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【2章 あたえられた時間-8】
UP◆ 2012/8/1どいつもこいつも私に逆らいおって。
品の良い微笑を浮かべながらも口の減らないヴィクトールを、レニエはじっくりと見据えた。
「今日よりしばらくは、屋敷に顔を見せぬと?」
通常レニエがこのような目線をくれると、大概の者は萎縮して目を伏せるものだが、ヴィクトールは柔らかな表情のままゆったりと見返している。
礼節を知らぬ者でなし、となればやはり肝が太いと言おうか、真正の貴族と言おうか…
良くも悪くも、並みの男ではないということか。
「妻は侍女たちに命じて、すでにゲストルームなど整えさせたようだが」
「そのような気配がいたしますね。光栄なことです。けれど…今宵はこれにて」
レニエの眼光をものともせず、ヴィクトールはしゃあしゃあと人なつこい笑顔を見せる。
「ふふん」
レニエは根負けしたように笑った。
この男、どうにも私の気に入るところがある。
「よい。退がれ」
「はい」
ヴィクトールは芝居がかったほどの優雅さで一礼し、レニエに背を向けた。
が。
「ただし、おまえが屋敷に来ないという間も、私の多忙な夜は続くだろうが」
投げかけられた台詞にヴィクトールの足が止まり、僅かばかり見返った。
「それは?」
「あのような育て方をした娘ではあるが、あれを妻にと望む男は世間が思うよりも多いということだ」
レニエは、末娘への縁組みを申し出ている貴族たちの名を、思わせぶりにブツブツとつぶやいた。別けても、名誉欲にひよった愚鈍そうな者たちの名だけを。
さぁ、どう出る?ジェローデルよ。
自らの花婿選びの宴を全力でぶち壊したオスカル・フランソワだったが、その思惑に反して、彼女への婚姻の申し入れはあとを絶たなかった。
一見それは、ジャルジェ家の地位と財力に目がくらんだ者たちの浅はかな振る舞いかとも思われた。もちろんそういう者もいなくはないが、どうしてどうして、むしろ難攻不落と思われてきた男装の麗人 オスカル・フランソワに結婚の意志ありと知った男たちが、俄然、諦めていた高嶺の花への争奪戦を始めただけのことだった。
彼女に求婚などすれば、父親であるジャルジェ将軍にどれほどの不興を買うか。そんな恐れが抑制となって、皆、心積もりはあれども言い出さずにいただけで、彼女の結婚に梃入れしているのが他ならぬ父親自身であるならば、誰に遠慮がいるだろう。
上はレニエといくらも変わらぬほどの年輩者から、下はまだ少年とも言えるぐらいの若者まで。
本人の意志で申し出た者もいれば、親や親族の意向で持ち込まれた話も含め、彼女には知らされていないだけで、さまざまな申し入れがレニエの元には届いていたのだった。
あの、ぶち壊された舞踏会。
あれ以来、レニエの夜は忙しい。
彼女の伴侶へと名乗りを上げる者たちと、それぞれに酒の席を設けたり、食事を共にしてみたり。
連日連夜、婿がね選びに余念のないレニエではあったが、その実、腹の中では末娘を与えるのはヴィクトールとほぼ決めている。
しかし、だ。
そのヴィクトールが、どうにも掴みどころがない。
彼女を愛するがゆえに身を引くと言い出した男。
その言葉はレニエを驚喜させた。
それこそ、まことの愛ではないか!
