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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【はざまに見る夢】

UP◆ 2013/1/4

    「はぁ」
    吐く息までもが熱くて、熱のこもった体にじっとりと汗をかく。
    ‥‥母さ‥ん‥
    ああ。俺は夢を見ている。
    ジャルジェ家に来たばかりの頃、俺はしょっちゅう熱を出していた。
    俺の育った南フランスは温暖で、豊かな陽射しの溢れるところ。夏でさえ、陽が落ちれば肌寒さを感じるベルサイユには、なかなか体がなじまなかった。
    だんなさまにいただいた個室は、それまで暮らしていた家よりずっと広くて立派で、親を亡くしたなんの後ろ盾も持たない8歳児にはじゅうぶん過ぎるほど。ある程度の調度も整っていて、暮らすには快適だった。
    それなのに四六時中熱を出していたのは、やっぱり寂しさからだったのだろう。突然母親に死なれて、住み慣れた町から引き離された、まだ子供だった俺の。
    胸から吐き出される息が熱くて、くちびるが乾き、喉も渇く。
    ‥み‥ず‥
    冷たい水が飲みたかった。
    けれどひどい倦怠感に、小さな俺は起き上がることもできない。
    唯一頼れるはずの祖母は、役立たずな子供を引き取ってもらった負い目に、ほんの少しの甘い顔も見せてはくれなかった。こんな時でもお屋敷で忙しく立ち働き、様子を見に来る気配は露ほどにもない。
    …母…さ‥ん…
    意識がぐちゃぐちゃに混濁してきて、母親が死んでいるのも判らなくなり、幼い俺は1人きりの寝台でわんわん泣く。
    こんなに熱いのに
    こんなに苦しいのに
    母さん、どこ?
    熱にとろけた脳みそには、自分の泣き声さえも遠く聞こえる。
    豊かではない暮らし。
    そうだ。
    今、母さんは仕事に行っている。
    『とっても心配なのだけど。ごめんね、アンドレ。働かないと、お医者さまにもかかれないの。判ってね』
    母親の冷たい手が、俺の額に触れる。
    『すぐに帰ってくるから、おとなしく横になっているのよ。明日には先生に診せてあげられるから』
    父親はずっと早くに亡くなって、僅かな記憶すらない。
    働きづめの母親。
    遠い記憶の中にも、丈夫な人ではなかった。
    母さん。今の俺なら、守ってあげられるのに。
    『もう行かなくちゃ。アンドレ、いい子にしてるのよ』
    カタリと靴音がして、母親は立ち上がる。
    喉が痛くて声も出ない俺は、小さく頷き、母親を見送った。
    待ってるからね。早く帰ってきてね、母さん。
    熱に潤む瞳には、出ていく姿がにじんで見える。
    医者になど診てもらえなくてもいいから、そばにいて欲しかった。
    母さん、ぼく、大丈夫だよ。苦しくなんかない。だからおねがい、行かないで。
    『すぐに帰ってくるから』
    そう言った母親だったが、それが嘘なのは判っていた。
    診察代と消える日銭を稼ぐために、今夜はきっと遅くなる。
    『…っ』
    熱でグラグラする頭。
    それでも俺は、起きあがろうとシーツをつかんだ。
    枕もとに寄せられたテーブル。その上に、母親が用意していった煎じ薬があった。
    効くんだか効かないんだか、まじない程度の怪しいものだったけれど、熱が下がる薬草だと言って、疲れた体で母親が摘んできてくれたもの。
    にがくてクソ不味いそれに、俺は懸命に手を伸ばす。
    全部飲んだら、いい子だよね?そしたら、母さん、すぐに帰ってきてくれる?
    寝台の上で這いつくばって、俺は身を乗り出してゴブレットに触れたが。
    コト…っ。
    よろけた指に押されたそれは、あっけなく倒れた。
    渋い色の液体がテーブルの上に広がって、床へと滴り落ちる。
    あ…
    薬が。せっかく母さんが用意してくれた薬が!
    熱でいかれた頭には、それがどうしようもなく絶望的に思え、幼い俺は母親への申し訳なさに声を上げて泣いた。
    ごめんなさい。母さん、ごめんなさい…
    こんな悪い子じゃ、母さんはもう、帰ってきてくれないかもしれない。
    「か‥‥さん‥ごめん‥‥ね‥?」
    痛みに掠れた声。
    喉の奥で血の味がしたけれど。
    次の瞬間、からんではりつく喉によく冷えた水がしみてきた。
    「わたしだ、アンドレ。だいじょうぶか?」
    俺を抱き起こす、俺よりも小さな肩。
    くちびるに冷たいグラスの感触がして、清涼な水が少しずつ傾けられていた。
    「ほら、もう少しのんでみろ。きっとすっきりするぞ」
    俺はうながされるままコクコクとそれを飲み、そしてようやく寝苦しい夢から解放される。
    「アンドレ、わたしがわかるか?」
    心配そうに俺をのぞきこんでいる、澄みきった青い瞳。
    「ああ… オスカル」
    「ひどいねつだな」
    おまえは俺に額を寄せた。
    「でも、もうだいじょうぶだぞ。今夜はわたしがずぅっとついていてやるからな」
    グラスに1杯の水をあっという間に飲み干した俺を、おまえは丁寧に寝台へと押し戻す。
    出先から戻ったばかりなのだろう。小さなおまえの手は、ひんやりと冷たかった。
    「同じ‥だ」
    「ん?」
    「おんなじ…なん…だ」
    小さくつぶやきながら、俺はゆるやかな眠りへと落ちてゆく。
    『アンドレ、ごめんね!』
    息を切らして帰ってきた母親の、冷えきった指先。
    おんなじなんだよ、オスカル……

    「オスカルさま?アンドレったらこんなに熱があるのに、笑っていますわよ?」
    「ああ。なんだか知らんが、こいつは子供の頃から熱を出すとへらへら笑うんだ。きっと幸せな夢でも見ているのだろう」
    このところ、激務が続いた衛兵隊。
    珍しく風邪をひき、寝こんでしまったアンドレを見舞ったオスカル・フランソワは、侍女を伴い、そっと彼の部屋を出た。
    ――こんな夜。
    高い熱のはざまに潤んだ瞳で、傍らを見やれば母がおり、その反対側にはもっとも愛する女のいる、そんな夢を彼が見ていることは彼女でも知らない。


    FIN
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