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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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貴賓室へ
ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    ガヤガヤと混みあい、賑わっている酒場。
    「よう、将軍!」
    気安い声が降ってきて、俺が目線を向けると、ベルナールが見下ろしていた。
    相席を許したわけでもないのに、勝手に酒びんを置いて椅子を引く。
    「今夜は何となく、いるような気がしてね」
    隅っこの席で、誰の目にも止まらぬよう壁に溶けこんでいた俺は、ベルナールの口ぶりに少しだけ目を細めた。
    と言ってもそれは、思わず笑みがこぼれたとかいう種類のものではなく、ベルナールの言うことに軽い引っかかりを感じたからだ。
    「ジャルジェ邸のこと、聞いてるんだろう?」
    ベルナールは、空になりかけた俺のゴブレットに酒を注ぎながら、ストレートに聞いてきた。
    やっぱりその話か。
    「夜警に回っていたやつらが、明け方、ジャルジェ邸の裏門を飛び越える人影を見たってやつ」
    「俺が知ってんのもその程度だ、ベルナール。詳しいことは何も知らない」
    「今じゃ夜回りもルーティンワークと化してるからな。ダラダラ見て回って、人影に気づいたときには声をかける間もなく逃げられたんだとさ」
    「…らしいな」
    旧ジャルジェ邸の高い裏門を飛び越える。
    寝ぐらを求めた浮浪者に出来る芸当だろうか?
    「ほら、その目。おまえ、本当はすごく気になってるんだろう?今回の件。屋敷に行ってみようか、やめようか。それを決めかねて、うだうだとここにいる」
    「勘ぐり過ぎだ」
    俺が一息に酒を呷り、話すことはないとばかりに席を立とうとすると、ベルナールはすかさずまた、酒を注ぎ足した。
    「そうイライラするなって。アラン、おまえは未だにオスカル・フランソワのことになると見境いがつかなくなる。これほどの時が流れたというのに、死してなお、おまえの心をとらえ続けるとは。さすがあの女だ、怖ろしい」
    「そんなんじゃねぇよ」
    「ふーん…?」
    俺が乗ってこないとみると、ベルナールは切り口を変えてきた。
    「ディアーナ、っていったけ?元気か?」
    不意に出されたその名に、俺は一瞬詰まる。
    「……」
    「アラン?」
    「あ‥ああ、元気にしてる」
    「ふぅ…ん。そりゃ、よかったな。産み月まで、あとどれぐらいだ?確かもうそろそろだったよな」
    「早ければ、来月にも生まれる」
    「ふぅーん… 来月ねぇ」
    さっきから繰り返される、間延びした相槌。
    「なにが言いたい?」
    「別に。ただ、もうすぐ父親になるんだからさ、自重しろってこと。俺たちはまだ、あの男にマークされている」
    その台詞に、俺はそれこそ自嘲的に笑った。
    「はっ。“まだ”?“まだ”だと?」
    1804年、俺たちはナポレオン(あのおとこ)の暗殺を企てた。
    一時期は上り調子で、あの男の副官・将軍として結構な地位と権力を得た俺と、タレーランから統領政府官房長官のポストを打診されていたベルナール。
    なにも気づかず、あのままでいられれば、それはそれで幸せだったかもしれない。
    けれど俺はあの男に銃口を向け、そして、弾丸は僅かあの男の耳を掠めただけだった。
    無様な暗殺の失敗。
    既に家族のない俺には最初から覚悟が出来ていたし、ベルナールも妻子を亡命させていた。
    あっという間に拘束されて牢獄にぶっ込まれた俺に後悔はなく、ただ、巻き込んでしまったベルナールと、その妻・ロザリーや、1人息子のフランソワに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
    そして、最期にもう1度、あのひとに会いたかったと。
    生きているなら、50になるやならずやのあのひと。
    もう何年も連絡は取っていなかった。


    “1789年7月。暴徒と化した市民の貴族狩りにあい、その忠実な従僕と共に惨殺された。”
    ジャルジェ准将のプロフィールは、そんなふうに終わっている。
