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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【想いのゆくえ 5】

UP◆ 2012/3/29

    背中に彼の手のひらの温かさを感じる。
    安心させるように、撫でてくれている。
    『おまえの気持ちは、フェルゼン伯から聞いてるから』
    声にも表情にも、先ほどまでの気難しさや、妙な苛立ちはない。
    2人の間に、いつもの空気が戻ってきていた。
    『…え"!? え"ぇぇぇ!!』
    驚きの声をあげ、少しばかり彼から身を離した彼女。
    それでも、彼の首に回した腕はそのままだし、まだじゅうぶんに抱きついていると言える格好だった。
    そして、彼女を引き剥がそうとしていた彼の腕は今、背中に回っていて。
    これはむしろ、抱きあっていると言ってもいい状態。
    でも、彼はまだ質問に答えてくれていない。
    『それでおまえは…どう思ったのだ?』
    フェルゼンに気持ちを聞いているという彼。それなのに、なぜ何も言ってくれないのだろう。
    アンドレもこんなふうに、私からの返事を待っていたのかもしれない。
    それは想像に難くなかった。
    告白したのなら、どんなものであったとしても、答えが欲しいに決まってる。その答えのないまま、彼はずっと1番の理解者でいてくれたけれど。
    それは彼だから出来たこと。
    私には無理だ。
    今がすでに限界だ。
    「アンドレ?おまえ、どう思った?」
    沈黙に耐えきれず、もう1度問いかけた彼女に、彼は哀し気な笑顔を向けた。
    おまえに好きな男がいると知って、俺がどう思ったか。
    なぜそんなことを言わせたい?
    「どうしても聞きたいのか?オスカル」
    彼女は真剣な顔をして、コクリと頷いた。
    「うまく言えないかもしれない」
    「かまわない」
    「………」
    また黙ってしまったアンドレ。
    どうしよう。本当に間がもたない。
    しばらく待ってみてから、彼女はもうひとこと付け加えようと、口を開きかけた。『おねがい』を使ってみようと思ったのだ。
    けれど。
    「ダメだな。いくら考えても、上手には言えそうにない」
    困ったように、ようやく彼が話し出した。
    「だから今の気持ちだけ、正直に言ってしまうけど」
    「その方がありがたい。余計な気遣いは無用だ」
    なんだか悲壮な表情をする彼女に、彼は背を撫でていた手を止め、力づけるつもりでがっしりと肩に置いた。
    それは、あえてほんの少しの甘さも含まぬ、試合前に円陣を組むときのようなざっくりした仕草だった。
    「愛していたら、暴力はふるわないよ。男は」
    子供の頃から取っ組み合いのけんかをし、成長してからも武術の手合わせなどをしてきた彼でも、大人になった今では、とても彼女を殴る気にはならない。
    剣を取れば名うての彼女。
    一風変わった育ち方をして、武芸に秀でていたとしても、やっぱり女は女。力で争ったら、男には勝てないのだから。
    「女性に暴力を振るうような、ろくでもない男はやめておけ。おまえには……」
    俺がいる。
    それを言うのは、もう諦めていた。
    「もっとふさわしい人が必ずいる」
    最後の方は、棒読みだった。
    こんなこと、言って良かったのか。
    気性の激しい彼女のこと。好きな男を悪く言われて怒りだすのではないかと、彼はちらりと後悔した。
    それに。
    悪口めいて聞こえたかもしれない。度量の狭い奴だと思われたかも。
    この期に及んで、まだ彼女に良く思われたい自分が、我ながら哀れだった。
    しかし。
    「…ありが‥と」
    耳もとで意外な声がした。
    「え?」
    次いで、深呼吸のような、大きなため息が彼の首筋にかかる。
    それはとても熱くて。
    「オスカル?」
    試合中から続く苛立ちや嫉妬、渦巻いていたさまざまな黒い感情が一掃され、優しい気持ちを取り戻した彼は、彼女の変化にきちんと気がつくことができた。
    オスカル、泣いてる?
