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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    その夜のジャルジェ家は、たいした賑わいだった。
    夫人主催の晩餐会では、豪華な料理が振る舞われたが、それは逗留する夫人の友人や、そのお嬢さま方ばかりではなく、付き従ってきた従僕や侍女たちにまで用意されていた。
    当然それは、貴人たちとまったく同じものではなかったが、貴人たちに出された食材の良い部分より、僅かに劣った部分で調理されていただけで、食材としてはじゅうぶんに良いものなのは変わりない。
    素晴らしい食事に随員たちは喜び“さすがに国王の覚えもめでたい近衛将軍家よ”と賛美して、こんなお屋敷に勤めているジャルジェ家の使用人たちを羨ましがった。
    もちろんいくら権門のジャルジェ家とはいえ、使用人が普段から、このような食事をしているわけではない。けれど、誉められ、羨ましがられれば、使用人たちだって悪い気はせず、疲れも見せずに格調高く接待に回っていた。
    晩餐会の開かれている大サロンと、随員たちが食事を取っている小さめなサロン。行き来する使用人たちは、本当はヒステリーを起こしたくなるほど忙しい。
    それは、会合が行われている当主の棟でも似たようなもので、この夜の使用人たちの忙しさときたら、尋常ではなかった。
    さらに晩餐が終わる頃には、舞踏会に招かれた貴公子や姫君たちが続々と到着し、忙しさの中に華やかさまでもが加わっていく。

    そんな、非日常なジャルジェ邸。
    その中を、その日もっとも非・日常的に過ごそうとしている人物が、こっそりと行動を開始した。
    日中何度も確認した、もっとも安全と思われるルートで、使用人たちが住まう一画へ向かうのは、この屋敷の次期当主。
    湯あたりにまだ少しだるい体で、彼女は屋敷の裏門側に位置する棟の最上階まで来た。
    人々のさざめきもここまでは届かず、皆、出払ってもぬけのからのその辺りは、暗くシンとしている。
    おかげで人の気配が聴きやすく、アンドレの部屋が近づくにつれ、彼女はむしろ堂々と廊下を進んで行った。
    かろうじて遠くに見える角をもう1つ曲がれば、使用人たちの個室が並ぶ長い廊下が続く。
    そちら側は裏手の棟の中でも最裏手。
    主翼からは完全に離れた、ちょっと不便で陽当たりの悪いところ。屋根裏を利用しているので、天井も低くなっている。
    しかし、そんな使用人たちの私室の中でも、彼の部屋だけは、一かど手前の中庭に面した一画に与えられていた。簡素な造りではあるが、少し広めで陽がよく入るため、環境もほどほど良い。
    幼くして両親を亡くしたアンドレを、当主・レニエが引き取ったのは、もうずいぶん昔のこと。
    『上手くすれば、先々、ちょっと特殊な育て方をした末娘のために、何かしらの役に立つかもしれぬ』
    レニエのごく軽い期待を含め、当時彼には使用人たちの個室が並ぶ一隅に、小さな1部屋が与えられた。
    しかし。
    彼はレニエが思った以上の掘り出し物だった。
    彼女の特異性も偏見なく受け止める柔軟な性格。賢く控え目で忍耐強く、それでいて、いかにも暖かく親しみ深い。
    レニエの目論み以上に、彼女はアンドレを気に入り、どこへでも連れ歩いた。
    やがては平民でありながら、両陛下へのお目通りが許されるまでになり。
    それに伴い、彼の身なりも、ジャルジェ家次期当主の側仕えとして、恥ずかしくないものに整えられていった。
    その生活は、彼の身分にとって、既にじゅうぶん過ぎるほどであったのだが。
    そんな中、黒い騎士事件が起きる。
    彼の身に降りかかった悲劇。
    激しい自責の念に苦しむ彼女。
    レニエは末娘の気を少しでも引き立てようと、彼の屋敷内での待遇を格段に上げた。
    従僕としての俸禄を増やし、彼の部屋を移させ、それなりの調度品を与えてやり…
    それは、身を挺して末娘を護った彼に対する当主からの褒美でもあり、先代からよく仕えてくれているマロンへの詫びでもあった。
    かくて彼は、小貴族出身の執事と同等なほどの収入と、まずまずの住環境、そして屋敷内でのある程度の地位と権限を手に入れた。
    レニエの裁量。
    それは平民の彼にとって、本当に破格の扱いであったのが、まさかそのアンドレと末娘が恋に落ちるなど、レニエにはまったく以て想定外のことであろう。
    子飼いの従僕と安心しているだけに、発覚すればどういうことになるか。
    かわいさが余れば、レニエの憎さは百倍以上にもなりそうだ。
    彼女が危惧するのは、無理からぬことだった。
    それゆえに、勝手知ったる自分の屋敷の中で、このような隠密行動を取っているわけだが…
    「アンドレ?」
    彼女は扉の前に立ち、小さくノックをしながら、なんとなく辺りを見回した。
    周囲に誰もいないことは判っているのに、それでもついキョロキョロと辺りを気にしてしまうのは、彼女の心にちょっとした後ろめたさがあるからだろう。
    後ろめたさ…?
