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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


【貴賓室】へはこちらの階段からお進みください。
貴賓室へ
ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    すれ違いかけた危うさを経て復活した習慣。就寝前のひとときを、2人で何気なく過ごすこと。
    訪れを待ちながら、彼女はぼうっと黒髪の幼なじみを思い浮かべている。
    今まで当たり前だと思っていた時間が、これほど満ち足りた気持ちになるものだったとは。
    あの自然さを装っていた不自然な日々は、思いのほか神経をまいらせていたようだ。
    扉をほとほととノックする音が聞こえ、彼女は胸がキュッと痛むような感覚を覚えた。2人の間に今までにないブランクがあったせいか、ここ10日ほど、彼が訪れるたびになんだかドキドキして、妙な高揚感がある。
    『もう2度とあんなことはしない』
    そう誓った彼を疑ってなどいないが…
    「駄目だ」
    マリー・アンヌの屋敷で“たしなみ”としてやらされていることが、どうしても脳裏にチラついてしまう。
    ジェローデルのことは信頼していて、だから肩を抱かれようが共寝のまねごとをされようが、不快感はない。
    だって。
    あの男も私と同じく、命令を受けて仕方なしにやっているのだもの。
    体に流れる貴族の血と、その立場。
    それゆえ拒否することも叶わぬ互いの身に、抑圧された連帯感さえ覚えている。
    それにジェローデルは実に巧みで、彼女の体に触れてはいても、どこか薄絹を挟むような… 触れ合っている当人同士にしか判らない微かな距離を保ってくれていた。
    純潔の身の彼女にとって、それだけが今、ささやかな救いとなっている。
    これが、わけの判らぬ練習台(おとこ)をあてがわれて、あの爺たちさながらに味見をするような手つきで体じゅうをまさぐられたら…
    いくら自分にお役目だと言いきかせても、じっと耐えきれる自信はない。
    「ぁぁ」
    なんとなく漏れた声。
    声とも、ため息とも。けれど。
    「調子、悪いのか?」
    聞き慣れた声が降ってきて、彼が見おろしていた。
    「あ…っ!」
    いきなり胸がキュンと痛んで、今度は本当に声が出る。
    驚いたのと、どことはなしに甘さの混ざったおかしな声。
    「何度かノックはしたけれど、返事がなかったから」
    「…すまない。少しぼうっとしていた」
    「熱っぽい?顔がちょっと赤いぞ」
    そんなことを言いながら、彼はテーブルにトレイを置いた。
    「今夜は気分がすぐれないみたいだな」
    間のもたなさを今も少し引きずっているのか、彼は動作のたびに言葉をはさむ。
    「それなら」
    コトコトと小さな音を立てて並べられていくグラスやキャラフ。その手際を見て、彼女にはアンドレが飲み物の支度を終えたらすぐに退がる気なのだと気がついた。
    「ほら、おばあちゃん特製のジュース。体にいいんだってさ」
    彼はきれいな色の果汁をグラスに注いでいく。
    「マリー・アンヌさまおかかえの医師(せんせい)は、何かおっしゃっていらしたか?」
    長姉の嫁いだ屋敷へ通うことは、表向き、療養のためとなっていた。
    どこから話が漏れるか判らない。最低でも初の目通りを終えるまではと、ジャルジェ家内においても全て極秘扱いになっている。
    真実を知るのは、レニエと夫人と執事のみ。マロンですらも、まだ知らされてはいなかった。
    彼に共は許しておらず、『女性特有の症状の治療だから』と、判るような判らないような理由でけむにまいている。
    勤務へ向かう代わりに朝からマリー・アンヌの元を訪ね、肌やら爪やらの手入れをされて、そのあとは立ち居振る舞いの指導を細かく受けている彼女。
    ゆったり髪を結いあげて、引きずるように長い丈のローブ姿で屋敷の中を歩きまわり、長姉がすべての動作を見直していく。
    女性らしく、愛らしく。ときに艶っぽく。
    レニエに依頼された以上、マリー・アンヌの指導は厳しかった。
    食事を取る。お茶を飲む。そんな仕草にも姑かとも目を光らせる姉に、彼女はすでに疲労困憊している。
    眼差しひとつ、伏せるまつげの角度でまでも男ごころをそそるのだと言われたところで「そんなの私の知ったことか」と叫びだしたいぐらいだった。
