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【想いのゆくえ 2】
UP◆ 2012/1/27「痛ぃったぁ‥い」
誰にも聞かれないと気が弛み、彼女はつい素のままの甘ったれた声をあげた。バイオリンのG線を切ってしまったときのように。
しかし。
「大丈夫か?」
誰もいないと思ったのに、突然うしろから両肩に手を置かれた。
「ぅわぁっ!」
派手に驚きながら振りかえると、心配そうに彼女をのぞきこんでいるのは、アンドレを連れて戻ったフェルゼンだった。
もの思いに沈み過ぎて、人の近づく気配に気づかなかったのだ。
彼女にしてみれば珍しい不覚。
さっきの情けない声を聞かれてしまったかとどぎまぎしたが、フェルゼンは全く気にしていないようだ。
よかった。
そう安堵した彼女だったが、その表情には情けなさがほとんど残っている。
「ずいぶん痛むようだね。私も手加減なしに投げたから。まさか君に当たってしまうとは」
気丈な彼女が、肩を押さえて座りこむほどつらいのかと、フェルゼンは申し訳なく思った。それに彼女の顔をよく見てみれば、なんだか心細そうに潤んだ目をしている。
暗がりで1人にされて怖かったのだろうか。
まさかオスカルが?
月が明るいとはいえ夜のフィールドは閑散とし、客のいないギャラリースタンドは不気味に静かだ。
気を使って先に行けと言ったつもりのフェルゼンだったが、そういえば、こうは見えても彼女は深窓の令嬢。
通常、夜道に1人きりになることなどないかもしれない。
常にアンドレが護衛についているぐらいだし。
肩も傷めていることだし、さすがのオスカルも少し気弱になっているのだろうか?
ゲーム終盤で彼女の肩に雪球をヒットさせてしまったフェルゼンは、少なからず責任を感じていた。そこに持ってきて、オスカル・フランソワのこの、いやに頼りない感じ。
罪悪感と心配が織り混ざり、守ってあげたいような気持ちにさせられる。
フェルゼンは彼女の手を取ると、友情の節度を越えない程度に、腰に腕をまわした。
「大丈夫だ、フェルゼン。1人で立てる」
オスカル・フランソワはそう言って手をほどこうしたが、フェルゼンはそれにかまわず彼女を抱き起こした。
「すっかり体が冷えている。本当に大丈夫か?」
「あ‥あ、うん…大丈夫」
彼女は少々うわずった返答をする。
意識は完全にフェルゼンからそれていて、目線はさりげなく、その肩の向こうへ投げられていた。
そして…
アンドレと目が合う。
少し離れたところに足を留め、彼女とフェルゼンを黙って見ている隻眼の男。
降りそそぐ月光は彼女の髪を艶めかせて煌々しいぐらいなのに、その光を彼がまとうと違って見える。
蒼い光に、闇色の髪と瞳。
しっとりと静謐で彼らしく、その見慣れたたたずまいにオスカル・フランソワはほっとして笑いかけようとした。
けれど。
彼は無表情に目をそらした。
う‥そ。なんで?
いつ、どんなときでも、彼女と目が合えば彼は笑ってくれた。
子供の頃、くだらないいたずらがバレて2人まとめてばあやに怒られたときも、こっそりと目を合わせると、神妙な顔を作りながらも彼の瞳は笑っていた。
宮廷晩餐会の席に並ばされ、まじめくさっているのにもうんざりして彼に目を向けると、壁際に控えた彼は、やはりまじめくさった顔をしていて、でも彼女にしか判らない笑いを黒い瞳に含んで見つめ返してくれた。
人も少ななルイ15世陛下の葬送の列にあってさえ、彼女がいたたまれずに振りかえると、彼は慈愛をたたえた瞳に微かな笑みを浮かべてくれた。
だから彼女はいつだって、心を強く持っていられたのに。
見間違いなのかな。
そうは思っても、もう1度自分から目を合わせる度胸はなかった。
なんとなく伏し目がちになってしまい、彼女は助け起こしてくれたフェルゼンにエスコートされたまま、半ば引かれるように、馬車までの道を連れて行かれる。
なにやら話しかけてくるフェルゼンにこくこくと頷き、適当な相づちはうちながらも、話なんぞほとんど聞いていなかった。
できるだけさりげなく後ろをうかがうと、アンドレは少し遅れてついて来ている。
夜色の髪をさらさらと揺らして、月の光がよく似合う。
きれいだな、おまえ。
今までそんなふうに彼を見たことはなかった。
胸の奥がまたきゅっと痛む。
…や‥だ。今はだめ。落ちつかなくては!