    いや。
    それとも少し違う。
    今、彼女をとまどわせているこの気持ちは、誰にも秘密にしておかなければならない恋だと判っているくせに、ちょっとは誰かに知られたいとも思う、矛盾をともなう奇妙なもの。
    日中何度も来たこの部屋なのに、やっぱり少し、昼間訪ねたときとは心地が違ってきた。
    早く扉を開けたいような、でも少し、しりごみしてしまうような…
    控えめな胸に甘く重い疼きを感じ、彼女は大きく息をつく。
    湯あたりが尾を引いているのか、まだ体が熱っぽく、吐いた息まで熱い気がした。
    部屋の中からノックに応える彼の声がしているが、彼女は扉に背を向け、寄りかかった。
    もう少し。
    もう少しだけ待っていてくれ、アンドレ。すぐに行くから。
    覚悟はすっかりできているし、迷いだってないけれど。
    扉に寄りかかったまま目を閉じてみると、2人のたくさんの場面が浮かんできた。
    いつだって、呆れるほど一緒だった2人。
    その年月の大半を、兄弟のように過ごしてきた。犬の仔のように、じゃれあってくっついて。
    私は本当に、兄か親友のように思っていたんだぞ?
    2人の関係を変えてしまった彼に、彼女は小さく笑う。
    きっとたくさん傷つけた。
    一方通行の恋の苦しさは、彼女だってよく知っている。
    つらいのは、嫌われることよりも、無関心。
    彼女がかつて愛した男も、彼女との友情にはたくさんの気遣いをしてくれたが、彼女の恋心には、ほんの少しも気づいてくれなかった。
    せつなさのつのる胸を軍服に押し込めて、ひたすら耐えただけの初恋。
    今、その男にはきれいさっぱりなんの未練もないが、あのときの苦しさは今も思い出せる。
    そんな私を見ていたおまえは、どんな気持ちでいたのだろう。
    常から気丈なオスカル・フランソワだが、やはり今夜は少し過敏になっているらしい。涙がじんわりと滲んでしまい、手で顔を覆った。
    …いやだな、私らしくもない。
    瞳に溜まる水分が雫になる前に、なんとかおさめてしまおうと、彼女は幾度か深呼吸をした。
    大きく肩が上下して、吸って吐いて
    ―― ぐらっ
    いきなり視界が傾いた。
    な‥に?
    足元がまた少し、揺らいでいる。
    湯あたりのせい?それとも?