    突然の悲報に、王と王妃からは直々の哀悼の言葉と、たいそうな花が届けられた。その行為は、王家の、故人とジャルジェ家への信頼の深さを改めて宮廷人に知らしめた。
    しかし、この出来事に貴族たちは震え上がり、ジャルジェ准将惨殺事件は図らずも、あの運命の14日の序章となったのだった。
    …が。
    真実のところ、あのひとは言わば騙し討ちに近いかたちで、亡命させられていた。
    俺たち… 俺とアンドレと、当時の近衛連隊長によって。
    胸を病み、このままでは悲劇の渦の中に躊躇なく身を投じるであろうあのひとを、どうしても(とど)まらせたい。それが、それぞれの男のエゴだったとしても。
    そんな想いから実行された亡命計画。
    小さなかけらほどの希望をアンドレに託し、それ以来、俺は国境近くの小さな町に、手紙を送り続けた。
    自分のことなど一切書かない、レポートのような手紙。
    返事がないことが、あのひとが幸せでいてくれる証だと、俺は応えのない手紙を何通送ったことだろう。
    たった2度ほど来たむこうからの手紙は、あのひとの懐妊と、無事母となられたことを知らせるものだった。
    あれはいつのことだったか。
    そして、最後の手紙を出したのは、いつのことだったろう。
    激しい動乱の中、それは自然と忘れたとも言えるし、無理に意識から外したとも言える。
    むこうから来た、3度目の手紙。
    それは、この厳重に秘されたやり取りの、終わりを告げるものだった。
    お互いの安全のために。
    いや、むしろ。
    俺の安全のために。
    国王が逝き、王妃が逝き、時流は不安定に変わり続け、もうこれ以上、危険を冒してのやり取りをすべきではない。
    それは判っていた。いつかこういう日が来るだろうと。
    続けていれば、いつかはバレる。そうなる前に。
    俺はその提案を受け入れ、承諾の返事すら書かなかった。
    それが俺の立場には正しいありようで、伝わりはしなくてもあのひとを安心させてやりたい、と、俺に出来る最後のメッセージだった。


    どんよりと暗い牢獄の中、隣の独房にいるベルナールに詫びながら、俺はあのひとのことだけを考えていた。
    会いに行けばよかった。
    陰からでもこっそりと、あのひとが幸せかどうかを。
    そして、あのひとの血を継ぐ愛し児(めぐしご)の姿を、ひと目、見ておけばよかった。
    そんな想いを抱えながら、俺は牢獄で半月ほどを過ごし、やがて処分言い渡しのためにあの男の前に引き出された。
    見せしめとして断頭台の露と消えるのか、銃殺にでもされるのか。
    「あの時は、完全に終わったと思ったよな」
    「ああ。よくて銃殺。悪くすりゃ、さんざんとなぶり者にされた挙げ句、ボロ雑巾のように捨てられてセーヌに浮かぶ。そんなとこだと思っていた」
    けれど。
    ベルナールは無罪放免で、在野の記者に戻された。
    そして俺は。
    「今や士官学校の名誉学長だもんな」
    「けっ。裁量権の1つもない、何が名誉学長だよ」
    あの男は、バカじゃなかった。
    かつてアベイ牢獄から兵士たちを救ったベルナールの、民衆を動かす力を恐れていた。
    殺すのは得策ではない。
    そう思ったのだろう。
    咎めもなく戻ってきたベルナールに、記者仲間も街のひと達も喜んだ。
    そして、あの男の寛容さに驚き、『さすが』と頷き、口々に『見直した』と讃えた。
    けれど。
    「今月も来たぜ、アラン。あの男からのラブレターが」
    街に帰され、記者活動を再開したベルナールの元には、月に1~2度、あの男からの手紙が来るようになっていた。
    それはスウェーデンに亡命させたロザリーとフランソワの、こと細かな日々の生活の様子を綴ったもの。
    もちろん親切心からのものではない。
    このようにおまえの妻子は手の内にあるのだと。妙な動きをするならば、今すぐにどうとでも出来るのだという警告だった。
    おかげでベルナールは、つまらない記事しか書けない記者に成り下がってしまった。熱い志を共にした記者仲間も、だんだんと離れていった。
    「まったく抜け目のない男だよ。こっちにはなんの身動きも取れやしない」
    ベルナールはそう言って、グビグビと酒を飲む。
    その姿はすっかりうらぶれて、そう遠くもないうちに、アル中になるのが目に見えるようだった。
    「で?おまえの嫁さん、ディアーナっつったっけ。大丈夫なのか?」
    「大丈夫って… だから産まれるのは、早まっても来月だと」
    「バカか、おまえは」