    寝所でのたしなみに至っては、今日から少し課題が増やされ、彼女にも能動的な立場が加えられている。
    能動的な、立場。
    ただ受け身でいればよかった彼女が、とうとう自ら男を誘い、奉仕する側に立たされることになったのだ。
    それこそが、この貴婦人教育の真の目的ではあったのだが。


    『あぁん、もう!オスカル(このこ)ったら、何度言えば判るのかしら』
    寝所での教育が始まったばかりの頃は、彼女はマリー・アンヌとジェローデルの言うことを聞いていればよいだけだった。
    彼女を宝物のように扱い、丁寧にしとねへと横たえるジェローデル。
    かと思えば少々乱暴にあしらったり、無造作にローブをはいでみたり。
    この男はつくづくと器用で、マリー・アンヌが想定するさまざまな場面を演じてみせる。
    もちろんそれは形式ばかりで、ジェローデルにローブをはぎ取られたところできちんとインナーは身につけているし、どこに顔をうずめられようと、くちづけられようと、所詮は寸止め。際どいところではマリー・アンヌのストップがかかる。
    これから高貴な方へ贈られる大切な差し上げものを、一介の貴族が先に開き味わってしまったら、ばちが当たるではないか。
    大切なのは練習でどこまでやるかではなく、その本番。
    御方がどのような趣味嗜好をお持ちだったとしても、彼女が好ましい形で、そのお分けくださる情けを頂戴出来るかどうか。身にまとう絹を取り去られること1つにしても、初々しくか、或いは淫らにか…
    いずれにしても、その御方にご満足いただけるだけの彼女に仕上がっていなければ、差し上げものの意味がない。
    彼女だっていい大人だから、成人向けの書物も読むし、経験はなくても、男女の流れについては判っているつもりだった。
    ことが始まる前の、お約束的なやり取り。
    今日はついにそれを、ジェローデルからではなく、彼女主導でやることになった。
    のだけれど。
    …あんなの、私には無理だ。
    ばかばかしいと思っていた様式美が、あれほど難しいなんて思わなかった。
    隠し書棚に秘蔵している淑女向けのイケナイ書物で熟知していたはずの事柄も、やってみれば大違い。
    蠱惑的だとか扇情的だとか、もしくは官能的だの色っぽいだのといった表現は目新しくもなく読んでいて、彼女の頭の中では、その場面になれば自然とそういう雰囲気になるものだと思っていた。
    ところがだ。
    …判らない。まったく以て判らない!
    ジェローデルにも、多少は本気を出して誘惑するよう言われたのだが、その“本気”というヤツがどこから湧いてくるのやら、さっぱり判らなかった。
    もの覚えはよい方なので、作法だの動きだのの“形”は簡単に入ってくるけれど、ことをそちらへ運ぶ空気を醸せと言われたって…
    『ほらほら、また!』
    ジェローデルを押し倒してみせた彼女に、マリー・アンヌの声がかかる。
    『あのね、オスカル。わたくしは確かに“ジェローデルさまを寝台に押し倒して”と言いました。でもそれは、これから始まる甘いひとときのため。それを判っている?あなたの所作を見ていると、不審者を発見して“さぁ捕らえてやろう!”という勇ましさしか感じられません』
    『だ…』
    って私はこんなふうに、いきなり押し倒されたことしかないのだもの。
    彼女は危うくそう言いかけて、言葉を飲みこんだ。
    『だって姉上。 私の感覚では、押し倒すと言ったらこういう動作ですし』
    『そういった環境が、今までのあなたのお務めだったのは判ります。でも、そろそろ頭を切り替えてくれなければ!』
    男女の情緒にどうしても欠ける末妹に、苛立つ長姉。
    『おそれながら、マリー・アンヌさま』
    あきらかに疲れてきている彼女を見て、ジェローデルが割って入った。
    『御妹君は長年求められてきた生き方を正反対に改めるよう、強要されておいでなのです。それは私たちが想像するより、遥かに胸の痛むことではないでしょうか』
    『わたくしにだってそれは判っていますわ!でも、もし此度の件を上手くやり遂せることが出来なければ、娘の1人も躾られぬと父は笑われ、そればかりか国王陛下にもご迷惑をおかけすることになりますのよ?』
    『仰る通り。されども御妹君は抜きん出て美しくいらっしゃる。これだけお美しくて、しかも賢く無垢な身の…となれば、なかなかお目にかかれるものではありません。いかに高貴な御方だとしても』
