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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【1章 手紙-4】

UP◆ 2011/8/20

    アンドレの目は、遠からず失明する。
    その事実にオスカル・フランソワの動揺は激しかった。
    懸命に抑えてはいるが、抑えきれている自信はない。
    父に呼ばれて部屋を訪れたときには、絶対に屈しないと疑いもしなかった気持ちが揺らいでいる。
    『この手紙を読んだなら、おまえには結婚を拒否することはできない』
    レニエの言葉の選び方は正確だった。
    命令によっての婚姻の強要ではない。
    この結婚を拒否することが、“彼女には”できないだろう、そう言っているだけなのだ。真実を見てしまった今では。
    レニエは巧みだった。
    さすがに末娘の性格を熟知していた。
    結婚しろと命令し縛りつけても、彼女にはとことん逆らう気丈さと行動力、そしてある程度の権限がある。
    当主の威権を持ってすれば、彼女を無視してジェローデル家と縁談を進め、国王陛下にお許しをいただくのは簡単なこと。
    王党派の2大権門である両家の婚姻とあらば、陛下が難色を示すわけもない。
    しかし、多少の問題がすでに起きていた。
    彼女が派手にぶち壊した花婿選びの舞踏会。
    このことで、彼女を結婚させたいレニエと、それを全力で拒否するオスカル・フランソワの構図が社交界に知れてしまった。
    非公式とはいえ、ジェローデル家がジャルジェ家に婚姻の申し入れをしているのは周知のこと。
    レニエにしてみれば、舞踏会で末娘にヴィクトールを選ばせ、華々しく公式な婚約発表をしたいところだったのだ。
    これ以上彼女が駄々をこねれば、いかに寛容なジェローデル家といえども機嫌を損ねようというもの。
    強引に話を進めたとしても、彼女は反発しつづけ、醜聞は広がることになろう。これではジャルジェ家もジェローデル家も面子が立たない。
    しかも手だてを模索するレニエに、新たな問題が持ち上がっていた。
    ヴィクトールである。
    レニエには、王党派同士の政略的な意味合いかと思われたジェローデル家からの申し入れだったが、ヴィクトールは真実彼女を愛していると言う。
    これにはレニエも驚き、まことに喜ばしく思ったのだが、話はそう甘くなかった。
    なんとヴィクトールは、彼女を愛するがゆえに身を引くと伝えてきたのだ。
    冗談ではない。
    家柄も身分も武官としての能力も、さらに言うなら容姿の点でも申し分のないヴィクトール。
    その上、初めて会ったときから彼女を女性として愛してきたのだとか。
    末娘にとって、これ以上の男はおるまい。
    身を引くと言ったヴィクトールに、レニエは余計に執着した。
    そこまでの愛ならば、必ずや末娘を幸せにしてくれよう。
    レニエはあらゆる手を使ってヴィクトールを引き留めた。
    職務上の重圧もかけたし、情にも訴えた。
    あえてろくでもない花婿候補を耳に入れて彼女の行く末を心配させ、闘争心を煽り…
    彼女に心のあるヴィクトールもまた、レニエを振り切ることができずにいた。
    図らずも、そんな膠着した状況を動かしたのが、フェルゼンだったのだ。
    この好機に、レニエはやり方を変えた。
    命令しても無駄なことを学んだレニエは、舞台を「彼女がみずから選び、望む」かたちへと設定しなおした。
    簡単なことだった。
    強要はしない。
    ただ情報を与え、ひとこと付け加えてやるだけでよかった。
    『アンドレに最高の治療を受けさせてやろう』
    すると、どうだ。
    今、目の前にいる末娘。
    動揺を必死に抑えてはいるが、瞳にははっきりと迷いが見てとれるではないか。つい先ほど、きっぱりと結婚の意志はないと言い切ったばかりだというのに。
    レニエには判っていた。
    自分の幸福が、誰かの不幸の上に成り立つこと。
    彼女はそれが許せる人間ではないと。
    武人として清廉であるように。
    他でもないレニエ自身が、彼女をそう教育したのだから。
    迷いの隠せない瞳の揺らぎに、レニエはことが自身の筋書き通りに運んでいると確信する。
    しかし彼女もまた、動揺に飲まれ、ただ愚かに自分を失うことだけはすまいと精一杯集中を保っていた。
    まずは手紙の内容を確かめてみなければならない。
    そこに書かれているのは、まだ父も知らないという、アンドレの治療の可能性。
    望みは絶たれてしまうのか、それともわずかながらでも期待が持てるのか。
    感傷的になっている場合ではなかった。
    彼女は腹を括り、居住まいを正す。
    「どうぞ、手紙の開封を」
    部下たちに命令を出すときと同じ、よく響くアルトの声で彼女は父親に告げた。
    見事に感情を抑制した末娘の声に、レニエは彼女の覚悟を感じる。
    そして手紙を手に取ると、ペーパーナイフで封を切っていった。
    その動作を見つめる彼女の顔色はすでに蒼に近く、焦燥感で胸がひりひりしている。
    それを見透かしているのか、レニエはもったいぶるほどの手つきで丁寧に手紙を開いていった。
    けっこう厚く見えた手紙。
    しかし本文は3枚ほどで、あとは治療に関する資料だった。
    レニエは確認するように、何度も文字を目で追う。
    そして、納得すると彼女に3枚の手紙を渡した。
    目立たぬように、そっと深呼吸する彼女。
    できる限り気持ちを落ちつけ、開いた紙面に目を向けた。