    そういえば今日は、ほとんど食事が取れていなかった。
    この「純潔の私とおさらば計画」を彼に持ちかけたのは、昼下がり。
    けれど彼女が、この計画を今夜だと決心したのは、夫人との遅い朝食のときだった。
    母と娘の、のんびりとしたブランチ。
    さぁ、いただきましょうかというそのときに、執事が入って来た。食事中の無礼を詫びながら、夫人にレニエからの知らせを伝えている。
    急遽決まった、ジャルジェ屋敷での会合。
    もてなしの指示は、この屋敷の女主人である夫人にしかできない。
    夫人と執事の打ち合わせを、彼女は何気ないふうを装い、しっかりと聞いていた。
    時間。集まる人数。もてなしのレベル。
    この夜、夫人主催の晩餐会と舞踏会が開かれることも加味すれば、このあとのジャルジェ家の慌ただしさや、それによって使用人たちが忙殺されることは、容易に想像できた。
    ふふっ。
    思わず彼女の口もとに、兼ねてより腹積もりしていた策略の笑みがこぼれる。
    「オスカル?どうしました?」
    執事を退がらせた夫人に訝しそうな眼差しを向けられ、彼女は頬を引き締めた。
    「いいえ、なんでも」
    そのあとも夫人はいろいろと彼女に話しかけ、母娘はゆったりとブランチを楽しんだが、実際のところ彼女はすっかり上の空だった。食事もただ突つきまわしていただけで、気持ちは彼の部屋へと飛んでおり、結局ろくに食べもしないで席を立った。
    夕食にいたっては、何をか言わんや。胃がチリチリと痛く、なんだか胸もいっぱいで夕食自体をパスしてしまった。
    湯あたりは、きっとそのせいに違いない。
    ちっ。無理をしてでも食べておけば良かった。
    日頃の体調管理は、自分自身が隊員たちに口を酸っぱくして言っていることだというのに。
    「はぁ…」
    酸欠気味なのか、ちょっと息苦しい。
    でも、もう行かないと。
    扉の向こうに、近づいてくる人の気配がする。
    返事をしても入ってくる様子のない待ち人に、彼がしびれを切らしたのだろう。
    扉の取っ手に触れてみる。
    そこに、向こう側からの振動が伝わってきた。
    シンクロするように、同時に手をかけた2人。
    扉1枚隔てただけで、お互いがいる。
    開けてしまえば、もう止めることのできない時間が流れ出すのだ。
    どうしよう。
    ドキドキする。
    コルセットは着けてこなかった。
    はしたない女だと思われる?
    違うんだ、アンドレ。
    心臓がもたない。
    逃げてしまいたい。
    でも。でも私は。
    胸の奥は激しく逡巡し、でも次の瞬間、彼女の脳裏に広がったもの。それは、初めて男に身を許す感傷でもなく、敬愛する母親の顔でもなく。
    ―― がっつりと詰めこんできた、濃厚な“予習”の風景だった。
    取っ手から僅かに繋がる彼の気配。それが彼女を落ちつかせたのだ。
    ドキドキはしている。
    ちょっとは逃げたい気持ちもある。
    だがな。
    やっぱり私はもう、その先が知りたいぞ。アンドレ。
    暗く冷え切った廊下にたたずみ、指先だけを取っ手に触れさせて、臆する気持ちを見事に立て直したオスカル・フランソワ。
    「ふっふっふ」
    やはり彼女のやる気はまんまんなのだ。

    冬のしんとした夜闇に、約束通り忍んで来てくれた恋人を、彼は部屋に招き入れた。
    「適当に座って」
    「ああ」
    普段と変わらない様子で顔を合わせた2人。
    だが、扉1枚をはさんだ状態で、取っ手ごしに伝わってきた互いのテンションは胸の奥に残っていて、本当はどんな顔をしたらいいのか判らないでいる。
    どうしたらいいのか判らないから、とりあえず笑いあったりなんかして。
    ―― どのタイミングでそうなるのだろう?いきなり…だったとしても、反射的にボディに自慢の(みぎ)などキメないように気をつけなければ。
    ―― どのタイミングでそう持っていこう?気をつけなければ。こいつはあっち関係にはかなり鈍感だ。
    「え?」
    「いや、なにも?」
    彼はさりげなく彼女から離れ、小さな暖炉に寄せられた椅子に座った。
    火かき棒などを取り上げて、かさかさと薪の重なりに空気を入れてみる。
    そのたびに炎が揺らめきあがり、彼の顔にも部屋全体にも、不規則な陰影がうごめいた。
    その妖しい翳りに彼女は見とれる。
    …ぁ。
    なんだか彼が、すごく色っぽく見えたのだ。
    暖炉の照り返しに赤く染まる肌。かと思えば不意にその赤みは揺れて暗く沈む。
    炎の動きに魅入っているのか、彼に魅入っているのかだんだん判らなくなって、また少し足もとがふらついた。
    まだのぼせているようで、頬が熱くてぼうっとしている。
    「座れば?」
    部屋の真ん中でぬっと突っ立ったきりの彼女に、アンドレはもう1度声をかけた。
    「そ…うだな」
    熱っぽさに気を取られながら、彼女はテーブルのそばに寄り、椅子に手を掛ける。
    それをそのままずるずる引きずり、暖炉のそばへ。
    でも。
    どうしたものだろう?