    『そうね、ジェローデルさま。あなたの仰ることももっともですわね。けれど、美しさなど結局は皮一枚の問題。あなたにも経験がおありでしょうに。美しさに定評のある姫ほど、抱いてみれば平凡でつまらなかったことが』
    『!』
    『それに、純潔であることを喜ぶ殿方も多いのも事実でしょうけれど、遊び慣れた方ほど面倒がりもするもの。ジェローデルさま、あなたもそうではなくて?』
    『何を仰っ』
    『たった1度お手がついただけで打ち捨てられるようなことがあれば、それこそ妹はただのおもちゃですのよ!?』
    一気にまくし立ててキッと睨み返すマリー・アンヌの迫力はなかなかのものだった。
    もっとも年の離れた姉。
    ゆえにもっとも落ちついていて、いつもおっとりと微笑んでいる長姉の見知らぬ一面に、彼女はマリー・アンヌもまた、女の争いを闘い抜いてきたのだとを知る。
    これが高位の貴族の娘の生きざまなのだ。これはこれでぬめぬめと、なんて生々しいのだろう。
    父親によって数奇な運命を与えられたと思ってきたが、平凡かと思い込んでいた姉たちもまた、女ならではの苦悩を得ていたのだ。
    そう。私だけではなく。
    『ジェローデル、すまないがもう1度やり直してくれないか?私がおまえを寝所へと誘い、扉を開けたところから』
    『少し休憩されてはいかがです?』
    『大丈夫だ。どの道覚えねばならんことなら、早い方がいい』
    彼女は自分が先に立っておさらいを始め、ジェローデルを(いざな)った。
    ささやき声で元・副官が教えてくれる通り、眼差しも、見上げる首の角度も手を置く位地の微妙さも、すべてを懸命にやってみる。父親が決めただけの男の元へ嫁いだ姉たちも、きっとこのような思いをしたのだと。
    吐息のかかる距離。
    指示されるままにクラバットを解いて、あらわれた筋肉質な胸にくちびるを滑らせ。
    ぴくっ。
    伏せた彼女のまつげが振れた。
    感じる。今までに知らなかった、ひとの肌の匂いと体温。
    あてられたようにグラリときて、ジェローデルもろとも寝台にもつれ込んだ。
    目の前で、より、はだけてしまった胸。
    見上げてくるジェローデルの憂えた瞳。
    下半身は密着していて…
    ああ、もうおかしくなりそうだ。
    『オスカル…嬢…』
    『ジェロー…デル?』
    普段よりずっとぐっと近い男の瞳には、知的に見慣れた光の裏から、何か違うものが滲みだしてくるよう。
    『愛しています。美しいかた』
    寝台で重なり合って聞く声は頭の芯を揺さぶって、何重にも響いた。
    …愛しています…愛しています…愛して…いま…す…… 美しい…か…た…
    発された言葉からは、とろりと甘美な密の香り。
    これが練習なのかそうでないのか、そんなことはもう曖昧で、捕捉された視線をほどくタイミングも見つけられなくなる。
    なぜだかそう求められていると判って、彼女は誘いこまれるままに自分からくちづけた。密着した腰の辺りで、男のキュロットを緩めながら。
    ――― そして。
    『もういいわ!オスカル!!』
    誰もが気づかぬうちに異様に緊迫していた寝所の空気を、マリー・アンヌの声が破った。
    しかしそれが耳に入らないのか、彼女は偽りの艶技をやめない。教えられた通りの官能的な表情でくちづけを深め、まだ不慣れながらも右手は緩めたキュロットをさらに押し開く。
    けれど。
    『今日はもうおしまいです、オスカル嬢』
    男の手が、強く彼女の手首をつかんだ。
    『大変、お上手でした』
    耳元にそう囁きを残し、ジェローデルは覆い被さる彼女をよけて身を起こす。
    ぜんまいが切れたように、止められた形のまま固まっている彼女のことも引き起こして座らせて。
    『ジェローデルさま、やり過ぎよ。私情を差し挟むなんてどういうおつもり!?』
    『申し訳… ありません』
    『以後、お気をつけあそばして。目に余るようでしたら父将軍に申し伝え、あなたには外れてもらいます』
    『じゅうぶん留意いたします』
    『本当に何をお考えなのかしら!』
    マリー・アンヌの声は高くキンキンと響いたが、姉と男のやり取りは、彼女には遠くぼんやりとしか聞こえてこなかった。
    くちびるには微かな感触が残っていて、まだ人肌に包まれている気がする。
    乱れた着衣を整えたジェローデルが立ち上がり、僅かにたわむ寝台の音。それはキシリと耳障りで、過ぎた緊張から呆けていた彼女の注意を引いた。