オスカル・フランソワに向けられた真摯な想いに、有頂天になったレニエ。
あれを任せるのは、この男しかおらぬ。
そうとまで見込んだというのに、2人の仲が思ったほど進展しないのだ。
レニエから見るに、末娘はヴィクトールを嫌ってはいないように思えた。
仮にも近衛連隊長とその副官として、長く共に要職を務めた間柄。その人となりは熟知しているはずで、ならば彼女もヴィクトールの有能さは買っていることだろう。
見目麗しく、申し分のない出自。趣味や教養の高さも釣り合っていて、話し応えもある相手。
まったく、どこが気に入らないというのか。
末娘に今、意中の男がいないことは既に調査済みであり、となれば、すべてにおいてそつなく洗練されたヴィクトールのこと、色事に不慣れなオスカル・フランソワなど、簡単に籠絡できそうなもの。現に2人はあの舞踏会の夜、庭園の片隅でくちづけを交わしている。
宴の人いきれの中、密かに放った密偵からのその報告に、レニエは良い感触を得てほくそ笑んでいたというのに、その後さっぱり事が進まないのは、どういうわけか。
ギリギリと奥歯を噛みしめるレニエの意識の隅に、ふと、控えめな黒髪が浮かんだ。
アンドレ…?
まさか。
確かに末娘とその従僕には、類い希な繋がりが存在している。ひとつの心臓を共有しているがごとく心を寄せ合い、まるでカストルとポルックスのように、他人とは思えぬ2人。
――他人とは思えぬ?
馬鹿な。あの女の息子を…いや、たかが平民を相手に、何を埒もない。
眉間にしわを寄せたレニエの耳の底に、嗚咽混じりなマロンの声が思い出された。
『ありがとうございます。今度こそ。今度こそ必ず…』
それは、まだ末娘が7歳の頃のことだった。
どことなく沈んだ様子のマロンに、レニエは少し前から気づいていた。ばあやとして、もうずいぶん長く仕えているその古参の使用人は、レニエにとって、実の母親と同じぐらい親しく、慕わしい。
身分こそは平民だが、街の有力者の娘として生まれたというマロン。若い頃にはそれなりに美しく、たくさんの縁談が舞い込んだのだとか。
平民の子女としてはそこそこの教育を受けて育ち、年頃になると、親の選んだ男の許へ嫁いだ。
領地を治める地方貴族の家令を務める平凡な男。
夫と共に、住み込みのお屋敷勤めをすることになったマロンだったが、使用人とはいえ高級侍女としての扱いに、暮らしを楽しむゆとりはあった。
大恋愛の末に結ばれた結婚でもなく、それほど深く愛していたわけでもない夫だったが、それでも少しずつ幸せを感じ始めていたマロン。これからだんだんと心を通わせ、より夫婦らしくなっていくのだと、未来は明るく思えていた。
しかし。
ほどなくして、マロンは予想もしなかった大きな不幸に見舞われる。
領地を流行り病が襲ったのだ。
たった数日の患いで、夫は呆気なく死んでしまった。
いや、夫だけではない。
お屋敷の大旦那さまも、若旦那さまも奥方さまも、そして使用人たちの大半も、さらには実家の両親までもが、バタバタとこの世を去っていった。
突然と寄る辺のない身となったマロンは茫然とし、途方に暮れ……ジャルジェ家に拾われた。
勤めていた屋敷の大旦那さまと、当時在世だったジャルジェ家の当主 ― レニエの父 ― が、幸運にも懇意な間柄だったのだ。
つぶしの利かない中途半端なお嬢さん育ち。
身の振り方も判らず弱りきっていた矢先、思いがけずに信頼できる衣食住の場を与えられ、マロンがどれほど安堵したか。
自分だけなら、どんな暮らしをしてもよかった。
けれどそのときマロンは、身ごもっていたのだから。
働こうにもままならぬ身を、引き取ってくれたジャルジェ家。産み月も近いマロンに与えられた仕事は、まだ幼いレニエのばあやだった。
それなら身重の自分でも、なんとか務めることができる。
マロンは心をこめて、レニエとジャルジェ家に仕えた。
