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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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貴賓室へ
ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    コトコトとのんびり揺れる馬車。
    急ぎたいところだけれど、激しい揺れは、まだ腰にくる。
    こんなんで俺、今夜大丈夫かな。
    彼女を自室に返したあと、彼は馬車を出し、買い物へと出てきた。
    初めて2人で過ごす夜に、彼の部屋を選んだオスカル・フランソワ。
    彼女の部屋だったら、大きな暖炉に惜しみない薪がくべられて、寝台も立派でふかふかで、普通に考えたら、絶対そちらの方が居心地がいいに決まっている。
    情けないぐらい、なんにもない俺の部屋。
    せめてシーツぐらいは真新しいものを用意してやりたくて、彼はちょろりとお屋敷を抜け出してきたのだ。
    あとは、そうだな。意外と甘党なおまえのために、ちょっとしゃれてて、でもちゃんと美味しくて、2人の新たな始まりを彩ってくれるような…そんなお菓子でも用意してあげたいなぁ。どこの店のがいいだろう?
    いや、待てよ。
    あいつ、今日の晩餐、ちゃんと食べられるかな?
    あいつは一見豪快に見えるけれど、けっこう繊細だ。
    一応、軽食っぽいものも買って帰ろうか。
    うーん、どうしよっかな~♪
    尽きることなく湧いてくる幸福感に、楽しみなことばかりが浮かんでくる。
    珍しく、彼ははしゃぎ気味だった。
    こんなふうに、1人で馬車を繰りながら彼女を想うとき、いつも心のどこかで一抹の苦さを感じていたアンドレ。
    いつかあいつは、他の男のものになる。
    彼女とどんなに楽しい時間を過ごしているときでも、心の奥底から、そんな現実が消えることはなかったのだ。
    でも。
    今はこんなに清々しい気持ちで、おまえのことを想える!
    冬晴れの午後。
    冷えて澄んだ空気。
    彼女を想うたび、知らず知らずのうちに溜まっていた暗い澱が、体から抜けていくようだ。
    白く煙る息を吐きながら、彼はお目当ての店の前で馬車を止めた。
    ちょっとした生活雑貨のお店。1度だけ、侍女に付き合わされて来たことがある。
    あのときは侍女がリボンを選んでいて、彼はそれに適当な相槌を打っていた。美しくディスプレイされた夜着に見とれながら。
    「ようこそ。今日はなにをお探しですかな?」
    愛想よく出てきた店主に馬車を預け、彼はそう広くはない店の中を、今日は丹念に見て回った。
    室内履きやクッション、ふわふわの羽根まくら。刺繍の入ったハンカチやテーブルクロス、レースに縁取られたサシェなどが、とりどりに並べられている。
    もちろん、前回の来店で彼の目を惹いた夜着や、肝心のシーツ類なども。
    しかし。
    お屋敷のお使いで時おり訪ねる店に比べたら、やはり格下な品質に、彼は少しばかり心配になる。
    こんなものじゃ、かえっておまえはがっかりするだろうか。
    上等な絹製品が当たり前の彼女。
    しかし今、目の前にある品々は、彼にとっては高価なものでも、大貴族の令嬢には不釣り合いなものばかり。
    それなら彼が普段使っているものの方が、質だけならばずっと上だった。古くはあるが、元はお屋敷に住む方々や来客用に使われていたものが、使用人へと下賜されたものだから。
    うーん、どうしたものだろう。
    気合いじゅうぶんで来たはずの彼だったが、品物を見たら迷いだしてしまった。
    せっかくの夜に、がっかりするおまえなど見たくない。
    「いらっしゃいまし」
