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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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    「隊長、点呼にも顔出さなかったな」
    夜勤の詰め所。
    隅の椅子に座り、心ここにあらずな様子のアンドレに、アランが話しかけた。
    「ま、点呼ごときに准将どのがいちいちお出ましになるなんざ、その方がおかしいんだけどよ」
    「オスカルは出るつもりだったけど、ダグー大佐が今日は定時で帰したんだ」
    「へぇ。隊長がダグーのおっさんの言うことを素直に聞くなんて、珍しいこともあるもんだな」
    彼は皮肉気な口調の同僚に目を上げた。
    といっても、彼に見えるのは、逆光も相俟って、大柄なアランの濃い影だけ。
    この頃ますます見えにくくなってきている。
    午後の司令官室で、彼はオスカル・フランソワの頬をとらえ、強引に顔を向けさせた。
    息がかかるぐらい瞳を近づけて、やっと彼女の腫れた目が判る程度の彼の視力。
    両手には、まだ柔らかい頬の感触が残っている。
    久しぶりだった。
    あんなふうに、彼女を引き寄せたのは。
    以前にはよく、思い悩む彼女の肩を抱いたり、腕の中に包んで泣かせてやったものだけれど、彼がつい長年の想いを暴走させて、無体な告白をしてしまってからは、自分から近づくことを控えていた。
    両手で頬をはさんだ瞬間、びくんと震えた彼女。
    まずい。
    そう思ったけれど、そこで慌てて手を離すのも不自然に思えて、彼はそのまま彼女の顔をのぞきこんだ。
    腫れたまぶたと、赤く潤んだ瞳。
    そして、どこか奇妙に緊張した彼女の気配。
    逆巻く感情を、懸命に抑えているかのような。
    それを、何も知らない彼は誤解した。
    やっぱりまだ、俺が怖いのか。
    1歩間違えば気まずくなってしまいそうで、彼はあえて、おちゃらけて言った。
    『あ!判った、オスカル。だっこして欲しいんだろ?俺がひと晩帰らなくて寂しかったのかぁ』
    そんなこと、あるわけがない。
    判っていた。
    でも、その場の空気を混ぜ返すように明るく言って、彼は司令官室を後にしたのだった。
    「もっともあの顔じゃ、隊長も出て来なくて正解だよな」
    「おまえ、オスカルに会ったのか?」
    「いや。見かけただけだ。勤務表のことでダグー大佐に用があって、出勤前におっさんの部屋に寄った。その途中で、廊下の窓ごしにチラッとな。
    ……なんかあったのか?」
    「たぶん。でも本当のところは判らない」
    「判らない?ふふん。おまえでも、あの女のことで判らないことがあるとはねぇ」
    半笑いなアランの、挑発的な言い方。
    少し前ならいらっときたものだが、もう慣れた。
    いや、慣れたというのとも少し違う。
    いつとはなしに、アランの彼女への秘めた想いに気づいてから、彼にはそんな態度をとってしまうアランの青さが理解できるようになっていた。
    自分も通ってきた道だからだ。
    フェルゼンへの片恋に身を焦がす彼女を、ただ見ているしかなかった苦しみは、彼の胸の奥に未だある。
    そして今は、それ以上の苦しさをジェローデルに対して抱えていた。
    堂々と彼女に愛を告げられる男と、ただ身分が低いというだけで、愛することすら咎められる己の立場に、彼とて平常心ではいられない。温和で忍耐強い彼が、ついショコラをぶっかけてしまうほどに。
    アランが思うほど、彼も悟りきっているわけではないのだ。
    「俺にだって、判らないことはたくさんあるよ」
    主従であれば、アンドレの主人はオスカル・フランソワだが、当然レニエが彼女以上の権限を持つ。
