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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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貴賓室へ
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    陽の暮れた兵営。
    勤務時間はとっくに過ぎている。
    気にかかることをあれやこれやとこなすうち、気がつけば空にはうっすらと瞬く星が登り始めていた。
    「そろそろ帰るか」
    一段落した気配に、彼は声をかける。
    「ああ」
    そう返事をしながらも、彼女はまた、執務用の大きな机の引き出しを開けた。
    どうしても今、しなければならない仕事ではないのだが。
    「きりがないよ」
    開けかけた引き出しをやんわりと彼に閉め直され、彼女はようやく席を立つ。
    ちょっと動きの重いオスカル・フランソワ。まるで屋敷に帰るのに、気が進まぬような。
    その微妙なほどの気配を、彼も気づいていないわけではない。
    「オスカル?」
    「…今、支度を」
    彼女はようやっと司令官室をあとにし、彼と軍靴の音を響かせながらエントランスへ向かった。
    「お疲れさまです!」
    暗がりの廊下にも煌々しい金髪に気づいた一衛兵が、それなりに整った敬礼をみせる。
    「ご苦労」
    彼女は立場にそぐった重々しい返事をし、けれどもその表情には、部下を気遣う裏表のないねぎらいが感じられた。
    そうした姿はいつもの彼女通りで、別段不審なところはない。だからこそ彼は、彼女のかもす僅かな違和感に、踏みこめずにいたのだが。
    馬車が屋敷に近づくにつれて、彼女は目を合わせるのを避け始める。
    疲れているのだろうか。
    確かにこのところ、変則的な勤務が続いてはいたけれど。
    あまり会話のない2人を乗せた馬車は慣れた道をしゃんしゃんと走り、程なくしてジャルジェ家の正門を抜けた。
    体力と気力を使い切っての主人の帰邸に、お付きの侍女達は慎み深い微笑みで出迎える。
    「お帰りなさいまし、お嬢さま」
    ずずっと進み出てきたマロンに、彼女は軽い笑顔で応え、言葉少なに自室へと足を向けた。
    兵営にいるとき、アンドレは彼女の従卒で、彼女はアンドレの上官。
    一歩屋敷に入れば、彼女はアンドレの主人で、アンドレは彼女の従僕。
    想いを交わしあった今でも、表向きのそれは変わらない。
    1日のほとんどの時間を共有しているというのに、2人はいつも隔てられている。
    屋敷に戻った彼は、召使いたちの輪に加わって、屈託なく笑っている。
    司令官室や詰め所で見せる笑顔とは違う、それがアンドレ本来の顔なのかと彼女は思う。
    だとすれば、私は彼に偽りの姿を演じさせているのか。
    侍女たちに囲まれている彼女には、自分の屋敷の中だというのに、容易にアンドレに近づけない。
    仲間たちといる彼はおおらかで、彼女には、自分と過ごしているときよりくつろいで見える。
    それが寂しい。
    伯爵令嬢であり、近衛将軍家の次期当主。
    彼女自身が持つ准将の階級と、ラ・コンテスの称号。
    2人には越えられない壁がたくさんある。
    だから。
    晩餐が終わり、侍女に世話を焼かれての湯浴みが済み、やっとひとりになれる就寝前、彼女はアンドレを待つ。
    屋敷でも忙しい彼が、彼女の部屋に来るかは判らない。
    彼女がひとこと来いと言えば、彼は必ず来るだろう。
    だってあいつは、私付きの従僕なのだもの。
    だからこそ、彼女は何も言わずにただ待っている。
    命令して来させたって、ちっとも嬉しくないじゃないか。
    恋に不慣れな彼女にだって、そんなことは判っていた。
    今夜はもう、来ないかな。
    そう思った深夜。
    扉を小さく叩く音がした。
    ――アンドレ!
    ぱっと華やぐ笑顔。
    けれどそれは、みるみるしぼんでしまう。
    どんな顔をすればいいのだろう。
    訪れを待ち焦がれていたのに、胸を埋めていくとまどい。
    待っていたことを感じさせたら負担になるんじゃないかとか、侍女達と親しく笑っているところを見て寂しく思ったとか、埒もないことで心がいっぱいになっている。
    「悪い。遅くなった」
    ワイン片手に扉を開けて、アンドレが入ってきた。
    いかにも「酒好きのお嬢さまのご所望です」というその姿。
    誰かに見咎められても大丈夫。これなら、ごまかせる。
    でも、いつまで?