    涙を落としているわけでもなく、嗚咽を漏らしているわけでもない。けれど、密着した体から、抑えてゆっくり吐く熱い息遣いや胸の震えが伝わってきて、アンドレには、彼女が本当は泣きたいのだと判った。
    『愛していたら、男は殴ったりしない』
    正直に言い過ぎたのだろうか。
    …いや。
    こんなオスカル、前にも見たことがある。
    薄暗い部屋で、問わず語りに子供の頃のことを話し出し、やがて顔を伏せて、懸命に涙をこらえていた彼女。フェルゼンと決別した日の。
    あのときの彼女に、酷似していた。
    なんだか変だ。
    それに、先ほどの呟き。
    好きな男を否定されて『ありがとう』?
    なぜそんなことを言う?
    …それだけじゃない。
    優しさと共に、本来の賢さも取り戻した彼は、何かがおかしいことにようやく気がつき始めた。
    2人きりになってからの彼女の様子、そして自分がどこか取り違えているような、もやもやとしたもどかしさに。
    何か…
    どこか…
    もう少しで判る気がするのに、泣くのをこらえている彼女が気になって集中できない。
    とても気になる、重要なこと。
    でも今は。
    やはりおまえだ。
    考えるのは後でもできると割り切って、彼は無理に意識を彼女に向けた。
    「ごめん、オスカル。俺、ちょっと無神経だった。もう少し言い方があったのに」
    「そんなことはない」
    彼女はアンドレの首に回した腕を解くと、背中を向けた。
    髪を揺らして、問題ないとでも言うように首を振っている。
    「言ってくれてよかった。本当にありがとう。もう納得した」
    やけに平坦な彼女の様子。
    かえって心配になる。
    「オスカル、大丈夫か?」
    彼は前かがみになり、彼女の表情をうかがった。
    目を閉じて、感情をコントロールしようとしているような横顔。
    悲しませるようなことを言ったのは自分。
    それなのに彼は、彼女の理性的な態度が本当にかわいそうに思えてきた。
    泣きたければ泣いていいのに、俺の前でまでがまんするなんて。
    恋人にはなれなかったけれど、彼女がもっとも心を許しているのは自分だと自負してきた彼。だからこそ、長い片思いにも耐えてこれたというのに。
    それも俺の独りよがりだったのか?
    寂しさを感じながら、それでも彼は励ますように、そして確認するように、彼女に言った。
    「俺にはもう何もしてやれないけど、でも、泣きたいときには胸を貸すよ。今まで通り、幼なじみとして」
    おまえに好きな男がいても、親友としての居場所は俺に残しておいてくれ。
    彼にしてみれば、そんな願いを込めたひとことだったのだが。
    『今まで通り、幼なじみとして』
    この言葉は、違う意味を持って彼女の胸に響いた。
    ……ちょっと、これはだめだ。
    ふられたときの心の準備は、出来ているつもりだった。だが実際に言われてみると、それはたいした衝撃だった。
    『おまえの気持ちには応えられない』とか『もう恋愛感情はないんだ』とか、そんなふうに言われるかと思いきや『今まで通り、幼なじみでいて欲しい』とは。
    なんてスマートなふり方だろう。
    あまりに見事なかわし方に、これでは納得するしかない。
    …フェルゼン。『おねがい』は、使う隙さえなかったぞ。
    遂行の序盤にして失敗した告白作戦。
    “彼はまだ私を好きでいてくれる”
    心のどこかに、そんな傲りも無いわけではなかったのに、なんと間抜けなことか。
    喪失感と情けなさが混ざり合って、苦い嗤いがこみ上げてくる。
    ふられるって…思うよりずっとキツい。
    でも。
    彼女はさりげない笑顔を作ると、呼吸を整え、彼に振り向いた。
    「止めてくれ、アンドレ」
    「え?」
    「馬車を…止めて?」
    この期に及んで、命令形でないように言い直す自分が哀れに思えてくる。
    「なん…」
    「ちょっと行きたいところができたから」
    嘘だった。
    とにかく早く、彼から離れたかった。
    少しでも、早く。
    でなければ…みっともなく泣いてしまいそうで。
    「フェルゼン伯のところ?」
    「……」
    「それとも少佐のところか?」
    ああ、そうだな。フェルゼンにジェローデル、そういえばアランもいたんだっけ?
