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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    トントントントン…
    人差し指が途切れ目なくテーブルを叩く。
    「そうイライラするな」
    男2人が差し向かってのティ・タイム。
    昼下がりにお茶?俺が?
    なんとも優雅で、心から吐き気がしてくる。
    こんなことまでが日課として組み込まれ、それを律儀に守っているのだから、俺もほんっとに…
    「どうした、アラン。なにがおかしい?」
    「いえ。俺もおりこうさんになったもんだな、と」
    「おまえは本当にひどかったからなぁ」
    なにを思い出しているのか、ユラン伍長も小さく笑う。
    学長の執務室。
    応接用に設えられた威厳たっぷりのソファに座り、俺とユラン伍長はお行儀よく紅茶なんか飲んでいる。
    俺とベルナールがあの暗殺未遂を起こす前から、この人は士官学校で教官をしていた。
    俺がいきなり士官学校(ここ)にぶっこまれ、1番驚いたのはユラン伍長だろう。
    「守るべきものが出来て、おまえも少しは自分を大切にすることを覚えたんじゃないのか?」
    「さ‥ぁ。そんな気もするし‥‥よく判らないですね」
    ユラン伍長と話していると、俺はついつい昔の調子に戻ってしまう。
    この俺が午後のお茶なんて。
    不似合い過ぎて嗤いしか浮かんでこないけれど、それでも気持ちの深いところでは、この時間を大切に思っていたりもする。
    こんなカゴの鳥みたいな生活をしている俺にとって、あの頃を知るユラン伍長とのひと時は、唯一ホッと出来る時間だった。
    あの男がこのひとの存在を士官学校(ここ)に許したのは、それを狙ってのことだろう。
    俺をがんじがらめにするのは簡単だが、鬱屈を溜めこんだ俺がまた派手にバカなことをやらかさないかと、まったくあの男は抜け目がなくて、まんまと踊らされている間抜けな俺。
    そんな中で“守るべきもの”と言われたところで……
    いや。
    ディアーナは確かに、いろいろな意味で、俺の庇護欲を駆りたてる女ではあった。
    カトリーヌに似た…、つまりはディアンヌによく似た面差しを持つ女。
    『だからさ、ディアンヌ』
    路地裏で耳を掠めた男の声に、足を止めた俺。
    あれはまだ監視の目が厳しくて、それでもようやく、ほんの時おりならば外出も許され始めた頃のことだった。


