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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【3】

UP◆ 2012/9/19

    コト…
    廊下から小さな物音が聞こえた気がして、彼女はぴくりと顔をあげた。
    アンドレか?
    少しばかり力の入るからだ。
    背筋を伸ばし、こんな姿をしているのが特になんでもないことのように、澄ました顔を装う。
    でも。
    …どきどきしている。
    それはきっと初めて着るゆかたのせいで、とにかく方々がスースーする頼りない装束が悪いのだと、彼女はきゅっと手を握った。
    いくら私が眠り込んでしまったからとはいえ、そのあいだに化粧を施し、髪まで結い上げるなんて。
    王妃には夏の戯れだとしても、それは彼女にとって辱めと同義だった。
    異国の装束とはいえ、女性の姿。
    しかも、王妃の前で。
    色柄の派手やかさはずいぶん違うものの、お揃いのようなかっこうをさせられて、彼女はもう消えてしまいたい気持ちでいる。
    よかった、ここにあの男がいなくて。
    そのことだけが救いだった。
    もしここに、フェルゼンがいたら。
    王妃付きの侍女たちによる総力を上げたドレスアップを受けて、彼女にだって、今の自分が平素よりずいぶんきれいなのは判っている。
    でも、そんなこと。
    フェルゼンには通用しないのも判っていた。
    あの男の目には、王后陛下しか映らない。私などがどれほど装いを凝らしたところで、きっと空模様ほどにも気に止めない。
    なんて滑稽な。
    だからこそ彼女は、フェルゼンの前では殊更に雄々しく振る舞ってきた。それなのに。
    とっさに選んだゆかたには、独特な花びらを持つ華奢な花が、細く伸びた茎を絡み合わせながら白抜きされていた。
    強い浜風にも、懸命にしなう撫子の花。
    そして目線の先には、大きな鏡の前でクルクルとポーズを変えているフランス宮廷一の貴婦人がいる。
    大輪の薔薇を大胆に散りばめて、金糸銀糸で刺繍を施した煌々しいほど絢爛な意匠に、少しも負けてはいない王妃。
    丹精され、艶やかに咲き誇る真紅の薔薇と、風に煽られ、捨ておかれる野の草と。
    彼女には、それがそのまま、自分と王妃のように思えた。
    誰だって。
    あの男だって、愛でるのならば、屈託なく笑う薔薇がいいに決まっている。
    そうだろう?
    フェルゼンがここにいなくて、本当に良かった。
    彼女はそのことだけに意識を置いて、気を取り直した。
    今、私がこんな姿でここにいるのは、王后陛下の窮地をお助けするため。
    ひいてはそれが……フェルゼンのためになるのだから。
    大丈夫だ。きっと上手くやれる。
    彼女がなんとか、もやもやする心の出口を見つけたとき、軽やかなノックの音がした。
    続いて、アンドレの訪れを告げる女官の声。
    よし。
    今は猥褻物同然の私だが、このかっこうでアンドレに会うのも職務のひとつだ!
    ゆかたの中の状態を考えると恥ずかしさがこみ上げてくるが、締めつけてくる帯でそれをグッと抑え、彼女は席を立つ。
    「…っと」
    普段より狭くなる歩幅と、何より下駄とかいう履き物に、どうも足元がおぼつかない。
    危ないな。
    お世辞にも安定がいいとは言えないし、鼻緒とやらがキリキリと食い込んでくる。
    痛っ‥た‥
    彼女が扉まで行き着かないうちに、女官にうながされたアンドレが、部屋へと入ってきた。
    中ほどまで進み出て半身を振り返らせ、退がる女官をなんとなく見送る彼。
    そして、体を戻し。
    「あ…っ」
    「え…っ」
    2人は妙に気のあったタイミングで絶句する。
    足元ばかりを気にしていた彼女が顔を上げると、もう目の前にアンドレがいた。
    焦げ茶の地に縞の入ったゆかた。細かな蔦の絡む紋様と貝の口に締められた帯は端正なのに、着崩してゆるんだ胸元がアンバランスに色っぽい。
    おまえまでが、その装束!?
