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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


【貴賓室】へはこちらの階段からお進みください。
貴賓室へ
ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    氷室から切り出したばかりの氷を届けに来たアンドレは、扉の前でノックの手を止めた。
    漏れ聞こえてくるバイオリンの音色。
    あいつ!休んでなきゃダメじゃないか。
    勤務中に倒れ、ジェローデルの腕に抱かれて屋敷に戻ったという彼女。
    マロンからそれを聞いたとき、彼は血の気が引いた。
    まず胸を占めたのは、純粋な心配。
    ここ数日を振り返ってみても、彼女に具合が悪そうな様子はなかった。今朝だっていつも通り軽めの食事を取って、ごく普通に出勤して行ったのだ。それがいきなり“倒れた”とは。
    よりによって、俺のいないときに!
    どうしてこのタイミングなんだと、彼には何よりそれが悔やまれた。突然倒れたというからには、精一杯がまんした末に違いない。
    どれほどつらかっただろう。
    そばにいたなら絶対気づいてやれたと思うと、今日1日をのほほんと過ごしていた自分に、彼は腹が立って仕方なかった。
    珍しく、彼女の出勤に付き従っていなかったアンドレ。
    それもそのはずで、彼は前の晩からレニエの書斎に呼ばれ、マリー・アンヌ宛ての信書を預かっていたのだ。

    『マリー・アンヌさまへ、でございますか?』
    『そうだ』
    言わずもがなのオスカル・フランソワの長姉。とっくに嫁いで子にも恵まれ、その子たちですらもうお年頃。社交界でも存在感を示す有力な貴婦人の1人になっている。
    彼が8歳で屋敷に引き取られたときには、すでに他家の人となっていたマリー・アンヌ。彼女の姉たちの中でも、彼にとってはもっとも馴染みが薄い。
    マリー・アンヌさまへ、俺が遣いに…?
    彼にはなぜ自分が選ばれたのか、思い当たる節がない。
    『オスカルのことで、少々込み入った用件が出来たのだ』
    『オスカル…さまの』
    『うむ。これは信頼のおける者にしか頼めぬ。徒や疎かに扱われ、万が一にも信書(それ)が人目については困るのでな。執事に頼むべきとも思うが、あの者にはあの者で、させねばならんことが多々控えておる』
    『承知いたしました』
    『明日はあれの共はせずともよいから、間違いなく遣いを果たすのだぞ』
    レニエは瀟洒な執務机の上に置いた封書に、一瞥をくれる。
    『おまえはそれを、ただ届けるのみ。余計な詮索などせぬことだ』
    『…はい』
    彼女に関わる“少々込み入った用件”。
    アンドレにとって、気にならないわけがない。それを見越したレニエのひとことに、彼は慎ましく目を伏せるしかなかった。
    何を問える立場にもない彼。また、聞いて答えがもらえることなら、レニエは始めから隠したりしないだろう。
    賢い彼はさっくりと自分の従僕という身分に立ち返り、丁寧な所作で信書を預かると、書斎をあとにしたのだった。

    そんな昨夜の申しつけにより、午前中からマリー・アンヌを訪ねていたアンドレ。
    用件自体は単純なので、それを手早く片づけたら、彼は遅れて出勤するつもりでいた。
    すでに激しい反発を見せている衛兵たち。そんなところに彼女を1人になんてしておけない。
    『昼下がりには間にあうかな』
    午後のお茶は一緒に出来そうだと余裕に構えていたアンドレだったが、信書を持った彼が目指す屋敷を訪ねると、思った以上の歓迎が待ち構えていた。
    久しぶりに会うアンドレに、無邪気なほど喜ぶマリー・アンヌ。懐かしい懐かしいとジャルジェ家の人々の話をねだり始めた。
    両親であるジャルジェ夫妻のことはもちろん、マロンや、今も残っている古参の侍女たちのこと。まだ独り身を通している末妹のあれこれなどを熱心に聞きたがり、信書を開く気配すらない。
    『この件は急を要するのだ。必ず返りを受け取ってくるように』
    出がけに念を押されたレニエからの厳命に彼は焦ったが、マリー・アンヌはまったくお構いなし。せっかくだからと昼食までもが振る舞われた。
    遣いに来ただけなのだからと彼がいくら遠慮しても、マリー・アンヌは有閑マダムの押しの強さで彼を逃さない。
    社交界で鍛えあげられた手管を振り切るのは難しく、彼はいいように引き留められて、結局兵舎に顔を出すことも出来ず、ジャルジェ家に戻れた頃には夕方になっていた。
    それがレニエの差し金と知る由もない彼。