    『モテモテだな、オスカルさま』
    参謀官の言葉を思い出す。
    考えてもみなかったけれど、それもいいかもな。行きたいところなんて、無いんだし。
    無理に作った笑顔。
    しかし、瞳はすでに涙がちに潤んでおり、彼には、笑っているのに寂し気に見えた。そのくせ2人きりになったときからの、何やら甘やかな気配はまだ引きずっていて…
    「ダメだ、オスカル」
    こんな状態の彼女を、フェルゼンが、ジェローデルが見たらどんなことになるか。
    「行かせない」
    「アンドレ?」
    彼女が唯一、素直に泣ける場所。それを譲ることなんて、彼にはやっぱりできなかった。それが彼女が青春を捧げた初恋の男でも、今片思いしている男だったとしても。
    「アンドレ!?なん…っ」
    彼は唐突に腕を伸ばすと、彼女の頭を引き寄せて、胸の中に抱きこんだ。
    「つらかったら、今まで通りここで泣けばいいだろう?」
    「離……アン‥ド‥レ…」
    身悶えし、押し返してくる彼女に余計気持ちが昂ぶり、彼はなおさら強く抱きしめた。
    「…や‥‥苦し‥」
    「そんなに俺じゃダメか。これまで通りでもいられないほど、もういやなのか?」
    「これまで‥通りなんて…無理‥だ。おまえには出来ても…私‥には」
    あまりに苦しそうな息遣いに少しだけ腕を緩めて、でも、まつげの触れそうな距離で、彼は愛する女を見つめた。
    青い瞳に、涙がいっぱいに溜まっている。
    好きな男が出来たから、これまで通りではいられないと泣く女。
    そんなにその男が好きか?オスカル。
    彼の脳裏に、ジェローデルの雅やかな佇まいがよぎったが。
    あ…
    またしても、彼はおかしな胸のざわめきを感じた。
    おまえの好きな男。
    フェルゼン伯はなんと言っていた?
    『オスカルは今、片思いをしている』
    そうだ。片思い。
    片思いって。
    相手は…少なくとも少佐ではない…?
    もし少佐であれば、相思相愛のベストカップル。
    悩むことなく結婚一直線じゃないか。
    落ちついて考えれば、ジェローデルは間違ったって彼女に手をあげたりしないし、妙なトラップでもない限り、フェルゼンでないのも確定している。
    しかも『かつては宮廷でも隠れた人気を誇っていた』となればアランでもない。
    それから。
    それからフェルゼン伯はなんと言っていた?
    何か…
    どこかが…
    重大なズレがある気がして、それがつかめそうな気もしているのに、馬車が大きく揺れて彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
    「アンドレ、もう…」
    「もう?」
    「こんなふうに優しくされるのはつらい。私はおまえみたいに、大人にはなれない」
    どういう意味だ?