    そのレニエから、彼はこのところずっと、秘密の命令を受けていた。
    『あのじゃじゃ馬も、おまえの言うことなら多少は耳を傾けるだろう。すぐに結婚を承諾しろとまでは言わぬ。まずは一緒に観劇にでも行くなり、ジェローデル邸へのお招きにあずかるなり、ヴィクトールとの時間を持つよう、あれを説得するのだ。
    延いてはそれが、ジャルジェ家の安泰と、あれの女としての幸福に繋がる。おまえには判るな?アンドレ』
    畏まった従僕顔で、レニエの命令を聞いていた彼。
    しかし。
    それがオスカルの幸せなのか?あれほど思い悩んでいるというのに。
    彼にはちっとも判らなかった。
    そうだ。俺はあいつのことなど、少しも理解できていない。どうしてやることがあいつの幸せなのかも、思いつかない。
    ただ、いま判るのは、昨夜は屋敷に戻れば良かったということだけ。そうすれば、長々とレニエの部屋に囚われていた彼女を救い出すこともできただろうに。
    オスカル。
    あんなに真っ赤な目をして、どんな想いで1人、夜を過ごしたのか。
    「帰ってやればよかった」
    ぼそりとつぶやいた声は、とても小さなものだった。
    けれど、アランはそれを聞き逃さなかった。
    「おまえ、昨夜、屋敷にいなかったのか?」
    「ああ。だんなさまにご用を言いつけられて、ラソンヌ先生のところへ行っていた」
    「ラソンヌ先生って、ジャルジェ家のかかりつけ医師の?」
    「そうだ。そこでやけに引き止めら‥」
    「行くぞ、アンドレ!」
    まだ話の途中だというのに、アランは急に背を向けると彼の言葉をぶった切った。
    ずんずんと扉へ向かうアランに、他の隊員が声をかける。
    「どうしたのさ、アラン」
    「夜警に出てくる」
    「もうそんな時間?早くねぇ?」
    「眠気覚ましだ。とっとと来い、アンドレ」
    アランは振り向きもせず出て行ってしまい、彼はわけが判らないままその後を追った。
    雲の多い宵闇に、まぎれてしまいそうな背中。
    小走りに追いつく。
    「どうしたんだ、アラン。俺、何か気に障ることでも言ったか?」
    「そうじゃない。が…」
    言い澱んだアランに、彼はようやく察しがついた。
    「オスカルのこと、か」
    「医者はなんて?こんな話、詰め所じゃできないだろう」
    オスカル・フランソワの体調不良。
    それは今のところ、アランしか気づいていない。
    ダグー大佐や、他の衛兵隊の将校も、彼女のこのところの不調には気がついているが、それはジェローデル家との婚姻騒動による心労が原因だと思っている。
    が。
    彼女の体調不良は、今に始まったことではなかった。
    数年前に1度、血を吐いて倒れたことがあるのだ。
    それはジャルジェ家の私室で起きた。彼と2人きりのときだったのは、まだ幸運と言えた。
    秘密裏に医師に診せ、レニエにも、マロンにさえも覚られぬうちに、事態は彼の機転によって隠蔽された。
    労咳か、壊血病かと血の気が引いたアンドレだったが、医師の診断は流行りの風邪と貧血、そして過労というものだった。
    吐血が胸からくるものではなく、気管支を傷めたための一時的なものと判り、彼は心底安堵したけれど。
    しかし、それ以来、彼女が完全に復調することはなかったのだ。
    「先生の診断は変わらない。今も療養を勧めている」
    「でも、隊長が受け入れないんだろう?」
    「ああ。今では医者に寄りつきもしない。貧血や過労など、気合いの問題だとあいつは思っている」
    自分がたるんでいるからだと。
    「隊長も体育会系バカだからなぁ。根性論、好きそうだもんな」
    「貧血という、女性にありがちな病なのも受け入れ難いらしい。気持ちは判るけれど」
    「そういう問題じゃないよな。ただでさえ、衛兵隊は近衛に比べりゃ激務なんだから。隊員たちの心配してる場合じゃねぇっての。昼間のフランソワ、見たか?