    軽く酔っ払いつつも、ベルナールは鋭い眼差しで俺を見た。
    「士官学校内部に、どれだけあの男の息のかかった者がいる?おまえは効率よく監視されているだけだ。舎監用の棟に豪華な居室を与えられ、名誉学長という地位に囲われ、ろくに学校の敷地外にも出られずに」
    ベルナールが一見自由の身になったように、あの暗殺未遂のあと、俺にもなかなかの好条件が与えられた。
    士官学校の、名誉学長という地位。
    この処遇には、元衛兵隊の仲間たちも安堵してくれたし、国民衛兵で俺と関わった者たちも皆、喜んでくれた。
    本当に、なんたる茶番。
    あの男は、ベルナールが持つ民衆を動かす力を恐れたように、俺の持つ、元衛兵隊員や国民衛兵隊員を動かす力を懸念していた。
    力を持ち過ぎてしまった、元副官の及ぼす影響を。
    だから名誉学長なんてちょっと見にはご立派な役職をあてがい、舎監用の棟に贅沢な住まいを設えて、息のかかった教官たちに俺の動向を見張らせ……
    つまりは(てい)のいい軟禁状態。
    まったくあの男のやることといったら、つくづくと抜け目なく効率的だった。
    「とは言え、今ではこうして、ぶらりと飲みに出たりも出来るわけだが」
    「最近、監視が緩くなったよな」
    「ああ」
    「それって、ここ半年ぐらいだろう?」
    「あん?」
    「おまえがディアーナ(あのおんな)を拾ってからだ」
    「ベルナール!」
    「だってそうだろう?ふらりと現れた女におまえがハマって、いくらもしないうちに、妻だの妊娠中だの言われてみろ。軟禁生活で頭がいかれたか、その女にウラがあるか。そうとしか思えないじゃないか」
    「勘ぐりが過ぎるぞ。ディアーナはそんな女じゃない」
    「じゃあ、どんな女なんだ?おまえが言いたがらないだけで、ディアーナが安い娼館の女だったことはみんな知ってる!そこであの男の手の者に、買収されたのかもしれないだろう。おまえを誑し込んでスパイしろと」
    「妄想もそこまでいくとたいしたもんだな。頭がいかれてるのは、ベルナール、おまえの方だ」
    スパイという言葉に抑えがたくイラ立ち、ベルナールの言おうとしていることが聞かなくても判る。
    「あの女… カトリーヌに似ているな」
    「さぁね。思ったこともねぇ」
    「あれだけ似ていてか」
    「似てるも何も、カトリーヌなんざ、とっくに覚えてねーんだよ」
    聞きたくなかった名前を出されて、俺は完全にキレて立ち上がった。
    ポケットを探って適当に金を出し、テーブルに放り出す。
    その手首を、ベルナールがガッツリつかんできた。
    「1つ聞かせろ。ディアーナの腹ん中にいるのは、本当におまえの子か?」
    「何を言っ」
    「おまえがあの女と出会った時期と、妊娠と。どう考えても計算が合わないんだよ」
    俺はベルナールの手を解きながら、感情を抑えた声音でじっくりと言った。
    「愚問だな。おまえへの紹介が後回しになっただけだ。ベルナール、おまえがもし、俺との友情を保ちたいと思うのなら、この話題は2度と口にするな。カトリーヌの名も」
    ベルナールは、酔いの混ざる瞳で俺を見返していたが、しばらくすると浅い息を吐いた。
    ouiでもnonでもない返事。
    俺はそれを見て、席を離れようとした。
    が。
    背中を向けた俺の肩をガッと捕らえて、ゆらりと立ったベルナールが耳もとで囁いた。
    「ジャルジェ邸には行くな。妻子をネタに脅されて、どっぷりと捕まり泳がされてる俺と違って、おまえにはまだ尾行がついている。自由に飲みに出るぐらいの目こぼしは恵んでもらえるようになったんだ。少しは自重しろ。市中を出れば、何をやっているのかとあの男にあらぬ疑念を抱かせるぞ」
    「…ふ‥ぅっ」
    俺はわざと、たった今ベルナールがついたため息を、そっくり真似てやった。それをouiと取るのかnonと取るのか、そんなの俺の知ったこっちゃない。
    肩を掴んだ手がずるりと落ちて、俺は店をあとにした。
    このイライラした気持ち。
    “おまえは未だにオスカル・フランソワのことになると見境いがつかなくなる”
    ユラン伍長の忠言をうつしとったかのような、ベルナールの言葉。
    ああ、そうだ。
    俺はまだ、自分でもいやんなるぐらい、あのひとにとらわれている。
    …自重しろ自重しろ自重しろ…
    輪っかになって繰り返される途切れ目のないフレーズが、こめかみをズキズキさせて、余計に気分が荒れていく。
    自重?
