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【10】
UP◆ 2011/8/23その日の晩餐が終わると、アンドレはマロンに促され、屋敷での仕事をそっと離れて彼女の部屋を訪れた。
いつもなら酒を乗せている銀のトレイには、今夜はマロン特製の軽食の小皿が2つ3つ並んでいる。
それらをテーブルに置くと、彼は肘掛け椅子に座りこんだ。
彼女は今夜も窓辺に立ち、外を眺めている。
食事にほとんど手をつけなかった彼女が、彼には気にかかっているが…
でも今は、自分の受けたダメージの回復を優先した方が良さそうだった。
談話室での仕事仲間たちの猛追。
のらりくらりとそれをかわしていた彼だったが、
男同士ならではの赤裸々なつっこみと妄想。
「やっぱりオスカルさまは◆□*のときは¢★△@なのかな」
「いや、ああいうタイプは意外と※◇£で☆&▲¢∞じゃないか」
こんな話、とても彼女には聞かせられない。
「おまえら、オスカルで妙な想像するんじゃない!」
「出た、シスコン」
「そういうアンドレは、想像しちゃったりしないわけ?」
「そ…れは…」
たぶん今、談話室にいる男の中で、オスカルに対して1番過激な妄想を抱いだいているのは…俺。
そう思うと言い返す言葉にもキレがなくなり、吊し上げをくっている間じゅう、彼は防戦に終始した。
彼だって、屋敷の仲間や衛兵隊の仲間と飲みに行ったりする。そこでかわいい女の子やナイスバディで色気のある女を見れば、やっぱりみんなとイロイロと盛り上がる。
それは健康なオトコの習性で。
だから、降って湧いた彼女の恋愛騒動に男連中が色めき立つのは判らなくもない。
だが、判っていたって彼女で妄想されるなんて冗談じゃなく、しかも意見まで求められ…
それは彼にとって想定外のダメージだった。
ああ、ほんっとに参った。
今ならくちづけの最中に寝落ちした彼女の気持ちも判る。
「疲れているようだな」
気がつくと、彼女がすぐ横でちょこんとしゃがみこんでいた。心配そうな顔をして、じっと見ている。
そろえた膝の上にあごを乗せて、心持ち首をかしげた様子が愛らしい。
それだけで、彼は気分が上向きになってくるのを感じた。単純なものだ。
「さっき談話室に行ってきたんだけど」
彼はあえて朗らかな声音で話しかけた。
もちろん、良いことだけを教える気でいる。
「オスカルさま不倫説は、あの夜、談話室にいた者たちだけの秘密になっているらしい。
使用人同士の結束は固いから、たぶんだんなさまの耳にも、奥さまの耳にも入ることはないと思うよ」
「そうか!よかった」
彼女はぱぁっと表情を明るくした。
やはり父親に知れるのは、彼女にとっても1番の心配ごとだったのだ。
「それから12日の行き先は湖に決定だ。いいね?」
言いながら彼は席を立ち、彼女の手を引いて長椅子へと場所を移した。
彼女を深めに座らせて、その隣へ浅く座り、ちょっと囲いこむ態勢。
マロンが用意した軽食をつまむと、彼はオスカル・フランソワの口に運んだ。
晩餐の席ではちっとも食べようとしなかったくせに、彼女は機嫌よく食べ始めた。
「おばあちゃん、心配してたぞ」
「だって…おまえも見ていただろう?あの状況。
食事などできるものか」
確かに。
今日の晩餐はちょっと異様だった。
給仕にあたる使用人の数が尋常じゃなかったのだ。
理由はひとつ。
オスカル・フランソワに近づけるから。
いくらジャルジェ家に勤めていたって、誰でもが彼女のそばに仕えられるわけではない。
やはり次期当主。
彼女付きの侍女は皆、ある程度の出自で教養もあり、容姿もよい者ばかり。屋敷に多数いる侍女たちの中でも厳選された顔触れで、そこに割りこむのは難しい。
希望しながらも彼女付きからあぶれた者は、廊下でたまたますれ違うとか、お見送り・お出迎えに紛れこむとか、わずかな機会にしか彼女と接触を図る手段がない。
屋敷に勤める男性の使用人にしてみれば、そのありようはともかくとして彼女は美しき令嬢であるし、女性の使用人にしてみれば憧れのオスカルさまである。
その彼女が人目をしのぶ苦しい恋に涙しているとなれば、雲の上の人だったオスカル・フランソワが人間らしく思えて親近感も湧き、声のひとつもかけてみたくなるというもの。
その日の晩餐には談話室の秘密メンバーが押しかけ、こぞって彼女への給仕にあたりたがった。
使用人たちのこの行動は、彼女にとってまさに不意打ちだった。
平素であれば彼が務めてくれる給仕なのに、次々と違う者が現れる。
それだけでも落ちつかないのに、料理やカトラリーなどの上げ下げをするたびに、こそりと囁いていくのだ。
「おかわいそうなオスカルさま。お察ししますわ」
「今度の逢い引き、私もお供にお連れくださいませ」
「お気持ちは判りますけれど、不倫なんて!