    …ちっ。
    懐中時計を取り出すと、もうそろそろヤバい時間になっていた。
    戻らなければ。
    「若い女でもあるまいし、まだ宵の口だってのに」
    ぶつくさと小さくグチを吐き、俺は酒場を出る。
    やっぱり尾行とかされてんだろうな。
    最近ようやく、学校の敷地から出ることを許され始めたばかり。出る時間も帰る時間も決まっていて、なんと行く場所までもが決められているというのだから、どこの箱入り娘かと思う。
    それでも、その日で何回目かになる外出は、俺には結構な憂さ晴らしになった。
    来る日も来る日も舎監用の棟の最上階で、窓から外を眺めるだけ。おとぎ話のお姫さまなら絵にもなるだろうが、こんなオッサンを閉じこめたって、いったい誰が助けに来てくれる?
    …誰が、助けて。
    自分の言葉に誘われて、不意に1つのビジョンが浮かんだ。
    いつも指令官室の窓辺にたたずんでいたあのひと。
    俺が部屋を訪ねると、窓枠に手をかけて、じっと外を眺めていたものだった。
    あのひとも、誰かの助けを待っていたんだろうか。
    指令官室から連れ出してくれる人。
    否応なく与えられた運命、身を包む軍服から解き放ってくれる誰かの訪れを。
    あのひとは、武官としての人生を愛していたように思う。
    少なくとも、俺の目にはそう見えた。
    けれど。
    あれから俺も年をとり、振りかえってあのひとを思う今、胸の底にしまいこんだ面影は、いつだって儚いほどの泣き顔だ。
    なぜだろう。
    あのひとのそんな顔を見たこともなく、記憶に残る涙の場面はすべて、激しい感情を爆発させ、抑えきれない情熱をほとばしらせるものだったのに。
    冷淡にも見える整った顔に秘めれられた、不器用なまでの真っすぐさ。
    それが俺にはお嬢さま育ちの甘ちゃんに見えて、出会ってすぐの頃は突っかかってばかりいた。
    逸るばかりで、ガキだった俺。
    自分の気持ちにさえ、気づかなかった。
    『あの女、なにを考えてやがる』
    あのひとの眼差し、言葉、一挙手一投足のすべてに苛立ち、チラチラと目の端に入りこんでくる金髪が鬱陶しくて仕方なかった。
    まったくお笑いぐさだ。
    俺の方が、あのひとをチラ見していただけなのに。
    「ははっ」
    もう還ることのない日々に、乾いた笑いを吐いたときだった。
    「だからさ、ディアンヌ」
    そう聞こえた気がして、俺は反射的に目を向けた。横路の陰、若い男女らしい2人組に。
    「頼むよ、ディアーナ。今夜はもう少しだけ」
    「でもあたし」
    「俺にはおまえしかいない。愛してるから、な?帰りは迎えに来てやる。だからそれまで頑張ってくれって」
    なんだ。“ディアーナ”か。
    似たような響きを持つ名前に、振りかえることは珍しくない。
    その名を発した若い男は、なかなかの色オトコのようだった。話が終わったのか、俺のわきをタタッとすり抜け走って行く。
    俺も同じ方向へ向かい、そこを通り過ぎようとしたのだが。
    「あの、おにいさん?」
    何歩も行かないうちに背後から呼び止められて、ギョッとした。
    控えめな口調と、どこか少女っぽい声音。
    「ヒマなら遊んでかない?」
    ……ディアンヌの声に、似ていた。
    「安くしとくから。ね、遊んでって」
    珍しくもない娼婦の台詞。普段だったら気にも留めない。
    それなのに、俺は勢いよく振りかえっていた。
    ……ああ。ディアンヌ。
    小さな路地の薄暗がりで、その女の顔を凝視する。
    おまえ、こんなとこにいたのか。
    あいつがとっくの昔に死んでるのは判りきったことなのに、そんな思いが湧き上がって、しばらくものが言えなかった。あまりにもその面差しを映す、薄闇の顔に。
    「あの…?」
    食い入るように見つめる俺に、女はさすがに困惑したらしい。商売をしかけようにも出鼻をくじかれたようだ。
    「ああ、悪りぃ」
    固まっていた俺が肩の力を抜くと、女は安心したのか微かに笑った。
    が。
    その顔はもう、少しもディアンヌに似ていなかった。
    もちろん面差しがいきなり変わるわけがなく、緩やかな頬の線や黒目がちの大きな瞳、全体の印象はディアンヌに似たまま。
    けれどその女の笑った顔には、はっきりとした陰があった。
    幸せな女じゃない。
    すぐに判った。
    娼婦なんぞやってるんだから、幸せなわけがない。
    そう言われりゃそうなんだろうが、でも違う。
    この女は幸せじゃない。
    漠然とそう思った。
    「あの、あたしで良かったら」
    話し出した女に、俺はいくらかの金を握らせる。
    「ごめんね、おにいさん。お店の取り分もあるから、もう少しもらえないと」
    「…やるよ」
    「え?」
    「それは、料金じゃなくてあんたにやる」
    俺はもう歩き出していた。
    「客1人ついた取り分にはなるだろ」
    「でもっ」
    女はそう言いながら追いかけてきたけれど、あまり店から離れるわけにはいかないのだろう、遠慮がちに足を止めた。
    「ありがと、おにいさん。ごめんね」
    そんな声が聞こえたけれど、返事をする気もなかった。
    善人を気取りたかったわけじゃない。
    でも。
    ディアンヌの顔をして、疲れた顔で笑う女。
    なにもせずにはいられなかった。少しでも、休ませてやりたいと。
    赤の他人の見知らぬ娼婦にそんなことを思うなんて、ずいぶん感傷的になったものだ。
    「ふ‥‥ん」
    俺も年をとったもんですね、隊長。
    石畳をたらたら歩きながら、いつも通りにあのひとへと想いを馳せ。

