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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【20】

UP◆ 2011/11/23

    晩餐もすみ、用意された客室に引き上げると、オスカル・フランソワはソファに沈みこんだ。
    「疲れた?」
    ドレスのすそを花のように広げて、気だるそうにもたれている彼女。
    「いや、少し酔っただけだ」
    普段なら、あれしきのワインで酔う彼女でないことを、彼はよく判っている。
    朝も早かったことだし、1日慣れない女装で過ごしたのだ。
    きっと疲れているだろう。
    それとも。
    「さっきの話を気にしているの?」
    「あれは……本当におとぎ話なのだろうか」
    彼女は身を起こすと手を伸ばし、彼からワインのボトルを受け取った。
    揺れる、淡い薔薇色の液体。
    最初に客間で主に出されたものは、はとの血のように深いルビー色。
    身重の娘に注がれたそれは、確かにとても美味だった。
    しなやかで、かつ力強い手応えのあるフルボディ。
    彼女は嫌いではない。
    余計な装飾のない味わいは、いかにもこの小さな山あいの村に似合っている。
    とても美味しいと思うし、気に入ったのだが…
    彼女はゆったりとした笑顔を崩さないまま、彼へと目を向けた。
    おまえはどう思う?
    しかし、彼の方もまた、穏やかな表情の中に、なにか納得のいかないような気配を含ませて彼女を見返した。
    記憶にある、忘れがたいほどの美味しさとは、どうも違うらしい。
    思い出とは、得てして美化されやすいもの。
    気にするな、アンドレ。これはこれでなかなかいけるぞ。
    彼女は口もとの笑みに、ちらりとそんな含みを付け足した。
    「これが今日の祭で振る舞われたワインですよ。
    どうです?フランソワーズ
    もてはやされる程のものではないでしょう?」
    シャトーの主が出し抜けに声をかけてきた。
    意地悪な、ちょっと答えにくい問いかけ。
    「これが幻のワインなどと。
    噂ばかりが1人歩きしているのです」
    主は、馬車の中で語ったときと同じようすで言った。
    やはり謙遜ではなく、本当にそう思っているのが伝わってくる。
    彼女はまたひとくちワインを口に含むと、慎重に味わってみた。
    香り、酸味、渋み……うーむ。
    申し分なく美味しいとは思う。
    しかし。
    「なにかが違う気がします。
    これはこれでじゅうぶんに美味しいが…
    どこか、なにかが。まるで本心を隠しているような」
    言葉を探し、でもうまい表現を見つけられずに彼女が黙ると、主の憂いたようすは、なぜだか満足そうな気配に変わった。
    「素晴らしい感性をお持ちだ、フランソワーズ」
    シャトーの主は改めて2人を眺め、そして、まるで子供に語るように話し始めた。
    「むかしむかし、あるところに、若く美しい王子がいたのだそうです。
    王さまは、ひとつぶだねの王子をとても可愛がり、宮廷に集まる名立たる貴族の姫君たちの中から、もっとも優しく、もっとも美しい姫を王子の将来の妃に選び、いつか王位を譲る日を楽しみにしていました。
    王子はある日、宮殿を抜け出し、民の格好をして、煌めく湖と質の良いぶどうが自慢のある村を訪れました。
    決まりごとに縛られる毎日に、嫌気がさしたのです。
    素性を隠して村の自然を楽しんだ青年は、すっかりそこを気に入り、足繁く通うようになりました。
    そして、村の娘と恋に落ちたのです。
    身分違いの恋に」
    主の語り口調から、それがおとぎ話だと判っていたが、彼女の胸はざわつき始めていた。
    この物語の結末に、なぜだか不安を覚えたからだ。
    「王子は娘に身分を明かし、心からの愛を告げました。
    すると娘はたいそう喜んだそうです。
    村から出たこともなく、草花を愛で、立派なぶどうを作ることだけが楽しみだった純朴な娘には、身分の違いがどういうことなのか、ろくに判っていませんでした。
    初めて愛したひとが、自分を愛してくれている。それがただ、嬉しかったのです。
    しかし、世継ぎの王子が名もない村娘を相手にするなど、王さまが許すはずもありません。
    王さまは王子を諫め、婚約者のお姫さまも、王子の心変わりに涙を流しました。
    けれど、王さまやお姫さまが説得すればするほど、王子の心は娘へと傾いていきます。
    豊かではない暮らしの中で、ひたすらに王子の訪れを待つ娘がいじらしく思えてなりません。
    障害のあるその恋に、王子はますます夢中になっていきました。
    王子もまだ、若かったのです。
    しかし、業を煮やした王さまは、とうとう娘を亡き者にしようと刺客を放ちました。
    娘さえいなければ、王子の心が戻ると考えたのです。
    けれど幸運なことに、娘は何度か危険な目にはあいましたが、かすり傷ひとつ負いませんでした。