    してるさ。
    してんだろ?
    どんだけ会いに行こうと思ったか。
    あの男に帯同し、危険な目にもあいながら、そのたびにあのひとに会いたいと、もし生きて帰れたら、今度こそは会いに行こうと思いながら、それでも思い留まってきた。
    今さら俺が現れれば、静かに暮らしているあのひとの心を波立たせることになるかもしれない。
    ならば、もの陰からそっと様子を窺うだけでも…
    そんなふうに惑う気持ちを、じっと抑え込んできた。
    連絡を絶ってからは、忘れられるどころか、その苦しさはさらに増した。
    危うく揺れ続けるあのひとの命。
    今も生きていてくれるのか。
    確かめたい。
    けれど、それを知るのも怖かった。
    自重してる。
    でも、怖じ気づいてもいる。
    そんな想いが入り混じる俺の気持ちが、おまえに判るか、ベルナール!
    自分がいつも以上に過敏になっているのは、判っていた。久しぶりに他人から聞いたジャルジェ家の名に、呆気ないほど触発されている。
    あのひとのこととなれば、今でも俺は、ガキのままだった。
    イラ立つ勢いを抱えて舎監の棟まで帰ってきた俺は、軽く酔った息切れを感じながら、最上階までの階段を昇る。
    ……もう若くねぇ。
    吐く息に流れた年月を感じ、あのひとがいた日々の遠さがしみてくる。
    階段を登りきり、そこにあるのは、あの男が俺のために用意した豪華な住まい。
    ディアーナはもう、寝んでいるだろうか。
    出かける前に、体に障るから帰りは待たなくていいと言っておいたのだが。
    俺は居間をのぞく前に、書斎へ足を向けた。
    かつては片時も離すことのなかった剣が、そこに置いてある。
    あの男の暗殺に失敗し、この部屋の主になってから、一切の武器を持つことを禁じられている俺。
    士官学校に在りながら、唯一、剣を帯びない者。
    それはあの男の胸ひとつで生かされているという、俺の立場の象徴でもあった。
    ――かちゃ‥っ。
    小さな音を立てて扉を押すと、ほのかな灯りが漏れてきた。
    …灯りだと?
    俺は一気に扉を開き、間髪入れずに詰問した。
    「どういうつもりだ?」
    いきなり暗がりから声をかけられて、ディアーナは相当に驚いたようだった。
    「あの‥っ、あたしね」
    「書斎には入るなと言ってあるだろう!」
    “大丈夫なのか、あの女”
    ベルナールの戯れ言が、脳裏を掠める。
    ディアーナが、あの男のスパイ?バカな。
    「ごめんね、アラン。悪気はなかったの。あたし、ただちょっと寂しくて… あんたはここに籠もることが多いし、つい何してるのかなって」
    「……ここには、職務上機密なものもある。だから2度と入るな。判ったか!」
    「約束するわ。だからそんなに怒らないで、ね?」
    一瞬でも疑ったことが後ろめたくて、俺はそれ以上咎めるのをやめた。
    そうでなくてもディアーナは不安定な女で、産み月が近いせいか、このところそれはひどくなっている。
    ……責めたところで。
    俺はディアーナの肩を押し、書斎から出かけて、でも。
    「おまえ、これ、触ったか?」
    キャビネットの奥に置かれたオルゴールの位置が、ズレている気がした。
    「…え、と…あの…ううん、触って…ない」
    ちっ。
    酒場から持ち込んだイライラも、こっそり書斎に入り込んでいたディアーナにも、いったんは抑えようとした分ぶっつりとキレて、俺は今帰ったばかりの部屋を飛び出した。
    一瞬目の端に映る、頬や瞳や髪。
    カトリーヌに似た、ディアンヌに似た女の顔。
    ちくしょうっ。
    階段を駆け降りると、俺は厩舎へ向かった。
    なんだかもう破れかぶれな気持ちで馬を連れ出し、夜の石畳を疾走する。
    俺を逐一見張るヤツらに、挙動不審と取られても構わなかった。
    ついて来れるもんなら、ついて来てみろ!