    私たちはいつまで、人目をさけなければならない?
    もし人に知られれば、彼は「愛人」と呼ばれるのだ。
    それがやるせなくて、彼女はうつむいてしまった。
    やっと2人きりになれたのに、笑顔になれない。
    彼と思いが通じ合ったばかりの頃は、夜更けの短い恋人の時間がただ嬉しかったのに。
    「どうした?この頃少し、ふさいでいるね」
    グラスにワインを注ぎながら、彼の口調は穏やかだった。
    あんなに激しさを見せたおまえなのに。
    そう。
    この頃のアンドレは、急速に大人へと変わっていた。
    もちろん年齢的にはとっくの昔に大人だけれど、ほんの少し前まで彼の中で逆巻いていた激情は、今はない。
    もともと控え目で穏やかだった彼が、海のような深さまで感じさせるようになっている。
    子供の頃から一緒に転げ回り、ときには取っ組み合いで殴り合って、泣いて笑って…
    たくさんの顔を見せてくれた彼なのに、思春期を過ぎるにつれて、感情を(おもて)に出さなくなってしまった。彼女への想いすら、あの日までは完璧に抑え込んで。
    恋人同士になったばかりの頃は、さすがに毎夜のように彼女の部屋を訪れていたけれど、今では屋敷の空気を大切にし、恋人の体を気遣い、誰からも怪しまれない節度をもってふるまっている。
    そんな理性的な彼の態度は、彼女を不安にさせた。
    おまえが激しく求めてくれないと、私は自信がないんだ…
    本当の恋を知ってからの彼女は、変わっていく自分自身に翻弄されっぱなしだった。
    寂しいとか、せつないだとか。
    ……侍女にやきもち…なんて。
    こんなの私じゃない。
    自分の中にそんな感情があるなんて、今まで思いもしなかった。
    彼が侍女たちに見せる当たり前の笑顔にいらだつ。ちょっとした親切も気にいらない。たかが一緒に食事を取っていることでさえ、不快な気分になる。
    今まで彼に特別な感情を持たずにきた自分が、信じられなかった。
    美しい黒葡萄色の髪を持つ、1つ年上の幼なじみ。
    彼をこんなに、愛してしまうなんて。
    無駄に過ごした長い年月が、今さら悔しかった。
    取り戻したい。
    私だけを見て。
    そんな気持ちが入り混じって、この頃の彼女は、彼の前ではひどく無口だった。
    素肌を触れあわせているときですら、別のことを考えている。
    …30も過ぎて何も知らない私なんかより、娼館の方が楽しめるんだろうな…
    ひとつ言い始めたら、くどくどとなじってしまいそうだから、彼女は押し黙る。
    判っているのだ。自分の考えていることの鬱陶しさも、くだらなさも。
    自分自身ですら嫌悪するほどなのに…
    手なづけられない感情に閉じこめられて、自分でそこから出る方法を彼女は知らない。
    初めての愛に引きずられるばかりの彼女には、口を閉ざして仕舞いこむしか術がなかった。
    しかもそんな恋人の気持ちをはかりかね、自然と彼までもが無口になってしまう。
    絵に描いたような悪循環。
    司令官室でなら普通に話せるのに、深夜の部屋では言葉を探して、目をそらしあう最近の2人。
    怒っているのとも違う、彼女の妙に沈んだ様子。
    しばらく続くこの状況に、今夜はとうとうアンドレがじれた。
    意を決した彼は、長椅子でうつむく彼女の隣に座った。
    「オスカル?」
    頬に手をかけ、目が合うように顔を向けさせてみる。
    彼は胸に溜まっていた疑問を口にした。
    「おまえ、俺とのこと…後悔してるのか?」
    そんな。
    思いもかけない彼の言葉は胸に刺さって、彼女の呼吸(いき)を止める。
    後悔なんて、少しもしていない。
    彼への想いは、日に日に大きくなるばかりなのに。
    …届かないん…だ。
    瞳に涙がたまって、アンドレの顔がぼやけてくる。
    彼女は涙を見られたくなくて、顔をそむけようとした。
    けれど。
    頬をしっかり包んでいる彼は、それを許してくれなかった。
