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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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    「お‥まえ、何をふざけた…」
    驚きと困惑を隠せない彼。
    ふざけたことを言っていると、彼女自身も判っていた。
    突然のくちづけを全力で拒否して、悔しさと腹立ちと哀しみが入り混じった涙を見せたのは、つい今し方のこと。
    その涙が乾かぬうちに、彼を誘っているのだから。
    幼少期の思い出深いこの部屋で“最後の話”とやらをすることが、彼にとって儀式めいた意味があるらしいと、それは彼女にも理解できた。
    そして幼なじみという関係は、今夜を境に終止符が打たれ、2人は完全に令嬢と従僕へシフトする。
    ならば。
    彼女には、気づいたばかりで消えていくこの恋の思い出が欲しかった。
    1日にも満たず、密やかに葬られる恋が存在した証。
    加えて彼女にはまだ、僅かながらの小さな希望もある。
    馬車の中で、まるで睨み合うように激しく見つめあったときに感じた、愛されているという感覚。
    そんなもの、錯覚だ。
    自分でもそう思う。
    けれど。
    もしおまえの中に少しでも、私への想いが残っているのなら……諦めたくはない。
    どう思う?フェルゼン。
    胸の中でお伺いを立てると、参謀官は呆れ顔で笑っていた。
    『考えるな。もし駄目でも』
    私にはフェルゼン、おまえという受け皿がある。ジェローデルも。アランもな。
    かなり負けが込んでいるこの勝負。
    彼女は目的を「全力で想いを告げる」に軌道修正した。
    恋に疎い彼女。
    つい、ふられるとかふられたとか、結果にばかり目が行っていた。
    でも、そうじゃない。
    自分の口で、直接気持ちを伝えることに意味がある。
    『今まで通り、幼なじみとして』
    残念な言葉を先に聞いてしまったけれど、でも、自分からはまだ何も言っていなかった。
    僅かな確率かもしれないが、一生懸命伝えたら、起死回生の逆転劇が起きるかもしれない。
    結果は覆らず、駄目だったとしても。
    精一杯やって、きちんとふられなきゃ。
    でなければ、きっと引きずってしまう。
    屋敷の中でまで彼をさけ、いずれは憎むようになるかもしれない。
    そしてもし彼に恋人が出来たなら、祝福にワインでも贈って、その中に毒を仕込むぐらいの事はするかもしれない。
    もしくは彼の恋人をおびきだして屋敷の地下牢に監禁し、ムチを片手に身の毛もよだつような恐ろしい拷問を…
    『おいおい、オスカル』
    胸の奥で参謀官が爆笑している。
    冗談だ、フェルゼン。
    きちんとふられる覚悟ができ、目的を軌道修正した彼女は、いくぶん自分らしさを取り戻していた。
    どんな話なのか不安だけれど、彼の話が終わったら、この遅すぎた想いを正直に告げよう。
    そして、それでもやっぱりふられてしまったら、この短い恋の思い出が欲しいと「おねがい」するのだ。
    一夜だけ、情けをかけて欲しいと。
    かなり格好悪いけれど、引きずり続けて拷問に至るよりは、大分ましだ。
    彼女はまだ困惑している彼に、もう1度言った。
    「私は大まじめだ、アンドレ」
    「オスカ‥ル」
    本当に何を考えている!?
    再びなんとも言えない艶やかな雰囲気をかもし出し始めた彼女に、彼は本格的にグラグラした。
    馬車の中ですら、何をするか判らない自分を抑えていた彼。
    それでも結局はくちづけてしまったというのに、今は並んで寝台の上にいる。そして彼女は、昔の無茶な告白の続きをしてもいいと言っているのだ。
    おまえには好きな男がいる。
    さっきのくちづけだって、泣いて嫌がった。
    それなのに、何を言い出すんだ?