    娘の身を案じた王子は、湖のほとりに小さな館を建て、娘をそこに迎え入れました。
    そして自らも宮殿を出て、湖の館へ移り住んだのです。
    ままごとのような可愛らしい生活に、王子も娘も、つかの間、幸せな時間を過ごしました。
    王子は娘を喜ばせてやりたくて、素晴らしい指輪をいくつも作らせました。
    ドレスもたくさん作ってやりました。
    宝石など見たこともない娘はたいそう喜び、そのお礼にと、庭の花園を美しく咲かせ、畑では見事なぶどうを実らせて、王子に差し上げました。
    王子はもちろん喜んでくれましたが…
    娘の畑仕事で傷んだ手をとり、そのようなことは召し使いに任せなさいと笑いました。
    そのとき初めて、娘は自分の荒れた手に、美しい指輪が似合わないことに気づいたのです。
    王子は娘が大変な庭仕事をしなくてもよいように、庭師を雇い、ぶどう畑にも小作人を入れました。
    そして娘の気を紛らわせようと、ますます素晴らしい宝飾品を作らせ、ドレスを贈り、ダンスを教えてあげました。
    娘もとても嬉しそうにダンスのレッスンをしていたのですが…
    娘は少しずつ、笑わなくなっていきました。
    花の手入れをしようとしても、庭師たちが飛んできて「奥さまがそんなことをなさっては」と邪魔をします。
    ぶどうの世話をしようとすると、小作人が慌ててやってきて、「お気に召さないことがありましたか」と泣いて謝ります。
    王子が贈ってくれる豪華なドレスも、今までの畑仕事で日に焼けた肌には、似合わないと判ってしまいました。
    だんだんとふさぎこむようになった娘を、王子はよりいっそう着飾らせました。
    だって、今まで王子のそばにいた女性たちは、そうしてやれば皆、大喜びしたのですから。
    けれど、王子もまた、娘を着飾らせれば着飾らせるほど、自分の愛した娘から遠ざかっていくのを感じていました。
    こうして、お互いに深く愛し合っていながらも、王子と娘の心はすれ違っていったのです。
    娘にとってホッとするのは、皆に内緒で手入れしている、陽の当たらないぶどう畑のひとすみにいるときだけでした。
    そんなある日、王子の留守中に、婚約者のお姫さまが館にやってきました。
    もうすぐお誕生日の王子のために、プレゼントを届けにきたのです。
    女官たちが恭しく捧げ持つ美しい絹や、宝剣、珍しい食材は、娘が見たこともないものばかりでした。
    王子が大好きだというワインも、村で作られるものなど比べものにならない有名なものです。
    考えてみれば、娘は王子の好きなものなど、なにも知りませんでした。
    もし知っていたとしても、とても娘に用意できるようなものではなかったでしょう。
    娘は無知で無力な我が身を悲しく思いました。
    しかし、娘が1番悲しかったのは、お姫さまがとても美しかったことでした。
    雪のように白い肌。
    傷ひとつない、すんなりした細い指には、華奢な細工の指輪がよく似合っています。
    きっと王子が贈ったものだろうと、娘にも判りました。
    娘が庭仕事をするのを嫌がった王子。
    こういう意味だったのかと、娘は悲しく思ったのです。
    でも、野育ちの娘には、王子の望む生き方はできません。
    王子の教えるダンスや、読み書きや、貴婦人らしい立ち居振る舞いを懸命に覚えようとしたのですが……
    ついに娘は心を病み、湖に身を投げて死んでしまいました。
    王子のことを嫌いになりたくなかったのです。
    王子を嫌いになるぐらいなら、自分1人が消えてしまいたいと、そう思ったのでした」
    主がここまで話すと、2人の前に新しいグラスが用意された。
    身重の娘が、先ほどとは違うワインを注ぐ。
    「娘が世を去ったあとも、館のぶどう畑では立派なぶどうが収穫されました。
    それはとても美味しいワインになり、少しずつ評判も上がっていきましたが、王子はそのワインを、村人と、娘の縁の者にしか与えなかったといいます。
    そして、娘が誰にも内緒で、最期まで手ずから世話をした陽の当たらないぶどう畑のひとすみ。
    そこで収穫されるぶどうはなぜか、他のぶどうと同じように作っても、はとの血のような立派なワインにはなりませんでした。
    それは、儚く淡い薔薇色にしかならず、器用に生きることのできなかった娘の、涙の色なのだそうです」
    主は静かに語り終えると、2人に新しく注いだワインを飲んでみるよう勧めた。
    グラスの中で揺れる、なんともロマンティックなピンクの液体。
    口に含むと、その外見に違わぬ、華やかで可憐な味わいが広がった。
    なんて素直な飲み口だろう。
    品であるとか風格であるとか、そういったものは微塵もないが、わくわくするような軽やかさが伝わってくる。
    普段、格式張った重厚なものを飲みつけている彼女には、その軽い飲み口がかえって鮮烈だった。
    しかしその華やかさも可憐さも、捕まえようとするとふわりと消えてしまい、あとに残るのは、なんともやりきれない微かな渋みと酸味。