    お仕着せではない姿の彼。
    なぜだかやたらと大人に見える。
    …アンドレ?
    もちろん、とっくにいい大人なのは承知の上だが、幼なじみの感覚がまさる彼女には、今まで彼が大人の男に見えたことなど1度もない。
    おまえ、今宵はなんだかすごく…
    すごく?
    すごくなんだというのだ。
    自分の言いかけた台詞の続きが自分でも見えず、なんともおさまりが悪かった。
    すごく……
    その先を探りたいけれど、彼の顔をじっと見るのもおかしい気がして、彼女は目線を泳がせる。
    けれど。
    彼の瞳はまっすぐと向かって来ていた。
    惹きつけられたようにそらすこともせず、掛け値なく見とれる黒曜石のごとき双眸。
    あまりにまっすぐ過ぎて、逃がしたい目線が逃がせなくなる。
    そんな目で見ないでくれ、アンドレ。どうしたらいいか判らなくなるじゃないか。
    「「 あ…の 」」
    なにか言おうと絞り出した声は、またしても重なった。
    ちっ。ただ服装が違うというだけなのに、なんでこんなに勝手が違うのだろう。
    でも。
    それはアンドレも同じだった。
    宮殿に与えられたオスカル・フランソワの私室で待機していた彼。
    『この招待状、なにかある。おまえは先に屋敷へ戻っていろ』
    そう言いながら、Lisの紋章の入った招待状を懐へと仕舞った彼女。
    『行くのか?』
    行くと決めたらしい彼女はさっそく軍服を羽織り直し、身支度を始めていた。
    行くんだな、オスカル。
    そうなるかもとは思っていた彼だったが、やはり行かせたくない気持ちがある。
    この招きに参じ、そこで王妃さまと見つめ合うフェルゼン伯を目の当たりにしたら?
    おまえはどんな顔をして、この部屋に帰るのだろう。
    1人で泣くのだろうか。
    誰もいない自分の部屋だというのに、声も立てずに。
    『待ってるよ』
    『何時になるか判らんぞ?』
    『そんなの、いつものことじゃないか』
    『……好きにしろ』
    彼女はそうつぶやいて、アンドレを置いたまま、1人でプティ・トリアノンに向かってしまった。
    徐々に暮れゆく部屋で西陽に照らされながら、王妃お気に入りの小宮へ想いを馳せていた彼。
    彼女が今ごろ、どんな思いをしているのだろうかと。
    できるなら、ついていってやりたかった。
    さり気なくフェルゼンの気配だけを聴いている彼女を見るのは、きっと苦しいものだろう。けれど、もしほんの少しでも、あの青い瞳が潤むようなことがあれば。
    誰にも気づかれぬうちに、俺が連れ出してやれるのに。
    「だけど、アモーじゃなぁ」
    プティ・トリアノンへの出入りは、今や国王ですら気を使うらしい。
    王妃の取り巻きに固められた小宮。気軽な調子で同行できるところではない。
    ましてアモーともなれば、招待状も無しに彼が立ち入るなど絶望的。
    見守ることもできないなんて。オスカル。
    「なんだって今夜なんだ!」
    言いたくないと我慢してしていた愚痴が、ついに口に出た。
    軽く苛立って。
    「――トントン」
    「はいっ!!!」
    上品なノックの響きに、つい荒い返事をする。
    っと、いけないいけない。
    彼は瞬時によくできた従僕づらを作り上げ、扉を開けた。
    ノックの主は、王妃付きと名乗る女官。
    「あなたが、アンドレ・グランディエ?」
    「はい」
    「ただ今すぐに、私と一緒にアモーへ行ってもらいます」
    「アモー?」
    アモーってまさか。
    「此度はわたくしがあなたの案内役を務めますので」
    「あいつに、オスカルに何かあったんですか!?」
    「来れば判ります」
    「でもこんな急に」
    「来れば、判ります」
    いっさい答えてくれない女官に案内されるまま、彼はアモーへと急いだ。
    何があった?オスカル。
    フェルゼン伯への想いに耐えきれなくなって、まさか剣を振り回してのご乱心とか!?
