくうのでございますか。異国の民は、変わったことを思いつくものですね」
ごく浅いいけすの中を、ゆらゆらと泳ぎ回る魚たち。
それを見ようと、4人とも自然とかがみ込む姿勢になっている。
お手本を示すように、その遊びを楽しんでいる者たちの手さばきは鮮やかで、彼も彼女もだんだんと興が乗ってきた。
濡れた紙の上を、魚たちが滑るように跳ね上げられて、待ち受ける器の中へポイポイと吸い込まれていくのだ。
面白いようにすくわれていく魚に、ついに耐えきれなくなった紙が破れた瞬間には、歓声とも落胆とも取れる声をあげてしまったほどだった。
「なるほどこれは面白い」
前のめりな姿勢に、彼女が腰のうしろで組んでいる手。訓示を垂れるときの色気のない癖だが、その手は今、華やかに開いた帯の下でアンドレに握られている。
ぎゅっ。
信号を送るみたいに、彼が力を入れてきた。
――おまえ、やりたいと思ってるだろ?
見おろす瞳が、そう言っている。
――おまえだって、やりたいと思ってるくせに。
なんでも器用な彼と、なんでも飲み込みの早い彼女。
――次の勝負はコレか?
早くもやる気に火がついた。
“ご褒美”は何にしよう?
彼の意表を突くなにかを、けっこう本気で考えたりなんかして。
「実はわたくし、これがとても楽しみだったの!さ、陛下。わたくしたちもやってみましょうよ」
実にタイムリーな王妃の言葉もあって、2人は早くも魚たちに目を走らせた。
が。
「私はいいよ」
かったるそうな国王の声が水を差した。
「こういうものは、あまり気がすすまない」
「まぁ、そ…う」
王妃も2人も、そしていけすを囲んでいた者たちも、“さぁ!”という気分になっていたところだっただけに、国王のこの様子には皆、がっくりくる。王妃など、国王の目もはばからずに大きなため息をついたほど。
『陛下ったらいつもそう!ちっとも物ごとを楽しもうとなさらないの』
ぷりぷりと怒っていたプティ・トリアノンでの王妃が、2人の脳裏を掠める。
まずい。
「国王陛下。隣の露店などはいかがでしょう?あちらにも何やら珍し気なものが」
彼女が国王をそっと促すと、さすがのコンビネーションで隣の露店に先回りしたアンドレが、売り物を手に取っていた。
「さぁ、陛下。あちらへ」
彼女がつい、仕事の呼吸で先導したものだから、乗りのよくない国王もすんなりとついて行く。
不機嫌になりかけていた王妃は、ニコニコと楽しそうなアンドレの様子に駆けだすと、国王と彼女を軽やかに追い越した。
それを追う、国王の鈍い瞳。
…ああ。
彼女は王の横顔を見つめ、口を開きかけ。
けれど、それは高くあがった王妃の声にはばまれた。
「やだアンドレ、おかし~!こちらを見ないで」
彼が、なにやら面妖な仮面をかぶっていた。
「おまえ、なにをやっ…」
鋭く牽制する声を発する彼女。しかし。
くるり。
顔を向けてきた彼を見て、目が点になった。
「ちょっと待てアンドレ。こっちを見るな。見るなと言ってい……ぶはっ!」
むっつりと押し黙った国王の手前、笑いを懸命に抑えた彼女だったが、ツルリとした額に口がニュウッと横に伸びた奇妙な顔に迫られて、我慢も限界を超えた。
目をそらそうと顔を伏せても、執拗に下からのぞきこんでくる。
そういう仮面だと割り切れば、それほどおかしくもないのだろうけれど、1度入った笑いのツボというものはタチが悪い。暗い目をした国王をおもんぱかって耐えれば耐えるほど、笑いの沸点は下がっていく。
「きさま、いいかげんにしろ」
ドスを利かせて言ってみたところで、その声は震えている。
…は、腹がイタい。
彼がオスカル・フランソワをじゅうぶん笑い死なせていると、仮面の売り子が寄ってきた。別の仮面を手に持って、どうやら次はコレをかぶれと言っているらしい。
センターからカパッと割れた髪に、下ぶくれの真っ白い顔。笑った目が細くて、過剰に垂れている。どうやら女の仮面のようだ。
よぉし!
