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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【19】

UP◆ 2011/11/12

    なんであんなにイライラしたんだろう?
    ミスコン本戦が始まったというのに、彼女はそちらに気を取られていた。
    5人になった出場者は、予選のときと同じように1列に並んでいるが、違うのは全員が始めから広場の中央にいることだ。
    それに予選のときよりずっと観衆が多く、距離が近い。
    出場者が観衆からよく見えるようにとの配慮だろう。
    優勝者を予想するイベントも、平行して行われているためだ。
    予選終了直後の下馬評では、彼女がぶっちぎりの1番人気だった。
    本戦に残った娘たちは、皆それぞれ、きれいだったり可愛いかったり。
    けれど、残念なことに服装に気合いが入り過ぎていた。
    ミスコン本来の目的は、若者たちを集めての出会いの場作り。
    そのため祭に来ている若者たちは皆、それなりにおしゃれだった。
    ミスコン参加者ともなれば、自信があるのだろう。
    がっつりおしゃれをしている。
    例年のミスコンならば、それで良かったのかもしれないが…
    残念なことに、今年はオスカル・フランソワがいた。
    付け焼き刃の女装とはいえ、普段からおしゃれしなれている彼女と、祭のために気合いを入れて着飾った娘たち。
    彼女の着こなしに比べ、娘たちにはどうしても頑張った感が出てしまっている。
    そして素材の差。
    村で1、2を争う美人と宮廷で1、2を争う美人では、そもそも格が違う。
    今年のミスコン参加者は、まことに不運だったといえよう。
    そんな断然有利な中で、彼女はすっかり集中を欠いていた。
    なんであんなにイライラしてしまったのだろう?
    落ちついて振り返ってみれば、彼とジゼルはただ話をしていただけ。
    確かにジゼルはちょっとばかり、彼に近づき過ぎではあった。
    しかし宮廷時代には、オトナのマダムたちに、ちょっとエッチにからかわれる彼を見慣れたりもしていたはずだ。
    なにもあんなにイライラする必要はなかったのに。
    彼女は一緒に並ぶ4人の娘たちに目を向けた。
    1番若そうな娘が16~7ぐらい。1番いっていそうな娘でも24~5といったところか。
    あ~。なにをしているのだろう私は!
    なんだかやたらと腹が立って、うっかり参加してしまったけれど…
    みんな若くて可愛くて、勝てる気なんかちっともしない。
    でも優勝しなければワインは手に入らないし、なにより。
    『男女の優勝者がくちづけ』
    って、私のアンドレが公衆の面前で、他の女とくちづけなんて!!
    それは彼女にとって、とても受け入れられることではなかった。
    男子本戦は最終的に3人に絞られて、その中から女神自身がくちづけの相手を選ぶという。
    そんなの、あいつが選ばれるに決まっている。
    さらさらした黒ぶどう色の髪。
    黒曜石のように濡れて輝く瞳。
    人柄を現すごとく、控えめだけれど端正な顔立ち。
    アンドレが選ばれないわけがない!!
    嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。
    普通に考えたって嫌なのに、今宵2人はようやく幼なじみの壁を完全に越えるのだ。
    なにが哀しくてその直前に、他の女とくちづけを交わす彼を見なければならない?
    彼女は己の短慮をしみじみと悔いた。
    「18番?お~い、18番の彼女、どうしたの?」
    いけない!
    司会役のチャラ男に呼びかけられて、彼女は集中を取り戻した。
    自分の番が回ってきていたのだ。
    「18番、大丈夫?」
    このミスコン、なにがなんでも優勝しなければ。
    今までにないプレッシャーを感じながら、彼女はチャラ男に頷いた。
    「じゃ、まず彼女、どこから来たのかと、お名前を。
    あ、おんなじ名前のコがもう1人いるから、フルネームでおねがいね」
    うまくやらないと。
    まずは言葉使いに気をつけて、ごく普通の婦女子らしく…
    「18番です。知り合いがこの村に住んでいるので、今日はかなり早起きして、遊びに来ました」
    誰が聞いているか判らない。
    彼女はベルサイユから来たことは、曖昧にごまかした。
    この辺りは非常に淀みなかったのだが。
    「名前はフランソワー…ズ…」
    早くもここで詰まってしまった。
    『フルネームでおねがいね』ったって、おい!いったい私は誰だ!?
    ジャルジェの名は出したくない。
    なにか適当なものをと思っても、とっさに浮かぶのは、有名すぎる貴族の名字ばかり。
    知り合いといえばそんな貴族しかいないのだもの、当たり前である。
    どうしよう。どうする?