    より強く頬を押さえられ
    ――つぅっ
    隠したかった涙がこぼれ落ちる。
    いやだ、こんな。
    これじゃ泣き落としだ。
    そんな自分に、つくづくと情けなくなる。
    女だからと涙を盾にするなんて、もっとも卑怯だと思ってきたこと。それなのに。
    こんな私じゃ、いくらアンドレだってうんざりするだろう。
    「すまない。なんでもないんだ。少し…疲れていて、だから」
    うろたえながらそう言う恋人を見て、彼はそっと手を引っこめる。
    あのときも、彼女は静かに涙を溢れさせた。
    “それで私をどうしようというのだ”
    …ああ。
    昔の身勝手な振るまいを思い出し、彼は息を吐いた。
    「俺はおまえを泣かせてばかりだ」
    誰にも覚られてはならない2人の関係。
    秘密を強いられていることが、清らかで真っ正直な彼女にはつらいのだと、彼にも判っていた。
    アンドレは彼女の頭に手を置き、髪をくしゃくしゃにして撫でると、長椅子から立ち上がった。
    「やっぱり伯爵家の令嬢と平民の従僕には、越えられない壁があるんだな」
    その言葉も言い終わらぬまま、彼はためらいなく背を向け扉へ向かう。
    彼女はハッとして、顔を上げた。
    誤解…している?
    ひとつの答えを見つけたような背中。
    違う。違うんだ。私は…!
    気持ちがすれ違ってしまったことが、恋に疎い彼女にも判った。
    このままでは、この恋は淡く消えてしまう。
    何もなかったことになってしまう。
    彼女は生まれて初めて、彼の背中を追った。
    いつだって、突っ走る彼女の背中を追いかけるのが彼の役目だった。
    でも、今は。
    「アンドレ」
    追いついてシャツをつかむ。
    背中に額をつけて。
    「そばにいて。…私をひとりにしないで」
    「え?」
    「このままでいいから、黙って私の言い訳を聞いてくれ。おまえは呆れると思うけど、全部…話すから」
    言葉の下手な彼女は、心の内をさらす恥ずかしさを振り払い、自分の正直な想いを語りはじめた――


    ちょっと感情的になりながら懸命に話して、どれぐらい時間が経ったのか。
    集中が切れてぼんやりしてしまった彼女は、扉に寄りかかって床に座る彼に抱きとられていた。
    胸に頬をつけて、心臓の音を聞いている。
    彼が指先で髪を梳いていて。
    …あ…
    気を取り直した彼女は、その心地よさにまた泣きそうになった。
    そうだ。初めて愛しあった夜も、こんなふうに抱きしめて髪を撫でていてくれた。
    まだそれほど前のことではない、甘やかな記憶。
    不安にばかり気をとられて、すっかり忘れていた。
    なんて馬鹿だったんだろう。おまえの腕は今も、こんなに強く私を抱いてくれるのに。
    「……っ」
    ふいに、彼の肩が震えた。
    黒髪を揺らして、(か)そけき笑いを漏らしている。
    「なんだ?」
    「俺さ、最近おまえが俺を部屋に呼びつけなくなったのは、やっぱり後悔しはじめたからだと思ってた。だから俺も、自分からはこの部屋に来づらくなっていた。それに…」
    「それに?」
    「あんまり入りびたって、おまえに体めあての男だと思われたくなくてさ。正直に言えば、それもあったのに。いや、実はソレばっかりだったかな」
    「…馬鹿」
    彼女もつられて小さな笑いを漏らす。
    「俺だって見栄っぱり。お互いさまなんだよ、オスカル」
    「だけどおまえ、いつも余裕たっぷりだったじゃないか」
    「たまにはかっこつけさせてくださいな、お嬢さま。私は剣も銃もあなたに教えられ、未だ勝てないのですから」
    アンドレは芝居がかった口ぶりでそう言うと、彼女の顔を指先でクッと上向かせた。
    「でも、2人だけのことは、俺が教えてあげましょう。だからもっと、いろんなおまえを見せて。やきもち焼いて、不安ばかりで、寂しがりで、それから?」
    「ぅぅっ」
    つい今しがた吐いたばかりの自分の台詞に、聞くに堪えぬと真っ赤になる彼女。