    こんなふうにして、俺とディアーナは出会った。
    そして、もう会うことはないと思っていたのだが。


    「で?アラン。旧ジャルジェ邸の様子はどうだった?」
    俺がカップを置く瞬間、ユラン伍長はさらりと斬り込んできた。
    気負う気配もなく、この人は本当に上手い。
    カップを置くために、手を差し伸ばして前傾気味の俺は、自然とユラン伍長を見上げる目線になる。
    そこを上からじぃっとのぞきこまれて。
    これじゃ嘘なんかつけやしない。
    「行ったんだろう?ジャルジェ邸」
    「…はい」
    「自重しろと言ったのに」
    「一応は、そのつもりでいました」
    仕方のない奴だと、ユラン伍長は笑った。
    「賊のことを聞いて、やっぱり平常心ではいられなくて」
    「気持ちは判るが」
    「でも、行ったのは酒場です。1人で考えごとをしたくて。けど、そこでベルナールに会ってしまって」
    「ああ。そういうことだったか」
    一時期は志を同じくし、あんなことをしでかした俺たちの、今はねじれてしまった関係をこの人は察していた。
    みなまで言わなくても、気を(たか)ぶらせた俺がどうしようもなくなってベルサイユへ向かったことに、想像がついたようだった。
    「ディアーナがひどく動揺していた」
    「なんっ‥‥どこ‥で、いや、あいつ何か‥?」
    てっきりジャルジェ邸のことを詰問されると心中身構えていた俺は、ディアーナに話題を向けられて逆に焦った。
    夜明けからこっち。
    あの子供のことをユラン伍長に話すべきか、俺はそれで頭がいっぱいで、正直なところ、ディアーナのことなど少しも思い出さなかった。
    もし話すとしたら?
    そんな場面を組み立てては崩し、昨日書斎を飛び出したきり、顔も合わせていない。
    「朝方、宿直室に来たらしい」
    「ディアーナがですか?」
    「突然ふらりと現れて、夜警帰りの連中とにぎやかに雑談していたかと思ったら、急に泣き出したそうだ。立場が立場だけに、新兵たちも扱いに窮したと言っていた」
    「‥あい‥つ」
    あれほど最上階(へや)から出るなと言っているのに。
    「ディアーナと何かあったのか?」
    「よくある小競り合いですよ」
    俺はそれで話を終わらせようとしたが、ユラン伍長の眼差しは変わらなかった。
    …ごまかすのは無理、か。
    「ベルナールと別れたあと、いったんは部屋に戻ったんです、俺。でも」
    書斎をコソコソ嗅ぎまわるようなまねをされて、ついキレたことを正直に話した。
    「それで腹立ち紛れに馬を連れ出し、勢いでベルサイユへ」
    「本当に困った奴だな。そのあとディアーナとは?」
    「会ってません」
    「帰っていないのか、おまえ」
    「はい。ジャルジェ邸からまっすぐ執務室(ここ)に来て、ソファで仮眠を取って。だから最上階にも、もちろんディアーナの顔も見ていません」
    「…アラン。もう少しディアーナに気を使ってやれ。あの娘は、はたが思うよりずっと繊細だ」
    「判ってます」
    「悪びれてはいるが、娼館あがりの身がおまえの恥になると、本当は胸を傷めている」
    「判ってますよ」
    「書斎に入っていたのはな、アラン、」
    「判ってますって!」
    まだ何か話そうとしているユラン伍長を、俺は遮った。
    「あいつに悪気はなかったって言いたいんでしょう?判ってますよ、それぐらい!!」