    その手紙には、今なおアメリカに駐留するフランス人将校が、高名と言われる医師の診断を訳したものであるとの前文があった。
    どうやらこの将校がフェルゼンと懇意らしい。
    今回の件で、もっとも尽力してくれたであろう人物。
    恐らく会うことのないであろうその人物を、彼女は胸に想い浮かべた。
    フェルゼンに似た男なのだろうか。
    私はこの人物に、感謝することになるのだろうか。
    感謝する――それは言うまでもなく、彼女が結婚を選ぶということ。
    私が、結婚を選ぶ、ということ…
    それをおまえはどう思う?笑って祝福してくれるだろうか。
    …きっと…そうだ。おまえは…いつだって…優し‥い‥
    「オスカル!」
    緊張しすぎて逆に軽くぼうっとしかけた彼女に、レニエが喝を入れるように声をかけた。
    細い肩がぴくんと揺れる。
    気が散りかけた彼女はもう1度深い息を吐くと、手紙の文字だけに集中した。
    そして最初に目に飛びこんできたのは、不思議なことにたった一文。
    たくさんの文章が羅列する中、医師からの端的な返答。
    「診てみなければなんとも言えないが」という前置きと
    「アンドレ・グランディエには渡米の価値がある」というものだった。
    その一文に、彼女の目は釘付けになる。
    可能性があるということか!
    ことの次第は別として、彼女の胸に安堵と喜びが広がった。
    しかも医師は、彼の受傷した方の目にも大変興味を抱いているという。軍医としての経験も豊富なその医師は、負傷した兵士を 数多 (あまた)診ており、アンドレの受傷例に特に心引かれているようだった。
    鞭で打たれたというその珍しい傷痕に、できればそちらの目も診たいと言ってきている。むしろ傷めた目の方にこそ、関心があるのではと思えるぐらいだった。
    まるで実験動物的な関心の持たれように、彼女はいささかの不快感を覚えたが、しかし研究者とはそうしたものなのかもしれない。
    それに理由はどうあれ、治療を受ける側としては、関心を持たれないよりは、持たれた方がいいに決まっている。
    ただ、手紙を読み進めていくうちに、大きな問題に気がついた。
    この手紙の書かれた日付。
    ずいぶん前のものなのだ。
    そもそもフェルゼンが最初に送った手紙自体が、医師の元へたどりつくまでにたいそうな時間を要した。
    そして、その返信であるこの手紙も、まっすぐには届かなかったらしい。
    理由は実に単純で、フェルゼンが多忙だったため。
    グスタフ陛下の密命を受けて動くことも多いフェルゼンは、ときおり潜伏した行動を取る。
    彼の屋敷内の人間や、腹心といわれるじいやでも、行き先や不在期間の判らないことがあるその動き。陛下への報告のために急遽本国へ戻ることもあり、返信の手紙はたくさんの人の手を介して、届け先が二転三転した。
    にもかかわらず、この手紙が無事にフェルゼンの元へ届いたのは、まことに幸いだったといえよう。
    そして多忙な身にもかかわらず、手紙を落手するなりすぐにジャルジェ家へと届けてくれたフェルゼンには感謝せねばなるまいが…
    「どうする?オスカル」
    レニエの問う声に、彼女はすぐには返答できなかった。
    「時間が…」
    「あまりないようだな」
    医師はアンドレを診るのであれば、当然のことながらまだ見えているうちに治療を始めたいと主張している。
    しかも、アンドレの視力はもう限界に近いだろうとも伝えてきていた。
    加えて、医師自身の忙しさもネックだった。
    その医師の診察を受けたい者も、その医師から学びたい者もたくさんいた。
    診察や手術、講演…
    その中で、症状の重いと思われるアンドレを受け入れること。
    こちらにはそんな意図はなくても、医師にしてみれば、スウェーデンとフランス両国の有力貴族の威光をまとった患者をぞんざいには扱えないという懸念もある。
    比較的余裕を持ってアンドレの治療に当たれそうなを日取りなども書き添えてきたのだが。
    いかんせん、返信の到着が遅すぎた。
    こちらから返事を出し、また先方からの返事を待ち…
    そんなことをしていたら、比較的手すきだと医師が伝えてきた頃合いなどとっくに過ぎてしまう。
    それに、かなり進行していると思われるアンドレの視力のさらなる減退。
    せっかく診てくれようという医師が見つかったのに、その診察直前で限界をむかえるようなことにでもなれば、悔やんでも悔やみきれない。
    レニエは執事を呼ぶと、1番近いアメリカ行きの船を早急に調べるよう言いつけた。
    「困ったことになったな、オスカル」
    「はい」