    いや、あいつはそれほどバカじゃない。
    頼む、オスカル。俺が行くまで、むちゃはしないでくれ。
    息せき切ってプティ・トリアノンの横を抜け、田園風景の中に駆け込んだ彼。
    オスカル、どこだ?どこにいる?
    きょろきょろと視線を走らせるアンドレを、おっとりと追いついた女官が捕まえた。
    「こちらへ」
    宮廷女官独特の、有無を言わせぬ圧力。
    彼はぐいぐいと王妃の家に案内された。
    中2階にある女官用の簡素な湯浴み場に連れこまれる頃には、彼の周りには女官たちが群がっており。
    「すみません。オスカル…近衛連隊長のジャルジェ伯爵大佐は?私はジャルジェ家に仕える者‥で‥‥え?」
    ジリジリと迫ってくる女官たちの輪。
    「あの、すみません…ちょっと、落ちついてくだ……ぁ…ちょっ…ぁぁ……ドコ触っ……わっ…わあぁぁぁ」
    と、どこかのお嬢さまと同じような目に合い。
    そしてようやく会えた彼女なのに。
    「オ‥」
    彼が改めて呼びかけようとした瞬間、王妃が無邪気な声をあげた。
    「もう!いやだわ、アンドレったら。そんなにわたくしを見つめたりして」
    え!?
    彼女が鋭く振り返ると、ほんの10歩も離れぬ後ろに、王妃がにこにこと立っていた。
    なん…だ。そういうことか。
    憧れてやまぬものを見るような、アンドレの眼差し。
    そうだ。王后陛下を見つめる、あの男の目によく似ている。
    なんだ、そういうことか。
    「ふふん。アンドレ、やっぱりおまえも男だな」
    彼女はニヤリとくちびるを歪めた。
    そうだよな。
    今宵の王后陛下は、いつにも増して艶やかだ。
    うん。当然だ。
    誰だって、見とれずにはいられない。
    私だってそう思う。
    アンドレが見とれるのだって、ごく当たり前のことだ。うんうん。
    彼女は心の中で、くどくどと同意する。
    まるで、ちょっとがっかりしてしまった自分を、なかったことにするように。
    「アンドレ、どう?」
    王妃は彼女を追い越して、ずいずいと彼に近づくと、その目の前でくるりと回って見せた。
    「わたくしが図柄を描いたの。美しいでしょう?」
    王妃が袖を広げて見せると、金糸や銀糸が煌めいていたのは、繊細な蝶の刺繍だと判った。
    反射の加減できらきらと浮かび、そして姿を消す蝶たち。
    「はい、王妃さま。とてもお美しいです」
    「それって、このお衣装が?それともわたくしが?」
    王妃はいたずらっぽく、アンドレを見上げる。
    ちょっと間合いを詰められて、心なしか顔を赤くする彼。
    「もっ、もちろん王妃さまに決まってます」
    「そう!ありがとう。嬉しいわ」
    王妃は満足そうに、きゃらきゃらと笑った。
    「それはそうと、アンドレ。陛下はご一緒じゃないの?まだお支度をされているのかしら」
    王妃は可愛らしく、小首を傾げて聞いた。
    「それが」
    ちょっと答えにくそうな彼。
    「国王さまは…」
    強制的にゆかた姿にされたあと、彼は女官の手で、髪まで結い直された。
    「これでお支度はすべてよろしいでしょう、アンドレ・グランディエ」
    「なかなか似合っていますね」
    「きっと髪色のせいですわね。この装束には、黒髪がよく映えますもの」
    無表情だった女官たちは、彼の身支度を整える役目を終えてホッとしたのか、少しだけ当たりが柔らかくなった。
    「プティ・トリアノンに参りますよ、グランディエ」
    身なりがきれいに整った彼の元に、再び案内役の女官が現れた。
    「そこにオスカルがいるんですか?」
    「はい。王妃さまのおそばに」