    ディアーナが触れていたオルゴール。女こどもが好みそうに可憐なその小箱には、リスの紋章が刻まれている。俺があのバスティーユ後の混乱のさなか、極秘で作らせた模造品だ。リスの紋章は、長く王妃に仕えたあのひとを思い起こさせるから。
    華奢なそれをそっと開ければ、リボンで結った毛束が2つ、入っている。ディアンヌの遺髪と、俺がザックリ切り落としたあのひとの…
    「仕方ないでしょう!?昨日はちょっと」
    声を荒げた俺は、脳裏によぎる場面にそれをグッと抑える。
    「…特別、だっただけです」
    これが生きて会える最後かと、闇の中、切り落とした髪の手応え。
    あのいけ好かない近衛連隊長の腕の中で、深くまぶたを落としていたあのひと。
    それをただ、見送るだけだった俺。
    すべてをヤツに託して、見送ることしか出来ないガキだった…俺。
    「今朝の宿直室の件は、俺から直接、新兵たちに詫びを入れておきます」
    ユラン伍長にそう言いながら、でも俺の台詞はまるっきりの棒読みだった。
    ああ。
    俺はまだこれほどに、あのひとにとらわれている。
    ユラン伍長の言う通りだ。
    俺がこんなだから、ディアーナが不安定になる。
    あいつをここに迎えるときに、決めたはずじゃないか。出来得る限り、幸せにしてやろうと。カトリーヌに似た、ディアンヌによく似た面差しを持つ、あの女を。
    「すみません、ユラン伍長」
    その気持ちは真実なのに、なぜこれほどにまだ、あのひとにとらわれる?“ジャルジェ家”という名を聞くだけで、居ても立ってもいられなくなるぐらいに。
    「お騒がせしました」
    胸の中にいろいろな想いが混ざりあい、それが疾り出さないように、俺はとにかく口を開く。
    「ディアーナがいる生活に慣れてきて、ちょっとたるんでたかもしれません」
    「いや、おまえばかりを責めるわけじゃない。なんといっても少々普通ではない出会い方をしているのだから」
    「でも。自分なりによく考えて決めたはずのことでした」
    下っ腹から絞り出すようにつぶやくと、ユラン伍長は糺す視線を緩めて、残りのお茶を飲み干した。
    「そうか。そうだな。おまえたち2人にしか判らないこともあるだろうし」
    そしてカチャリと小さな音でカップが置かれた瞬間、タイムテーブルに乗っ取ったティ・タイムが終わる。コツコツと叩かれた扉の音が、それを告げたから。
    あの男の息のかかった職員の、ノックの音。世話係りという名目のもと、俺の動向に目を光らせている、蛇のような男の。
    俺がぶっきらぼうな返事をすると、予想通りに“世話係”が入ってきた。
    無言で近づいて来て、ユラン伍長がうまいタイミングで空にした茶器を片付けていく。
    これが毎日の図式。
    世話係がテーブルをきれいに整え終わったときには、俺は執務机に戻っていて、ユラン伍長がキリリと引き締まった頬で扉を閉めるところ。
    昨日もそう。
    今日もそうで、きっと明日もそうだ。
    …いや。
    退室した伍長。
    それを見送る俺を、盗み見ている世話係。
    しかし、その男も執務室を出て行き…
    1人になった俺は、ポケットに手を突っこんだ。昨日にはなかったものが、指先に触れる。
    ――ロザリオ。
    手の中に包むと、じゃらりと存在感のある重さが伝わった。
    「…あのガキ」