    ようやく帰って来れたとホッとしたのもつかの間、いきなり聞かされたのが彼女の異変だったのだ…

    「いけない!」
    バイオリンの音色にノックの手を止めていた彼は、改めて扉を叩いた。
    8月も半ばとはいえ夏の宵。グズグズしていたら、せっかくの氷が溶けてしまう。
    「トントン」
    控えめなノックに、ぷつりと途切れる旋律。
    それを返事と受け取って、彼は扉を押し開いた。
    「オスカル?」
    呼ばれて顔を向けた彼女は、窓辺にたたずんでダラリと楽器をおろしたところだった。
    「おまえにモーツァルトはちょっと役不足だ。おまえの手にはもっとダイナミックな曲がふさわしい」
    晩餐前、寝室での気まずい空気を醸すまいと、彼はまず軽口をたたいた。
    「なかなか耳が鋭い」
    彼女が、ふっふと笑い混じりに返してきたので、彼は少しだけ安心して部屋の中央へと進む。
    「休んでいるかと思ったのに」
    「…ああ… そうだな、う…ん」
    なんとなく歯切れの悪い返答に、彼は心配していた本音をやんわりと口に出してみた。
    「今日の勤務中…に、隊員たちと何か…あった?」
    「何か、って別に何も」
    「そ…っか!なら、いい。悪かったな、妙なことを聞いて」
    「は?」
    ポカンとする彼女によりホッとして、彼は笑みを見せた。
    よかった。ほんとに何もなかったみたいだ。
    朝、いつも通りに出勤した彼女。それが急に倒れたなどと、もしかしたら隊員たちに不埒な行為でもされて、そのショックのあまり… なんて。
    実はそんな想像もしたりして、彼は心底血の気が引いたのだ。
    「だって衛兵隊は本当に風紀が乱れているだろう?日勤中から酒は飲むし、過去には隊長に対する暴行事件も起きている。ゴロツキの集まりと変わらないじゃないか」
    「だから今度は、新任の隊長に対する“婦女暴行事件”でも起きたかと思ったか?」
    「まぁ、そんな感じかな。俺が言えたことじゃ…ない‥けど」
    ちょっとばかり怯む、彼の語尾と表情。
    それは『愛している!』という激白と共に、ブラウスが引き裂かれた瞬間を、2人にはっきり思い出させた。
    その意味合いは、それぞれの胸の内で違っていたけれど。
    「あのときは本当にすまなかった。もう2度とあんなことはしない。神にかけて誓う」
    彼はかつて言った言葉をもう1度、心をこめて繰り返した。
    あのときは状況に押されて夢中で口をついただけだったが、今度は誠心誠意。これを信じてもらえなければ、側にいつづけることも守ってやることも出来やしない。
    あの出来事は、腫れ物と同じだった。互いにあえてそこには触れず、皆の前では素知らぬふりで過ごしてきた。大きく重く気にかけながらも、きちんと話すきっかけを逃していたけれど。
    ようやく訪れたこの好機。
    2人の間に生じてしまったもどかしい壁を打ち壊すためにも、彼は素朴な言葉に想いを込めた。
    出来ることなら、彼女に“許す”と言って欲しい。
    そして。
    おまえに何かあったとき、1番に手を差し伸べるのはジェローデル大尉ではなく、他のどの男でもなく、永遠に俺でありたい。
    彼の身分では難しいことだと判っていても、今だけそう思わせてくれれば、それ以上もう望む気もなかった。
    「愛していると言った気持ちに偽りはないけれど、もうそれを押しつけたりはしないから」
    「私…を…まだ愛している?」
    「十何年もおまえだけを見て、おまえだけを想ってきた。おまえには悪いけど、それはもう変えられないよ」
    彼はすまなそうに微笑う。自分でも、どうにも出来ないのだと。
    「だけど、もう絶対にあんなことはしない」
    静かな決意のこもった隻眼。
    「おまえが俺のものになってくれるとも、結婚できるなどとも思っていない。だから今まで通り、もっとも親しい友、或いは兄弟のような存在として側にいられれば…」
    彼女を追いつめないように、軽さを装って語られる彼の想い。包みこんでくる眼差しは深く柔らかく、彼女はそこに、あの日のアンドレを探した。
    あの薄暗い部屋で、寝台に組み伏せられた彼女。それを彼が、どんな眼差しで見ていたか。
    『愛している!だから、』
    激しく吐露された想いを映すように、あのとき彼の手は男としての動きをしていた。押し倒されるどさくさの中で、体を這った手のひらの大きさや、絶対的な力の違い。
    『人を呼ぶぞ。離せ』
    そんなふうにアンドレを牽制しながら、あのとき彼女は片恋の男を思った。のしかかってくる彼の重さに身動きも出来なくて、助けてくれるはずのないフェルゼンの名を胸の奥で呼んでいた。
    でも…
    父将軍の執務室でからみついてきた、爺たちの視線。
    あのとき、私は?