    今度はプティ・トリアノンか。でも、そこへ行けば今度こそ、あいつがいる。
    彼女はまだこのとき、王妃と共にお取りこみの真っ最中だったが、そんなことは知る由もないアンドレ。
    それでも、自分がこんな姿にされた以上、もしかしたら彼女も? そんな期待も抱き始めていた。
    この風変わりな装束を着たオスカル、か。
    歩くたび、僅かにはためく裾の合わせに、夏らしいときめきが湧き上がってくる。
    そんな彼の予想は、正しくはあったが。
    「やあ、アンドレ。お久しぶりだね」
    女官が開けたプティ・トリアノンのサロンの奥にいたのは、意外にも国王だった。
    所在なさそうにソファに座り、テーブルに並べられた色とりどりのゆかたに仏頂面をしている。
    「陛下。こうしてアンドレ・グランディエの支度も整いましたし、陛下もそろそろ、お召しになる装束をお決めくださいませんと。王妃さまが待ちくたびれてしまいます」
    「そうですわよ、陛下。王妃さまはゆかた姿で陛下にエスコートしていただくのを、きっと楽しみにしていらっしゃいましょう」
    5~6人ほどの女官が国王を囲み、なにやら機嫌をとっている。
    「どうされたのですか?」
    彼は、またしても彼女の姿のないことに失望しながら、案内役の女官に小声で尋ねた。
    「実は今夜、アモーの奥で、王妃さま主催の小さな夏祭りがございます。なにやら異国風な趣向だとかで、お召し物まで作らせて」
    ははーん。それがコレか。
    彼がそんな様子を見せると、女官は肩をすくめた。
    「王妃さまは常から、お召し物には妥協を許さない方ですから」
    それゆえに、祭りに招いた彼女にも、ついでに招いた彼にもゆかたを着せ、そして当然、国王にもゆかたを勧めたというのだが。
    「俺はついでだったわけか」
    「なにか?」
    「いいえ」
    国王も、1度はゆかたを羽織ってみたらしい。
    けれど。
    「あまりにも裾が長すぎるとおっしゃって。これはこういうお召し物で、着付けていくうちにちょうどよくなるのだと申し上げても、もう嫌だと脱ぎ捨ててしまわれたのですわ」
    もろもろと劣等感の強い国王。やたらと着丈の余る衣装に、きっと傷ついたのだろう。
    “こういう装束だ”と説明されても、信じられなかったに違いない。
    そこに、ゆかたをすっきりと着こなした彼がひょいと顔を出したものだから、ご機嫌はいっそう斜めになったようだった。
    「もうよい。私はこの小宮の外で王妃を待つ」
    「陛下、そんな門番のような!いけませんわ」
    必死になだめる女官を振り切って、国王は席を立つ。
    一瞬、アンドレと目が合い。
    『やあ』と笑いかけた穏やかな笑みと、やりきれなさが入り混じった、1人の気弱な青年。
    「すまないね、アンドレ」
    すれ違いざまそうつぶやいて。
    とっさに後を追いかけた彼だったが、丸まった背中は薄暗い廊下を足早に離れていく。
    その哀し気な後ろ姿は、そっとしておいて欲しいと言っているようで。
    「お引き留めしようと思ったのですが、できませんでした」
    申し訳ないと、彼は王妃に頭を下げた。
    「まぁ、なんてこと!いいのよ、アンドレ。あなたのせいじゃないわ。陛下ったらいつもそう!ちっとも物ごとを楽しもうとなさらないの。それで結局、皆に気を使わせて」
    プリプリと怒りながら、それでも王妃は慌てて部屋を出て行く。
    国王の元へ向かうのだろう。
    「オスカル、アンドレ。あなた方もアモーへいらっしゃい。そう広くはないのだもの、ひと回りもしないうちに会えるでしょう。あ…きゃあっ」
    「王妃さま!」
    廊下から響いてくる悲鳴と、女官の慌てた声。