    困惑が混乱になりそうな彼だったが、しかし、ある1場面がフラッシュバックした。
    馬車の中で、目をそらすことも出来ずに見つめあったときのこと。
    あのとき、確かに愛されていると感じた。
    そんなはずはない。
    でも。
    ああ、まただ。
    何か判りそうなこの感覚。
    大事なポイントを間違えている気がしてモヤモヤする。
    彼は一心に集中を図ったが、できるわけがなかった。
    『私はかまわないぞ。あのときの続きをしても』
    そのひとことに、すっかり心が乱されている。
    体を熱くさせる、たまらない誘惑。
    でも、おまえには好きな…
    「あぁっっ」
    積み重なっていくモヤモヤ感に、彼はついに耐えきれなくなった。
    どうせ明日には、彼女付きから外されるのだ。すっぱりと諦めるためにも、これ以上余計なことは考えず、長年の想いの丈だけを告げればいい。
    俺がどれだけおまえを大切に思ってきたかを。今。
    「あのときの続きなんて。俺にはさっきのくちづけだけでじゅうぶんだ」
    「でも、アンドレ」
    何か言おうとする彼女を目で制して、珍しく彼は自分の言葉を優先させた。
    「誓いを破ったことは、悪かったと思っている。おまえ付きから外されると思ったら、どうしようもなかった。またこんなにおまえを泣かせて」
    彼は遠慮がちに、まだ濡れている彼女の頬に触れた。
    冷えた空気に、より冷え切って冷たい白い頬。
    涙を含んで赤く熱っぽい瞳。
    気丈なおまえが、こんなに泣くなんて。
    「本当にごめん」
    いくら最後のわがままとはいえ、やり過ぎた。
    潔癖なほどに一本気な彼女のこと。好きな男がいるのに力ずくでくちづけられて、傷ついたに違いない。
    俺にとっては想いを込めたくちづけでも、おまえにはきっと、暴力でしかなかった。
    そう、暴力でし……暴力?
    「あ」
    殴られた頬を押さえて、それでもワルい男の魅力に惹かれて取りすがる彼女を想像していたけれど。
    …暴力…って、なにも殴ることばかりじゃ…
    頭の中に、雷が落ちた気がした。
    白銀のフィールドに膝をつく彼女の姿。手に伝わる関節の捻れる感覚。微かに聞こえた苦痛の声。
    フェルゼンの意味あり気な表情。
    『その男は、軽く暴力傾向にあるらしい』
    馬車の中、今まで見たことのない甘い眼差し。
    『オスカル自身、自分の想いに気づいたばかりのようだ。ただ相手の身分が』
    近衛隊時代には既に知り合っていて、不釣り合いなほど身分が低いというその男。
    『女性に暴力を振るうような、ろくでもない男はやめておけ』
    『ありがとう。もう納得した』
    バラバラだったたくさんの場面が、一気にひとつのフレームに収まっていく。
    俺の耳もとにくちびるを触れさせて、おまえ、なんて言った?
    『顔を見てなんて、とても言えない。
    このまま聞いて…ください』
    あんなにドキドキして、女の子らしい顔をして、好きな男のことを。
    そして、彼をもっとも困惑させた台詞。
    『私はかまわないぞ。あのときの続きをしても』
    モヤモヤが取り払われ、何もかもがすっきりと見えてくる。
    少しずつズレていた物ごとが自然と正しい位置にはまりこみ、導き出された答えに笑えてきた。
    それは、自分のあまりの鈍感さへの苦笑であったり、たった今まで演じていた、極めて真剣な茶番劇への照れ笑いであったり、嫉妬に目がくらんだ自分の青さへの嗤いであったり…
    つまりは、この長い幼なじみ時代が終わるのだという、歓びの笑み。
    それでも一抹の不安が残る彼は、答え合わせをするように、寝具の下に隠れた彼女の手を握ってみた。
    ぴくんと揺れる肩と、見る間に染まっていく頬。
    でも、彼女はやんわりと手を引かせた。
    …やっぱり違うのか?
    そういえば、馬車に乗せようと手を取ったときも、彼女はさり気なく彼の手を避けていた。
    やっぱり俺の勘違いなんだろうか。
    もうまどろっこしいのはたくさんで、彼はストレートに聞いてみた。
    「いやか?」
    「……そうじゃない」
    彼女はさらに顔を赤くする。
    「手、が」
    「手?」
    「緊張で」
    彼はもう1度、彼女の手を握ってみた。
    冷え切っているのに、変な汗でぺっとりと湿った手のひら。
    これが恥ずかしかったと?