    再び彼女は立ち止まってしまった。
    今までだったら。
    そう。一昨日までだったら当然のように、手にした椅子を彼の向かい側に置いた。それが幼なじみの距離。
    しかし。
    恋人ともなれば、やはり隣へ行くべき、だよな?
    先ほどまで入念に読み込んでいた参考書に出てきた男女も、コトに至る前には、仲良く寄り添って語り合ったりしていたのだもの。
    湯浴みのあと、人払いされた自室の奥で秘蔵の発禁本を紐解き、たっぷりと予習してきた彼女。
    どこからでもかかって来るがいい、アンドレよ。以前の私とは一味違うぞ。ふっふ。
    かつて彼の強引な告白に、泣いて嫌がるという失態を演じたオスカル・フランソワ。あのとき彼女がパニックを起こさなければ、彼だってきっと、ブラウスを引き裂くという暴挙には出なかっただろう。
    もう同じ轍は踏むまいと、彼女は相当マニアックなところまで予習を済ませてきた。今夜はがっぷり四つで、彼と渡り合える自信があるのだ。
    立ち止まって彼を凝視する彼女と、見つめる視線に顔を上げる彼。
    「…ぁぁ」
    真正面から目が合った瞬間、彼女の視界がまたクラッと傾いた。
    これは…湯あたりのせい…じゃない?
    軽く笑いかけてきたアンドレが、彼女にはものすごく格好良く見えて、いろいろ過敏になっている神経を揺さぶってくる。
    どうしよう。どうした、私?
    心臓がきゅんと縮みあがって、妙に息苦しくなってきた。
    湯あたりを起こしたときから熱っぽかった体に、さらにじんわりと熱が増す。
    彼がさらに素敵に見えて…
    気がつけば、彼に向かって手を差し伸べ、その頬に触れようとしていた。
    「オスカル?」
    彼女は手にしていた椅子を放すと、ふらふらと彼のそばに寄る。
    どうしたことか、じゃれつきたくて仕方ない。
    こんな気持ちになったのは、30年以上生きてきて初めてのことだった。
    彼女は彼の片方の膝をまたぐように座りこむと、その座る間さえももどかしく、黒髪に隠れた首筋に顔を埋めた。
    「ちょっ、オスカル、待て。危なっ」
    前ぶれなく体重をかけられ、安定を欠いた火かき棒が炉にぶつかって鋭い金属音を立てる。
    「待てって。おまえ、いったいどうした?」
    「判らない。たぶん湯あたりだ。湯殿でちょっとばかり倒れてしまったから」
    「倒れた!?医者は?ラソンヌ先生には見‥」
    「大丈夫だ。少しだけこうしていてくれれば、すぐにおさまる」
    倒れたと聞いて、甘い気持ちも吹っ飛びそうな彼なのに、彼女はおかまいなしに右腕をアンドレの首に絡みつかせ、力を込めてきた。
    “こうしていて”っておまえ、こっちの都合も考えろ!