    どうやらすっ転んだらしい。
    「大丈夫よ。そんなことより髪は崩れていない?帯は?」
    王妃の疳高い声に、2人はくすくすと笑った。
    「なんておてんばな王妃さまだろう」
    「とても3人の子を持つ母の身でいらっしゃるとは思えんな」
    慌ただしい下駄の音が消えるまで、2人はしばし笑いあい。
    そして。
    …あ。
    2人きりなのに気がついた。
    ストンと戻ってくる“勝手の違う空気”。
    やば。
    別にやばいことなんてないのに、なぜかそんな風に思ったりして。
    「…っと。悪かったな、アンドレ。こんなことに巻き込んでしまって」
    牽制し合うような静けさが我慢できず、とりあえず彼女はそんなことを言ってみる。
    「うん、まぁ。いきなりアモーからの迎えが来たときは、おまえに何かあったのかと本当に驚いたけど」
    「すまない。事情は聞いているのか?」
    「王妃さま主催の催しがあるとだけ」
    「では、そこから話さねばならんな。あの招待状なのだが、実は…」
    会話だけは順調なようだが、その実、彼も彼女も胸の内は穏やかではなかった。
    なんだかやけに大人っぽく見える今夜のアンドレ。
    どうにも落ちつかない。
    彼女はさり気なく会話を続けつつも彼から視線をそらし、でも気になって、そっと盗み見るのを繰り返していた。
    うろうろする視線。
    それすら、彼に気づかれたら気まずい。
    しかし。
    そうか!
    何度目かに盗み見たとき、気がついた。
    身長、だ。
    公称178㎝の彼女。
    実はけっこう盛っている。
    職務上あなどられないためにも、彼女の靴は特注品のインヒール仕様。それは近衛連隊長としての威風堂々とした彼女を、極めてナチュラルに演出してくれていた。
    ところが今は。
    下駄だ。ちくしょう、こいつのせいだ。
    下駄にも高さはあるけれど、平素、身長を足元から盛りに盛っている彼女には、どうにもこうにも尺不足。普段より、ちょっと小柄になってしまっている。
    おかげでいつもなら“肩を並べる”ぐらいの感覚でいるアンドレを、完全に見上げる姿勢になっていた。
    目の高さには、意外に太い首だとか、のど仏だとか、しっかりした鎖骨だとか、厚そうな胸がチラ見えしていて。
    ようするに、男のパーツが並んでいる。
    ……だから、なんだというのだ。
    彼女はトクントクンと騒ぎ出した胸の鼓動に、開き直った。
    む‥胸のチラ見えがなんだ!
    子供の頃には、泉で一緒に泳いだ仲。ほぼ全裸な状態だって見たことがあるじゃないか。
    彼女は自分を落ちつかせるために古い記憶を引っぱり出したが、それは大きな間違いだった。
    …ということは。
    私のほぼ全裸な状態も、こいつには見られているということか!?
    このことは、ただいま“絶賛・猥褻物中!”の彼女には、恥ずかしさに燃料を投下するようなものだった。
    顔が熱い。
    からだじゅうに熱が溜まりそうで、彼女は大きな息を、細く長く吐いた。
    「続きは道すがら話す。私達もアモーへ行かなければ。
    ……アンドレ?」
    「え?あ‥あ。そうだな」
    ちょっとぼぅっとした黒い瞳。
    「おまえ、まだ王后陛下にあてられているのか!」
    むかっ。
    なんとも言えない不愉快な気持ち。
    怒る理由もないのに、なんだかちょっぴり腹が立つ。
    「いいよ、もうっ」
    あ。オスカル、怒ってる。
    短く言い放った彼女に、彼はおや? と眉を上げた。
    今ではほんの時おりにしか出ない、子供の頃みたいな口調。
    なんでだ?