    まるで後悔のような。
    なるほどこれは、彼が忘れがたいと言うのも判る。
    泡沫と終わった村娘の恋のようだった。
    良いワインの定石からは外れているかもしれないが、心に響く逸品と言えるだろう。
    それが流通しないというならば、珍重されるのも判る気がする。
    「こちらのお館を初めて見たとき、ユッセの城を思い出したのだが」
    「そうですね。確かにこの館が建てられたのは、ユッセ城築城と同じ頃のようですよ。
    外観もとても似ておりますし」
    「では、その王子というのは!」
    勢い込んで聞こうとする彼女を、主は年相応の落ちついた笑みでいなした。
    「おとぎ話ですよ、フランソワーズ。
    うら若き乙女が身を投げた伝説など、どこの湖にもよくあるでしょう?」
    「でもこの薔薇色のワインは…!」
    「ええ、このシャトーのぶどう畑のごく一角で穫れるぶどうだけは、なぜかそのような色合いになってしまうのです。
    陽当たりのせいなのか、土のせいなのか…理由は判っていませんが。
    それゆえに『幻のワイン』などと面白おかしく噂されるのでしょう」
    「しかし!」
    なおも言い募ろうとして、それでも彼女は自分で言葉を止めた。
    まったくどうかしている。
    主だって、おとぎ話だと言っているのに。
    彼女はつい、「身分違いの恋」というキーワードに、過剰に反応してしまっていた。
    自分でも過敏だと判っているのに、よくあるおとぎ話だと聞き流すことができなかった。
    もし2人が実在の人物だとしたら、王子は娘亡きあと、どうしたのだろう。
    館で作るワインを、村人と、娘に縁の者にしか与えなかったという王子。
    主がこのシャトーのワインを流通させないのは、代々の主が今も王子の想いを受け継いでいるからなのではないだろうか。
    そして、この童話のようにかわいらしい館の中で、愛ゆえに少しずつ病んでいった娘の気持ちは?
    彼女の心は千々に乱れ、せっかくの晩餐も上の空だった。
    少々酔っているのも、きっと、たしなむ程度に口にしたワインのせいではなく、よくつじつまの合ったおとぎ話のせいなのだ。
    「不安になった?」
    彼女の大きなトランクから、しわのよってしまったブラウスなどを取り出しながら、彼が聞いた。
    身分の差など、少しも知らなかった無邪気な村娘でさえ、その壁を越えることはできなかったのだ。
    彼女が今、何を考えているのか、彼には判る気がする。
    身分の違う者同士が寄り添い合おうとしたら、どちらかがどちらかに合わせるしかない。
    はじめはそれでもいいだろう。
    王子と娘もそうだった。
    つかの間、幸せな時間を過ごし…
    けれど。
    小さなゆがみはだんだんと大きくなっていき、やがて娘を飲み込んだ。
    私たちがそうならないと言えるか?
    彼女はそう思っているのだろう。
    彼はオスカル・フランソワの衣類をクローゼットに掛け終わると、客室で2人きりになってから初めて、彼女に近づいた。
    ソファのうしろから回りこみ、彼女を背中から抱いてみる。
    「大丈夫だよ」
    気休めだと判っていても、そう言うしかなかった。
    先のことなど誰にも判らないのだから。
    彼女が仰ぎ見るように振り返ると、彼が柔らかくくちびるを重ねてきた。
    彼女の気持ちを確認するような、触れるだけのくちづけ。
    これから彼が何をしようとしているのか、自分が何をされようとしているのか。
    それは最後の確認で……始まりの合図だった。
    このくちづけに応えたら、すべてが一気に流れ出す。
    もう幼なじみには戻れない。
    こんなにギリギリになって、彼女は今まで自分が、彼と結ばれるのを避けてきた理由を覚った。
    怖かったのだ。
    彼の人生を変えてしまうことが。
    自分の数奇な運命に、彼を巻きこむのが怖かった。
    彼女のために、当たり前のように、瞳を1つ差し出したひと。
    こんな私のために。
    でも。
    こんな私を欲してくれるのなら。
    閉じていたくちびるを少し開き、彼女は自分からくちづけを深めた。
    彼の首に腕をまわして引き寄せて、どこで息を継いでいいのか判らないぐらい。
    大丈夫だ。
    先のことなど判らないけれど、今はこんなに愛している。
    悲しいおとぎ話を打ち消したくて、珍しく彼女は情熱的にアンドレのくちびるを求めた。
    もちろん彼は、もっと熱くそれに応えてくれて、そして。
    長いくちづけはほどかないまま、彼の手が、彼女の背中に並ぶボタンの位置を探りはじめる。
    指先のもどかしそうな感覚が伝わったあと、1つ目のボタンがぽつりと外された。
    1日、ドレスでぴっちりと整えられていた胸元に、唐突に与えられた僅かな解放感。
    彼女の肩が思わずピクリと揺れる。
    けれどもう、彼は手を止める気はなかった。
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