    前後左右から彼女を取り囲んだ爺たち。舐めるがごとき目つきはねっとりと、軍服の隙間を探して割り入ってきた。
    ゾッ…
    今思い返しても鳥肌が立つ不快感。
    内ももをじっくりと撫であげた手の動きや、耳もとにささやきかけられて首筋が湿ったこと。鼓膜にしつこい忍び笑い。
    あのとき彼女を注視していたたくさんの目は、あきらかに彼女を“もの”として見ていた。
    男が愉しむための道具。その品さだめ。
    軍服の内に包まれた素肌を見透かすように眺めまわされ、気の惹かれた部分にやり取りされるヒソヒソ声は、いかにも淫靡なものだった。
    『……女の匂いがする』
    耳もとに寄ったくちびるが触れそうになった瞬間、本当はふらりと集中が途切れかけていた。そのときよぎった面影は誰だった?
    彼女の体にのびてきた何本もの腕。
    『…ゃ…っ…』
    思わずあげそうになった声を、なんとか飲みこむことが出来たのは。
    「…アン…ド…レ」
    「ちょっ、オスカルっ!?」
    窓辺にたたずんだまま、じっと見つめてくる彼女の瞳にみるみる涙がたまるのを見て、彼はたじろいだ。
    「具合の悪いときにこんな話をして、やっぱり俺、無神経だったか?」
    心配そうな、それでいて辛そうな瞳。
    そうだ。
    『愛している!だから、だからオスカル』
    この瞳。
    あのときもおまえは、こんな目をしていた。
    突然とくちびるを奪って無理やりに押し倒しておいて、それなのに自分も傷ついた顔をしていた彼。
    欲望のままの行動なのは同じはずなのに、それはあの爺たちとはまったく違うものだった。
    ぞわぞわと体を蠢く手のきわどさに、ふっと集中が切れかけたとき、彼女が脳裏に描き出したのは、ただひとつの隻眼。
    力まかせに女を組み伏せ見下ろして、そのまま陵辱することも出来た男。けれど彼はそうしなかった。
    『愛している。死んでしまいそうだよ』
    あのときには気づかなかったせつなさをたたえた眼差しが、かろうじてあの執務室での彼女の気丈さを支えたのだ。
    少し前の私なら、あんなときに助けを求めるのはフェルゼンだったはずなのに。
    あの決別の日が、遥か遠いことのように思えてくる。
    「アンドレ」
    窓辺を離れてテーブルのそばに寄りながら、終わった恋に苦笑したら、たまっていた涙がツツッとこぼれた。
    バイオリンをしまうそぶりでごまかしたけれど、彼は敏感に気づいたようだ。心配そうな眼差しがいっそう深くなる。
    こんな目で、ずっと見つめられていたい。
    そんな気持ちが胸の奥から湧いてきて、自分らしからぬ女性的な発想に彼女は驚く。
    けれどその想いに推されるように、彼の真正面まで近づいた。
    手を伸ばせば届く距離。
    このところの2人がさけていた近さ。
    思わず彼の方が後ずさったけれど、彼女はかまわず間合いを詰めて、目の前の胸に額をつけた。
    「ダメだ、オスカル」
    彼は金色の髪がかかる両肩に手を置き、それすらもためらいがちに彼女を押しとどめる。
    彼のうろたえっぷりがありありと伝わって、彼女は涙を落としながらくすりと笑った。
    「なんで駄目なんだ?おまえはもう、あんなことはしないのだろう?」
    「もっ、もちろんだよ…ってオスカル、えっ?」
    確認するように顔をのぞきこんだ彼に、彼女はコクンと頷いた。
    それだけのことで、どうしてよいか判らずにいた2人の間のよそよそしさが一気に霧散していく。
    「おまえの望む関係(もの)ではないかもしれないけれど」
    「いい!」
    彼は昔通りの友情の仕草をちょっと強調気味にして、彼女を抱き寄せた。
    こんなふうに涙するおまえを、何度胸に抱いたことだろう。
    それは彼の望む恋人同士としてのものではなく、そして今も、そうなれたわけではない。彼の犯した過ちを、彼女が許してくれたらしい。ただ、それだけ。
    でも。
    あんなことをした俺に、おまえがまだ信頼を示してくれる。
    その証拠のように、以前と変わらず胸に甘えてくれた彼女が、彼には心底嬉しかった。
    久しぶりに取り戻した幼なじみの空気にホッとしながら、彼は涙のわけを聞く。
    「やっぱり、俺のせいなのか?」
    「違…」
    大きな手のひらに頬を拭われ、気の緩んだ彼女はまた幾筋かの涙のあとを引きながら、小さく答えた。
    「私はしばらく、静養しなければならないらしい」
    「静養?」
    「数日様子をみて、場合によっては休職。もしかしたらそのまま退役かと父上が」
    涙のわけをそう語った彼女。
    取り戻せた2人らしい距離感に安堵していた彼は、それだけではない彼女の瞳の暗さに気づかなかった。
    ごく近い未来。
    レニエをはじめ、周囲の進める“事”のあと。
    彼がすべてを知ったら?