    『隊長にお茶に呼ばれたぁ』って、完全に浮かれてたぞ」
    面白くなさそうにぶつぶつ言うアランに、彼は笑いを隠せなかった。
    「フランソワにやきもちか?おまえってほんと、判りやすいな」
    「う‥うるせぇ!誰があんなオトコ女と茶なんか飲みたいもんかっっ!!」
    「はいはい。硬派な班長さんは、隊長とのお茶会には興味はない、と。オスカルによく言っておくよ」
    からかいを含んだ彼の声に、アランは1人血圧を上げ、口をパクパクさせる。
    うまい反論が見つからないらしい。
    やがてアランは諦めて、ぷいと顔をそむけると、彼を置き去りにするように歩調を早めた。
    まったくガキだな。
    そんなアランを少し可愛く思いながら、彼はつかず離れずの距離でついて行く。
    2人はしばらく黙ったまま、普段通りの夜警ルートをたらたらと歩いていたが。
    不意にアランが足を止めた。
    周囲の様子を窺うように、目もとが険しくなる。
    「アラン?どうかしたのか?」
    「…風が出てきたな」
    「?」
    「少し休むか」
    アランは彼の返事も待たず、手近な灌木の茂みに向かう。訝し気な顔をしたまま彼が腰を下ろすと、自分も少し離れた草地に座った。
    「飲むか?アンドレ」
    アランはポケットから薄い酒瓶を取り出すと、彼へと放ってよこした。
    雲の切れ間に頼りない月光。
    濃い色の酒瓶が、彼の目に捕らえきれるわけがない。
    「ちょっ、アラン!」
    受け止めようと咄嗟に差し出した手は空をかき、酒瓶は草をクッションに、地面に転がる。
    「その様子だと、大分進んでいるようだな」
    「…」
    「どの程度、見えている?」
    「……」
    「昨日、ジャルジェ将軍の使いで医者へ行ったのなら、ついでに診てもらってきたんだろう?」
    追及してくるアランに、彼は仕方なさそうな笑いを向けた。


    その日の日勤を終えたオスカル・フランソワ。
    夜勤者の点呼には顔を出すつもりでいたが、結局、目の腫れや赤味はいっこうに引かず、ダグー大佐の勧めに従って帰宅した。
    と、誰もが思っていた。
    しかし彼女は。
    「来た!」
    おとなしく帰るわけなどなかった。
    さっくりと帰ったふりをして、物陰に潜み、夜勤の詰め所を張りこんでいたのだ。
    衛兵の交代や夜警などで、隊員が出たり入ったりする。
    皆、意外とまじめにやっているようだった。
    時おり軽く酔ったような者も見受けられるが、着任当初に比べれば、勤務態度は見違えるように向上している。
    そもそも荒れた生活をしてきた民間上がりの隊員たちに、完璧を要求することに無理がある。
    自分のいないところでも、そこそこまじめに勤めている様子を垣間見て、彼女は一応の満足を覚え、ほっとしていたが。
    やがて長身で黒髪の2人組みが出て来るのを視認し、表情を引き締めた。
    来た!アンドレとアラン。
    フランソワの言った通りだ。
    2人で夜警に回るらしい。
    予定より少し早いが、この時間のルートは…
    彼女は頭の中で地図を広げながら、2人の尾行を始めた。
    もちろん彼女は、士官学校時代に斥候の訓練も受けている。が、実際にやってみるのは初めてだった。
    勝手知ったる敷地内。
    ましてや相手は幼なじみと部下だというのに、思いの外、緊張する。
    気配を殺して2人の後方に、時には前方や側方にも回りこみ、会話が拾えるギリギリの距離をはかる。
    しかし、声が聞こえるところまではなかなか近づけない。
    もどかしい。
    何か言っている抑揚だけは、聞こえてくるのだが。
    焦る気持ちと、斥候中の冷静な心を同居させ、夜警のルートが中ほどまで来たときだった。
    先行していたアランが不意に足を止める。
    そして彼女の潜む灌木の茂みへと向かって来た。
    バレた?
    いや、違う。
    どうやら、休憩らしい。
    2人は適当に腰を下ろしたようだったが、アンドレは少し離れたところに、アランに至っては、彼女のすぐ近くに立て膝をついて座った。
    2人の声がグッと近くなる。
    これからどんな会話が始まるのか。彼女は胸の奥に、ぎゅっとつかまれるような痛みを感じた。
    「飲むか?アンドレ」
    アランがポケットから何かを取り出した。灌木の小枝に阻まれてよくは見えないが、薄い酒瓶のようだ。
    アランはそれを、無造作に彼へと放つ。
    「ちょっ、アラン!」
    彼は反射的に受け止めようとしたが、その手は空をかき、酒瓶は草地へと転がった。
    瓶の落ちた辺りに、手を這わせるアンドレ。
    ちょっと離れたところにバウンドした酒瓶が彼には見つけられないらしく、やみくもに這い回る手もとが虚しい。
    彼女はそれを、信じられない思いで見ていた。
    ――暗いからだ。月も薄く、瓶の色も濃い。
    私だって、急に投げつけられたら受け取れない!