絶好調で調子に乗った彼は、それを受け取ろうとした。
しかし。
「え"?」
横からスイッと手が伸びて、女の仮面をさらっていった。
「王后陛下!?まさかあなたさままで!」
度肝を抜かれた彼女をよそに、王妃はいそいそと仮面をかぶった。
「どう?オスカル」
仮面の中で、こもった王妃の声。
どう、って。
どう、って王后陛下。
「はい、大変」
お似合いですって言っていいのか!?いや、かの国ではこの顔が美女の基準なのかも知れぬ。だとしたら“お似合い”というのも誉めたことになるのか。いやいや、まさかこの白塗り下ぶくれのふざけた顔が美女とは到底思えんだろ。だとすれば私はどう答えたらいい?てか王后陛下!どうかこちらを見ないでいただきたい。アンドレ、おまえもだ!
彼女の脳みそに、0.5秒ぐらいで駆け巡った思考。
しかし王妃は、その0.5秒ほども待ってはくれなかった。
オスカル・フランソワの目の前に、ふわりと差し出される高貴な右手。彼女は条件反射で腰を落とすとその手を取り、甲にくちづけようとした。
けれど。
ドンっ!
彼女の横にアンドレが、いや、口の伸びた男が回りこんできた。
王妃の手を奪い取り、くちづけようとする。
が。
スカッ。
「ぷぷっ」
彼女はたまらず、吹き出した。
口が横に伸びているから、上手にくちづけられないのだ。
スカッ。スカッ。
大げさに位置を外して、空回りのくちづけをくり返す奇妙な顔の男と、くちづけが外れるたびに身をよじって悔しがる垂れ目の下ぶくれ。
2人のひょうきんな動作に人が集まり出し、笑いが起きていく。
「お…王后陛下」
そうだった。
王妃はコスプレや小芝居が大好きなのだ。
このアモーですら、大きな舞台装置。シュミーズドレスをまとって、農婦の役を楽しんでいる。
男が無理やりな方向に首を曲げて、ようやく滑稽なくちづけが成立すると、いつの間にやら出来ていた人がきから明るい歓声があがった。
王妃と彼は仮面を外し、カーテンコールよろしく腰をかがめる。見ていた人たちは小さな拍手を送り、王妃も彼も、ちょっとした大道芸人扱いだ。
この者たちは、この方が一国の王妃であると理解しているのだろうか。
ちょっと無礼な異国の民たちに、彼女は職業がらの配慮をしかけたが。
……違う。この者たちは正しい。
曇りのない王妃の表情。
そうだ。王后陛下は一国の王妃でいるのがお嫌で、アモーでの暮らしを望まれたのだから。
「あんなにはつらつとした王妃の顔を、私はしばらく見ていない」
うっそりと彼女のそばに寄ってきた国王が、穏やかにつぶやいた。穏やかと言えば聞こえのいい、諦めきった口調。
「ごらん、オスカル・フランソワ」
国王の覇気のない目線の先に、愛くるしく笑う王妃がいる。
艶やかな瞳はちょっと潤んでおり、熱を秘めて見る者をどきりとさせる。あれは、恋をする者だけが持つ眼差し。
「昔。1度だけあんなふうに、あの人に見つめられたことがあるよ」
いつもくたびれた風情の国王は、僅かばかり、年相応の青年の気配をかもしだす。
「…私で宜しければ、少しお話しでもいたしましょうか。この祭りの宵闇に語られたことは、明日になれば祭りと共に、すべて幻となるのですから」
彼女はタタッとアンドレのそばに駆け寄ると、その耳もとに素早く命じた。
「王后陛下をエスコートして差し上げてくれ。大仰でなく、ごく普通に。陛下はそれをお望みだ。私は国王陛下と少々話さねばならんことがある」
「普通って、女友達や…恋人を連れ歩くみたいにか?」
彼の探るような声音。
しかし、国王が気にかかっている彼女には、彼の心持ちが伝わらない。
「失礼が過ぎない程度にな」
そう言い残して、ささっと国王の元へ戻っていく。
抜かれた襟あしに、細い首。帯の下のヒップラインは、キュロットのときとは違って柔らかそう。ちらちらと見える足首も…ああ。
祭りの一夜は、思うより短い。
もっと一緒にいたいのに。
笑った顔が見たいから、ガラにもなくおどけた振る舞いもできるのに。
そうは思っても、彼には彼女を引き止められない。
「どうかして?アンドレ」
「いいえ、王妃さま。なんでも」
彼は従僕勤めの習慣で、瞬時に慎み深い微笑を浮かべた。
「オスカルはなんですって?」