    寝具を置いた一角で、品物を手に取っては置き直す彼に、マダムが声をかけてきた。
    「前にも1度、お見えくださいましたね」
    今日は男1人で現れた彼に、目当てのものがあるのだと、マダムはピンときたようだった。
    「美しいでしょう?その夜着。1流の仕立て屋さん……で、まだ見習いをしている人の手によるものなのですけれど」
    マダムは飾ってある夜着を外し、彼の腕にかけると裾を広げて見せた。
    「いずれ独立して、人気の仕立て屋になる人だと、今からわたし、目をつけているんですよ。あなたもお目が高いわ」
    ふぅん、そうなのか。
    ちょっぴりおだてられて少し気を取り直した彼は、腕の中の夜着に彼女を重ねてみる。
    控えめだけれど、要所要所に飾りつけられたリボンや、あしらわれたフリル。
    リボンなんておまえはイヤがるだろうけど、着せたらきっと、かわいいだろうな。
    さらさらと重なるドレープの隙間からのぞく脚や、合わせから誘う白い胸の膨らみと、淡く色づく可憐なちく…
    っと。
    ちょっと前になまじ本物を見てしまっただけに、彼のとある地方では、赤血球だの白血球だのという名の暴民どもが、簡単に蜂起の支度を始める。
    根底に今夜の期待があるだけに、その反応は早かった。
    やっばい。
    30も過ぎて、コレは恥ずかしいだろ。
    「先日一緒にいらした方への贈り物ですか?」
    にっこりと聞いてくるマダムに、彼は余裕をなくしながら早口に答えた。
    「いえ、あの子はただの同僚です!今日はシーツなどを選びに。俺、結婚するんで、彼女のために新しいものをと思って」
    思わず口から出た言葉に言った自分がビックリし、焦りが余計に加速した。
    あ~、なに言っちゃってんだ、俺!
    彼の心情とすれば、まんざらそれも嘘ではない。
    正式なものではないし、誰にも言えない2人だけれど、気持ちの上ではそう受け止めている。
    だが。
    「まあぁ、それは!」
    ぱぁっと笑顔を見せたマダムに、彼はさすがにまずいと思い、後ずさった。
    ぴっちりしたキュロットの中身も、なかなかまずいことになっている。
    「す‥みません、マダム!」
    彼は夜着をマダムに押し戻すと、逃げるように店を出てしまった。
    「は―… 参った」
    馬車に乗り込み、適当に走らせながら、彼は頭を冷やす。
    結婚、だなんて。
    心の中で思ったことはたくさんあったけれど、人まえで口に出すとあんなに恥ずかしくて、そして後ろめたいとは思わなかった。
    どんなに大切に想っていても、やっぱり正式に認められるわけじゃない。結婚なんて、軽々しく言っちゃダメなんだ。
    でも、そう思いながらも、初めて人に「結婚する」と口に出したことは、彼の心を熱くしてもいる。
    オスカル。おまえ、2人のことをどう捉えている?
    心は乱れていくというのに、暴れん棒だけは絶好調だった。
    「…たは」
    男の(さが)に、非常に情けな~い気持ちになり、彼はいつも1人で顔を出すブラッセリーへ行くことにした。
    ちょっと落ちつくためと、料理のおいしいその店で、彼女のために夜食を持ち帰ろうと思ったのだ。
    いつもは豪華な食事をお行儀よく取っている彼女。
    でも、彼がほんのときどき居酒屋などに連れて行くと、実に気持ちよくパクパク食べてくれる。
    ちょうど良くおおざっぱな庶民の料理が、かえって珍しくて、美味しいのだと言って。
    そうした気取りの無さもアンドレには嬉しくて、彼女に惹かれる理由の1つだった。
    …ダメだ、今日の俺。
    なにを考えても彼女につながり、自然と笑顔になってしまう。
    「どうした?アンドレ」
    空いたブラッセリーのカウンター。
    入ってくるなり、ニヤニヤして呆けている彼に、店主が声をかけた。
