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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
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【1章 手紙-3】

UP◆ 2011/7/28

    「嘘だ!!」
    思わずそう口に出していた。
    しかし次の言葉が見つけられない。
    彼女は救いを求めるように父親の瞳を見つめた。
    「これが現実だ。おまえが知らなかったもの。気づかずにきた罪。向き合うか逃げるかは、おまえ次第だ」
    罪。
    レニエはあえて、彼女の心をより効果的に傷つける言い方を選んだ。
    命令するのではなく、オスカル・フランソワが自分からすすんで檻の中を望むようにプレッシャーを与えていく。
    そしてレニエの思惑通り、報告書を読んだ彼女の表情には、少しの余裕もなくなった。
    一見無表情に見える彼女だが、父で上官たるレニエには、末娘が激しく動揺しているのがよく判る。
    彼女はレニエにも聞こえないぐらいの小さなつぶやきを、口の中で繰り返していた。
    「知らなかった。私は知ろうともしなかった」
    それはまぎれもなく罪だと思えた。
    アンドレに取り返しのつかない傷を負わせたのは、私…
    「報告書」には、アンドレ・グランディエのとある1週間の行動が記録されていた。
    そこには、ひとつひとつはささいなことながらも、彼の右目の視力には問題があることがはっきりと書かれていた。
    加えて、予想される視力の状態と、ラソンヌ医師の診断書も添付されている。
    彼女は緩慢な動作で、3つ折りになった医師の診断書を手に取った。
    ぺらぺらの、薄い紙切れ1枚。
    触れた瞬間、指先の感覚が狂った。
    確かにつまみあげているのに、触っている気がしない。
    滑り落としそうになり、はっとした。
    しっかりしなければ。
    彼女は意識を指先におく。
    今、重要なのはこの紙切れを落とさないことのみ。
    そんなふうに。
    もどかしいの指の動きで、彼女はそれを開く。
    つとめて心を鈍くして、医師の記した文字の羅列だけを追った。
    そこには。
    『アンドレ・グランディエの現在の視力は極めて低く、今後も低下しつづけ、恐らくは失明にいたるものと思われる』
    そう、書かれてあった。
    アンドレが失明する…?
    しかし、今、彼女の心の大部分を占めるのはその診断よりも、報告書の内容だった。
    『アンドレ・グランディエの1週間の行動記録』
    そこには、いたるところに自分がいた。
    常に行動を共にし、誰よりも彼の近くにいたのは自分ではなかったか。
    彼を襲う異変に本来1番早く気づくべき人間は、主人としても上官としても、そしてなにより兄弟同然に育った親友として、彼女でなければいけなかった。
    それなのに私は…
    無表情を保ったままの彼女の瞳から、涙が流れ落ちた。
    最初の雫が落ちると、もう止どめようがなかった。
    半ば呆然としたまま、声をあげるでもなく、ただ涙を溢れさせるオスカル・フランソワ。
    きっと自分が泣いていることすら気がついていない。
    そして父親は、そんな末娘を冷静に観察していたのだった。


    どれほどの時間、放心していたのか。
    まぶたに腫れを感じ、目元が熱かった。
    伝い落ちた雫でキュロットがしっとりと湿っている。
    彼女は頬に手をあて、そこが濡れているのを他人ごとのように認識した。
    そのとき。
    背中があたたかいもので覆われた。
    ふわりと包みこんでくる、優しく懐かしく慕わしい香り。
    母だった。
    通常の彼女であれば不用意に背後を取られるわけもなく、
    また、第3者が部屋に入ってきたことに気づかないわけもない。
    背中から自分を抱きしめる母親の体温に、彼女はようやく感情を取り戻した。
    「もう大丈夫です」
    心が正常に動きだせば、聡明な彼女の頭脳は状況を的確に分析しはじめる。それが自分にとって、つらいことであっても。
    それは武官の家に流れる血のなせること。
    人払いをしたこの密談には、これだけではすまない何かがあると、その血は言っている。
    「詳しいお話をお聞かせください」
    父親は末娘の瞳に、光が戻ったのを確認した。