「国王さまと、少しお話がしたいのだと」
「…陛下のせいね?また不機嫌を露わにしているのでしょう。皆がこんなに楽しませてくれているのに、どうしてそれが判らないのかしら」
国王へと足を向けかける王妃。
しかし、彼が王妃の腰を引き寄せた。
もちろん彼の双眸は、国王と並んで離れていくオスカル・フランソワの背中を慎重に確認している。
「きゃっ」
急にからだに触れられて小さな声をあげた王妃は、彼を振り仰いだ。
「アンドレ、どう…したの…?」
どぎまぎした声でそう聞いたときには、彼の腕はもうほどけている。
そのタイミングは、絶妙だった。
「気難しい話をしたいというのなら、放っておけばいいじゃありませんか。それより、せっかくの夏の宵なのですから。王妃さま、今は俺と一緒に」
彼が誘いかける目を向けると、王妃はびっくりしたようにパチパチとまばたきし、それからためらいがちに頷いた。
妖しげな誘いじゃないのは判っている。
でも、想う男が着るはずだったゆかた。
髪の色も瞳の色も違うことなど、もう、どうでもよくなってくる。
長身と、品のよい仕草。ご機嫌取りではない本物の優しさ。それだけで、王妃にはじゅうぶんだった。ある人を重ねるには。
「さて、次はどの露店へ参りましょうか。王妃さま」
「あ…の。そ、そう!わたくしね、一緒にやってみたかったゲームがあるの」
王妃は男ものの袖をつかむと、グイグイと引いて行く。
それを、国王と彼女は、人々の隙間から見ていた。
なんとなく歩きながら、虚構の村人たちがさざめく中、さだかには見えない程度に離れて妻を目で追う夫。
「私もね、オスカル・フランソワ。王妃にあんな眼差しで見つめられたことが1度だけあるんだ」
それは、皇女がオーストリアからの長い輿入れの旅を終えた直後。すぐに始まった、慌ただしい婚礼の儀式のときだったと王は語った。
「皇女の肖像画は、幾度も見せられていたからね。清らかで、大変な美少女でいらした」
皇太子だったルイ・オーギュスト。
内向的な性格は生まれつきで、側近たちはこの政略結婚の成功と夫婦間での皇太子の優位のために、輿入れまでの日々、まだ少年だった未来の国王を教育した。
皇太子も、婚約者に対する自信を徐々につけて、ようやく叶ったご対面のとき。
「女帝マリア・テレジアの愛する末姫。気品に溢れた誇り高きシェーンブルンの美少女。私はそんな姫を思い描いていた。けれど」
実際に目の前に現れた皇女は、絶世の美少女なんかじゃなかった。
誇大された肖像画。
「でも、人なつこくて、なんとも愛らしい顔立ちをしていた。ハプスブルク家独特の印象的な瞳と、ほがらかで気取りのない仕草。快活におしゃべりして、皇女の明るいかわいらしさはどんなにか私の目にまばゆかったことだろう!」
気の強いわがままな姫を想定した教育を受けていた皇太子は、腰砕けになった。素直に微笑みかけてきた愛嬌いっぱいの婚約者に、どうしていいか判らなかった。
恐らくは気位いの高いであろう皇女を圧倒するよう、まずは威厳を持って優位を誇示するはずだったのに。
そして、それと同時に気がついた。
会った瞬間に向けられた皇女の、少女らしい、恋に恋するような眼差しがみるみる落胆していくのを。
きっと皇女の元にも、恐ろしく誇大した、イケメン王子の肖像画が贈られていたに違いない。おずおずと頬にくちづけたときには、皇女はすでにはっきりとがっかりしていて、上機嫌だったのは、時の王・ルイ15世だけだった。
「私には、皇女が暗く堅苦しい宮廷に舞い降りた妖精のように思えたよ。愛の女神の祝福を体いっぱいに受けて、あの人は輝いていた」
そのときから、恋に落ちていたのだと国王は言った。
「それなのに私ときたら!美男子でない上に太っているし、ダンスは下手だし、気も弱くて… 気の利いたしゃれた会話ひとつできない……!」
普段、積極的にしゃべることのない王。それが、珍しく自分語りをしている。
なにか力づけることを言わなければ。
そう思っても、彼女には上手い言葉が見つけられなかった。なにを言ったところで、それが国王とって憐れみにしかならないことが判っている。
「王后陛下は‥‥お優しい方です。国王陛下のお気持ちも、きっと‥ご理解くださって」