    「へっ?……ああ、悪い。考えごと」
    「へぇ~。珍しい。えらくマヌケな顔してんぞ」
    「そう、か?」
    彼は心持ち眉根を寄せて、意識的に険しそうな表情を作ってみた。
    今日はこれぐらい意識して、ちょうどいいのかもしれない。
    「仕事は?休み?」
    時刻はすでに夕方を過ぎ、冬の陽は落ち始めている。
    いつもとは違う、中途半端な時間に現れた彼に、店主はごく一般的に聞いた。
    「休み、というか、正確に言うと俺の上司が休みで、俺も芋づる式に休みがもらえた感じだな」
    腰を傷めたおかげで。
    「ふーん。アンドレってさ、どんな仕事してんの?」
    「え…」
    「うちの店に来て長いけど、自分のことはあんまり話さないだろ?」
    確かに。
    うっかり何かのトラブルにでも巻き込まれて、お屋敷に迷惑をかけることのないよう、賢い彼は常に気を使っていた。
    「たまに悪酔いしたときだけは、女の愚痴が出るけどな」
    ギクッ。
    「今日は馬車で来てるから酒は飲まない。ショコラを頼む」
    “女”と言われて彼は内心動揺し、とりあえず店主にオーダーをした。
    「あと、俺がいつも頼んでる 料理 (やつ)を、少量ずつ何品か持ち帰りにできるかい?ちょっと急ぐんだけど」
    「もちろんできるさ。それよりおまえ、顔色が変わったぞ」
    意味あり気に笑う店主。
    ギクリとしたアンドレの様子に、しっかり気がついている。たたみかけるような彼のオーダーにも、ごまかされてくれなかったようだ。
    「さっきの惚けたマヌケづらといい、アンドレ、おまえ、女となんかあったな?」
    彼がまとっている、薄い影。
    どんなに陽気に飲んでいても、その影が消えたことはなかったのに、今日は微塵も感じられなかった。
    「こっちも客商売なんでね、バレバレなんだよ。何年もアンドレの小っさな愚痴を聞いてきて、一応心配もしてたんだからさ。ちょっとぐらい報告してくれてもいいんじゃない?」
    「……」
    「ひゃー、しらふのときはホント秘密主義だな。どうせ例の“仕事先で付き合いのあるちょっと金持ちの娘”とかいう女のことなんだろう?それとも別口?」
    「……」
    「だんまりかよ」
    店主はコトリと熱々のショコラを置いた。
    「でもさ。おまえ、自分で気づいてるか?さっきからずっと顔が笑ってんぞ?」
    「え”!?」
    気をつけていたつもりだったのに。
    先ほどキュッと寄せたはずの眉根は、いつの間にかだらしなく緩んでいる。
    「さぁ、吐いちゃえよ。秘密なら守るぞ。なんたってアンドレとは長い付き合いだ」
    そこで言葉を切ると、店主はニヤニヤと笑った。
    「おまえが初めての娼館帰りに、ほとぼりを冷ましに寄ったのが始まりだもんなぁ。パレ・ロワイヤルだったっけ?おまえがまだ18の」
    「判った!!」
    ジワジワと攻めこんでくる店主に、堪らず彼は白状した。
    「俺、恋人ができたんだ」
    「おお~、やっぱりかぁ。店に入って来たのをひとめ見た瞬間に、ピンときたよ。スッキリした顔しちゃってさ、そのくせ口元がにやけてて」
    「はっ、参ったな」
    「もう言いたくてたまらないって顔してた」
    「う…ん。本当は誰かに言いたくてたまらなかった」
    彼は抑えていた気持ちを解放するように、きらきらと笑った。
    「ま~、いい(かお)しちゃって。アレだろ?あの、仕事先のなんたらかんたらいう金持ちの娘なんだろ?」
    「そうだ」
    「そっかぁ、おめでとさん!長かったもんなぁ。で、その仕事先の…って面倒くさいな。なんていうんだ?その娘」
    「オ‥っ‥と。フランソワ……ズ」
    「へぇ、フランソワーズか。かわいい名前じゃん。で、どう?フランソワーズってどんなコ?やっぱカワイイの?」
    カワイイ?