オスカルさまのお名に傷がつきますのよ」
「お相手の殿方、実は相当にハゲあがったブサイクだということですけれど…
どこが良かったんですの?」
「実はわたしの片思いの殿方にも、奥さまやお子さまがありますの。さだめとはいえ切ないですわ。ううっ、レニエさま…」
入れ替わり立ち替わり、こうもさまざまなことを囁かれては、おなかがすいていても食べる気になんかならない。
晩餐の間じゅう、彼女はご親切な言葉責めにあい、ヨロヨロになりながら部屋に戻ってきた。
アンドレがすぐに来てくれて良かった。
ばあやに手を回しておいた私、グッジョブだ。
彼女は自分から少しばかり彼にすり寄った。
ああ、落ちつく。
しかし彼の方はそうはいかなかった。
頃合いをみて、今度の休日をどう過ごしたいのか…ぶっちゃけその気はあるのかを、それとなく聞こうと思っていたのに。
こんなふうに彼女から体を寄せてこられたら。
イイのかと思っちゃうだろ!
とはいえ彼もそうおめでたくはない。
朝には馬車の中で盛大な肩透かしを食っている。
自分にブレーキをかけながら、さりげなく、かつ慎重に話を切りだした。
「12日のことだけど。行き先は湖に決定として…」
「なんだ?」
「前にも言ったと思うけど、少し遠いんだ」
「私はかまわないぞ?久しぶりの遠乗りで楽しみなぐらいだ」
「そう」
本当に楽しみそうに、にこにこ笑って答えた彼女。
普段ならここで引くアンドレだったが、晩餐前の吊し上げで煽られた妄想が彼を後押しした。
「でもっ!
きれいなところらしいし、慌しいのもなんだし!!
おまえがよければ…
1泊ぐらいしてもいいかな、なんて思ってるんだけど」
彼はまた彼女の口に軽食を押しこみ、反応を見た。
商談をするときは、おいしいものを食べながらだと上手くいくって聞いたことがあるけれど…
「1泊?」
彼の勧めるまま、ずれこんだ食事を取りながら、彼女はつぶやいた。
休みを延長するのは今のところ問題ない。
どうせ行くならゆっくりできた方がいいような気もする。
「おまえがそう言うのなら、私はそれでいいけれど」
「本当に!?」
彼女があっさりとそう答えたので、彼はかえって驚いた。
オスカル、本当に?
「おまえのことだ。休日の遠出で私を疲れさせては職務に障るとか、体によくないとか、どうせそんな心配をしているのだろう?」
チクリ。
彼女の言葉に軽く胸が痛んだ。
「ま…まぁね」
そんなこと、ちっっとも考えてなかった。
「おまえはいつでもそんなふうに私のことを思ってくれて。
でも私はずっと長いあいだ気づかずにきて…今さらだけれど、すまなかった」
チクチクチク。
彼女が急に言いだした台詞が、小さなとげになって刺さってくる。
やめてくれ~!俺、今日1日、おまえには言えないようなことばかり考えてたんだから!
しかし彼女はそんな彼の胸中を察することなく、言葉を続けた。
「心優しくあたたかい男性こそが、真に男らしい男性なのだと気づくとき、たいていの女はすでに年老いてしまっている…と。
よかった…
すぐそばにいて私を支えてくれる優しい眼差しに、気づくのが遅すぎなくて」
彼にすり寄り体重をあずけ、いつになくしっとりとそんなことを言う彼女に、アンドレの胸はチクチクと痛みまくった。
やめて、オスカル。本っ当にやめて。
これじゃソレばっかり考えてる近頃の俺が外道みたいじゃないか!