    勢いに押されて崩れる姿勢。
    「オスカル、本当にちょっと」
    彼はやたらと積極的な彼女にたじたじとなり、少し距離を取るべく、やんわりと細い肩を押し戻した。
    けれど、それはかえって逆効果だったらしく、彼女は駄々っ子のように、よりいっそうからみついてくる。
    彼女のくちびるが首筋に当たってゾクゾクするし、密着した体は、なんだかいつもより柔らかい。ただでさえ敏感になっている彼は、すぐに集まりたがる暴民どもを蹴散らすのに懸命になった。
    こんなに密着しているのだ。
    なんのはずみで、この暴民たちの正直な状態が、彼女に伝わらないとも限らない。
    彼は発覚の危険を回避するために、彼女を抱き直した。
    のだが。
    「…アンドレ!」
    彼女はそれを、彼が応えてくれたように感じたらしい。
    埋めていた顔を上げると、炎に揺れる隻眼を見上げてきた。
    彼女の瞳にもゆらゆらとした小さな灯りが揺れ、彼を妖しい気分にさせる。
    女性相手に本気の力を出せないアンドレには、相当不利な攻防戦。
    彼が座る椅子。
    その膝と膝の間の座面に左手をつき、彼女はより積極的な体勢へと移ろうとする。
    ‥う‥わ。本っ当にどうしちゃったんだ、オスカル。
    嬉しいけど、すっごく嬉しいんだけど、手っ…手が。
    椅子についた彼女の手。それが彼の軽~く波乱含みな部分に触れている気がする。
    しかも彼女からは、常とは違う可憐な香りが漂ってきて…
    ああ。もうどうでもいい。
    2人でささやかなディナーのひとときを持ち、そのあと、雑貨店のマダムにもらった得難い祝福の言葉とともに、小さな贈り物を一緒に開けようと心積もりしていたアンドレ。
    そしてもし、よい流れになったなら、あの美しい夜着を彼女に見せてみようかと思っていたのに。
    彼女のまとう香りはほのかなものだというのに、徐々に鼻腔から彼の脳髄へと沁みこんでゆき、男の本能を煽ってくる。
    なんなんだ、この香り。もう…ダメかも。
    彼はまだ残っている理性で、聞いてみた。
    「いいのか?」
    暖炉の照り返しに揺らぎながら、彼だけのお姫さまは返事の代わりにくちびるを差し出してくる。
    「でも、簡単なものだけれど食事も用意してあるし、奥さまからいただいたワインもある。夜はまだ始まったばかりなんだから」
    自分なりの理想の夜に、まだ少しこだわりたいロマンティストな彼。
    しかし、そんなロマンも彼女の言葉には無力だった。
    「いやだ。今がいい。今すぐ……して」
    ずっきゅん。
    愛する女のこの発言は、彼のハートを完全に射抜き
    ぷっつん。
    理想にこだわる彼の理性の糸を断ち切った。
    女性にここまで求められて、応えないなんて男じゃない。
    さぁ、暴民どもよ。好きなだけ決起するがよい。
    領主は統治を諦めたぞ!
    彼は抑えていた欲望を解放し、彼女を抱えたまま立ち上がった。
    そのまま軽々と寝台へ運ぶところをみると、どうやら腰は問題ないらしい。
    ここぞとばかりに男のたくましさをアピールしながら、彼はオスカル・フランソワを寝台へと放つ。
    やっぱり気恥ずかしいのか、顔を隠すように寝具に丸まる彼女を見下ろしながら、彼はシャツを脱ぎ捨てた。
    けれど。
    俺は今、どこまで脱いだらいいんだろう?
    ここに来て湧き上がってきた素朴な疑問。
    俺だけ全裸?いやいや、それはちょっとマヌケだろ。
    かと言って、アレコレしながらこのぴったりしたキュロットをさり気な~く脱ぐのは難しくないか?