    レニエの話は、まず時を少し遡った。
    まだ彼女が近衛連隊長だった頃のこと。
    彼女の個人的な捜査の指揮下で、アンドレが目に重大な負傷を受けた。普段あまり接点のないレニエとフェルゼンだったが、その頃、たまたま宮廷で顔を合わせた。
    いつも鬱陶しいほど人の多い謁見室の控えの間に、珍しくそのときは誰もいなかった。
    レニエは当たり障りなく、オスカル・フランソワのことなどを社交辞令的に話していたが、フェルゼンの方からアンドレの容態を心配してきたのだった。
    「アンドレの左目は今、開くこともできず、残念だがあきらめざるを得ない」
    レニエは特に隠し立てもせず、簡潔に状況を説明した。
    オスカルとアンドレ。
    故国を離れた生活の中で、フェルゼンは2人と格別な友情を築いてきた。身分の差こそあれ、アンドレの負った傷の深さは、フェルゼンにとっても胸の痛むことだった。
    2人ともどんなにショックを受けているだろう。
    アンドレも気の毒だが、そのとき指揮を取っていたというオスカルは、きっと自分を責め抜いているに違いない。
    「なにかお力になれることがあれば、なんなりと」
    フェルゼンは心からレニエにそう告げた。
    宮廷人の儀礼的なやりとりと、そうレニエは受け取ったのだが。
    それからどれぐらい経っただろうか。
    フェルゼンの方から、レニエに連絡を取ってきた。
    アンドレの左目について話したいという。
    あのできごと――彼女がローブをまとった――を知らないレニエは、なぜフェルゼンが末娘に直接連絡を取らないのかと疑問に思ったが、興味を惹かれフェルゼンと会う時間を作った。
    アンドレの受傷。
    それを知ったとき、フェルゼンの脳裏に甦ったのは2年ほど前に遠征していたアメリカの戦場だった。
    愛する人の名を汚さないために、自ら志願し (か)の地へ赴いたフェルゼンだったが、思った以上に戦いは激しく惨いものだった。過酷な戦況と劣悪な環境に、自身も熱病にかかり、命を落としかけたほど。
    しかし、いつの時代も戦争は化学や医学を飛躍的に進化させる。
    熱病の治療でしばらくの入院生活を送ったフェルゼンは、アメリカの進んだ医療技術を目の当たりにしていた。
    もちろんその中には、戦いの中で目に傷を負った者も多くおり、治っていく患者がいないこともなかったのだ。
    あきらめざるを得ないと言われたアンドレの目だったが、アメリカでならあるいは…?
    フェルゼンがそう思ったのは自然な流れと言えた。
    王妃と恋に落ちてから、フェルゼンはいつも好奇の眼差しで見られ続けていた。表面上は好意的に振る舞い、会話やダンス、狩猟の会やカード遊びなどに誘ってくる宮廷人たち。
    けれどその裏では、所詮外国人であるとフェルゼンを軽んじ、王妃の愛人とおもしろおかしくあげつらっていた。
    そんな中、オスカル・フランソワだけが少しの偏見もなく彼と接し、冷たい宮廷でのよすがになってくれていたのだ。
    男装の伯爵令嬢、オスカル・フランソワ。
    フェルゼンにとって、長きに渡り、彼女はどこまでも親友だった。大切にしていきたい友であったのに…
    お互いを思うがゆえに破綻した友情。
    切り出したのはフェルゼンの方であったが、しかし、彼女にとってのこの一大事に、彼が目をそらしていられるわけがない。
    交流は絶っていたものの、彼女への尊敬や親しく思う気持ちは変わらず、むしろ、失ったことでより彼女の存在が大きくなったほどだった。
    彼女を、そして彼女と同じく彼に裏表のない敬意を示してくれた黒髪の従者を救ってやりたい。
    フェルゼンはわずかな期待を込めて、アメリカへと手紙を送った。自身の持つ人脈と、スウェーデン王室の顧問官である父親の持つコネクションすべてに訴えかけて。
    その手紙はたいそうな時間をかけ、巡り巡って望むべきところへたどりついた。
    高名な眼科医とその医療チームの元へ。
    そして待ち望んだ返事は、アンドレ・グランディエの病状に関して、さらなる資料を要求するものだった。
    もしかしたら希望が持てるかもしれない!
    少なくとも、チャンスは与えられた。
    それを伝えるべく、フェルゼンはレニエに連絡を取ってきたのだった。
    突然舞い降りた朗報。
    末娘によく尽くし、それゆえに重傷を負ったアンドレをレニエとて気にはかけていた。
    レニエ自身、子供の頃から信頼を寄せるばあやの孫。
    そして彼にとってアンドレは、ある意味で密かに気にかけずにはいられない存在だった。
    先代の当主も他界し、あのこと・・・・を知る使用人ももういない。
    ジャルジェ家に来るべくしてきた、運命の子。
    レニエのその心情は、もはやマロンにしか押し計れなかった。
    レニエはアンドレの受傷時の詳しい記録をラソンヌに作らせ、同時に部下を使って1週間の行動記録も作らせた。
    「万一、良い返事でなかったときの2人のショックを考えると、今はまだ内密にしておきたい」
    ラソンヌにはそう言って、口を封じた。
    もとよりジャルジェ家の当主に逆らえる立場にラソンヌはなく、すべてが水面下で行われていたのだった。