    せっかくまとまりかけてきた思考が彼女にかき回されて、またバラバラになっていく。
    頼む、オスカル。少し黙っててくれ。
    集中して、胸の中のもやもやを寄せ集める彼。
    それなのに、彼女はさらに言葉を重ねてきた。今、彼に言うべきではない言葉。
    「だからアンドレ、もう一緒には」
    「俺に、おまえ付きから外れろと?」
    彼女が僅かに頷く。
    「おねが‥」
    あと少しで判りそうなのに1歩届かぬ歯がゆさと、彼の思考を乱し、とことん離れて行こうとする彼女へのやるせなさ。そのすべてに押し流され、彼は自分を抑えることをやめた。
    おまえが嫌がっても…泣いても。
    彼女の背に回した腕に再び力をこめると、もう一方の手で後頭部をしっかりと抑えつけ。
    「アンドレ!?」
    無理矢理にくちづけていた。
    腕の中でもがき、必死にそらそうとする彼女。
    ああ、まただ。
    逃げるくちびるを追いかけながら、彼は胸の奥で呟く。
    あんなに誓ったのに、俺はまた。
    けれど、その後悔以上に熱い気持ちが突き上げてくる。
    彼を側仕えから外すと言ったオスカル・フランソワ。
    なら、俺は。
    もう1度だけ、俺は。
    かつての過ちから、封印してきた想い。
    彼女付きから外されるというのなら、最後にもう1度、長年の想いの丈をこめて告げたかった。
    どれほどおまえを愛してきたのか。
    判ってくれとは言わない。ただ心から告げたいだけ。
    彼女への、生涯唯一の告白が昔のアレでは、あまりにも悲しい。
    だからオスカル。
    今は俺のわがままを許してくれ。
    彼女はいきなりのくちづけに驚き、腕の中で抗っているが。
    「…アンド‥レ‥‥やめ‥」
    傷めた右肩を動かせない彼女がいくら抗っても、それはたかが知れたこと。
    懸命にそらすくちびるを、彼はたやすく何度もふさぐ。
    それは、抱え続けてきた想いを諦めるため。
    これが最後だから。
    身勝手を許して欲しい、俺のオスカル。
    くちびるに託す彼女への想い。深ければ深いほど、くちづけは強引になる。
    「い…や」
    けれど、そんな彼の苦しまぎれの行為は、彼女を混乱させただけだった。
    なぜ?
    どうしてアンドレはこんなことをする?
    ただでさえ瀬戸際だった彼女には、彼の突然の行動を推察する余裕などなかった。必死に保っていた理性を保ち続けることも、もうできそうにない。
    今まで通りの幼なじみでいたいと言ったのは、彼の方。
    その言葉が思っていたよりずっとつらくて、それなのに優しくされるのはとても哀しくて、これではもう、離れるしかないと思ったのに!
    私にこんな決断をさせたのは、おまえなのに!!
    彼女は両手で力いっぱい彼を押し返した。
    (い)っ…
    肩が鈍く痛んだが、そんなことはどうでもよかった。
    頭に血がのぼり、はぁはぁと息を切らしながら、彼女はアンドレを睨みつける。さまざまな感情が入り乱れて、抑えていた涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
    どうしてこんなことをする?今さらなぜだ、アンドレ!
    濡れて怒気を含んだ青い瞳。
    しかし、それを見つめ返す彼は、彼女以上に傷ついた顔をしていた。
    理不尽な仕打ちをされたのは、彼女の方だというのに。
    「…おまえが判らない」
    絞り出すような彼女の声。
    昨日までは、あんなに判りあえていると思っていた。
    どうしてこうなった?
    何が悪かった?
    そして、このくちづけの意味も。
    「判らない。全部判らない!」
    狭い空間に、みるみる緊張が高まっていく。
    からまった視線を外すことも出来なくて、2人は言葉もないまま激しく見つめあっていた。
    が。
    やがて不可思議な感覚が2人を包み始める。
    好きな男ができたという女。
    親友でいてくれと言った男。
    交わることなど無いはずなのに、こんなに厳しい表情で見つめあっているというのに……なぜだか愛を感じる。
    せめぎ合う感情に翻弄された上、いきなりくちびるを奪われて余裕をなくしたオスカル・フランソワと、自分を抑えることをやめたアンドレ。
    互いの瞳には互いしか映っておらず、追い詰めあった心からは余計なものが削ぎ落とされて、むき出しになっている。
    目の前にいるその
    男を
    女を
    愛していると。
    そして、目の前にいるその
    男に
    女に
    愛されていると。
    そんなわけがないのに、ああ、でも。
    「アン…ド‥レ」
    彼女の指先がとまどいがちに、彼の頬に届く。
    そして、たった今、押し返して拒絶したばかりのくちびるに触れ…
    ようとした瞬間、馬車が止まった。
    次いで、困ったように問いかけてくる御者の声。
    「お屋敷に着いたのですが…」
    は?お屋敷だって!?