    彼はつくづく笑えてきた。
    嫉妬や過剰な思いこみを捨てて見てみれば、彼女はまぎれもなく恋する眼差しを自分に向けている。
    この判りやす過ぎる状況に、なぜ気づかなかったのか。
    フェルゼンの、あの意味あり気な薄笑い。
    はたから見たら俺たちは、どんなに滑稽だったことだろう。
    こっぱずかしくて、彼はもう、フェルゼンには会えない気がした。
    しかし。
    すんでのところで気づいて良かった。一歩間違えば2人は明日から、令嬢と屋敷の使用人という関係だけになっていたかもしれないのだ。
    それに。
    彼は心の中でほくそ笑んだ。
    幼なじみとして過ごしてきた2人には、何をするにしても、少なからずお互いを出し抜きたい競争心がある。
    それはオスカル・フランソワにこそ顕著に現れているが、彼にだってないわけではない。こと恋愛に関しては、今までアンドレが一方的に振り回されてきた。
    しかし今、流れをつかむチャンスがあるのは、先に気づいた彼の方。
    この勝負、もらったぞ。
    諦めかけたところでの逆転劇。
    実はけっこう意地の悪いところもある彼は、湧き上がってくる歓びと微笑みをグッと抑え、彼女に言ってみた。
    「あのね、オスカル。俺がフェルゼン伯に聞いたのは“おまえがちょっと暴力傾向のある男に片思いしてる”ってことだけなんだけど」
    「は?」
    「おまえには、好きな男がいるらしいと」
    「え?…あ‥の……は!?」
    話を聞いて欲しいと言った彼に、何を言われるのかと嫌な汗をかき、手のひらをぺったぺたにしていたオスカル・フランソワだったが、アンドレのこの発言は彼女の心の準備を超えていた。
    ふられたと思ったとき以上の衝撃。
    アンドレは、私に好きな男がいると思っている!?
    私が暴力的な男に片思いしていて…だから。
    『女性に暴力を振るうような、ろくでもない男はやめておけ』
    あれは、さり気なく私をふったわけではなく、言葉そのままの意味だったと?
    では。
    では!?
    2人きりになってからの一連の出来事が頭の中に湧いてきて、クラクラしてくる。
    「そ…れでおまえは…どう思ったのだ?」
    馬鹿のひとつ覚えのように、彼女は少し前にも馬車の中で言った言葉を口にした。
    「やっぱり悲しかったなぁ。
    悔しかったし、寂しいとも思った」
    彼も、そこは駆け引きなく答える。
    「でもおまえが幸せなら、今まで通り、幼なじみとして見守ってやろうと決めていた」
    “今まで通り幼なじみとして”
    彼の言うその言葉に、なんて上手なふり方だろうと本当にショックを受けたけれど。
    それは裏の意味などない、思いやりの言葉だったのか。
    まったく私という奴は。
    自己完結もほどがあると、彼女はその暴走ぶりに、自分でも唖然とした。
    やっぱり私には無理だ、フェルゼン。助けてくれ。
    思わず泣き言を漏らすと、ずっと励まし続けてくれた参謀官は、しかし、今度は何も言わずにすぅっと姿を消してしまった。
    ここから先は、1人で頑張れというように。
    「だから、おまえ付きから外れろと言われたときには、親友としても俺は用無しになったのかと、つい気が昂ぶって…誓いを破ってしまったんだ。
    本当に悪かったと思ってる」
    切々と語っている彼の声。
    どうしよう。アンドレは私に好きな男がいると思っている。
    好きな男ができたから、もう要らなくなったのだと思いこんでいる。
    あの無体なくちづけ。
    それに込められた意味を知り、彼女はまたしても自分の浅はかさを悔やんだ。
    『行くな、オスカル。頼む』
    そう言った彼を振り切ったことを、今日1日、どれほど後悔した?
    彼が自分のためにならないことはしないと、なぜ思えなかった?