そう思えば思うほど、鼓動が高くなる。
彼女は慌てて顔を前に向けたが、ちょうど目線を上げたアンドレと、一瞬だけ、目が、合った…
くちづけをかわしたあとの2人は、より親密そうに話していた。
細かい表情までは見えなくても、彼女がすごく恥ずかしそうにしているのが、長いつきあいのアンドレには判る。
そのうち彼女は自分からフェルゼンに手を差し出した。
その手をフェルゼンが握ると、彼女は嬉しそうに笑った。
ああ、そうか。
手をつなぎたかったのか、おまえ。
彼の口元には苦笑いが浮かんだ。
本当におまえはかわいいな。手をつなぐぐらいのことで、そんな顔して笑うのか。
彼女が幸せでいてくれるなら、積年の片思いも喜んで捨てられる気がする。
とりあえず彼は、その場を離れようとした。
これ以上見ていたところで、いいことなんかひとつもない。
けれど。
「アンドレ!」
彼女のそばを離れて、フェルゼンがまっすぐこちらに向かって歩いてきた。
なぜ?
「ちょうどいいところに来たな。ジャルジェ家まで送っていってやろう」
「私を、ですか?」
「もちろんオスカルも一緒に。急に帰ると言いだしてね」
フェルゼンは含みでもあるかのように笑っている。
「フェルゼンさま…何か?」
「ああ、失礼。深い意味はない。久しぶりに会ってみたら、オスカルがやけにかわいらしく見えたものだから」
深い意味はない、だと?
フェルゼンのその物言いは、彼の神経に障った。
つい語気が荒くなる。
「あいつは昔からかわいいですよ!あなたが気づかなかっただけで、いつだって!!」
「アンドレ?」
「…あ」
珍しく人前で感情的になったアンドレだったが、賢い彼はすぐに、自分の身分にふさわしいふるまいを取り戻した。
「あ‥の、すみません。ご無礼を」
「いや、そう堅苦しくせずとも。私は君を友人のように思っているのだから」
「恐れ入ります」
それでも堅苦しい彼の受け答えに、フェルゼンは若干の違和感を覚えた。
もともとアンドレは控え目で、よく教育が行き届いた従僕ではあったけれど。
でも今日は控え目な態度の中に、僅かばかりの険があるような?
「君が感情的になるなんて珍しいね」
「申し訳ありません。オスカルは誤解されやすいので、ついあのようなことを」
「判るよ。君たちは確か幼なじみだったね。彼女も良き理解者がいて幸せだ」
幸せ?
俺があいつを幸せに?
できるわけないだろう!