「うん。私もそう思っているよ」
国王は、言い訳でもするように彼女の言葉を遮った。
もしかしたら、彼女の僅か話し始めた言葉にすら、敏感に憐憫の匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。
「あの人は善良な人だ。善良過ぎて、自分の気持ちに嘘がつけないのだろうね。こんな私と結婚して、2人も王子を生んで。もう王妃としての義務は果たしてくれた。あの人が女としての幸福を求めるのを、どうして非難することができるだろうか……」
アンドレに駆け寄る王妃を、暗い眼差しで見ていた国王。王妃がゆかた姿の彼に愛する男の幻影を視ていることを、もちろん王は気づいているのだ。
「悪かったね。せっかくの余興の夜に、こんな話につきあわせて」
「いいえ、陛下」
ああ、もっとなにか。
彼女は言葉につまる。
国王の胸の中で、重く渦巻く感情。
判らないわけじゃない。
彼女の、フェルゼンへの想い。
人に知られることを恐れ、もっとも信頼する彼にもそれをひた隠しにしてきた。伝えたくて、でも伝えられない想いに、あの男が応えてくれる甘い妄想に耽っては現実に引き戻され。
それはどことはなしに、国王の混沌とした胸中に通じるところがあるように思える。
だから余計に、なにも言えない。
「申し訳…ありません」
国王は静かに首をふる。
「あなたも優しい人だね、オスカル・フランソワ」
「私など」
いつもとは違って、可憐に装った彼女。化粧を施された美しい顔が曇っている。それを見た国王もちょっと申し訳なさそうな顔になり。
そして、いきなり話題が変わった。
「ところでオスカル。あなたには恋人はいるの?」
「は… はいぃ!?」
王の語りに、胸の片隅でうっすらとフェルゼンの面影を描いていた彼女は、見透かされたような質問に、素っ頓狂な声を上げた。
「なに… なにをおっしゃいますか、陛下」
「では、想い人は?」
「そんっ…そんな者などあろうはずもありません」
いる、なんて。
それがよりによって、あの男だなんて言えるか!
「このオスカル・フランソワ、近衛連隊長の重責にお応えすべく、及ばずながらも日々の研鑽に励んでおりますのに、こっ、恋人や想い人などっっ」
彼女の口調は雄々しいが、聞かれたことの恥ずかしさと焦りで、頬がみるみる真っ赤になっていく。
「あなたは優しいだけでなく、かわいらしい人でもあったのだね」
「からかうのはおやめください!私が かわいらしい などと」
「いやいや。今気づいたが、あなたは男の目から見ると、とてもかわいらしいところがあるみたいだ」
「こくおうへいかっっ!」
彼女が本気で怒り始めたので、国王は、王妃とアンドレの元へと歩き始めた。
「あまりにも静かに、あまりにも優しくそばにいると、女性はその愛には気づかないものなのかもしれない。あの人も… オスカル・フランソワ、あなたも」
「はい?恐れながら陛下、人並みでお声が少し、遠うございます」
「ん…、そうか。なら、いい」
国王はそのまま広場を漂っていき、彼女は1歩遅れてついていく。
王妃とアンドレは、軽食のようなものを置く露店の先で見つかった。
その店先までもうすぐ、というとき。
国王は不意に立ち止まる。
「他人の気持ちならばそんなに敏感に思いやれるのに、自分に向けられる想いにはちっとも気づかないのだね。不思議なひとだな、あなたは」
「陛下?おっしゃる意味が、私には」
「そう?では、あれを見てごらん」
国王の促す先。
露店の灯りの下、王妃が彼の袖を引いて話しかけている。人のさざめきに聞き取れないのか、彼が腰をかがめて耳を寄せると、背から流れた黒髪が王妃の頬に、そして肩にこぼれ落ちた。
…あ。
彼女の指先に力が入る。
彼は本当に優しい目をして、大切なものを扱うように王妃の肩から黒髪を払いのけた。ありがとう…とかなんとか、紅を差したくちびるが動くと、彼はいっそう優しい眼差しを王妃にそそいで。
その瞬間。
ズキィィィ…ン
激しく胸が痛んだ。
その痛みには覚えがないわけではなく、そう、あの男を想うとき、彼女の胸を苛むおなじみのもの。
でも、その痛みには、今までに感じたことがないぐらいの破壊力があった。
なんで私がアンドレに…?