    彼女はぷいと部屋を出て、ぐんぐん先に行ってしまう。
    「オスカル?」
    「うるさいっ」
    暗い廊下、すぐに追いついたけれど。
    「何を怒っている?」
    「怒る?私が?まさか」
    階段を降り、ホールを突っ切り、2人はアモーへ続く庭に出る。
    「私はただ、突然飛び込んできた特殊なご命令に、いささか緊張しているだけだ」
    風が渡る庭園。
    流れる雲に、途切れ途切れの月あかり。
    並んで歩きながら、彼女は今宵の王妃の窮地と、今2人がこうしてここにいるに至った顛末の続きを不機嫌な顔のまま語る。
    「国王陛下には、申し訳ないことだが」
    「だな」
    頷きながら、彼は薄暗い廊下に消えていく丸い背中を思い出していた。
    誰もが知っている、王妃と北欧の貴公子のロマンス。
    末の王子、ルイ・シャルルがフェルゼンとの不義の子だというまことしやかな噂は、すでにそれを利用したい者たちによって、真実のごとく語られている。
    ことの真偽は別としても、王妃のフェルゼンへの想いは万人に明らかで、国王のみが知らぬわけもない。
    すぐそばにいる愛する女の瞳に、自分ではない男だけが映っている。熱を含んだその眼差しが自分に向けられることは、絶対になく。
    そんな痛みを抱え、王妃にかえりみられぬ哀れな王と揶揄されながら、人前に立ち続けなければならぬ国王の気持ち。
    国王さまは、本当は芯のお強い方なのかもしれないな。不器用なだけで。
    厚くなった雲に翳っていく月の光。
    彼は傍らを歩く彼女に目を落とす。
    自分の、彼女への想い。
    彼女の、フェルゼンへの想い。
    誰1人にも、知られていない。
    俺が国王さまだったら、きっと耐えられない。
    今だっておまえは、その整った顔の下で、こうして並んで歩いているのがフェルゼン伯だったらと、そう思っているんだろう?
    「あっ」
    苦い視線の先で、不意に彼女がつまずいた。
    そのときにはもう、支える腕が差し出されている。
    「メル‥シ」
    「足元も悪いし、履き物にも慣れていないんだから、気をつけないとね」
    「ああ。でも」
    「ん?」
    彼は少ぉし、身をかがめる。
    「手、が」
    手?
    確かにちょっと、胸にはかかってしまっている。
    でもこんな風に彼女を支えるのは、珍しくないこと。そんな時にいちいち、下心なんて抱いていない。
    おまえだって、今まで気にしてなかったじゃないか。
    今日に限って変なやつ。
    「悪い」
    彼はすいっと手を離す。
    そして、その手を彼女に差し出した。
    祭りの広場へと分け入る夏木立。
    からむ下草。
    決して歩きやすくはない。
    「アンドレ?」
    「おまえが、いやじゃなければ」
    「へ?」
    「それとも、腕でも組む?」
    「な… それ…は、2択なのか?」
    「そう、今夜は」
    「今夜、は?」
    オウム返しに不思議そうな彼女。
    「いや、なんでもない。そうだな、雲が流れて月あかりが戻るまでだよ。ほら!」
    いつもより少し高い目線に説得され、彼女は彼の手を取った。
    先ほどしっかりと、胸のふくらみにまわされた男の手。
    もちろんいやらしさは感じなかったし、子供の頃には平気で取っ組み合いのけんかもした。大人になってからだって、仕事中や何かの弾みでたまたま、ということは何度もあった。
    当然、気にしたこともなく。
    でも。
    彼女を支えるために伸ばされた手はむしろ、胸というよりは横乳あたりに添えられて、指先がしっとりと沿っていた。ゆかたの構造上できてしまう、隙間。彼女の素肌に。
    アンドレは、気づかなかったのだろうか?
    それとも。
    まったく興味などないのだろうか、弟同然の私のそんなトコロには。
    いや、興味を持って欲しいわけではないがな!
    どうにも勝手が違い過ぎる今夜。
    心の中で言い訳ばかりしている。
    やっぱりこんなのおかしい。
    彼女は手を引かせたが。
    グッ。
    より力を込められた。
    なん…で?
    月にかかる雲はまだ濃い。
    早く晴れて欲しいような、まだ晴れずにいて欲しいような。
    これから始まる偽りの夏祭りに、彼女は少しだけ不安を覚える。

    それが不安という名の密かな期待だということに、彼女は気づいていなかった。
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