    馬車の中、無理矢理にくちづけられながら彼女が感じたのは、理不尽さと腹立ち。さらりと自分をふった男に気まぐれにくちびるを奪われ、哀しくて悔しかっただけ。
    なぜ不可解な行動を取る彼の想いを推し量れなかったのだろう。
    でも。
    力いっぱい彼を押しのけて、2人激しく見つめあったときに感じたもの。
    あれは…?
    あのときに伝わってきた、愛されているという感覚。
    あれも、独りよがりな思いこみなのか。
    ……確かめたい。
    ふられたと思っていたのが、お互いの小さな早とちりゆえと知り、彼女は切実にそう思った。
    それに。
    自分の想いをきちんと告げるためにも、まずは彼の誤解を解かなければ。
    しかし彼女は哀調を帯びた彼のペースに引きこまれ、そのきっかけさえ見つけられなかった。
    ああ、どうしたらいい?
    …アンドレ…
    弱りきって微妙な揺らぎを見せる彼女。
    可憐なその様子に、彼はますますこっそりと笑みをもらした。
    おまえの好きな男。
    それが誰なのかを知らぬままだったら、今、彼女が見せている、不安と期待を行ったり来たりしている憂い顔を見ただけで、どれほど苦しい気持ちになっただろう。
    自分のためにそんな顔をする彼女に、彼は幸福感が抑えきれなかった。
    意地悪だと判ってはいるが、もう少しだけ悩む彼女を見ていたい。
    長い長い片思いを、彼はじっと耐えてきたのだ。
    それぐらいのご褒美は、許してくれるだろう?オスカル。
    彼女の困った顔がもっと見たくて、そして、今後の流れを掌握するためにも、彼はたたみかけに入った。
    まだ誤解したふうを装って、切り出してみる。
    「明日には俺は、おまえ付きから外されるんだろう?なら、教えてくれないか。おまえの好きな男って、どんな奴?」
    「な…っ」
    んてことを聞くんだアンドレ。この…鈍感!
    あんまりな質問に、彼女はとっさに答えることが出来ず、陸揚げされた魚のようにパクパクした。
    でも彼は、ものすごくせつない瞳で見つめてくる。
    ちょっと待て、アンドレ。そんな目で見られたら、私…
    早く誤解を解かなければと思っているのに、彼の眼差しに惹きつけられて、それどころではなくなってくる。
    彼が自分を嵌めようとしているなんて、ちっとも思っていない彼女は、アンドレの思うつぼにうろたえ始めた。
    愁いを含んだ隻眼にあてられて鼓動が早くなり、息苦しい。
    「これで最後なら教えて、オスカル」
    優しい声で、でも言い抜けることを許さない押しの強さで聞かれ、緊張から酸欠気味の彼女はだんだんぼぉっとしてきた。
    最後なんかじゃない。
    そう言いたくても、ぼんやりした頭では、口をはさむ余地も見つからない。
    「どんな男?髪の色は?」
    「……黒。瞳の色も…黒」
    「平凡だな」
    「そんなこと‥ない。すごくきれいな‥‥
    黒曜石みたいな目をしている」
    「いつから好きだったの?」
    彼女はぼぉっとしながらも、判らないと首をふった。
    「ちゃんと答えなきゃダメだよ」
    彼の手がのびて来て、彼女の頬に触れ、それから耳もとをくすぐる。
    「…っ」
    「オスカル?」
    「本当に…判らないんだ。気づいたばかりだけれど、今となっては、もうずっと前から……だった気がする」
    「ふぅん。じゃあ、その男のどんなところが好き?」
    こんなときなのに、彼の声は半笑いで、自分が遊ばれているのが判る。
    ひどい、アンドレ。私は真剣なのに。
    それなのに、なんだって私は素直に答えているんだろう。
    彼が作りあげた雰囲気にすっかり取り込まれ、彼女はアンドレに問われるまま、その男の好きなところをいくつも言わされていた。
    それは彼女に、アンドレへの想いをより強く確認させる行為となり…
    やがて彼女は、彼に告白したい気持ちでいっぱいになってしまった。悲しくもないのに、感極まって涙まで浮かんでくる。
    誤解されたままでもいい。
    早く言いたい。
    もう、言わせて。
    それを見計らった彼は、ことさら優しく、彼女に最後の問いかけをする。
    本当は、1番最初に聞きたかったこと。
    「オスカル。おまえの好きな男って、誰?」
    「それ…は」
    言いたいと思っていても、言うのに度胸がいることに変わりはない。
    部屋に満ちた甘いテンションと、バカバカしいほどの言葉遊び。
    私の気持ちはきっともう、おまえにバレている。
    逃げられないと彼女は覚った。
    今、言うしかないのだと。
    そして彼女自身、この想いを告げたくてたまらなくなっている。
    「聞いてく…」
    聞いてくれ?