    「頼む、アンドレ。さっき言ったことは忘れてくれ…」
    「い や だ ね~ もったいなくて忘れられるか」
    冷やかし半分に笑いながら、彼は、今夜真実手に入れた恋人に最上級のくちづけをする。
    もし、彼女が本当に後悔しはじめたとしても、もう手遅れだった。
    さっきの告白は反則だ、オスカル。
    指先が真っ白になるほど、彼のシャツをつかんでいた彼女。
    なんて可愛いんだろう。
    彼女が自分を寂しがるなんて、彼には思いもしなかった。
    バカなやつ。俺は8歳のときから、全部おまえのものなのに。
    長いくちづけと、なじんでいく体温。それが、すれ違いかけた心をもう1度結びつけた。
    すれ違いかけたからこそ、いっそう強く。
    「アンドレ。このまま私を寝室へ連れて行ってくれ」
    「どうしたオスカル。おまえがそんなことを言うなんて!めっずらし~い。知恵熱でも出たか!?」
    男の余裕を取り戻した彼の声に、彼女は完熟トマトのようなふくれっ面をした。
    「あんまりじゃないか、ちゃかすなんて。これでも私には精一杯なのに」
    「う…ん…?…そうか。そうだな。俺が悪かった」
    彼はわざとらしさてんこ盛りで、申し訳なさそうな顔をして見せる。
    「ではこれから一晩をかけて、お嬢さまにお詫びのご奉仕をいたしましょうか」
    「ご奉…仕って、おまえ」
    床に座った状態からのお姫さまだっこは、少々厳しい。
    けれど。
    一世一代のしおらしさを見せてくれたおまえに、ここで男を魅せられなくて何になる?
    ――うりゃあっ!
    彼は気合いで恋人を抱き上げる。
    たくましい浮遊感に、彼女はアンドレの首に腕をからめ、つかまるふりをしながらくちびるを寄せた。
    心につかえた感情を吐き出して楽になったのか、いつもより少しだけ、積極的になれている。チュッと小さな音をたて、彼の首筋に吸いついてみたりして。
    ひゃあ。どうしたんだ、オスカル!
    嬉しいハプニングに、彼はいっそう軽々と彼女を寝室へと運ぶ。
    今までなら、ただ身を固くして抱かれていただけの彼女。おかげでこんな些細な仕草でも、彼はいっそう誘われてしまい、つい耳もとで囁いた。
    「では、お嬢さま。今夜はどんなことを教えて欲しいのですか?実技に入る前に、わたくしめに 詳 し く ご説明いただきたいのですが」
    「ばっ…かやらう!そんにゃこと言えるかっっ!!」
    「はあぁ~」
    積極的といっても、これじゃまだまだ。
    赤味を増した頬で、噛み噛みに答えてよこした恋人に、彼は脱力の吐息をつき、苦笑した。
    おまえの知っていることなんて、ごくごく初歩だって判ってるか?
    「おい、アンドレ。おまえ今、笑ったな?」
    「いいえ、めっそうもない」
    放り出された寝台の上で、彼女は笑うアンドレを見あげた。
    彼の手が降りて来るのを、少し怯えた気持ちで待っている。
    いつもおまえを待たせてきたのが、私なのに。
    金色の髪を払い、ブラウスのボタンを外していく肉厚な手のひらや指。
    「…ん…っ…」
    しっとりと重なってくる彼の重さが嬉しくて、心から女だと感じた。女でよかったと。

    明日からは、おまえを待つ寂しさも甘美なものになりそうだな。

    …ぎ…っ。
    彼女の膝をすくって姿勢を変えた彼に、寝台が微かな音をたてた。
    白い肌を滑る彼のくちびるが熱く、黒髪がわき腹をくすぐる。
    「アンドレ!ちょっ‥と待っ…」
    「ダメ」
    「それ‥は。‥‥まだ‥恥ずかし‥‥だ、ろ」
    「そう?俺は全っ然恥ずかしくないけど」
    「おまえ、ずる‥い‥ぞ」
    彼のことをもっと考えていたかったけれど、容赦のない甘さで責めあげてくる彼の全部に、彼女は初めて何も考えられなくなっていった。


    FIN
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