それにあいつはただ、王后陛下に笑いかけただけ。
でも。
でもでも。
嫌だ。アンドレが私以外の女に、あんなに優しい目を向けるなんて。
……私以外の、女…に…
「判った?オスカル・フランソワ」
「い‥いえ。いいえ、陛下!」
あきらかに動揺しているくせに、まだ気丈さを残す青い瞳。いつもは気弱で自信のなさそうな国王が、ゆったりと笑う。
「あなたに必要なのは、自分に正直になることみたいだ。気持ちをもっと楽にしてみるといい。あなたは何につけても才があるけれど、どうやら自分の心にだけは、私と同じぐらい愚鈍なようだね」
彼女を包む国王の眼差しには、大人の男の包容力があった。いつも頼りなく、おどおどしているだけのその人とは、見違えるほどに。
…陛下?
「この不思議な夜に。そしてあなたが、私のようにならないために」
小柄な国王は、やおら彼女の額にくちづけを授けた。
「!」
驚き、ただじっとしているだけの彼女。
国王はほんの一瞬で離れると、からかい含みの愉快そうな声で密やかに囁く。
「オスカル、ほら。アンドレが見ている」
え!?
あたふたと顔を上げた彼女を見て、国王はクックッと笑った。オスカル・フランソワの方など、彼はちっとも見ていない。
「陛下!その遊び心を、どうして王后陛下の前でお出しにならないのです!?」
彼女は国王相手にむくれてみせる。
「好きな人の前では、得てして思うがままに振る舞えないものだろう?」
「つまり陛下は、私などまるで眼中にないと」
彼女が苦笑混じりに切り返すと、国王はうむうむと頷いた。
「それはもちろんだよ。私が愛するのは、ベルサイユ宮に咲き誇る大輪の紅薔薇だけなのだからね」
「で す か ら 陛下!なぜそのお言葉を王后陛下に」
ざわめく人たち。皆、軽く肩をぶつけたりしながら思い思いのところへ向かう。
国王と彼女は、目を見合わせてクスクス笑って。
「行こうか」
「はい、陛下」
2人はゆっくりと、露店の先で果物をつまんでいる王妃と彼に近づいていった。
灯りの揺れる露店の軒下に、一口大の果物を刺したスティックがたくさん立ててある。それらはきらきらと輝きを放っていて、夢のように美しかった。どうやら軽くキャラメリゼしてあるらしい。
「まぁ、陛下!よかった。そろそろお探ししようかと思っておりましたのよ」
王妃は2人に気がつくと、パッと笑顔を見せた。
足元にはなにか変わった…人形や雑貨や、用途の判らない小物が入った大きな袋が置いてある。
「もうすぐ打ち上げ花火が始まりますわ。異国式の花火は大変美しいのですって。わたくし、夏じゅうずっと楽しみにしていたの!」
ワクワクを隠せない王妃を見守る、彼の柔らかな瞳。
それが気になって仕方ない彼女。
国王はくちびるの端でちょっぴり笑い、そしてにわかに不機嫌な表情を浮かべた。
「人が多くて、気ぜわしい。私は帰る」
「えぇ!?陛下、お楽しみはこれからですのよ?」
「なら、あなたは残るといい」
「そんな…」
ちょっと泣きそうな王妃。
むっつりしたまま、そっぽを向いた国王。
ややあってから、王妃は諦め、小物の詰まった袋を取り上げた。
のっそりと歩き出す国王と、仏頂面でついていく王妃。
急に怒りだした国王に、彼女は本気でハラハラして、引き留めようとまわりこんだ。
が。
…え?
国王は、ニヤリと笑ってよこした。
すれ違いざま、彼女の額にそっと触れ。
『判った?オスカル・フランソワ』
陛…下、まさか!?
「連隊長、帰りの警護はいらない。このアモーに入りこめる賊などいないだろう。私たちの代わりに祭りを楽しむといい」
粋に肩をすくめる国王のしぐさ。
見損なっていた。このおとなしげな国王もフランス男だったのだ。
はめられた!
愛しているのは、確かにあの男。
それなのに、鼓動は妖しく騒ぎ始め。
袖の中でキュッと手を握り、彼女は月を仰いだ。
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