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【2章 あたえられた時間-3】
UP◆ 2012/2/1控えめに響くノックの音。
彼女には思いのほか大きく聞こえ、肩がびくりと震えた。
その音は耳に聞こえたのではない。
ある意味運命の扉が叩かれるその音は、彼女の胸に直接響いてきたのだ。
部屋の中をうろうろと歩き回っていた彼女は足を止め、返事をするのも忘れて扉を凝視した。
ノックは2回、3回と響き
「隊長…?」
扉が少しばかり開けられて、顔をのぞかせたのはフランソワだった。
呼ばれて来たはずなのに、返答のない司令官室にとまどっていたのだろう。室内に彼女の姿を認め、ほっとした様子を見せた。
「入っていいんですよね?」
「あ‥ああ、もちろんだ」
おずおずと聞いてくるそばかす顔に、彼女はゆとりのある笑顔を向けた。
それは長年培った条件反射。
考えなくても、己の立場に相応しいように自然と体が動く。
1人のときとは打って変わって落ちつき払った態度で、彼女は年若い部下を部屋に招き入れた。
普段通りに執務机の前に立とうとしたフランソワだったが、彼女は小柄で痩せた部下の背に軽く手を添えると、さりげなく応接スペースに案内する。
少し奥まったそこは窓に近く、廊下の喧噪も多少は遠い。いきなり誰か ──それはもちろんアンドレが── 扉を開けても、うっかり会話を聞かれる恐れはないだろう。
「勤務時間前だというのに悪いな」
彼女が軽めな口調でねぎらうと、フランソワはにこにこと素直な笑顔を見せた。勤務時間外であっても、美しい上官のそばに呼ばれたのが嬉しいのだ。
「いえ、どうせすることもなかったし。でも」
フランソワはちょっと居心地悪そうにきょろきょろしている。
司令官室には将校当番兵として出入りしているし、それ以外にも職務上で何度も入っているけれど、こんなふうに席を勧められたことはなかった。
ふかふかの豪華なソファ。
彼女がここで他の将校や、自分など口もきいてもらえないような、恐ろしげな顔をした上層部の面々と打ち合わせなどをしているのを見たこともある。そんなところにいるのは、どうにも落ちつかなかった。ブイエ将軍に見つかれば、どんな目に合わされるか判らない。
「まぁ、そう緊張するな」
彼女はかたわらに用意してあった茶器を引き寄せた。
厚手の刺し子のカバーに包まれたティポットはまだじゅうぶんな熱さを保っている。
茶葉をすくい、手ずから丁寧にお茶を淹れ…
それはすべて時間稼ぎだった。自分に対しての。
呼び出した部下は現れたのだから、速やかに知りたいことを問えばよいだけなのに、ぐずぐずと時間をかけている。
こんなことをしていれば、やがて本当にアンドレがやってきてしまうだろう。
『そう緊張するな』
その言葉は、むしろ自分に向けたものだった。
いくらもったいぶったところで、2人分のお茶などすぐにはいる。
彼女は覚悟を決めて、フランソワにカップを押し出しながら、世間話のように切り出した。
「最近パリへの巡視にかり出されることも多いだろう?休みもままならず、みんな疲れがたまっていると思うが、不満などは出ていないだろうか。先日も兵舎で乱闘騒ぎがあったことだし、皆、苛立っているのではないかと少し気になったものだから」
「不満、ですか?」
仲間内のことを言ってもいいものかとフランソワは口ごもったが、敬愛する彼女を信じ、ぽつぽつと話し出した。
その語りは横道にそれたり脱線しがちだったが、彼女は根気よくうんうんと頷き、そして、徐々に論点をずらしていった。
「ではアンドレも、今では皆となじんで上手くやっているのだな」
「はい。特別入隊してきたときは俺たちも『新隊長のスパイだ!』なんてけっこういやがらせしちゃったけど、今は仲良くやってます。アンドレ、練習熱心だし」
「練習熱心?」
「射撃訓練なんかすごいです。いつも1人残って遅くまで。『狙撃班にでも入るつもりか』って班長は笑ってますけど」
「アランが?」
あれだけアンドレに突っかかっていたアラン。
『片目の従卒殿、ご熱心なことで』
そんな嫌味のひとつも言いそうなものだが。
「アンドレ、弾薬使い過ぎてるんです。個人で練習用に許可されている分は使い切ってしまって、今はアランが班長の権限でうまくごまかしているみたいです。練習にもときどき、つきあっているみたいだし」
どういうことだろう。そこまで執拗に練習するなんて。
「今も射撃練習場にいると思いますけど」
「何?あいつ、もう出勤しているのか!?」
1班のシフトは夜勤な上、すでに出勤しているにもかかわらず、私にあいさつにも来ていないとは。
なぜだ?どういうことだ?