    彼女はそこで言葉に迷い、大きく息をついた。
    考えては駄目だ。
    自分らしく精一杯伝えなければ。自分らしく。
    そうすれば、もしふられても乗り越えられる。
    「聞いてくれ、アンドレ。私はおまえを」
    目を上げれば、見慣れた彼の顔。
    子供の頃からずっと見守ってくれてきたひと。
    大丈夫、ちゃんと言える。
    地下牢で拷問なんぞやってられるか!
    彼女は考えることを一切やめ、彼に今日気づいたばかりの想いを告げた。

    「…愛してい…る…」

    ああ、やっと
    ――言えた。
    ――聞けた。
    慣れぬ台詞を言い終えてほっとしたのか、彼女は彼を見つめたまま虚脱気味になる。
    それを見た彼も、隠していた幸福感を解放させ、隻眼がうっすらと潤む。
    少年の頃から抱え続けた、長い片思いの終わり。
    幾度も諦めようとしては諦めきれず、ときには煮詰まり過ぎた愛情が暴走し、陵辱しかけたり、毒殺しかけたり、決してきれいなばかりの想いではなかったけれど。
    本気で諦めようと決意したその日に、おまえの方から飛びこんで来てくれるとは!
    初めて聞いた愛の言葉。
    それに応えるべく、彼は両手で白い頬を包んだ。
    引き寄せてコツンと額をつけあい、彼はあのとき以来封じてきた想いを口にする。
    ずっと言いたかった言葉。
    これからは毎日でも言える。
    「愛している、オスカル。おまえを愛している」
    彼は頬を包んだ両手を、彼女の背中に回し、柔らかく抱いた。
    本当は息もできないぐらい強く抱きしめたいのだけれど、肩を傷めた彼女にそれはできない。
    『その男は、軽く暴力傾向にあるらしい』
    今後は重々、気をつけなければ。
    それを肝に銘じ、彼は細心の注意を払って彼女を押し倒す。
    「…あ…」
    寝台の軋む音と、枕に広がった髪に埋もれる感覚に、彼女は小さく声をあげた。シーツの冷たさがしみてきて、しばし虚脱していた瞳に光が戻ってくる。
    彼とは長いつきあいだけれど、寝台に横たわって見上げたことは、そう多くない。
    しかもたった今、告白したばかり。
    「あ‥の…アンドレ?」
    自分の焦り気味の声に、緊張がぶり返した。
    先ほどまでとは種類の違った緊張と予感に、彼女は軽く身震いする。
    どう…しよう。
    『私はかまわないぞ、あのときの続きをしても』
    自分の言った台詞はちゃんと覚えている。
    もちろん本気で言った。
    本気で言ったけれど。
    「オスカル、愛している…よ」
    ひじをついた姿勢で見おろしていた彼が、首筋にくちづけると、彼女は体を固くして、さらにぷるぷると身震いした。
    「寒いよな」
    彼はそうつぶやき、押しのけてあった寝具を引き寄せると、自分と、そして恋人になったばかりの女を包む。
    冷えた寝具の感触に余計寒さが増したけれど、それは徐々に2人の体温になじんでいく。
    それでも彼女は体を固くしたまま。
    恋人の心情を察した彼は、彼女の額に優しくくちづけた。
    「大丈夫。おまえが本当にそう思えるまで、もう急がないから」
    ゆとりのある仕草で、ちょっともつれた金色の髪を梳き、安心させるように笑ってやる。
    「少し前まで、本気で諦めようと思ってた」
    「私もだ」
    今日1日の自分たちの間抜けぶりを振り返ると、お互いに身悶えするほど恥ずかしい。
    30過ぎの大人の男女が、本当に何をしていたんだろう。
    「フェルゼンのおかげだな」
    ぴくり。
    彼女の口から初恋の男の名がこぼれ、彼が眉をひそめた。