    彼はとっさに窓の外を見る。
    そこは見慣れたジャルジェ家の正門近く。たくさんの馬車が居並び、ひどく混雑している。
    …そうだ。今夜は確か奥さまの夜会があったんだ。
    屋敷の予定を思い浮かべると、彼の中で無意識に従僕としてのスイッチが入る。それは彼をすっきりと落ちつかせ、冷静な判断をさせた。
    このまま正門を抜けて車寄せに入るのはまずい。
    御者の到着を告げる声が聞こえたとたん、ハッとしたオスカル・フランソワが馬車から飛び出そうとしたからだ。
    頬を濡らした彼女が、取り乱した様子でメインエントランスに駆け込めばどういうことになるか。
    侍女たちや他の使用人たちが集まり、大騒ぎになるのは目に見えているが、それで済むならまだいい。
    たくさんの客人たちにそんな姿を目撃されたなら、翌日の社交界はその噂でもちきりになり、あらぬ憶測を呼べば彼女の立場に傷がつく。
    彼は瞬時にそう判断すると、馬車を屋敷の裏へと回らせた。
    極めて緩く速度を落とした馬車から、隙あらば逃げようとする彼女のひじをがっちりつかみ、彼は窓から周囲の様子を窺う。
    来客へのつつがないもてなしのため、おおかたの人員がそちらへ割かれているようだ。普段より人も少なな使用人用の出入り口近くに、馬車を停めてもらった。
    夜闇と慌ただしさにまぎれて素早く屋敷に入りこむ。
    彼女のひじをつかんだまま、人目を避けて廊下を進むが。
    さて、どうしたものか。
    誰にも見つからないように彼女の部屋にたどり着くことは出来る。でも灯りが点り、暖炉に火が入れば、いくらもしないうちに誰かが気づき、部屋にやってくるだろう。
    いずれは侍女の目に触れるにしても、もう少し落ちつかせてからがいい。
    それに。
    最後の想いをこめて、彼女に告げたいことが彼にはあるのだ。
    逡巡したのち、彼は自分の部屋へと彼女を連れて行った。
    当主の信頼厚いマロンの孫。彼の部屋は他の使用人よりも広く、調度も多少は整っている。けれどさすがに、座り心地の良いソファまではないので、彼は彼女を寝台に座らせた。
    冷え切った部屋の寝具はじっくりと冷たく、底冷えがしてくる。
    彼は燭台に灯を点すと、なるべく灯りが漏れぬよう、窓を避けた低い位置に置いた。
    「寒い?」
    座らせたままの姿勢で、震えている彼女。
    それも当然で、壁に寄せた寝台のそばの小窓は凍りつき、美しい氷紋が浮かんでいる。
    もちろん彼もかなり寒かったけれど、習慣で彼女に上着を差し出し…そして苦笑した。
    馬車の床に、パサリと落ちた上着。
    それを思い出したのだ。
    バカだな、俺。
    彼は上着を引っ込めかけたが。
    その袖を彼女が引いた。
    …オスカル?