どうにも解せぬ気持ちに指先が落ちつかず、コツコツとテーブルを叩く。
「アンドレ、昼前には来てたんじゃないかと思います。俺が昼ご飯食べに食堂に行ったら、隅のテーブルで班長と話してて。だから『ああ、また練習するんだな』って。
あの、でも、食堂すごく混んでたし、チラッと見ただけだから。…すみません、ほんとに練習場にいるのかは判らないです。俺がそう思っただけ‥なん‥で」
急にピリピリした気配を発散し出した彼女に、気弱なフランソワはおどおどし、悪いことをしたわけでもないのについ言い訳がましくなる。
「でっ、でも!ここしばらく、アランとアンドレ、やたらと一緒にいるんです。はじめはみんな奇妙に思ってましたけど、最近ではもう慣れてきて、だからてっきり。…確かにアンドレだったと思うんだけど…違ったらすみません」
ちっ。しくじった。びびらせてどうする!
黒髪に隻眼。
どう考えたって見間違いようもない彼なのに、自信なさそうに萎縮しはじめたフランソワを見て、彼女は苛立った気配を瞬時に引っ込めた。
まだ聞きたいことはたくさんある。
なるべく親しみやすい空気を作り、フランソワの気分を持ち上げるのに苦心しながら、彼女はその後も雑談を装った会話に探る心を潜ませて、小一時間を過ごした。
礼を言ってフランソワを退がらせたあとには若干の疲労を覚え…
しかし彼女はソファに沈みこんだまま、頭の中を整理しはじめた。
アンドレとアラン、か。
アランが一方的にからんでいたとはいえ、2人は犬猿の仲だったはず。アランの挑発に乗ったアンドレが、発砲騒ぎを起こしたこともあるぐらいなのだし。
それが最近では妙に親密で、夜勤のときなどは夜警のルートも一緒、食事も一緒。休憩時間は、皆から少し離れたところで話し込んでいることも多いのだとか。
当初はその取り合わせに、誰もが訝しんだという。
自分の目の届かないところでの、彼の行動。
今までことさら気にしたこともなかったが、やはり特別入隊直後には、彼も大変な思いをしていたようだった。
結局は立場や身分に守られている彼女と違って、隊員たちの中に身を置き、あからさまな悪意にさらされてきた彼は、いったいどんな気持ちでそのときを過ごしてきたのか。
その上で、いつも彼女を気遣って。
今では隊員たちとも打ち解けて、着任当初の荒れた日々は2人の間で笑い話になっているが、よく考えてみれば、それは彼女の側から見た話ばかり。
『女隊長のスパイ』
そんなふうに皆から思われて、いやがらせを受けていたなんて、ちっとも知らなかったのだ。
改めて彼女は、自分が彼の大きな手の中で、いつでも大切に守られていたことを感じた。
彼という人の、心の強さも。
子供の頃からともに過ごし、ぴーぴーとよく泣いていた幼なじみ。
主人として庇護する対象とも思っていた彼に、依存していたのは自分の方だった。
そして、それが彼の不調から目をそらさせた。
でも。
知ってしまった以上、もう気づかぬふりはできなかった。
それができる環境でもない。
否が応でも迫ってくる期日。
彼女が答えを出せなければ、当主の威令によってレニエの望む手段が取られるだけだ。
それが最終的には彼女の決断と一致したとしても、自分で決めるのと、言い渡されて受け入れるのとでは、その意味はまったく異なる。
「は‥」
短い息を吐き、いいかげんに冷めた紅茶をひとくち飲んだ。
まずはアランだ。
アンドレに協力しているのは、アランと思って間違いない。目立たぬように邪魔の入らぬ時間を作り、アランをこちら側へ引き込まなければ。
彼の視力が予想されているほど悪くなければ、ことは重大とはいえ、まだなにがしかの展開が期待できる。