    「では、今、私が手にしている『報告書』が」
    「そのとき作らせたものだ」
    レニエの長いひとり語りが終わると、彼女は手元に目を落とした。作成されてから、しばしの時を経ている報告書。
    とすれば、ここに書かれている状態より、さらにアンドレの視力の低下は進んでいるのかもしれない。
    美しい顔にショックを隠しきれない彼女の手を、今は隣に座っている母親が握った。
    「そしてオスカル。先だって送ったアンドレの目に関する資料の返事が今日、届いた」
    レニエは問題の手紙を彼女の前に押し出した。
    「もし、アンドレの目が治せるというのであれば、この父がアメリカに行かせ、最高の治療を受けさせてやろう。
    しかし、条件がある」
    ここまで言われて、彼女はこの人払いされた密談の意味がやっと判った。母親が同席したわけも。
    「私と…ジェローデルとの結婚……なのですね?」
    彼女はまるで罪人の告白のように、その言葉を口にした。
    この私が、結婚…する?
    「本来ならば、一平民が個人的にアメリカへ行くなど、手続きさえ踏めば問題はなかろう。しかしアンドレは、いささか特殊な立場にある。あれは平民でありながらも、先の陛下から参内を許されていた。おまえに付き従い、王后陛下の覚えもめでたい。ジャルジェ家の一員として認知されていると言ってよいだろう。そういった人間が国外へ出るとなれば、両陛下にご挨拶をし、正式なお許しを得たいと私は考えている。おまえの答え次第で、すぐにでも謁見を申し入れよう」
    レニエの言うことは、いちいちもっともだった。
    「私が結婚に応じるか否かで、私の人生もろともアンドレの人生までが変わるのですね?」
    自分にかかわったばかりに、アンドレに取り返しのつかない傷を負わせた。
    あのとき彼女は、彼の人生を歪めてしまったと心の底から悔いた。何度も詫びて、泣いて、それでも自分を許せずにきた。
    でも。
    取り返しが…きく、のか?私が結婚さえすれば。
    瞳にはっきりと迷いをうかべ始めた末娘の様子をうかがい、レニエはさらに駄目押しの一手を放つ。
    「ばあやは喜んでいたぞ、オスカル。失明は免れないと思っていたアンドレの目に、治療の可能性があると知って」
    「父上!」
    彼女の顔色が完全に変わった。
    「ばあやは知っていたのですか?アンドレの目のことを。
    知っていて、私には伏せていたと」
    「平民の召使いが主人になにを言える?主人たるもの、いばりくさっているだけではいい物笑いであろうに。
    わがままを言うにも、使用人の都合や体調を推し量ってやれてこそ、真に主人と言えるのではないか?」
    彼女にはもう、なにも言うことができなかった。
    オスカル・フランソワは誰よりもアンドレの近くにいた。
    それなのに、彼の目がろくに見えていないことを、彼女はまるで気がつかなかったのだから…


    手紙-4につづく
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