    これが娼館だったなら、お姉さんの方がムードを高める会話に紛れ、巧みに彼の衣服をはがしていくのだが。
    『よぉ~し、オスカル。脱がせちゃうぞぉ。ほら~』
    『やったな、アンドレ。ではおまえにも脱いでもらおうか。ほら~』
    『アハハハ』
    『アハハハ』
    なんてことはないよなぁ。
    阿呆な妄想を繰り広げる彼ではあるが、彼女をよくよく見てみれば、あんなに積極的だったくせに、不安そうな目をのぞかせている。
    ……ごめん。優しく教えてあげるつもりだったのに。
    ほんと、俺って情けない。
    彼は寝台に腰をおろすと、寝具に埋もれた彼女の頬に手を添えた。
    初めてするくちづけのように、丁寧にくちびるを重ねてあげた。僅かに触れた部分から、心の波がしっかりシンクロしているのが判る。
    ―― では。
    ―― いよいよ。
    くちびるを一度離し、見つめあって、そして。
    彼女が視線をそらすように目を伏せた瞬間。
    ゴンゴン!
    無粋なノックの音が響き、2人は心臓が止まりそうなぐらい驚いた。
    「アンドレ、いるんだろう?」
    お‥ばあちゃん!!
    彼は全力のダッシュで扉に寄ると、極めてほそぉ~く開いた。
    他の者なら無視も出来るが、マロンとなれば危険すぎる。
    「なにかな、おばあちゃん。なんでこんな時間まで起きてるの?」
    「お屋敷がこんなに忙しいときに、孫が休みをいただいてちゃ、寝てもいられないでしょうが」
    あちゃ…
    やっかいなことだと、心の中で額に手をあてた彼だったが、これから寝むところだと聞いて、安堵の息をつく。
    マロンの用件は、女中頭から預かった伝言だった。
    湯浴みの準備ができたという。
    「いくら腰を温めたいからって、お屋敷がこんなに忙しいときに、使用人が湯浴みをさせてもらうなんて!」
    マロンはぷりぷりと怒っていたが、湯浴みの支度はできてしまっているし、他の使用人はまだ持ち場を離れられないし、結局、さっさと湯浴みを済ますように言って、のしのしと帰っていった。
    ほっ…
    マロンの退場に安心し、でも、盛り上がったところに水をさされ、なんとも気の抜けた空気が漂う。
    「悪い、オスカル。本当はおまえが来てくれる前に、湯浴みを済ませる予定でいたんだ」
    「…仕方ない、な。屋敷は今、異常に忙しい。こちらもそれを見込んでいたのだから。
    早く、戻ってくれよ?」
    使用人の湯浴みなど、豊富に湯が使えるわけもなく、本当に簡素なもの。今夜、望み通りに湯浴みできるだけ、ましなのだ。
    彼は名残惜しそうにくちづけをし、足早に支度をする。
    「アンドレ、鍵は?」
    「使用人の部屋は内鍵しかない。だから、俺が戻ったら中から鍵を開けてくれ」
    「判った」
    暗い廊下に消える彼を見送って、彼女は内側から施錠する。
    燭台が1つしかなくて、自分の部屋よりかなり薄暗いこの部屋。
    ぽつんと1人残され、少し落ちついた彼女は、今しがたまでの自分に、真っ赤になって身悶えした。
    なぜ、あんな振る舞いをしてしまったのだろう。
    予習してきた参考書の中には、確かにあのような場面もあった。女が男を誘惑していくこと細かな描写が。
    でも、違う。
    先ほどの自分。
    決して小説を模倣したわけではない。
    どきどきと騒ぐ胸に、息苦しくて何度も深呼吸しているうちにくらくらしてきて。
    そのうちあいつがやけに格好良く見えてきて、どうしてもじゃれつきたくなってしまった。
    あの、惹きこまれるような感覚。自分じゃないみたいだった。
    なぜ?
    ……怖い。
    寝台に座り、自分の知らない自分に、ちょっと恐怖を覚える彼女。
    しかし、こんなときでも彼女は軍人だった。
    耳、いや、神経に触れてくる、廊下を歩く人の気配。
    アンドレ?
    忘れ物でもしたのかと、彼女は扉に寄り、内鍵を開ける。
    しかし、ほどなく部屋の前まで到達し、申し訳程度にノックをしながらゆっくり扉を開いたのは、場違いな若い女の声だった。


    「ア~ンドレっ あたしもお休みだから来ちゃった」


    3につづく
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