今のままでは、彼を問いつめたところで、口が裂けても目の不調など認めるわけがないのだから、事態を希望的展開へと運ぶためにもアランを抱き込む必要がある。
そして、フェルゼン。
この事態の発端となった男。
あの決別以来、個人的には1度も会っていない。
会えばどうなるか判らない。
フェルゼンを責めてしまうのか、はたまた決別の瞬間に封じ込めた想いが再燃してしまうのか。
どう転んだとしても、冷静でいられる自信はなかった。
それでも。
「会わなければならない」
無意識に口をつけていたカップは、いつの間にかからになっていた。
それが合図な気がして、彼女はソファを立つと執務用の椅子に戻る。
個人的な思惑はそれとして、ダグー大佐が微笑みとともにたっぷりと引き渡してくれた書類の相手もしなくては。ここには仕事をしに来ているのだから。
とりあえず当番兵を呼び、茶器を下げさせようと思ったとき、扉が力強くノックされた。
注意を引かれ目線を向ける彼女。
このノック。多分、アンドレだ。
彼女はフランソワを相手にしていたときよりなお、明るく軽やかな声音で返事をした。
ここからが、本番。
すぅっと普段通りの顔を作った瞬間、扉が大きく開かれて、入ってきたのは案の定アンドレだった。
「お疲れさまです、准将どの!」
ちゃかすような朗らかな声に、彼女はまるでずっと前からそうしていたかのように書類から目を上げた。
「ああ、アンドレか。早いな。今日の1班は夜勤だろう?」
なんでもないことのように言いながら、注意深くひとこと付け加えてみる。
「いま来たところか?」
「そうだけど」
彼はさらりと嘘をついた。平気な顔で。
──おまえ!
思わず口に出そうになったが、彼女は抑えた。
彼が自分に嘘をつくなんて、今まで考えたこともない。
こんなふうに嘘をついて、おまえは何を守ろうとしている?
訴えかけるような彼女の目線。
それを見返そうとしたアンドレは、おや?と表情を変えた。
「おまえ、ひどい顔色だな」
そしてつかつかと歩み寄ると、座ったままの彼女を見おろしながら、その頬を両手で包んだ。
ぐい、と無理に顔を上向かせ、まじまじとのぞきこむ。
子供の頃から一緒に過ごしてきて、何度となく見つめあったことのある2人。
だというのに。
彼女は動揺した。
黒い隻眼が、必要以上に近かった。
見えていないから…?
波立つ胸を抑え、ぐっと声を出す。
怪しまれてはいけない。
「そんなにひどい顔色か?」
「ちょっとびっくりするぐらいくすんでる。目も真っ赤だし。どうした?何かあったのか?」
くすんだ顔色。真っ赤な目。
見えてはいる…ということだろうか。
「目、赤いか?」
「うーん。赤いは赤いけど、それよりもまぶたの腫れがね」
「本当に?そんなに腫れて見える?」
「そりゃもう笑えるほどにぷくぷくだけど…おまえ、なんでそんなに嬉しそうなんだ」
顔色がくすんでいるだの、目が腫れているだの、普通、女性が言われて嬉しいことではないはずなのに、彼女は嬉しそうだった。
いや、違う。
彼は敏感に感じ取る。
これは『嬉しい』というよりは、そう、『安堵』というのが正しいような。
当然彼は不審に思い、それを追及したいところだった。
『腫れて見える?』
そう言ったおかしな言い回しも引っかかる。
しかし、それよりもっと気になることがあった。
先ほど『何かあったのか』と問いかけたとき、彼女はそれをそっくりと無視した。
まるで聞かれたくないことのように。
思うところのある彼は、あえてもう1度、同じ質問を重ねた。
「昨夜、何かあったのか?」
彼女は頬を包む彼の手をそっとはずし、そのわずかな動作の中で忙しく頭を回転させる。
どうする?どう出る?