    ゆっくりと顔を上げて周囲を見回すが、ほんのつい今しがたまで情を交わすまねごとをしていた男はもういない。マリー・アンヌの咎める眼差しに、寝所を追われたあとだった。
    『姉…上?』
    寝台に座りこんだままで首だけを向けてきた妹に、マリー・アンヌは母のごとく微笑んでみせる。
    『なあに?オスカル』
    『こんなこと… 本当に慣れるのでしょうか?』
    自分のしたことに、ショックを受けているらしい妹。
    ジャルジェ家の長姉として育ったマリー・アンヌは、父親が末妹に歪んだ観念を植えつけたことを察していた。
    “間違いがあってはならぬ”
    男ばかりの環境に娘を放りこむこと。万が一そこで、男女の間違いが起きたとしたら。
    それゆえレニエは、意図的に末娘を清廉に育てた。それはもう清廉を通り越して、男女のことにおいては特に潔癖なほどに。
    彼女にとって、男女の睦みごとは読み物として楽しむことは出来ても、自分の身に起きたなら、むしろ厭わしく背徳の色濃い行為。
    本人にすら気づかぬ根深いところに、そんな思想教育が施されている。
    『姉、上?』
    『大丈夫よ、きっと慣れるわ。わたくしも、そしてあなたの他のおねえさまたちもそうだったのだから』
    『…はい』
    のっぺりと無機質な顔で頷いた末妹に、マリー・アンヌは静かな涙を流した。
    なぜ、この娘ばかりがこのような…
    けれども彼女は姉の涙を見て、つと立ち上がると、柔らかく肩を抱いた。
    『どうされたのです?姉上。何かおつらいことでも?』
    習い性とでも言うべき彼女の、貴公子然とした振るまい。
    このように、ある意味上出来過ぎるほど男の性を生きる妹に、今さら女に還れとは。それも心の通わぬ差し上げものとして。
    彼女をちからづける立場のはずのマリー・アンヌは、その日の午後、しばらく涙を止めることが出来なかった。


    「さてと」
    マロン特製のジュースでグラスを満たした彼は、再びトレイを手に取った。
    「俺もつい調子に乗って、このところ毎晩、ここに来てしまっていた。今夜はゆっくり寝んだ方がいいな」
    やはり体調が優れないのだろうか。アンドレは彼女の表情に、微かな陰を感じている。
    「じゃ、おやすみ」
    「もう?まだ来たばかりじゃないか」
    「でもおまえ、ホントに調子が良くないみたいだし」
    「確かにちょっと疲れてはいるけれど、それは体調のせいでは な く てっ」
    言いながら彼女はアンドレに近づき、パッとトレイを取り上げた。
    「あ、こら!返せオスカル。子供じゃないんだから」
    「いやだ!」
    彼女はトレイを持ったまま、部屋の中を逃げ回る。
    トレイなんて置いて出ればいいだけなのに、彼もまた彼女を追いかけて、部屋の中を駆け回った。
    広くはあるけれど、成人2人が本気で捕まえっこをするには狭い部屋。
    なかなか捕まらないのは2人がわざとそうしているからで、あの出来事を乗り越えて以来、2人は時おりこんな馬鹿げた遊びをしている。
    懐かしい悪戯を仕掛けてみたり、子供の頃に気にいっていた本や遊び道具を引っ張り出してきたり。
    2人が共に過ごしてきた時間をたどるように、昔語りばかりしたがる彼女がアンドレには不思議だった。
    こんなふうにトレイを取り上げるのも、子供の頃の彼女が、屋敷の仕事で忙しい彼と遊びたくてよくやったことだ。
    もっともあの頃は、2人とも全力で部屋中を走り回っていたのだけれど。
    「オスカル!いいかげんにしろって」
    長椅子をはさんでくるくると回りながら、彼は怒った顔をする。でも彼が怒ってなんかいないのは彼女にはお見通しで、挑発するようにトレイをヒラヒラ振ってみせた。
    「よぉし」
    オスカルめ。
    彼女のなめた態度に、子供の頃からの闘争心に火がついた彼は、長椅子の背に手をついてヒョイとそこを飛び越した。
    「アンドレ!? うそっ」
    まずいとばかりに身をひるがえし、彼女は逃げようとする。
    けれど。
    「捕まえた」
    背後から伸びてきた腕に、ぎゅっとからめ取られてしまった。
    その“ぎゅっ”は、彼女の胸を再び“キュン”とさせる。
    いや、“キュン”なんてものは大幅に超えて、“ズキィ…ン”と痛むほど。
    「あ…」
    だれ…か… だれか。
    あ…あ、姉上。
    なぜこんなに体中が熱くなるのです?