オスカルは俺にそんなこと望んでない。
ただ居心地がいいだけの兄代わり。それが俺の役目なのだから。
彼はフェルゼンには判らない程度に短いため息を吐いた。
だめだな。少し冷静にならなければ。
フェルゼン伯に当たったって仕方ない。
だいたいさっき、あいつが幸せならばそれでいいと思ったばかりじゃないか。
アンドレは意識して、慎ましやかで、かつ親しみのある顔を作った。
「それではフェルゼンさま。お送りくださるご厚意に甘えさせていただくついでに、ひとつお願いがあるのですが」
「なにかな?」
彼は要領よく、ラソンヌ医師の診察の予定を話す。
「フェルゼンさまからもお口添えいただければ、医者嫌いのオスカルも、おとなしく診察を受けてくれるでしょう」
彼女の負傷に責任を感じていたフェルゼンは、アンドレの申し出にパッと表情を明るくした。
「ありがたい申し出だ、アンドレ。オスカルには申し訳ないことをしたと思っていた。アクシデントとは言え、けがをさせてしまったのは私だからね」
ジャルジェ家へ向かう前に、彼女を医者に診せる。
その提案を、フェルゼンはふたつ返事で快諾すると、アンドレをうながし車寄せに向かって歩き出す。
「君の彼女への気遣いは本当に行き届いているな。
感心するよ」
屈託ない笑顔で話しかけてくるフェルゼンに、彼は滑る足元を気にするふりで、わざと歩みを遅らせた。
つい先ほど、彼女とくちづけを交わしていた男を直視するのは、まだ痛すぎる。
「いえ、私など。それにフェルゼンさま。オスカルの負傷はあなたのせいではありません。元はと言えば」
「君が寝返ったから?」
「…はい」
フェルゼンは、自分以上に深い自責を感じている様子のアンドレに、心中くすりと笑った。
なんと不器用な恋人たちだろう。
お互い恋の淵ギリギリまで近づいているくせに、飛び込めずにいる。
王妃への道ならぬ恋に生涯を捧げる覚悟を秘めながらも、決して報われることのない想いを様々な女との情事に紛れさせているフェルゼンには、そんな2人が、思わず忍び笑いを漏らしてしまうほど可愛いらしく見えた。
まるで10代の恋のように。
「確かに君の寝返りは、彼女にとってかなりショックだったらしい」
「そう…ですか」
「でも悪いことばかりでもないようだよ」
「はい?」
「そのショックが引き金となり、気づいたこともあるみたいだから」
「…?」
フェルゼンが最後に付け加えたひとことは、運悪く、ざくりと霜を踏む音にかき消され、さだかには聞き取れなかった。
「フェルゼンさま?」
「なんでもないよ、アンドレ。私の口からはまだ言えないな。ジャルジェ家に戻ったらオスカル自身に聞くといい。きっと彼女も話したがっている」
フェルゼンのもったいぶった言い回しと、先ほどからの妙な含み。それは、努めて冷静さを装う彼の神経を、チリチリと刺激した。
『私の口からはまだ言えないな』
オスカル・フランソワの想いを尊重し、この大切な告白は彼女自身から直接彼に告げるべきだとフェルゼンは気を使ったのだが、残念ながらアンドレには、そうは聞こえなかった。
フェルゼン伯からは言えない、でもオスカルが俺に言いたがってること。
彼には1つしか思い当たらない。
『アンドレ、聞いてくれ。大切な話がある。実は私、今日フェルゼンと…』
しかし。
俺の気持ちを知っているあいつが、そんなことを言うだろうか。
自問して、そして彼はすんなりと答えを出す。
言うな、あいつは。
アンドレの想いを知ったあとも、親友・良き兄としてだけの彼を求め、平気で胸に顔をうずめてきた彼女。
おまえはいつだって、俺の想いには冷酷だった。
それでも諦め切れなくて、望まれるまま兄を演じてきたけれど。
彼は落としていた目線を足元から上げる。
緩く弧を描く車寄せへの通路。
その先に、うずくまっている彼女の姿が見えた。
え!?
「オスカル、どう‥」
いつも通り駆けつけようとし、けれど彼はすんでのところでそれを止めた。少し前を歩いていたフェルゼンが、素早く駆け寄り、彼女の肩を優しく抱いたからだ。
腰に手を回されて、ちょっといやがるそぶりを見せる彼女は照れを隠しているようで、そんな2人は、つき合い始めのカップルそのものに見えた。
そんなところに、割りこんでいけるはずもない。
釘づけになったように立ちつくすアンドレを、彼女が振り返る。
柔らかな笑顔。
やっぱりおまえは残酷なんだな。俺には。
笑い返すこともできず、彼はこわばった表情のまま、目をそらした。
そのあともチラチラと目線を向けてくる彼女を見返せたのは、たった一瞬だけだった。
その一瞬でも、彼にはじゅうぶん痛かった。
3につづく
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