「だがアンドレ。泊まりがけで出かけるには問題がある」
「問題?」
話にテーマを与えられ、彼は一変、集中した。
「できれば私たちの不在は父に知られたくない。
まぁ、普段から仮眠室に泊まることも多いし、それほど神経質になることもないとは思うが」
仕事がら夜勤などもあるし、彼女が屋敷に戻らない日はけっこうある。
彼女が戻らない日は当然アンドレも戻らないのだし、それに関してはそこまで神経質になることはないと彼も思う。
「だんなさまが視察からお戻りになるのは13日だったな。
何時ごろだろう?」
「うん…」
「どうかしたのか?」
なんとなく歯切れの悪い彼女の様子。
「父上の方は、正直なんとでもごまかせると思っている。
それよりも…
私が1晩屋敷をあけるとなると、ジュリやエマが」
そして秘密のメンバーたちも。
「ああ」
談話室では想像もしたくないような騒動になるだろう。
「な?」
彼女の弱りきった顔。
こんな表情を見せられたら、浮かれた気分でお泊まりデートになんて誘えない。
けれど。
「だからアンドレ」
彼女は寄りかかっていた身を起こすと、彼を真正面から見た。
「おまえに相談がある」
キタ―!!
内心彼はそう思った。
ちょっと心拍が上がってくる。
「一緒に考えて欲しい。
私にはおまえしかいないから」
彼女はおねがいする瞳で彼を見上げている。
オスカル・フランソワ自身は気づいていない、彼女の1番かわいらしい表情。
この瞳に弱くて、彼は幾多の無理難題を引き受けてきたのだ。
そしてこれから彼女が言いだす難題が、もし彼の気持ちと重なるものだったら?
「なんでも言ってくれ」
期待の高まりを隠しつつ彼は促す。
「ここ2~3日、考えていた。
いい年をして少々恥ずかしくもあり、言おうか言うまいか迷ったのだが…」
「だが?」
「抑えてきたけれど、私もがまんの限界だ」
少々恥ずかしいが、抑えてきた限界。
ってなんだよ!
じれったくて、期待感に気がはやる。
早く言ってくれ。
「やられっぱなしは
「ヤラれっぱなしって、オスカル、おまえ!?」
彼は一瞬、言葉が出なかった。
「あのガキ。いや、あの娘」
へ?
「このところ兵舎も落ちついていたし、おおむね平和な毎日が続いていたというのに!
あの娘のおかげで私の日常がどれほど乱されたことか!」
「あの娘って、エマ?」
「他に誰がいる!」
「控え目でおとなしいジュリまでがおかしな影響をうけて、妙な迫力を身につけて。
昨日私がどんな思いをしたか判るか?」
侍女たちに取り囲まれ、ねちねちと尋問された彼女。
女特有の責め方に、女の才能がないと自覚するオスカル・フランソワが舐めさせられた辛酸。
彼女のその気持ちは、仕事仲間たちにさんざん突つき回されたあとの彼にはよく判る。
「私もいい大人だから、あんな小娘相手にどうこう言うのも恥ずかしくてがまんしてきたが、もうそれも限界だ!」
オスカル。おまえ…そういうことかよ。
彼の脱力感は半端ではなかった。
「あの娘はどうやら仕事仲間を味方につけたようだ。
でも私にはおまえしかいないから。
頼む、アンドレ。
もっとも効果的な報復を一緒に考えてくれ。
今日の晩餐で私は完全にキレたぞ。
やられっぱなしでいられるか!」
おまえに期待した俺がバカだった。
彼女の相談を聞いて、彼はつくづくそう思った。
子供の頃からその怜悧さで感嘆されてきた彼女。
たった14で男社会に放りこまれ、傷つきながらもここまでやってこれたのは、
けれど。
完璧な人間なんていやしない。
外向けに完璧であるほど、彼女は彼の前ではぬけたところを見せる。2人が特別な関係になってから、それは顕著になっているようだ。
そうだった。こいつはこういう奴だよ。
期待したぶんの反動を、彼は自答しながら納得させた。
子供の頃から大人でいなければならなかったから、きっとそういう方面にしかおまえの脳みそには栄養がいかなかったんだ。
男女の機微や駆け引きには、どうせ1滴の養分も与えられてやしない。
「はぁぁ」
ダメだこりゃ。
『ご褒美の夏』どころじゃない。
彼女を女性として咲かせようとする前に、種を蒔く段階からやらなければならないらしい。
なんと手のかかるお姫さまだろう。
かわいらしい顔をして、オトコの心理をちっとも推し量ってくれない彼女に腹立ちさえ感じてきた。
このまま寝室へ引きずりこんで、押し倒してやりたい気分になってくる。
しかし、前科のある彼には、もうそこまで強行なことはできなかった。
…落ちつけ、俺。
1度目の過ちを許してくれた寛容な彼女の信頼を、裏切ることはしたくない。
やっと恋人同士になれたのに、根底の部分ではまだ兄弟気分が抜けきっていない彼女に、彼のジレンマは募る。
「アンドレ?」
返答の遅い彼を、彼女は何気なく見上げるが
ほら、この瞳!