    「18番、どうしたの?緊張しちゃった?」
    くっそぅ……仕方ない。
    チャラ男にうながされて観念した彼女は、実は真っ先に思い浮かんでいた名前を口に出した。
    「名前は…フランソワーズ・グランディエです」
    それは蚊の鳴くような声だった。
    「ん?よく聞こえないよ~」
    フランソワーズ・グランディエ
    「もっと大きな声でおねがい」
    「フランソワーズ・グランディエ!」
    「なになに?」
    「フランソワーズ・グランディエだと言っているだろうが!!」
    名前を言うたびに頭に血がのぼって行くのを感じていた彼女だったが、最終的には耳まで真っ赤になっていた。
    偽名とはいえ、自分の名前にのあとに彼の名字を続けることが、こんなに恥ずかしいなんて!
    しかもそれを大衆の前で叫んでしまい…
    その行為は、恋愛経験値の低い彼女のキャパを超えていた。
    フランソワーズ・グランディエという名前が、脳細胞のひとつひとつに染みていく。
    彼女にしてみれば、フランソワーズ・グランディエはイコール、オスカル・フランソワ・グランディエなのだから。
    見た目、いかにも気の強そうな18番。
    ほかの参加者の自己紹介を、仁王立ち&腕組みスタイルで、険しい表情を浮かべて聞いていたのに。
    それが名前を言うだけで、一転、恥ずかしそうにしだしたのを見て、観衆は大いに沸いた。
    そして、胸元まで真っ赤にして困りきった瞳のくせに『フランソワーズ・グランディエだと言っているだろうが!』と声を張った彼女のドスの効きっぷりに、大半の男たちが萌え死にそうになったのだった。


    あいつ、なんであんなにイライラしてたんだろう?
    男子本戦の村1周Run。
    せっせと走りながらも、彼は集中を欠いていた。
    走り込みなら日々訓練でやらされていて、結構余裕な彼。本気を出せば独走できそうだった。
    でも、村1周といっても円を描いたマラソンコースがあるわけじゃなし、結局は村の中をクネクネと大周りに走るので、彼にはコースがよく判らない。
    先頭グループにまぎれて、様子をうかがっていた。
    沿道にはときどき女の子たちがいて、お目当ての出場者に声援を送っている。
    スタート前に出場者10人の簡単な紹介があったので、彼への声援はドッと増えていた。
    「アンドレ、がんばって~!」
    「こっち見てー!」
    「でも優勝しちゃイヤ~」
    最後のは、彼と女神とのくちづけを阻止したい女心なのだろう。
    可愛らしいやきもちに、彼はクスリと笑った。
    が。
    …やきもち?
    先ほどの、彼女のイライラした態度。
    もしかして、やきもち?
    俺とジゼルに?
    まさか。
    自分の発想をばかばかしく思う。
    オスカルが俺にやきもちを焼くなんて、絶対ありえない。
    それに、ジゼルは友達の妻なのだ。
    邪心を抱くはずないことぐらい、あいつだって判るはず。
    そう思いながらも、彼には少々、引っかかるところがあった。
    ちょっと…ジゼルの声が彼女に似ていたのだ。
    女性にしては低めなその声が、彼女と少し似ていて、ジゼルの色っぽい話し方と重なり、どぎまぎしてしまった。
    今夜の彼女が、寝台ではこんなしゃべり方をするのではないかと。
    また、ジゼルと話していた内容もマズかった。
    お泊まりについての打ち合わせだったのだ。
    彼女にお泊まりOKのお許しをもらってから、正直なところ、彼の意識はかなりそっち側に傾いていた。
    これはもう、仕方ない。
    ずーっとずーっと待たされてきたのだ。
    彼が男だなんて少しも思わずに、安心しきって胸に顔をうずめてくる彼女に、今までどれだけ欲望を抑えてきたことか。
    長く続いた秘密の片思い時代。
    耐えきれなくなってやらかした、強引な告白。
    なんとか親友に徹しようと思っても、彼女への恋心は抑え難く、その裏では、それ以上に抑え難い欲望に悩まされてきた。
    ごく普通の健康な男なら、仕方のないこと。
    シスコンの兄貴を装いながら、突き上げてくる熱いものを自己調整で乗りきってきた彼。
    それは思いが通じ合ってからも変わらなくて。
    愛しあっているなら、体を重ねてみたい。
    その気持ちは切実だった。
    片思いならまだ諦められるけれど、お互い愛しあっているはずなのに…
    なかなか許してくれないお姫さまに、最近では過ぎた望みなのかと弱気になり始めていたのだ。
    それだけに『今度こそ本気だから』と言われたその言葉に、彼が囚われるのも仕方ない。
    お泊まりの打ち合わせをしていても、今夜すべてをくれるという大切な恋人を、ついチラチラ見てしまい…
    「なにデレデレしてるのよ、スケベ♥」
    と、ジゼルにさんざんちゃかされたのだった。
    でも。
    そのお楽しみな今夜も、このイベントで優勝しなければお流れになりかねない。
    なにより、ほかの男とくちづけする彼女なんて、見たくもない。そんなのアランだけでたくさんだった。
    「スケベなアンドレ~♥」
    考えごとをしながら走る彼の息が上がり始めた頃、沿道にジゼルの姿が見えた。
    「がんばってぇ!ここから先は一本道よ~
    ゴールはもうすぐよ~」
    よぉし!