    「いや。あいつはカワイイっていうより、美人だ」
    「言うねぇ、アンドレ。ふーん、キレイ系か」
    「違う。 キレイ系じゃない 。きれいなんだ、すごくな。ひとめ見たら、誰だって絶対に忘れられない。絹糸のような髪も、宝石みたいな瞳も。それに見た目だけじゃなくてあいつは」
    そこまで話してしまうと、彼にはもう、止められなかった。
    彼女がどんなに魅力的かを滔々と語り始め…
    「判った、アンドレ。判ったって!」
    気がつけば、ショコラはすっかり冷めており、カウンターには、すでに出来上がった料理がお持ち帰り用にまとめられていた。
    「こんなにしゃべるアンドレ、初めて見た」
    店主はもう、ひたすらクックッと笑っている。
    「……悪い」
    「いや、かまわないよ。有頂天なおまえなんて、めったに見られるもんじゃない。それに、おまえのその様子じゃ、すぐにも結婚って感じだな」
    「……どうかな、それは」
    彼はふぅっと表情を曇らせた。
    「なんだよ。フランソワーズのオヤジさんと仲が悪いのか?」
    「いいや、だん…フランソワーズのお父さんは、俺にとても良くしてくれてる。たぶん、信用してくれてもいる。でも」
    「?」
    「俺はそういう対象からは、完全に外されてる」
    「あ~、取り引き先の金持ちのボンボンと見合いさせたんだっけ。でも、フランソワーズはそれを蹴ったんだろ?」
    「まぁな」
    「おまえのために」
    「違う、と思う」
    「まさか。それがおまえのためじゃなかったら、その女、相当鈍感だぞ」
    「相当鈍感なんだよ。あいつは」
    彼は脱力気味にクスクスと笑った。
    「なんかよく判んねーな、おまえたち。
    ま、余計な詮索はしないけどさ」
    店主のさっぱりとした言いように、調子に乗ってしゃべり過ぎたかと危惧し始めていた彼はホッとした。
    が。
    「いっそのこと、子供でも作っちゃえば?」
    「ぶはっ!」
    「ちょいっ、アンドレ!!」
    店主のいきなりの発言に、彼は飲みかけたショコラを噴射した。
    「なに…なにをバカな」
    「だって問題はフランソワーズのオヤジさんだけなんだろう?なら、自然とそうなるじゃないか。おまえたちは愛し合ってるわけだし」
    「そりゃ、もちろん俺たちの気持ちは。いや、少なくとも俺の気持ちは」
    「はぁ?気持ちぃ?」
    店主は素っ頓狂な声をあげ、それからケタケタと笑いだした。
    「おまえガキかよ。俺が言ってる“愛し合ってる”ってのは、男女が具体的に愛し合うことの方だろうが。でなきゃ“自然と 妊娠 (そう)”にはならないだろ」
    「おま…なんの話を」
    「だってどんなに反対してるオヤジでも、子供が出来ちゃえば大概なんとかなるも…ん…って、おまえたち、もしかしてまだ」
    「……」
    「マジでか!?そんだけ長い付き合いで、30も過ぎたいいオトナが?」
    「だから今まで本っっ当に俺の片思いだったんだって!あいつは男女のことにはすごく 晩熟 (おくて)だし」
    「晩熟‥って。なぁ、アンドレ?フランソワーズってもしや」
    「そうだよ、悪いかよ。だから俺だって」
    「簡単に手が出せなかったわけかぁ。なるほどね」
    納得がいったようにフムフムと頷く店主に、彼はため息とともに、今抱えているささいな悩みを口にしてみた。
    言っても言わなくても、もうここまで話してしまえば、同じことだと思ったのだ。
    「実はさ、今夜あいつ、俺の部屋に……うーん、なんて言ったらいいかな」
    「泊まりに来るのか?」
    「そう、そんな感じ」
    「なぁんだよ~」