    アンドレは私をどう思うだろう。どんな目で私を見るのだろう。
    愛してもいない男に抱かれて、それでも平気で彼の顔を見返すことなんてできない。
    その日までだ。
    彼女は心の中で決めていた。
    夜伽のお召し。
    その日を過ぎたら、もう彼とは会わない。
    会えっこない。
    だから。
    それまでは今まで通り。
    親友として、兄弟として、いや… 多分きっと兄弟以上に、喜びも苦しみも、青春のすべてもわけあって生きてきた彼と、残り少ない時間を思い出深く過ごしたい。
    そんな彼女の気持ちに、彼が気づけるわけがなかった…





    カツカツと石畳を打つ蹄鉄の音。
    もう夕刻過ぎだというのに、夏の陽射しはまだ高い。
    「オスカル姫?」
    「姫はやめろ、気色悪い」
    「けれども本来、あなたはそう呼ばれて然るべき存在なのですから」
    「怒るぞ?ジェローデル」
    「…では、マドモアゼル」
    「マドモアゼルっ!?」
    「これぐらいは、慣れていただかなければ困ります」
    「……」
    ぐっと黙りこむ彼女。
    相向かって座り、同じリズムで馬車に揺られて、彼女と元・副官の男はマリー・アンヌの屋敷から帰る途中だった。
    あの執務室の呼び出しから、もう数日が経っている。
    此度の件で誰もがもっとも懸念したのは、彼女への教育だった。
    女性らしい振るまい、言葉使い。そして寝所でのたしなみ。
    あのオスカル・フランソワに、それは難しいだろうと。
    この短期間で、末娘を伯爵家の令嬢として相応しい貴婦人に育て直す。それを仕込むために、レニエが白羽の矢を立てたのがマリー・アンヌだった。
    海千山千混在する社交界を巧みに泳ぎきり、今やなかなかの存在感を示しているジャルジェ家の長姉。
    秘密を守ることができ、彼女に臆することなくものの言える人物。この条件を満たせる者はなかなかいない。
    が、マリー・アンヌならば適任だった。
    そして、寝所での好ましい身の処し方に当たっては、その相手役としてジェローデルが選ばれていた。
    相手役。
    もちろん、彼女が夜伽でのたしなみごとを学ぶための練習相手である。先だっての気転が評価されての抜擢だった。
    「お疲れのこととは思いますが、マドモアゼル」
    「…なんだ?」
    「今日の、あの場面。私があなたを寝台に押し倒したくだりですけれど」
    「ああ。それが何か?」
    「あそこは少々恥じらうような演技を入れた方がよいかと思います」
    「姉上はあれでいいと言っていたぞ?」
    「それはそうでしょう。マリー・アンヌさまには、私の陰であなたの表情までは見えないのですから」

    今日のテーマは、いよいよ彼女が《寝所へと連れて行かれたら》という段階だった。
    想定されるいくつかのパターン。
    もっともオーソドックスなのは、男性が彼女を寝台へと押し倒す流れであり、恐らくそうなるであろうことから、特に何度もやり直しをさせられた。
    が。
    「あなた、どのタイミングで私の鳩尾を蹴り上げ、上を取り返そうかと、そればかりを考えていたでしょう?」
    「当たり前だろう。うまい具合におまえ、ボディがガラ空きだったぞ。あれでは簡単に反撃されて」
    「オスカル嬢?」
    ムッとした表情でペラペラとしゃべり出した彼女を、ジェローデルは遮る。
    「誰が格闘技の訓練をしているんです?寝台で、あんな殺気のある目をして男を見上げてはいけません。頬を染めるぐらいの芸の細かさがなければどうします」
    「頬…って。そんな器用なこと、私に出来るか!」
    「簡単ですよ。苦しくなるまで息を止めていればいいんです。呼吸を解放すれば、血流があがって嫌でも顔が赤くなりますからね。うぶさを装いたい慣れた女性の常套手段ですよ」
    「常…っ」
    そんなことが常套手段とは。