    ジゼルのアドバイスに、彼は一気にスパートをかけた。
    先頭グループを置き去りに、ぐんぐん加速する。
    独走態勢でしばらく走ると、ゴールテープとクジ引きの箱が見えてきた。
    その箱の中に入っている番号の丸太の早切りをして、最終ステージに進める3人が決まるのだ。
    できればなるべく細い丸太に当たりたいものだが。
    ゴールに飛びこんだ彼は、息を切らせながら、クジ箱から数字の書かれた木片を取り出した。
    「1!?」
    ゴールの奥の広場に、適当に転がっている丸太を手早く見てまわる。
    村の入り口にあるその広場は、すでにたくさんの女の子たちが取り囲んでいたが、彼には目に入らなかった。
    自分に飛び交う黄色い歓声も、聞こえていない。
    いや、見えてはいたし、聞こえてはいたが、彼女と比べたら、みんなカボチャやジャガイモだ。
    まったくもってどーでもよかった。
    1ってどれだ?1…1…
    なんとなくイヤな予感がして、彼は転がっている丸太の中から、ひときわぶっといものを確認してみた。
    ゴロリと押すと、隠れていた焼き印が見える。
    そこには。
    「マジかよ!!」
    1とは『1番太い』の1だったのか!?
    彼は自分の不運を呪った。
    女神のステージまで進めなければ、愛する人はほかの男とくちづけしなければならない上に、機嫌を損ねた彼女が早々とベルサイユに帰るなどと言い出しかねない。
    ああ、神よ。
    突然ひざまずいて祈りだした彼に、周囲の女の子たちは軽く引いた。
    神よ、俺にはまだヤリたいことがある!
    彼はやおら立ち上がると、丸太の横に置いてあるノコギリを手に取った。
    幸いほかの参加者はまだゴールしていない。
    とにかく誰よりも早く、この丸太をぶった切ればいいのだ。
    「ぬおぉぉぉ~!」
    彼はいつもの慎ましやかな従僕づらをかなぐり捨てると、猛然とノコギリを引き始めた。


    村祭りで1番盛り上がるイベントが、1番盛り上がる瞬間を迎えていた。
    ところは、教会近くの中央広場。
    今年の湖の女神が、3人の男の中から黒髪の男の手を取ると、広場は一気に沸いた。
    ワインの樽が解放されて、賭けを的中させた客たちにふるまわれる。
    やがて観衆の中からくちづけコールが上がり始めると、男は女神の頬に軽くくちびるを触れさせた。
    「なんだ、これだけか」
    頬へのくちづけに、彼女ががっかりしたような声をあげる。
    ジゼルとシモンのくちづけは、超濃厚だったと聞いていたから、くちびるにするものだとばかり思っていた。
    「つまらん。くちづけというからには、くちびるだろうに」
    そう言った彼女に、彼は苦笑した。
    人ごとだからそんなことを言ってられるんだよ、オスカル。
    2人は人の輪から離れたところで、女神とナイトのくちづけを眺めていた。
    「2人して落選するとはね」
    「まったくだ」
    そう。
    幸か不幸か、2人はどちらも勝ち残ることができなかった。
    名誉のために言っておくと、彼は結構頑張った。
    ぶっとい丸太相手にかなり健闘したのだが、あとから来た者が小枝を引き当てたりして、簡単に追い抜かれてしまった。
    それでも、勝負下着姿の彼女を思い浮かべて、その突き上げる衝動を丸太へとぶつけ、なんとか3位は死守できたように見えたのだが。
    「同着!?」
    ほぼ同時に丸太を切断し終えた者がいて、結局コイントスで負けたのだ。
    彼の脱力感は半端ではなかった。
    実力で負けたならともかく、確率50%の運の無さで負けるとは!なんで裏を選ばなかったのか、俺のバカ!!