彼はその無邪気な目を間近に見て、自分の中のごちゃごちゃを一気に全部片づけた。
…ダメだ。かわいすぎる。
「エマに報復したいわけね」
自分の弱さに半笑いになりながら、彼は答えた。
結局彼女のおねがいには応えなければならない運命なのだ。
空回りさせられた欲望に、どんなに脱力していたとしても。
「まずはだな、アンドレ」
彼がようやく協力する姿勢を見せたので、彼女はここ2~3日考えていた報復のパターンを披露しようとした。
そのとき。
「オスカルさまぁ?」
ノックの音と共に、無遠慮な明るい声がした。
この声!
彼が鍵をあけると、入って来たのは小さなワゴンを押したジュリとエマとエリサだった。
こいつら、またしても大事なときに!
さっさと用件を聞き、早々に追い返そうと彼女が口を開くのと、エマがしゃべり始めたのが同時だった。
「お食事中でしたのね!ちょうどよかったですわぁ」
エマは押してきたワゴンから、小さな器をいくつか取りだした。
まずはひとつを彼女の前に押し出す。
「これを召し上がってみてくださいませ」
「これは…?」
なにやらぷるぷるした、赤いジュレのような?
とりあえずひとくち食べてみる。
「…
ぬるりとした食感と奇妙な味に思わず吹いた。
「も~、オスカルさまったら!
コレ、けっこう高価なんですよぉ?」
「なんなのだ、これは」
「私が父に頼んで、急ぎ届けさせたものですわ」
「おまえの、お父君?」
「ええ。家自体は商家なのですけれど、父自身は少し前までイギリスで医師をしておりましたの。
持病が悪化して、今は療養中ですけれど」
「それで…これはいったい?」
「東洋から伝わる妙薬ですわ。なにか亀のような生き物をどうにかして抽出したエキスをなんかしたやつみたいです。
それをジュレに仕立てましたの。
美肌効果がすごいんですって。
今日から毎日召し上がれば、逢い引きの頃には曲がり角を過ぎた30過ぎのお肌もツヤツヤにおなりですわぁ」
きさま!
エマの言いようが、どストライクに癇に障った。
よほど私に報復して欲しいようだな。
よかろう。身も凍るような恐ろしい目にあわせてやろうではないか。
…でも。
エマの言うことには気が惹かれた。
『逢い引きの頃には肌がツヤツヤ』
職業がら、陽射しや雨風にさらしっぱなしの肌。
そう衰えているとは思いたくないが、でもお出かけのときにはきれいでいたい気がする。
…おまえのために。
そぉっと様子をうかがえば、彼もまんざらではないような。
彼女は気を取り直し、もうひとくち、ジュレを口に運んだ。
うう。やっぱり気持ち悪い。
「いかがです?オスカルさま?
ちょっとクセのあるお味ですけれど、でもきれいなお色でしょう?
亀だかなんだかの生き血の色らしいんですけど」
「ぷはっ!」
彼女は本格的に吹いた。
「ちょっとオスカルさま!
コレ、ホントに高価でなかなか手に入らない妙薬ですのよ?」
そんなこと私が知るか!
激しい拒否感を見せる彼女に、エマは別の器を押し出してきた。
「これは…?」
「こっちはカエルを」
「もういい!」
「でも、これらを毎日召し上がれば、逢い引きの頃にはハリとツヤでぷるっぷるのお肌になりますわよ?
他にも髪によいものなど、いろいろご用意しましたのに」
だからと言って生き血やカエルなど…
顔色悪く首をふる彼女を見て、エマは矛先を変えた。
「アンドレは?」
「俺?」
「気合い入れたデートで、もし恋人がいつもよりもツヤツヤでぷるぷるだったら嬉しくない?」
ぷるぷるな…オスカル。
脊髄反射で想像した。
そんな。
そりゃマズイって。
「ほぉら、オスカルさま。
殿方はみんなツヤツヤでぷるぷるが好きなんですわぁ」
そうなのか?
でも、そうだとしても…ああ、生き血。
彼女は困り果て、助けを求める目線をジュリに送った。
しかし、ジュリはさっくり目線を外して意外なことを言い出した。
「さぁ、アンドレ。そろそろお引き取り願えないかしら」
「なんで!?」
「オスカルさまはこれからお湯浴みなの。
今日はあたしがお世話係だから」
「…湯浴み」
そう言われては、彼も彼女もどうしようもない。
ジュリのひとことで、まだろくに話せていないのに、彼はまたしても彼女の部屋から追い出されることになった。
扉を確実に閉め、彼が退出すると、エマがまたしてもワゴンから何かを取りだし始めた。
瓶のようなものや、ポプリのようなもの…?