    ここ数日で、知りたくもなかった寝所でのあれこれを多々詰めこまれ、彼女は頭がおかしくなりそうだった。
    これでこのまま場面が進み、具体的なアレやコレやに移っていったら、いったいどうなってしまうのだろう。
    「ともかく、練習とはいえそれなりの気分を出してやっていただかないと、あとになって困るのはあなたなのですから」
    「ふふん。気分だのと言いながら、おまえだって見事にクールなつらがまえで事を進めているではないか」
    「今は私がリードする立場を演じているからです。しかも周囲をマリー・アンヌさまとその侍女たちに囲まれて、私だけが……なんて、そんな醜態、さらせるわけがないでしょう」
    ジェローデルは不意に彼女の隣に移ってくると、指をからめてきた。
    「略式なものとはいえローブをまとい、軽く髪を結い上げたあなたを寝台へと誘う。“ふり”だけとはいえ体に触れて、押し倒して。そんなことをやらされて、私が本当に平常心でいられるとでも思っていらっしゃるのですか?」
    肩に手をまわされ、甘く煌めく瞳を近づけられ、彼女は触れそうに近い男の顔を見つめ返した。
    「おまえ、昔から仕事熱心だったな」
    「はい?」
    「それで、今のような場面の場合、どのように処せば私は女性らしく見えるのだ?」
    彼女に至極真面目にそう切り返され、ジェローデルはむっつり押し黙って向かいの席へと戻った。
    はて?私は何か悪いことでも言っただろうか…
    思案顔の彼女を見て、それっきり仏頂面で黙りこむジェローデル。
    午後の数時間を、この男に抱き寄せられたり、押し倒されてみたり。それはもちろん形ばかりで、姉という人目もあって、あやしい要素はまるでない。
    ジェローデルの手が太ももあたりに置かれようが、うっかり胸を触ろうが、少しの不快感も覚えなかった。
    それはこの男が昔から、私の人格を尊重してくれているから。
    女性が軽んじられる職場において、かつてより誠実に仕えてくれた副官に、彼女は信頼と感謝の想いを新たにする。こんなことにまでつき合わせて、申し訳ないとも。
    「それにしても」
    「どうしました?」
    彼女は心の片隅で、自分を所望しているという件の男に考えをめぐらせた。
    貴人とは誰なのか。
    最初に思い浮かんだのは、アルトワ伯を始め、ひと癖もふた癖もある王族や公・侯爵。そして、同盟関係やそれに準ずる利害関係にある外交上の賓客や要人…
    その他、裏向きの金と権利を握った有力な貴族はいくらもいるが、その中でマルリー宮にまで出入り出来るだけの人物となると…?
    「だいたいお忍びでマルリー宮に滞在されている御仁が、どこで私などを」
    「ああ、それでしたら」
    「おまえ、知っているのか?」
    「ばらのトリアノンだそうですよ。庭園からカナルへ降りる大階段で、あなたと私が言い争いになったことがあったでしょう?」
    それは、彼女が自ら降等処分を願い出て、衛兵隊への移動話が持ち上がったときのこと。
    『黒い騎士事件の引責であなたが衛兵隊へ移られるなど、私には納得がいきません!』
    『納得いこうがいくまいが、おまえにはまるで関係のないことだ』
    ひと気のないグラン・トリアノンの庭園裏で、反対し、引き留めるジェローデルと彼女は激しい言い争いをした。
    その場面を、たまたまトリアノン宮を訪れていた件の貴人がこっそりと見ていたらしいのだ。
    「あのとき、か」
    人に見られていたなんて。
    今さら詮ないこととは言えど、彼女は己のぬかり具合に腹立たしさを覚えた。
    が。
    激しく感情を露わにしたときの、彼女の瞳の煌めき。
    その美しさは、ジェローデルには容易に理解できた。
    「時を戻すことはできません、マドモアゼル」
    そう諭しながら、ジェローデルの心中もまた、彼女と同じぐらい穏やかではなかった。


    5につづく
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