    俺は迷うことなくベルサイユへ向かっていた。
    深夜に突然、市中を出る。
    それをあの男がどう捉えるのか。
    そんなこと、もうどうでもよかった。
    平常心を欠いていることは自覚している。それでも俺に引き返す気はなく、夜更けも過ぎた闇夜の下、ただ馬を駆った。かつて太陽王の治めた栄華の跡へと。
    久しぶりに思う存分かっ飛ばし、かつて王宮だった建物が闇に見え隠れするところまでくると、俺は馬を降りて手綱を引いた。
    無理をさせてしまった馬体を労りながら、トロトロと歩く。
    「悪かったな」
    軽く首など撫でてやり、独り言ともつかず話しかけているうちに、俺も少しは落ちついてきた。
    こんなふうにブチ切れるのは、本当に久しぶりのことだった。
    あの頃はよくムチャをした。
    あごの骨が砕けるほど上官をぶん殴ってみたり、新任の上官と剣で差しの対決をしてみたり、その上官を壁に押しつけて無理矢理にくちづけてみたり…
    本当にいろいろとやらかした。
    今の俺には、どれも気が狂いそうになるほど懐かしい場面ばかりで、目の奥がじんわりと熱くなる。
    俺も年をとったものだ。
    若い頃には知らなかった、これが感傷ってヤツか。
    しかし、やがて見えてきたジャルジェ邸に、俺はそれをいったん頭の中から追い出した。
    賊が確認されたのは、昨日の未明。
    東の空にはまだ白む気配もないが、俺は屋敷が近づくにつれ足音を潜めた。
    響くのは、蹄鉄の音だけ。
    けれどそれも気になった俺は、屋敷の正門に馬を繋いだ。
    賊が侵入したのは、裏門から。
    俺は朝から内ポケットに忍ばせていた鍵束を取り出す。
    ジャルジェ邸を衛兵隊の管理下に置いたとき、手に入れたもの。
    鍵の複製はいくつか作らせ、幹部連中に管理させているが、オリジナルの鍵を持つのは、当主や奥方を除けば今や俺だけのはずだった。
    正門に巻きつけた頑丈な鎖を外し、錠を解く。
    錆びて軋む門柱。
    俺は薄い闇の中、枯れた前庭を進む。
    屋敷内には灯りの気配もなく、変わったところはない。
    俺はそのままソロソロと奥へと進み、問題の裏門へ行ってみた。
    ここにもぶっとい鎖が巻きつき、しっかりとした錠前がかかっている。そこには外された様子も、壊そうとした痕跡も見受けられなかった。
    ……やはり一介の浮浪者の仕業なのだろうか。
    そう思ったとき、何かが神経に触れた。
    音などではない、空気の蠢き。勘としか言えないもの。
    俺は抑えた動作で、屋敷裏の使用人用の出入り口を振り返った。
    錠前が外されている!
    しくった、俺としたことが!!まずはそこを見るべきだったのに。
    なるべく音を立てず、扉に寄る。
    緊張で、全身の産毛が総立ちになっていく。
    ゾクゾクする、この感覚。
    ああ、やっぱり俺は現場が好きだ。
    ――行くぜ、隊長。
    俺はその辺に転がっていた棒きれを握り、扉を開け放った。
    壁に跳ね返り、でかい音を立てる扉。
    俺は賊の足元を狙って滑り込んでいた。
    扉越しの気配から、あんまり大柄なヤツじゃないのは予想していたから、足元を払って一気に組み伏せてやろうと思っていたのだ。
    が。
    ウソだろ!?
    闇の中、輪郭が浮かび上がるだけのそいつは、思った以上に小さかった。
    いや、小さいってんじゃねぇだろ。まさか、子供?
    そんな躊躇が、俺の動きを鈍らせた。
    賊は足払いをかけた俺をヒョイと交わすと、こともあろうか、俺の上を縦断していった。
    「ぐぇっ」
    おっ…俺は敷物じゃねぇぞ!
    あとを追おうと体勢を立て直そうとした俺に、振り下ろされる鈍器。
    ごぉ~~~ん。
    安っぽいギャグみたいな音が響いて、目がチカチカした。
    フライ‥パン‥かよ…
    頭がグラグラするめまいを感じながら、それでも俺がそいつを追いかけると、賊はサルのような身軽さで裏門をスルスルと登り、飛び降りるところだった。
    ちくしょう、追いかけても間に合わない!!
    遅ればせながらゆったりと顔を見せた夜明けの月に、遠く走り去る後ろ姿。
    あれは、浮浪者なんかじゃねぇ。


    まんまと逃げられた自分の迂闊さにギリギリと奥歯を噛み合わせ、俺は拳を握りしめた。


    3につづく
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