    悔やんでも悔やみきれない。
    もう少しで彼は森へと走って行き、草原に身を投げて下草などをむしりながら、泣きむせぶところだった。
    アンドレを応援していた女の子たちが次々に慰めとねぎらいの声をかけ、このあとのデートに誘ったが、今の彼にはカボチャ語やジャガイモ語は通じない。
    ちっとも慰めにはならなかった。
    しかし。
    「お疲れだったな、アンドレ」
    不意に、馴染んだアルトが耳に入ってきた。
    「オスカル!?おまえ、なんでこんなところに。
    ミスコンはどうした?終わったのか?」
    矢継ぎ早に彼が聞くと、彼女はふてくされた顔をした。
    「失格になった」
    「失格!?おまえ、なにをしたんだ!」
    オスカル・フランソワの名誉のために言っておくと、彼女も結構頑張った。
    理想の男のタイプだのスリーサイズだの、将来子供は何人欲しいかだの、ミスコンやカップリングイベントにありがちなさまざまな質問に、かなり頑張って答えた。
    中には、チャームポイントはどこだだの、湯浴みではどこから洗うかだの、こっぱずかしい質問もあったが、彼をほかの女とくちづけさせるぐらいなら、恥ずかしさなど屁でもない。
    しかし、最後の問題を彼女は蹴ってしまった。
    それで失格になったのだ。
    「最後のって?」
    「……告白」
    若者たちの出会いが真の目的のこのイベント。
    もし今回の村祭りで気になる男性ができたら、どんなふうに告白するか、チャラ男相手に演じるというのが最後のテーマだった。
    どの娘たちも可愛らしくこなしていて、そのたびに観衆からはヒューヒューと声があがったのだが…
    『じゃ、次。フランソワーズ・グランディエ、どうぞ~』
    そう言われた瞬間、彼女はキレた。
    『そんなこと、できるか!』
    この先2人が結婚することは、おそらくないだろう。
    でも、気持ちだけは彼の妻だった。
    今宵にはいよいよ、身も心も、全部を彼に捧げる覚悟でいる。
    そして今は成り行きとはいえ、グランディエと名乗っているのだ。
    例え冗談だとしても、ほかの男に愛など告げられるか!
    「え~!でもフランソワーズ、このままじゃ失格になっちゃうよ?」
    「上等だ。私の告白は、愛する男以外に聞かせるつもりなどない」
    挑戦的に、ニヤリと微笑みながらそう言い切った彼女。
    観衆の大半が再び萌え死に、広場はどっかんどっかん沸いた。
    けれど彼女は、その場で即座に失格となったのだ。
    「せっかくワインが手に入るところだったのに。
    バカだな、おまえ」
    彼はそう言ったけれど、その顔はどこか嬉しそうだった。
    彼女の方も、慣れないことをしてちょっとスリ傷を作ってしまった彼の手を見て、頑張ってくれたんだと、満ち足りた顔をしている。
    ワインは残念だったが、結果オーライといったところか。
    広場はミスコンがきっかけでできた即席カップルたちが、陽気に歌いながらダンスなどを始めていた。
    「行くか?」
    「うん」
    2人はしっかり指をからめて手をつなぎ、踊りの輪の中に入っていった。
    事実上の男子1位と、女子1番人気のそろっての登場に、皆、なんとなく場所をあける。
    やがて、祭ハイと振る舞い酒でごきげんさんな人々のあいだから、ジワジワとくちづけコールが湧き上がってきた。
    「はあぁぁぁ!?」
    優勝したわけでもないのに、なぜ私たちが!?
    ついさっきまで、『つまらん』などと言っていたくせに、盛大にうろたえる彼女。
    「いやなの?」
    「そんなことは」
    「なら、いいんじゃない?」
    「…おまえがそう言うなら」
    頬にくちづけぐらいでガタガタ言うのも、おとな気ないか。
    彼女は伏し目がちになると、彼に向かって愛らしく頬を差し出した。
    「おお~~」
    周囲から、期待を含んだ歓声が漏れる。
    鈍感な彼女はち~っとも気づいていないが、取り囲む即席カップルたちからは
    「よしっ!頑張れ、アンドレ!
    いけ!くちびるだ!!」
    という無言の圧力がかけられている。
    あわよくば、それに便乗しようという魂胆なのだろう。
    彼は軽く手を上げ、皆に応えると、恋人の頬をすくった。
    え?
    黒い瞳が近づき、彼女の視界が、こぼれ落ちた黒髪で暗くなる。
    なん‥で?
    そう問いたかったけれど、彼女はなにも言えぬうちに、しっとりとくちびるをふさがれていた。
    うそ…だって、えぇっ!?