    溶けてしまいそうに…
    この甘い疼きは…?
    思いもよらず訪れた感覚に、彼女はとまどう。
    この数日、男に抱きしめられることなど何度もあった。
    いろんな角度で、さまざまな方向から抱き寄せられて、何度となく繰り返された寝台遊戯のまねごと。
    背中から抱かれて、胸元を解かれていったことだってある。
    けれど少しも恥ずかしいなんて思わなかった。
    冷えた心のまま、姉に言われた表情を作り、元・副官の、男としての助言通りに動いていただけ。
    どうせ私は生き人形なのだから。
    なのに。
    体を熱くさせるものは、ますます(せ)り上がってくるようだった。
    彼の髪が耳に触れていて、さわさわと揺れるたびに体がびくびくと動いてしまう。
    なんだかよく判らない恥ずかしさまでが湧いてきて、彼女はがらにもなくしゃがみこんだ。
    あの爺たちに撫で回されてへたり込んだときは、生理的なおぞましさで膝が震えたのだけれど、でも、それとは違う。
    怖かったのだ。
    彼と触れ合っていることを、心地いいと感じている自分が。
    背中にぴったりと密着した胸板や、ウェストにグッと回された腕がとても安心できて、それなのに胸の疼きをより甘く煽ってくるようで、混ざり合う真逆の感情はなぜだか総じて気持ちのよさにつながっていく。どこから来るのか判らない、後ろめたさをともなった悦びに。
    「……ル?」
    「ぇ…?」
    「オスカルって!大丈夫か?どこか苦しいのか?」
    しゃがみこんでしまった彼女。
    その前に回りこんできた彼が、膝をついて顔を覗いていた。また彼女が倒れてしまうのかと、真剣な面もちで。
    「悪かった。つい遊びが過ぎた。おばあちゃんを呼んでこようか?それとも医者を」
    放っておいたら部屋を飛び出しそうな彼。
    「大丈夫だ。医者は要らない」
    「でもおまえ、すごくつらそうだ」
    瞳だってちょっぴり潤んで見えて、普段通りの彼女とは思えない。
    そうだ、そう言えば。
    ふざけてトレイを取り上げたとき、彼女は言っていた。
    『確かにちょっと疲れてはいるけれど、それは体調のせいではなくて』
    疲れて…いる?休暇に入ってもう数日経つおまえが?そしてそれは、体調のせいではない?
    彼女の言葉の、ちょっとした矛盾。
    「おまえ、何かあった?」
    このとき彼は、それほど深い意味合いでそう口にしたわけではなかった。本当に、疑問をさらりと言ってみただけで。
    そして彼女も、あながち嘘ではなく答えた。
    「不安なんだ、これからどうなってしまうのか」
    崩れた姿勢から、彼の膝に手をついて身を起こす。
    貴人からのお召し。
    生き人形としての努め。
    アンドレに抱えた奇妙な感覚。
    「私はどうなってしまうのだろう」
    斜め45度。
    頬に髪を打ちかからせて、彼女のせつなげな瞳にはまつげの影が落ちている。
    「大…丈夫だよ、オスカル。きっとよくなる。すぐに元気になって、仕事に戻れるから」
    見たこともない、彼女の面差し。
    それはひどく悩ましくて、彼は本気でここにいてはいけないと思った。
    「そのためには、な?もう寝んだ方が」
    たたみかけようとした彼の太ももに、膝から彼女の手がずれる。
    「あっ」
    指先が内ももの、奥に届かないギリ手前。そこはものすごく微妙な場所で、彼は言葉が継げなくなる。
    けれど彼女はそんなことに気づきもせずに、ちょっとした提案を始めた。
    「そ…うだ。なぁ、アンドレ。もうすぐおまえの誕生日だろう?久しぶりに2人でアラスに行かないか?」
    急に変わった話に、彼は完全に流れを奪われ、2人は長椅子へと並んで座り直す。
    「『旅荘アラス』に泊まろう?あのおやじ、元気にしてるかな」
    打って変わってはしゃいで話し出した彼女に、彼はあきらかな不審を感じた。
    …やっぱりおかしい。不安定過ぎる。


    この夜のこと。
    彼はあとになって何度も思い返した。このときに追及しておけばよかったのだと。
    何も知らなかった自分。
    違和感を覚えていたのに、子供の頃みたいに同じ部屋に泊まって語りあかそうと笑う彼女に、翻弄されていた。


    6につづく
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