    夜明けの月あかり。
    まんまと逃げられて、ギュッと拳を握った俺は、あのあとジャルジェ邸の中に戻った。
    フライパンを振り下ろされた頭のこぶを撫でながら、戸締まりを確認をしがてら各部屋を見てまわる。
    けれど、どの部屋も窓はきちんと施錠されていて、無理にこじ開けられた形跡はなかった。そして、俺の記憶にある限り、何か盗まれたり物色された様子もない。
    『やっぱり、空き巣や浮浪者の侵入じゃねぇな』
    錠前の抜かれていた裏口。
    鍵の複製は、国民衛兵が管理している。
    オリジナルの鍵の在処も、はっきりしている。
    どういうことだ?
    見過ごしてはおけない疑問に俺は裏口へと引き返し、廊下の片隅でこのロザリオを見つけた。
    俺があの子供と争った、厨房わきの通路。
    裏口の外から気配を探り、足元を狙って滑り込んだとき、俺の上を縦断した賊に、あのとき俺は反射的につかみかかっていた。それは虚しく空を切ったと思っていたけれど、どうやらムダな行為ではなかったらしい。
    賊。
    このロザリオは、あの子供が落としていったのだ。


    俺はポケットからそれを取りだすと、執務机の上で広げてみた。
    夜明けの蒼さの中ですらそれは重厚に見えたけれど、こうして明るい陽射しの下で改めて眺めると、思った以上に凝っていて威厳のある品だと判った。
    祈りのための道具というより、むしろ宝飾品に近い。
    が。
    手に取ってよく見てみれば、それにはこすれて削れた跡もあり、ただ飾られていただけではないことが伝わってくる。
    「これだけの品を、普段使いにする…?」
    持ち主は、いったいどういう人物なのか。とてもあの子供の物とは思えない。
    俺はロザリオをさらに目に近づけて、その凝ったパーツの1つ1つを見ていった。
    そのとき。
    ん?
    センターメダイの裏に、文字が刻んであるのが目に入った。
    盾のような形に凝ったメダイ。表にはJHSとAVE MARIAのAとMの文字が組み合わされた装飾模様が施されているけれど、裏を返せば4行ほどの小さな文字列があったのだ。それは使いこまれてきた品だと示すように、擦れて溝が浅くなり、所々は消えてしまっている。
    けれど、しっかり読める部分もあった。
    1番上に刻まれた何文字かは、微かな痕跡があるだけでまったく読めないが、すぐ下の文字列には、いくつか形の残った文字がある。
    a…それから、これはrだろうか。ああ、よく見ればnもあるような。そして、それに続いてG。
    でも、あとはすっかり磨耗していて、aかOかさだかではない文字と、なんとかeかと思えるものが、うっすらと残るだけ。
    その2行から少しあけて、メダイの下の方、縁に沿うようギリギリにまた、細かい文字列がある。
    それも2行に分かれていて、目を凝らしていた俺は、思わず息が止まった。

      car  anco
    de J rj e

    読み取れた文字はそれだけだったが、俺には一目でこう見えた。

    Oscar Francois
    de Jarjayes

    まったくどうかしている。
    ディアンヌとディアーナを聞き違えるのと同じで、俺はしょっちゅうこんなことを繰り返していた。
    その年の新兵の名簿に目を通しながら、OscarやFrancoisという名をつい探してみたり、
    “Jolivet”や“Jaures”までが“Jarjayes”に見えたり。
    以前には、俺がある学生兵に過剰な反応を見せたことから、ホモ疑惑まで湧いたぐらいだ。俺にしてみれば、その学生が“Oscar”という名前だったから、つい目がいってしまうだけのことだったのだが。
    そんな自分を、俺だって相当にイカレてると思う。
    こんなことを今も繰り返して、それでなんになる?
    あのひとは妻となり、母となられて。

    どこにいても、誰のものであっても、あの人が幸せでいてくれればいい。

    ガキだったぶん、俺は混じり気なくそう願っていたけれど、あの男の暗殺に失敗して、自分が明日にも処刑されるかもしれない身となったとき、その想いは変質した。

    会っておけばよかった。会っておけばよかった!
    それが許されないなら、せめて遠くからでもこっそりと、あのひとと、その血を受け継ぐ愛し児(めぐしご)の姿を見ておけばよかった!!

    あのひとにとらわれないよう、生まれた子の性別も知ろうとしなかった俺。
    瞳の色も、髪の色さえ知らない。
    でもそれは、あのひとにとらわれる理由を増やしただけだった。
    知らないから、想像する。
    考えてしまう。
    そしてその想像の行き着くところは。

    ―― あのひとが今も、生きていてくれるのか。

    一時は余命を宣告されたあのひとが、母となられた。それは喜ばしいことだった。
    けれど病が治ったわけではない。
    あのひとの命はいつだって、頼りなく揺らめいていたはずで。

    ――もしかしたら既に?

    行き場のない想いは溜まり続けて膿み始め、もうどうしようもなくなっていた。
    出口を求めてはちきれそうなほど膨れ上がり、俺には愛する対象がすぐにも必要だった。溜まり、濃くなり過ぎてしまった想いをぶつける存在が。
    そんなときに出会ったのが、ディアーナだったのだ。
    みんなはディアーナが俺を利用していると思っているけれど、それは違う。
    俺がディアーナを利用した。
    俺の方こそが。


    夜明けのジャルジェ邸で拾ったロザリオ。
    これを持って最上階(へや)へ帰るのはためらわれた。
    『ディアーナっつったっけ。大丈夫なのか?』
    ベルナールの言葉が、まだくすぶっていたのもある。
    そこへ持ってきて、当のディアーナが書斎に入りこんでいたもんだから、その不快感は倍増していた。
    でも本当の理由はそこじゃない。
    久しぶりに人から聞いたジャルジェ家の名に、これほど簡単に触発される自分。
    賊との小さな争いの中で、一瞬であの頃に戻れてしまった自分のままで、ディアーナの顔は見れなかったのだ。
    本当は今だって、ディアーナの目は見られない気がする。
    真実の愛からくる結婚ではないと、お互い判っていた。
    けれど、俺の安らぎになろうとそれなりの努力をしているディアーナに、改めてそれを突きつける必要はない。
    「でも」
    今日は帰らないわけにはいかないだろう。
    ディアーナも待っているだろうし、夜明け前の宿直室で泣き出したというのも、放ってはおけないことだった。
    気の重いまま、その日の就労時間の過ぎた俺は、最上階へと向かう。