    疑問符だらけになり、彼女の心は暴走しそうだった。
    「いや?」
    つかの間触れ合わせたくちびるを離して、でも額が触れ合うほどの至近距離のまま、彼が聞いてくる。
    ああ。ほら、だめだ。
    この瞳を見ちゃ。
    そう思っているのに、目をそらせない。
    「いやじゃないだろ?」
    まずい。これはいつもの展開だ。
    ちくしょう。
    このままじゃ…負ける。
    彼女は精神的抵抗を試みたが、結局それは無駄なことだった。
    隠しておいた欲望も、すべて見透かすようにのぞきこんでくる黒い瞳。
    そして360度取り囲まれてのくちづけという異常事態に、彼女の気力は一気に消耗していく。
    なんだかひどくボーっとしてきて…
    汚いぞ、アンドレ。こんなの不可抗力だ。
    そう思っているのに、再び降ってきたくちびるに押し包まれると、彼女にはもうどうすることもできなかった。
    長身で黒髪の男が、ちょっと強引に金髪美女のくちびるを奪う。
    それは、この先数年は祭の語り草になりそうなぐらい、絵になる光景だった。
    『ほんのちょっとで良かったんだ。
    街中を、誰にはばかることもなく恋人同士として歩いてみたいと。
    そうしたら、これからもがんばれるから。
    一生に1度ぐらい、そんなささやかな欲望が叶ったっていいじゃないか!』
    恋人の時間に、そう言って秘密の恋の苦しさを吐き出した彼女。
    『私にだって、みんなの前で好きな男を『私のもの』だと言いたいときもあるし、逆にそう言われたいこともあるさ』
    その言葉は、彼こそが言いたかったものだった。
    身分をわきまえた従僕の仮面の下で、いつも抑えていた欲望。彼女を自分のものだと言い放ち、縛りつけたい独占欲を。
    でも、この夏の1日だけは違う。
    2人はただの恋人同士。
    誰に遠慮することもなく、彼は彼女のもので、彼女は彼のもの。手をつないで歩いて、みんなの前で…
    「いかがです?お嬢さま。
    お望み通りのくちづけ、堪能していただけましたか?」
    彼がそう囁くと、彼女はまだぼぉっとした瞳のまま、こっくりとうなずいた。
    それは、彼がいとも簡単に主導権を奪い返した瞬間だった。


    イベントのあとも、大道芸を見たり、露店の食べ歩きをしたり、2人は年がいもなくはしゃいで過ごした。
    ことに彼女は楽しそうだった。
    なんだかんだ言っても、お嬢さま育ちのオスカル・フランソワ。田舎の村祭りなんて、珍しくて仕方ない。
    たいした催しでもないのに、彼女にはすべてが興味深かった。
    手をつないで歩き、ときおり思い出したようにくちづけを交わす。それはベルサイユに戻ったら、絶対にできないこと。
    湖が夕陽に染まるまで、2人は夏の1日を惜しみつつ大切に過ごした。
    ささやかな夢の1日を。
    しかし陽はだんだんと沈んでしまい、やがて山の端に消えた。
    祭のあとの寂しさが、胸にしみてくる。
    彼は恋人の気を引き立たせるように言った。
    「今日はあそこに泊まるんだよ」
    指差す先には、湖に浮かぶ童話のような館。
    昼間、ジゼルを通してシャトーの主から、晩餐の招きを受けていたのだ。そして、馬車も預かっていることだし、良かったらそのまま泊まっていくといいと。
    ミスコンのどさくさで言い忘れていたそのことを教えると、彼女は気を惹かれたように館を見やった。
    湖を横切る華奢な橋。水面に映りこむ月。
    2人指をからめて、軋んだ音をさせながら渡りきると、シャトーの執事が迎えてくれた。
    もうすぐ晩餐の支度が整うからと、主の待つ客間へ通される。
    外観に違わず、館の中も、どこか素朴であどけない趣があった。
    招待への感謝をそつなく述べる彼と、傍らで優美な礼を見せる彼女。
    主は美しい来客に、鷹揚に笑いかける。
    「食事の前に、こちらはいかがですか?
    あなた方が手に入れ損ねたワインですよ」
    「いただけるんですか!?」
    予想もしていなかった幸運に、2人の表情が華やいだ。
    荷馬車の故障の際に見かけた身重の娘が、グラスを2人の前に置く。
    そして主は、このシャトーのワインにまつわる、悲しい伝説を語り始めた。
    身分違いの恋人たちのその物語に、2人はすぐに引きこまれたのだった。
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