マロンの生来の生真面目さと、暖かな両親に大切に育てられた素直さは、すぐに当主の気に入るところとなり、やがて月満ちて、マロンはかわいい女の子に恵まれる。
亡き父母の面影を映す、漆黒の瞳。
役にも立たぬ赤子ゆえ、手放すことを迫られるかと覚悟もしたが、その娘もまた、ジャルジェ家で暮らすことを許された。
マロンはどれほど、当主に感謝したことだろう。
娘はレニエの遊び相手として育ち、成長してからはレニエ付きの侍女となる。
その頃にはもう、マロンの中にはジャルジェ家への強い忠誠心が深く根付いており、娘を人として、また立派な侍女として厳しく育てた。当主より与えられた厚情に、応えられる人間になるようにと。
だが。
マロンの人生にとって、2つ目の予期せぬ出来事が起きる。
懸命に育ててきた娘の、出奔。
この娘の行動に、マロンはどれほど驚いたことか。心根のまっすぐな、優しい娘に育ってくれたと思っていたのに。
短い書き置きを残して娘が消えた朝、厩舎からも1頭の駿馬が消えていた。
その馬は、ほどなくして小さな馬借の古ぼけた厩舎で見つかったが、やはりそれは、娘によって売られたものだと判った。
それだけではない。
馬を売りに来た娘が、男性を伴っていたことも判明した。
男と逃げるために、屋敷から馬を連れ出し、金に変えたというのか。
この一連の不祥事に屋敷うちは騒然となり、使用人たちにも、ジャルジェ家の人々にも憶測の波紋を広げ、マロンは非常に苦しい立場に追い込まれた。
お屋敷を辞そう。
切実にそう思ったりもした。
けれど、もし屋敷を辞めてしまったら。
万一娘が帰って来たとき、自分が行方知れずになっていたらどうなる?娘とは、もう2度と会えないかもしれない。
そんな想いから、マロンは身の置き所のないようなお屋敷勤めに耐え、親馬鹿だとは思いながらも、娘が無事に戻る日を待った。
当主やレニエがあからさまにマロンにつらく当たることはなかったが、快く思われていないことは判っている。
小さな身をより縮こまらせて、マロンは今までにも増して屋敷に尽くした。
そしてその影でこっそりと、娘の行方を探させたりもしたのだが、結局それも徒労に終わる。
やがて月日が経つと、口さがないことを言っていた人々も娘のことを忘れ、大旦那であった当主が逝き、レニエがジャルジェ家当主となった。
屋敷の使用人たちも徐々に入れ替わっていき、マロンに娘がいたことも忘れ去られ、マロンですら、もはや娘のことは諦め、思い出す日も減りつつあったある日。
不意に便りが届く。
プロヴァンスの、名前も知らぬ小さな村からの手紙。
差出人のよく判らないそれは、まず執事によって開かれた。
そして、その内容は。
娘の死を、知らせるものだった。
幼い息子を1人残して、娘がひっそりと死んだのだと。
病気がちだった娘の姿が見えないことに不審をいだいた村人が、無理矢理に扉を開けて家に入ったとき、娘はもうすでに、痛ましい姿になっていたという。
そしてその寝台の傍らに、いつから食べていないのか、衰弱して瞳ばかりをギョロつかせた子供が座っていた。
泣くこともせず、母親の朽ちかけた体を凝視していたのだと。
驚いた人たちは、とにかくどこかへ連絡を取ろうと家捜しをした。子供は自分の身内について、何ひとつ知らなかったから。
家に遺されていたのは、どれも粗末な物ばかりだったが、その中に、なぜか質のよい身の回り品が紛れ込んでおり、それが便りの届いた決め手となった。
それらは娘が侍女をしていた頃のもので、どれにもジャルジェ家の紋章が縫い取られたり、刻印されていたためだった。
娘は偽名を名乗っていたけれど、ジャルジェ家の紋章の入った品物を持つ、その年頃の黒髪の女。
娘に間違いない。
マロンはそう確信した。
――行かなければ。
そして、まだ見ぬ孫の存在。
――会いたい。
しかし、迎えに行くことはできなかった。
恩あるジャルジェ家に、後ろ足で砂をかけるようなまねをして、出奔した娘。今さらどの面下げて、今度は孫を住まわせて欲しいと言える?