    彼女はそう思いこもうとした。
    けれど。
    「その様子だと、大分進んでいるようだな」
    「…」
    「どの程度、見えている?」
    アランの言葉に、息が止まった。
    「昨日、ジャルジェ将軍の使いで医者へ行ったのなら、ついでに診てもらってきたんだろう?」
    追及するアランに、彼が仕方なさそうに笑う気配がする。
    …いやだ。聞きたくない!
    彼女はいっぺんに逃げ出したい気持ちに駆られ、でも、そこから動くことはできなかった。
    知らぬままではいられないと、判っていたから。
    「失明は時間の問題だそうだ。除隊を勧められた。今からでも、眼科医の治療を受けろと。ラソンヌ先生は名医だけれど、眼に関しては門外漢だから」
    「おまえ… 辞めろ。明日にでも除隊しろ」
    「こんなところにあいつを置いて辞められるか。
    誰にナニされるか判んないだろ」
    こんな話をしているのに、彼の声はまだ笑いを含んでいる。今や信頼関係の成り立ったアランへのブラックジョークだったらしいが、彼女にはちっとも笑えなかった。
    それはアランも同じらしい。
    「はぐらかすな。俺がおまえをかばいきれなくなる前に、自分から辞めろって言ってんだよ。
    その方がまだ、傷が浅くてすむ」
    「傷?」
    「決まってるだろ。いきなり他人から『アンドレは見えていない』と突きつけられたときの、隊長の心の傷だ」
    思いもよらないアランの言葉が、闇色に塗りつぶされる寸前だった彼女の心を、かろうじてつなぎ止めた。
    アランがそんなふうに思ってくれていたなんて。
    彼の協力者がアランだとは、予想がついていた。
    そして、そのことに確信が持てたときには、アランを責め立ててしまうだろうとも思っていたけれど。
    意外にも彼女の心を占めたのは、感謝だった。
    彼の目の状態を上官である彼女に黙っていたことはそれとして、激務の続く衛兵隊の中で、彼を支え、守ってきてくれたのは、まぎれもなくアランだったのだ。
    不器用で口の悪い、素直じゃない男。
    「気遣いは嬉しいけれど」
    やっと探り当てた酒瓶をしばらくもて遊んでから、彼はようやく口を開いた。
    「俺は辞めない。絶対に」
    「アンドレ!」
    「何を犠牲にしてでも、この芝居を演じきってみせる」
    その終演は、明日にも突然来るかもしれないのだ。
    愛する女の、結婚という形で。
    「おまえには迷惑かけるが、頼む。力を貸して欲しい。確かに俺の目はかなり見えにくくなってきている。でも、それをあいつが知れば、きっと自分を責める。死ぬほど泣くに決まってる」
    淡々とした、彼の声。
    「なぁ、アラン。俺は過去に1度だけ、あいつを泣かせたことがあるんだよ。そのときで懲りているんだ。俺のせいで泣く顔は、もう見たくない」
    「けっ。笑わせんなよ。見たいも見たくないも、おまえ既に見えてないだろうが」
    アランの呆れて薄く笑う気配。
    「まったくだ」
    彼もまた、応えるように自虐的に笑う気配を見せて、2人は立ち上がった。
    休憩を終え、夜警に戻るらしい。
    アランの背後の茂みの奥で、身を固くする彼女。
    いつの間にか、両腕で自分を抱くような格好になっており、それぞれの二の腕には、きつく爪が食いこんでいた。
    とりあえず2人が立ち去るまでは、息をひそめ…
    しかし、アランは腰を上げる瞬間、極めて低く小さなつぶやきを残していった。
    アラン、今…なんて?


    「まだ泣くんじゃねぇ」
    そう言ったように聞こえたのだった。
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