「もしかして、だんなさまにまた」
「ああ。部屋に呼ばれた」
彼女はとっさにすべてを隠すのは難しいと判断した。何もかもを伏せようとすれば、かえってぼろが出る。
彼に対して嘘をつき切る自信もない。
ここはある程度認めた方が安全だった。
「ジェローデルが来ないと安心していただけに、晩餐前からの呼び出しは不意打ちだった」
「晩餐前から?」
「父の部屋に軽食が用意してあって、人払いまでされていた。でもそんな状態で食欲など湧くわけないだろう?苦しまぎれにワインをあおるのが精一杯だった」
その表情や声には痛々しいものが滲んでおり、心苦しくなった彼は、それ以上の詮索をやめて彼女から目をそらした。
やっぱり昨日、帰ればよかった。
ラソンヌ医師に引き留められて、結局一晩屋敷をあけてしまった彼。
遅くなっても帰っていれば、話ぐらいは聞いてやれたのに。
きっと眠れずに夜を明かしたのだろう。
もしかしたら泣いていたのかもしれない。まぶたまで腫れているらしいから。
本当は午前中から出勤していた彼は、射撃練習場から戻り、そろそろ彼女の元へ顔を出そうと廊下を急いでいたとき、声高な『隊長』という声に足を止めていた。司令官室から退がってきたばかりのフランソワの声だった。
憧れの隊長にお茶に招かれたのだと、数人の隊員たちに自慢気に話していた。
うらやましがってやいやい言う隊員たちにまぎれて、彼はその話を注意深く聞いていた。
だから、自分では定かに見極めることのできない彼女の目の赤さやまぶたの腫れを指摘することが出来たのだ。
彼女の頬を強引にとらえたのは、機先を制し、さも見えているように会話の流れをつかむため。
彼はいつだって、そんなふうに出来うる限りの注意を払っていた。
見抜けなかったのは、決して彼女の怠慢などではない。
彼はこの『見えている芝居』に、全神経を注いでいたのだから。
そのためならば、嘘も平気でつく。
何を守るため?
そんなの決まってる。
彼女と過ごす、これまでと同じ明日のためだ。
ジェローデル家との縁組が持ち込まれたとき、気の迷いから彼女に毒を盛ろうとしたアンドレ。
すぐに過ちに気づき、それは未遂に終わったが、あのときに彼は自分に誓ったことがある。
命尽きるまで守ってやるのだと。
もし彼女の婚約が整えば、そんな誓いなど身分の壁に簡単に蹴散らされる。
でも、少なくともそれまでは。
「ん?」
彼女がおもむろに立ち上がったので、彼は外していた目線を戻した。
「どうした?」
彼女がじっと見つめている。
思いつめたような、何かを言いたくて、でも言い出せないでいるような、そんな瞳をしている。
今、オスカル・フランソワが何を考えているか。
それは彼女をもっとも理解している彼にも、きっと判らないだろう。
彼女自身だって、よく判っていなかった。
ただ、先ほど彼にしっかりと頬を包まれたとき、昨夜に感じた気持ちが唐突によみがえってきたのだ。
彼に抱きしめられたい。
いつもだったら当たり前のように彼の胸に額をつけているのに、考えてしまったら駄目だった。そんなふうにするには、理由がいる気がして。
「オスカル?どうしたの?」
「あ、の」
「なに?」
「ちょっとだけでいいから、だ‥」
抱きしめて?……って…抱きしめる?
言葉にしようとすると、なんとも大仰だった。
少しばかり、ぎゅっと抱いてくれればいいだけなのだから。
でも。
抱いて?
それはもっと言えない台詞だった。
なんだか艶めかしすぎる。
「『だ』?」
「いや、いい。なんでもない」
「あ!判った、オスカル。だっこして欲しいんだろ?俺がひと晩帰らなくて寂しかったのかぁ。そうかぁ。困ったお嬢さまだな~」
彼のおどけたからかい口調に『そうだ』とも言えず、彼女はぷつりとキレた。
「誰が寂しいものかっっ!だいたいここをどこだと心得ている!!」
くわっと噛みついてきた彼女に、彼は笑いながら扉へと逃げる。
「冗談だよ!」
「当たり前だ!!」
「おお、怖い怖い。…じゃ、オスカル。点呼のときに、またな」
彼はおおらかな笑顔を残したまま、司令官室を出て行った。
扉がぱたりと閉まるのを確認し、彼の気配が完全に消えると、彼女は椅子にへたりこむ。
ひどく緊張していたのだ。
彼の目の動きや動作、間合いのとり方。
息を詰めるほど集中しきって、観察していたから。
「アンドレ」
あれで見えていないなんて。
ここが自分の部屋だったら、押し寄せてくる感情にもみくちゃにされていたかもしれない。
『ここをどこだと心得ている』
このときの彼女を支えていたのは、自ら言ったその言葉だけだった。
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