    彼女は小さく礼の言葉をつぶやくと、彼の上着にくるまる。
    ふわりと彼の匂いがして、彼女はまた涙を落とした。馬車の中で彼に抱きつき、首筋に顔をうずめたとき、確かに自分のためにある場所だと思えたのに。
    「私の隣に」
    彼女は目を上げ、馬車の中と同じにと言ってみた。
    靴を脱いで寝台に乗り、壁にもたれて座って足だけを寝具に潜り込ませる。
    子供の頃、よくこうして一緒に並んで本を読んだ。
    「寒いから、一緒に。そうすれば話を聞いてやる」
    御者の到着の声がかかったとき、我に返った彼女は、馬車から飛び出そうとした。
    理不尽なくちづけが悔しかった。
    上手に自分をふったくせに、そんなことをしてくる彼に腹が立った。
    それなのに、激しく睨み合っていたあのときに感じた、愛されているという感覚を信じたい自分がいた。
    そんなこと、あり得ないのに。
    止められない涙を見られたくなくて、彼女は馬車から何度も逃げ出そうとし、そのたびに彼に抑えつけられた。
    屋敷に戻り、暗がりの廊下を無理に引きずられ。
    「離せ、アンドレ。人を呼ぶぞ」
    彼女は半ば本気でそう言ったが、彼はしっかりとひじをつかんだまま足を止めなかった。
    「アンドレ!いいかげんに」
    言いながら、全力で彼の手を振り払おうとした彼女に、彼はようやく立ち止まる。
    「オスカル、話があるんだ」
    「聞きたくない」
    暴れる彼女を腕1本で抑えこんで、そのとき彼は言った。
    「俺が今までに、おまえのためにならないことをしたか?」
    「…!」
    そうだった。
    今日、何度後悔したことだろう。
    行くなと止めたおまえを、邪魔だと切り捨てたこと。
    なぜ、あのとき彼の言葉に耳を傾けられなかったのかと。
    「俺の最後のわがままだ。何も望まないから、ただ聞いてくれればいい」
    彼にそう言い聞かせられると、彼女はぱったりと抵抗をやめ、腕を取られるままに彼の部屋へと入ったのだった。
    『そうすれば話を聞いてやる』
    高飛車にそう言った彼女だったが、その陰で、本当は彼が何を言い出すのかと緊張していた。
    手のひらにまた、嫌な汗が滲んでくる。
    彼を隣に座らせて、自分がどうしたいのかも、もう判らない。それでも彼女は“隣に座れ”と示すように、居住まいを正した。そして、それを見た彼も、今度は言われるままにもそもそと隣に座った。
    屈託なく一緒に遊んだ子供の頃。2人の思い出多い場所で終わるのも、自分たちらしいと思ったのだ。
    オスカルが俺の部屋に来ることも、もうないんだし。
    そんなふうにも。
    「久しぶりだな、おまえの部屋に来るのは」
    心持ち彼に寄りかかって、彼女が言う。
    思い返してみると、彼女がこの部屋に入るのは、相当に久しぶり。たぶん、あのことをきっかけに、彼の部屋に出入りするのをやめていた気がする。
    彼も同じことを思ったのだろう。ばつの悪い顔をした。
    「あのときは悪かった」
    昂まった想いに、彼がいきなり彼女を押し倒し、ブラウスを引き裂いたときのこと。
    「あのとき“は”?」
    「あ‥‥いや、さっきもごめん」
    「話とは、そのことなのだろう?」
    先ほどの、無体なくちづけの理由。
    「ああ、そうだ。でも。
    俺が言うのもなんだけど、あんなことされた後で、おまえ、怖くないのか?こんな男と今、寝台にいて」
    「別に」
    彼女は自虐的な吐息と共に、彼を見返した。
    その瞳には、馬車の中で漂わせていた甘やかな気配が戻っている。
    「私はかまわないぞ」
    「は?」
    「あのときの続きをしても」
    「お‥まえ、何をふざけた…」
    好きな男がいるんだろう!?
    「ふざけてなどいない」
    虚を突かれた彼とは真逆に、彼女は緩慢なほどの動作で、くるまっていた彼の上着を傍らへ除けた。そして首の後ろの結び目を解き、肩を吊っていた白い布も無造作に取り去る。
    “さぁ”とでも言わんばかりに見上げてくる彼女が、彼にはまったく理解できなかった。


    オスカル。
    おまえ、何を考えている…?


    最終話につづく
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