生来の生真面目さと、ジャルジェ家への忠義。
その合間に沁みて広がる逆縁の悲しみは、とても隠しきれるものではなかった。
マロンのうち沈んだ様子は、当然、レニエにも感じられた。
「ばあや?」
どう問い詰めてみても、容易には口を割らない芯の強いマロン。
レニエは方法を変えて、執事に聞いた。
今や数少ない、古くからの使用人。立場上、屋敷のことなら、何もかもを把握しているはずの人物。
もちろんマロンは、執事に強く口止めしてはいた。
しかし、執事にしてみれば、マロンの心情は理解できても、己の主人は当主であるレニエ。きつく問われれば、言い逃れることはできない。
少しばかりの逡巡ののち、執事はことを告げ、知らせが届いて1週間以上も経ってから、娘の死はレニエの知るところとなった。
身分こそは違えども、幼なじみとして親しんだ、妹のような存在だった娘。男と消えたと知ったとき、どれほど驚き、憤り……心配したか。
いつかどこかで、また逢えることもあるかもしれない。そんな想いが、レニエの胸から消えたことはなかったというのに。
「死んだ…のか」
近衛伯爵家当主としての責任がのしかかる前、少年の頃の、ただ明るく無邪気な記憶。それはいつも、黒髪に黒い瞳の小柄な少女とともにあった。
当主、そして将軍の厳格な仮面をかぶり、生き馬の目を抜くような宮廷勤めの中、その頃を思うだけで、レニエはいつだって、優しく暖かな気持ちになれた。
もう1度、あの瞳に会えるのなら。
「行って、やるがよい」
「レニエさま…?」
「その子を、屋敷へ」
すでに老いの気配漂うマロンの顔が、よりしわくちゃになる。
「ありがとうございます。レニエさま。今度こそ。今度こそ必ず…」
お屋敷を裏切るような者にはしないとマロンは涙を落とし。
このようにしてアンドレは、ジャルジェ家に引き取られて来たのだった。
「ma bichette…」
「?」
見返ったままのヴィクトールは、レニエの言った言葉を口の中で繰り返した。
ma bichette…
かわいい小鹿ちゃん?
なんの脈絡もなくつぶやかれた言葉に、ヴィクトールは訝しむ。
レニエにしては珍しい、心ここに在らずな様子。
「将軍?」
「ああ、悪いな。少し…昔を思い出していた。あれがまだ、幼い頃のことを」
嘘とも本当ともつかない言い訳をしながら、レニエはゆっくりと腕を組んだ。
深く息を吸い、逸れかけた話の軌道を修正する。
「おまえが屋敷に顔を見せぬというなら、それでもよい。ただし、私にもいささかの都合と考えがある」
「と、おっしゃいますと?」
「それはおまえの知るところではない。少なくとも私は、おまえにじゅうぶんな時間とチャンスは与えたはずだ」
「…はい」
少々呆けていたレニエだが、話すうちに自分を取り戻し、落ちついた口調でヴィクトールに告げた。
「いずれにせよ、この数日で事態は動く」
動かなければ、私が動かす。
どうにもまどろっこしいヴィクトール。
なにが気に入らないのか、あまりにも頑なな末娘。
フェルゼンから届いたあの手紙は、そんな2人を歯がゆく苛立ち始めたレニエにとって、天の采配に思えた。
アンドレの秘密を明かした今こそ、末娘を屈服させるまたとない好機。
ここで一気にたたみかけるべく、レニエはもうひとつ、計画を進めることを決めた。
一礼して部屋を出ていくヴィクトール。
見送るレニエの瞳には、次の展開が視えている。
今ひとつ思い通りにならないその男への起爆剤。
そして、未だ動揺の激しい末娘をさらに揺さぶるために、レニエが手を緩める気はなかった。
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