    店主が彼の背中をバンバン叩く。
    「じゃ、やっぱりおめでとうでいいんじゃないか。先に言えよ、そういうことは」
    「いや、でも」
    「あぁん?」
    「俺の部屋って、なんにもないんだよ、本当に」
    「なんだ、急に。判るように話してくれ」
    「だからさ」
    彼は、なぜ腰痛をおしてまで、自ら馬車を繰って街へと出てきたのかを、今度は落ちついた口調で語った。
    他の使用人の部屋よりは整っているけれど、豪華な彼女の部屋に比べたら、ろくにもてなすこともできない、彼の部屋。
    暖炉だって、あるだけましと言わんばかりの小ささで、使用人が使える薪の量は決められていて、くつろげるほどには暖まらない。
    せめてシーツぐらいは真新しいものを、と思って出かけて来たけれど。
    「お嬢さん育ちのフランソワーズとの生活の差を目の当たりにして、凹んじまったってワケか」
    言いたいことを店主に上手くまとめられ、彼は我が意を得たりとばかりに頷いた。
    「長い付き合いだから、そんなことは判ってるつもりだったんだけどさ」
    小綺麗な雑貨店で見た品々はけっこう高価で、彼にとって買えない額ではなかったが、それでも彼女が普段使いにしているものに比べれば、当然劣る。
    そこが宝飾品の店だとか、ローブや礼装のための仕立て屋だったら、それほど凹まなかったと思う。そもそもが平民の彼には関係のないものなのだ。びっくりするぐらい高価でも、そんなものだと受け止められただろう。
    でも。
    なんてことない生活雑貨というのは、リアル過ぎて痛かった。
    ちょっと素敵な夜着や、気に入ったシーツぐらいでも、彼女が当たり前に使うものと、自分が彼女に用意してやれるものには、やはり越えられない隔たりがある。
    そして、とっさにマダムに口走ってしまった“結婚”という言葉。それが彼にはさらに小さな棘となっている。
    万一結婚できたとしても、自分では、彼女を幸せにするどころか、最低限の納得に至る生活すら、させてやれないに違いない。
    上質な絹地に慣れた彼女の肌が、丈夫さだけが取り柄の平織りの布になじむとは思えなかった。
    もちろん、想いが通じただけで彼にはじゅうぶん幸せで、結婚なんて望むべくもないこと。
    一昨日からの幸福感にさっそく贅沢になり、小さな棘に大騒ぎしているだけなのだと、自分でも判っている。
    「ちょっと前までは、あいつが想いに応えてくれるだけでいいと、それだけを願っていたのに」
    「アンドレ」
    「勝手なもんだろ?」
    吐き出すうちに気が済んだのか、彼の表情にはまた明るさが戻る。
    「もう行くよ。この料理だけで、あいつが喜んでくれるのは間違いない」
    「2人の記念すべき日の晩餐に、当店を選んでくれて光栄です。だけどアンドレ。おまえ、間違ってるみたいだ」
    「判ってる。口に出してみたら良く判ったよ」
    「違うって」
    「??」
    「おまえ、さっきすっごい語ってたじゃん。フランソワーズは人の痛みの判るコなんだって。人の心の痛みを自分のことみたいに受け止めてしまうから、傷つくことも多いんだ、って。なら、おまえが実は、そんなふうに隔たりを感じてることも、フランソワーズは気がついてんじゃないの?」
    彼の感じているその隔たりの正体は、言うまでもなく“身分”。彼女を想うとき、その言葉はいつでも彼にまとわりついてきた。
    「おまえが感じてる引け目を自分のせいだと思って、フランソワーズも苦しんでると思うけどな。
    もっともそれは、フランソワーズが本当におまえが言うような女だったら、の、話だけど。そんな良くできた女なんて、いるわけないと俺は思うがねぇ。