    『もう少しディアーナに気を使ってやれ』
    それはじゅうぶん意識していたはずなのに。

    最上階の居間に顔を出した俺に、ディアーナはふわりと嬉しそうな顔をした。
    口に出して押しつけがましく喜んだりしない。そういう仕草はますますディアンヌに似ていて、俺も優しく話しかけることができた。
    「なんだか嬉しそうだな」
    「アランがまっすぐ居間へ来てくれるなんて、初めてだから」
    「そういえば、ああ、そうだった」
    俺は帰ると、まずは書斎に直行していて、それもディアーナを不安定にさせる要因だったのかもしれない。
    促がされるままに軍服を脱いで、俺はディアーナを軽く引き寄せると、額にくちづけた。
    「不安に思っていたなら悪かった。深い意味はなかったんだ」
    ここまでは俺も、うまくやれそうな気がしていたのに。
    額から離したくちびるを追いかけて、ディアーナがくちづけてきた。
    俺はそれを、寸前で押し留める。
    「なんで?アラン」
    「体に障るだろ」
    「くちづけぐらいのことが!?そんなことばっか言って、アランはあたしに指一本触れてくれない。やっぱりあたしが娼婦だったから?」
    「違うよ。妊娠中なら当然のことじゃないか」
    さりげなく離れようとしたけれど、ディアーナは俺にむしゃぶりついてきた。
    「危なっ」
    産み月も近い体を、乱暴に振り払うことは出来ない。
    俺は受け止めてやるように、ソファに押し倒された。
    ディアーナが、せわしなくも慣れた手つきで俺のキュロットを緩める。
    「やめろ、ディアーナ」
    「だってあたしに出来ることは」
    「おまえはもう、こんなことしなくていい!」
    「あたしがいやなの?」
    ヒステリックになっていくディアーナ。何を言っても聞こうとしない。
    「やっぱりあたしが娼婦だったから?バカで汚れた女だから、」
    「違うって…言っ…てんだろ」
    女相手では本気の力を出すことも出来ず、ましてや身重。
    俺はズルズルと巧みに攻めこまれ、勝手に反応している部分にくちびるでの奉仕を受けていた。
    さすがにそれはものすごく上手くて、その気もないのに乱れていく息に、声が混ざるのが止められなかった。
    「…もう……いいから、ディア…ナ。やめるん…だ」
    「い…や ……あたしが…したい…の。…んっ……あたしで、キモチよくなって…欲し…の」
    静かな部屋に、いかがわしく濡れた音だけが続く。
    けれど。
    「どうしてぇ?」
    ややあってから、ディアーナが半泣きの声をあげた。
    「もう判ったろ」
    俺はディアーナを押しのけると、書斎へ向かう。
    ソファに伏せて泣いているのを、慰めてやる気にもならなかった。
    「だからやめろって言ったんだ」
    あの暗殺未遂で、あのひとへの想いを身にしみて自覚した俺。それ以来、女に反応することはあっても、振り切れることはなくなっていた。
    あの男の副官として上り調子だった頃には、ヤケっぱちでヤりまくったこともあったけど、もう今の俺は、どんな女でも達することはないだろう。
    あのひと以外の女を、心の奥深くで拒否しているから。
    広く豪華な最上階の私室。
    その派手さと不似合いに、空気はしらけて、いたたまれない。
    俺は書斎で手早く着替えると、夜の街へと出た。
    ポケットには、鍵とロザリオ。
    行く先も決めずにほっつき歩いてそして。

    路地裏の先に小さな人影を認めた。

    薄暗がりの中、まっすぐこちらに向けられた瞳。
    いや、目深にかぶった帽子に隠れ、瞳なんか見えやしない。
    けれど、俺には判った。
    この澄んだ緊張感。
    ――あの、ガキ。
    俺を敷物代わりに縦断していった子供だということが。
    ポケットの中で手を握る。
    じゃらりとした感触。
    これを取り返しに来たってわけか。


    奇妙な余裕を見せるガキに、俺はゆっくり近づいていった。


    4につづく
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