それらをフリルいっぱいの布バッグに詰めると、きらきらした目をしてにっこり笑った。
「さぁて、オスカルさま。お湯浴みに参りますわよ」
「え”?ジュリだけじゃなく、おまえも一緒に?」
「行けば判りますわぁ。
あ、エリサさん、それらの妙薬はさげないでくださいね。
あとでオスカルさまに全部召し上がっていただくから」
げっ!
部屋の後片付けを始めたエリサに、にこにこと言いつけるエマ。
洗濯係のエリサがこんなことをしているのも、レニエ付きのエマがここにいるのも、きっと使用人同士が結託した思惑があるのだろう。
湯殿で何をされるのか。
軽い恐怖を覚えながら、彼女は2人の侍女に
部屋ならまだしも、湯殿では絶対にアンドレの助けは望めない。
どうしよう。
今のうちに逃げてしまおうか。
若干歩みの遅くなる彼女だったが、それを見越したようにジュリが優しく手を引いた。
「大丈夫ですわ。何も怪しげなことをしようというわけではありませんの。
ただ、エマの持参した香油が素晴らしくて!
お試しになってみれば判りますわ」
湯殿に着くと、ジュリは手際のよく彼女のブラウスを脱がせると、コルセットの紐を解き始めた。
豊かな髪に絡まぬように、エマが彼女の髪を軽くまとめてたくし上げる。
「休憩時間に談話室でお茶をしておりましたら、エマがとてもよい薬湯を作れると言い出しましたの。
女の子たちが試してみたいと言いだしたので、手桶にエマが少しだけ調合してくれたのですけど」
「皆さん喜んでくださって嬉しかったですわぁ」
彼女が一糸まとわぬ姿になると、エマは静かに彼女の髪から手を話した。
特異な育ち方をしたとはいえ、彼女はやはり深窓の令嬢。
着替えも湯浴みも侍女に世話されるのが当たり前で、素っ裸も実に堂々としたものである。
ジュリが彼女に薄い湯浴み着を着せかけると、浴槽へと導いた。
エマは浴槽に色々な香油を垂らしたり、なにやら葉のようなものを沈めている。
いくらもしないうちに、湯殿は華やかな香りでいっぱいになった。
「これは…」
「素晴らしい香りでしょう?」
「ああ」
浴槽に身を沈めてみると、その香りはいっそう立ち上った。
湯をすくってみると、ほんの少しとろりとした不思議な感触がする。
ほっとして、疲れが抜ける気がした。
「オスカルさま、いかが?とっても気持ちいいでしょう。
父がひどい皮膚病で、色々な薬湯を調合しているうちにこんなものができましたの」
「うん…、すごく気持ちよくて、癒されるような…」
寝不足気味の彼女がうっとりとそう言うと、ジュリも頷いた。
「あたしも談話室で手元だけ浸したのですけれど、今でもほのかなよい香りが残っていますわ。
それに肌がとてもしっとりして透明感もでるようで、試した女の子たちはみんな夢中になりましたわ」
ジュリとエマが柔らかく丁寧に彼女を磨き上げていく。
いつもの湯浴みよりずっと心地よく、彼女もこの薬湯がとても気にいった。
この娘。
私たちへの振る舞いを心の底から後悔させてやろうと思ったが…
薬湯の気持ちよさに、許してやろうという気になってくる。
アンドレにもこの心地よさをわけてあげたいなぁ。
彼女がぼぉっとなりながらそんなことを思うと、その心を読んだかのようにエマが囁いた。
「逢い引きは12日なんですってね。
…お持ちになりますコレ?小瓶に調合しておきますけど」
「それは…どういう」
「やぁだ、オスカルさまったら。
オトナの男女で、どうもこうも、ですわよ」
オトナのって…私たちはそんな。
あいつだって私が手をつないで歩きたいなんて言いだしたから、仕方なしにつきあってくれるだけで…
「ねぇ、オスカルさま。
逢い引きって、日帰りですの?
どちらへいらっしゃいます?」
「もちろん日帰りだが、少し遠いらしい。
私はよく知らないんだ。アンドレに任せてあるから」
「お忙しいお2人に代わって、アンドレが行き先など、諸々の手配をしていますのね。
ふぅん。
あたし、ちょっとアンドレのところに行ってこよ」
「え!?」
「せっかくの逢い引きですのよ?
泊まりがけでごゆっくりなさるといいわ!」
「ちょっ、エマ、おいっ!」
その並外れた勢力で、談話室を掌握したハリケーン・エマ。
その猛威はだんだんと2人の関係にも影響を与えつつあった。
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