    すごい美人で宝石みたいな瞳と輝く髪の心優しい女なんだろう?頭脳明晰なお嬢さん育ちなのに気取ってなくて、ちょっとエロくて爆乳な」
    「最後の2つはおまえの好みだろ」
    「そうだったな」
    店主は豪快にカラカラ笑うと、彼の背中をもう1度叩いた。
    「なんにもないおまえの部屋がいいって言ってんだ。きっとおまえと同じ目線になりたくて一生懸命なんだよ。おまえの暮らす場所で、おまえのもんになりたいんじゃない?どんだけ金持ちの娘なのか知らないけど、そんな女がおまえの気遣いにがっかりするとは思えないけどなぁ」
    しっかりしろと言わんばかりの背中の痛みに、彼は憑き物が落ちたように目が覚める。
    子供の頃からいつだって、おまえは俺に身分なんか求めなかった。
    「情けないな、俺」
    「男なんてみんな、情けないもんよ?」
    店主はスタスタと店内を抜け、扉に手をかけた。
    「なんか事情がありそうなのは判るけど、おまえ、自分だけで抱えこみ過ぎ。もっと情けなくてグダグダな男になっちゃえよ。少なくとも、うちの店(ここ)では。言えないことは聞かないからさ」
    フランス男らしい店主のウィンクに、キザだと思いながらも、彼は胸が熱くなる。
    「また来る」
    「おう!そしたら早めに店を閉めるから、今夜のコト、がっつり聞かせろよ」
    「期待しててくれ」
    ウィンクを返せないのを残念に思いながら、彼が馬車に乗りこむと、空にはもう星が光り始めていた。
    いけない。急がないと。
    灯りの消えていく店々を目の端にとらえながら、彼は底冷えの道を行く。
    その表情は、屋敷を出たときの晴れやかさを取り戻していた。
    「マダム!」
    「まぁ」
    まさに店を閉めようとしていた雑貨店。
    店に駆けつけた彼は、マダムの注意を引くと、馬車が止まりきる間ももどかしく、御者台から飛び降りた。
    着地とともに腰に不穏な違和感が響いたが、そんなことにかまっちゃいられない。
    「すみません、閉店間際に。まだ、よろしいでしょうか」
    軽く息を弾ませた彼。
    マダムは快く、閉めかけていた錠を開いてくれた。
    晴れた夜の蒼ざめた光りが暗い店内に射しこみ、片隅に置かれた小卓を照らしだす。
    そこに浮かび上がったのは…きれいにたたまれて用意された夜着とシーツ。
    「どちらになさいます?」
    「どちらも!」
    いい笑顔で迷いなく答える彼に、マダムもつられて笑顔になる。
    代金を受け取ると、夜着とシーツを幅広のリボンで持ちやすくまとめてくれた。
    これがジャルジェ家御用達の高級店であれば、きれいな包装を施してくれるのだろうが。
    …いや、気持ちの問題だ。
    大丈夫。あいつは判ってくれる。
    彼は瞬時に気持ちを立て直し、品物を受け取ると、急ぎ馬車へ戻った。
    予定よりも、けっこういい時間になってしまっている。
    「きっと戻ってらっしゃると思ってたわ」
    わざわざ見送りに出てきたマダムは、そう言いながら小さな包みを差し出した。
    「?」
    女性の手のひらに乗りきるほどの、チュールにくるまれたかわいらしい包み。
    「ご結婚、おめでとう。幸せなお2人へ」
    結婚なんて、軽々しく言っちゃダメなんだ。
    彼は返事に詰まったが。
    「ありがとうございます。マダム」
    しっかりとそう答え、丁寧に包みを受け取った。


    来たときとは打って変わって、彼は軽快に馬車を走らせる。
    誰からももらえるとは思っていなかった、祝福の言葉を胸に抱えながら。


    2に続く
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