    「これで悠長に悩んでいる場合ではなくなったわけだが」
    そうは言われても、まだ彼女の心はすべてを受け入れられないでいた。
    今、アンドレはほとんど目が見えていないのだという。
    推測するに、彼の視力は燭台の灯りがやっと見える程度なのだとか。
    彼女には信じられなかった。
    というより、信じることを心が拒絶していた。
    しかし。
    今までだって彼女自身、おかしいと思う場面はいくらでもあったのだ。心の奥では予感めいた違和感を覚えながら、傷つきたくなくて、本能的に気づこうとしなかっただけ。
    こんな自分の汚さを、アンドレが知ったらどう思うだろう。
    きっと軽蔑される。
    あの漆黒の瞳に侮蔑の色を浮かべて見おろされたら…
    それはとても耐えがたく思えた。
    今こうして父に選択を迫られているのも、みずから気づこうとしなかった罰に思えてくる。
    「どうする?おまえはどうしたいのだ?」
    問う言葉を重ねられて、彼女は席を立ち、父親の足元にひざまずいた。
    「時間をください。1週間、いえ5日。3日でもいい。考える時間を」
    「保身のために浅はかな策略でも練るか?」
    父親のその言いように、彼女は思わずかっとなり…
    しかし、感情を露わにした瞬間に溢れだしたのは、言い返す言葉ではなく涙だった。
    怒りを表に出してしまったとたん、抑制していた感情の箍が外れた。
    自分をこのようなやり方で追いつめる父親に激しい憤りを感じ、今まで自分を欺いてきたアンドレにも、その怒りは飛び火する。
    彼の目のことを、知っていて教えてくれなかったばあやにも腹が立ったし、そもそもこの話をなぜ直接自分に持ってきてくれなかったかと、フェルゼンにまで強い怒りを覚え…
    そして。
    その気持ちは最終的に、いつものところへ向かっていった。
    私さえ調子に乗らなければ。
    他の誰のせいでもない。
    自分が本来の職務でもない黒い騎士の捕りものに夢中になったせいで、アンドレは傷を負ったのだ。
    誰彼となく吹き荒れる憤りはひとつになり、もっとも激しい怒りとなって自分自身へと向かう。
    伝い落ちる涙を、彼女はもう抑えようとも思わなかった。
    「私は今までアンドレの1番近くにいた人間です。その彼の視力が、ほとんどないという。にわかには信じられません。そしてそれが本当だとしたら、彼には協力者がいるはずです」
    でなければ、アンドレがこのことを人に悟られずに、軍務をこなしてこれたはずがない。
    彼女のこの発言には、レニエも気持ちが動かされた。
    アンドレの視力に問題があることは、そうそう漏れてよい話ではない。
    広く知られれば、上官である彼女の管理能力が問われることになり、ひいてはジャルジェ家の責任問題にまで発展する可能性だってある。いつどんなことで足元をすくわれるか判らないのが、ベルサイユなのだ。もし協力者がいるのであれば、話が漏れぬよう、そこにも手を打たねばならない。
    隙なく考えを巡らせるレニエ。
    となると、オスカルに調べさせるのが得策…か。このぶんなら、よい働きをするだろう。
    「少しでもいいから時間をください。自分自身で確かめたいのです。父上もおっしゃったでしょう?知らぬ罪もあると」
    足元にひざまずき、 頭 (こうべ)をたれて懇願する末娘の姿に、数々の思惑を隠し持つレニエとて、胸が痛まぬわけではなかった。
    娘の受けたショックはいかばかりだったことか。
    アンドレの目がろくに見えていないという事実は、レニエにとっても大きな衝撃だった。
    しかし、それはまだ、自分の胸の中だけにおさめておかねばならぬことだった。
    まだ…?
    いや、レニエが受けた衝撃の意味は誰にも悟られてはならないことなのだ。
    ことに、末娘には。
    不意に扉がノックされた。
    返事をするレニエに控えめに顔を見せたのは、先ほど調べものを頼まれた執事。
    父親の足元にうずくまる彼女を気遣い、視界に入れないようにしながら、レニエにそっと告げた。
    「3週間後、ジャゾン号でございます」
    3週間後!
    「よかろう、オスカル。おまえに5日間の時間を与える。
    ただし、約束通り一切他言無用だ。アンドレにも、フェルゼン伯にも。当然ジェローデルにも。よいな?」


    唐突に終了をむかえた、レニエとオスカル・フランソワの密談。
    レニエの隠し持つ決定的なピースを知らぬまま、自室に戻る彼女の足取りは、確かとはいえなかった。


    あたえられた時間-1につづく
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