    「あいつ、こうなることを確信していたのだな。
    だからあんな戯れ言を」
    「戯れ言?」
    「アンドレにふられても、受け皿になるから開き直れと。
    ふふ。その気もないくせに」
    「じゃあもし、あのまま俺たちがすれ違っていたら、おまえ、フェルゼン伯のところに」
    「うーん…フェルゼンと話しているときは、有り得ないと思ったが」
    ふられたと思った瞬間の、衝撃と喪失感。
    ちょっと1人では耐えられそうになかった。
    「なぐさめてもらいに行っていたかもな」
    ぴくぴくっ。
    彼の眉がさらにひそめられた。
    「オスカル。おまえ、自分の言っている意味が判ってるか?」
    「もちろんだ」
    彼女は無垢に笑った。
    「久しぶりの再会だったが、あいつはやっぱりいい奴だ」
    「あ…ああ、そうだな」
    彼は一応、無難な相槌を打ったけれど。
    こいつ、判ってない。まったく判ってない!
    男が女を慰めるってことの意味が。
    『オスカルは今、片思いをしている』
    それだけを彼に伝えたフェルゼン。
    『オスカルは今、アンドレ、君に片思いをしている』
    初めからフェルゼンがそう言っていれば、ここまで2人がこじれることはなかった。下手をすれば、せめぎ合った馬車の中で、2人は終わっていたかもしれないのだ。
    柔和な笑顔の裏に隠れた遊び人の小さな策略に、彼女はちっとも気づいていない。
    さすがフェルゼン伯。一国の王妃に手を出す男。
    恐ろしい。
    「明日にでもちょっと顔を出しておこう。きっと気にかけてくれているだろうから」
    「俺も行く!」
    「でも」
    「俺たちが い つ で も 一 緒 に いれば、ご協力くださったフェルゼン伯も安心して、お喜びくださるよ」
    彼女はアンドレの台詞の微妙な抑揚になど少しも気づかずに、ふむふむと頷いた。
    彼の気遣いは、常になんと行き届いているのかと。
    「おまえもいい奴だな、アンドレ」
    ただ1人、なんにもお判りでない彼女はにっこりと笑った。
    無防備な彼女。
    危な過ぎる。
    急ぐ気はなかったけれど、早いうちに自分のものにしてしまった方がいいかもしれない。
    彼は彼女に覆い被さろうと身を起こしかけ、そしてフリーズした。
    痛ぃった…
    腰に激痛が走ったのだ。
    「アンドレ?どうかしたのか?」
    「いや、なんでも」
    さり気なくごまかしたが。
    やばい、コレ。ぎっくり腰かも。
    ちょっと動けそうにない。
    強張った笑顔を向けるアンドレに彼女は安心し、おずおずと彼の胸に頬を寄せた。
    『あのときの続きをしても』
    そんなふうに言ったのに、添い寝だけでがまんしている優しい彼に、いっそう深い愛情を感じた。こんなに大切に思ってくれる彼を、もう待たせてはいけない気がする。
    『考えるな』 だったよな。
    ――よしっっ
    彼女は自分からくちづけると、意を決して言ってみた。
    「…おまえのものに」
    「え”?」
    もちろん彼は、即座にその意味を理解した。
    でも。
    よりによって今か!
    「おねがい」
    そう言って目を閉じる彼女。
    …俺、頑張れるんだろうか…


    誤解に満ちてズレまくった1日は、こうしてズレたまま円満に終わったが、1人だけ、とんだ犠牲者が出た。
    律儀に朝まで2人を待っていたラソンヌ医師が、ひどい風邪をひいて寝込むはめになったのである。


    FIN
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