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【2章 あたえられた時間-7】
UP◆ 2012/7/3このところ、何かが変だ。
彼は、どこか釈然としない気持ちでいた。
よくは判らないのだけれど、何かが少し、おかしい気がする。
先日はレニエの急な命令で、ラソンヌ先生へのところへ使いに行った。
行ってみれば、それは特別彼でなければならない用件ではなく、かと言って急ぎというわけでもなく、なぜわざわざと勤務帰りの自分が頼まれたのか、さっぱり判らなかった。
それでも、見えにくくなっている右目を診てもらうのには都合よく、その夜、彼は普段よりも丹念な診察を受けた。いつもなら、診察に向かうのも彼女にバレないようにタイミングを見計らい、診断結果もそこそこに屋敷に戻っている。
その日は久しぶりに、落ちついて医師と話ができた。
「もうずいぶんと、日常生活に障りがあるんじゃないのかね?」
眼科は門外漢だと言いながら、それでも丁寧に診察してくれたラソンヌ医師は、そう切り出した。
「射撃の腕がちっとも上がりません。人一倍、練習しているのですが」
彼はそれをかわすように、ことも無げに笑って見せる。
この視力では、射撃どころじゃなかろうに。
わざと的外れな返答をしてきた彼に、医師はそれだけ不自由しているのだと理解する。
『見えない』
そう言いたくない彼の気持ちは、判るつもりだった。
ジャルジェ家の主治医として、オスカル・フランソワを幼少の頃から診てきたラソンヌ医師。当然、彼の幼い頃もよく知っており、その賢さも穏和な人柄も、過ぎるぐらいの我慢強さも、ずっと見守ってきた。
今や彼がジャルジェ家へ引き取られた経緯を知る、数少ない人物。アンドレを気にかけずには、おれなかった。
そして、1歩引いた位置から屋敷を見ているラソンヌ医師だからこそ気づいた、彼の恋心。アンドレが必死に見えないことを隠すのは、すべて密かに焦がれる令嬢のため。
もちろん彼は、そんなことを口にはしない。表向きはすべて、マロンの考えによるものだった。
1度だけ診察に同伴したマロンは、医師に強く訴えた。レニエには知らせないで欲しいと。
かつて、ジャルジェ家で侍女を勤めていたマロンの1人娘。その娘がしでかした不祥事。それを代わりに償わせるかのごとく、幼い彼につらく当たっていたマロン。
マロンだって、たった1人の亡き娘が遺した孫が、愛しくなかったわけではない。
わけではないが。
ことさらつらく当たり、厳しく躾るさまを見せることでしか、ジャルジェ家への忠義を示すことができなかった。
生真面目過ぎて不器用なマロンと、親も行くところもない自分の立場を覚り切った、幼いアンドレ。
彼が小さな失敗をするだけで、行き過ぎなほどの折檻を、マロンはした。
はじめは止めた使用人たちも、止めれば余計に酷くなる折檻に、誰もが何も言えなくなっていく。
『あんな小さな子に、あそこまでヤキを入れなくても』
ヒソヒソ囁き合いながら、辛抱強いアンドレを気の毒がることしかできなかった。
そんなふうに、なりふり構わず厳しく育て上げた孫。健康で思慮深く成長し、やっと屋敷の役に立ち始めたかと思った矢先に、災厄は降りかかったのだ。
マロンにとって、人生で3つ目の耐え難い悲しみ。
『ここまでしていただいたお屋敷に、これ以上の迷惑はかけられません』
医師の前できっぱりと言い切ったマロンは、彼にも視線を向けた。
もし、見えていないと彼が申し出れば、きっとレニエは治療の援助をしてくれる。
それは容易に想像がついた。
娘の浅はかな行いを許し、役にも立たない小さなアンドレを引き取ってくれ、衣食住のみならず、彼の身分にはじゅうぶん過ぎるほどの教養も与えてくれたジャルジェ家。
マロンにはこれ以上、甘えることなどできない。
『いいね、誰にも… オスカルさまにもだんなさまにも言ってはだめだよ。あたしたちはそんなご迷惑までおかけしてはいけないんだよ。それでなくても、今までどれほど身分不相応なご恩をお受けしているか判らないのに』
涙を飲みこみながらアンドレを諭し、結局はお仕着せのメイド服の裾に顔をうずめて泣き崩れたマロン。
もし、アンドレが本当に光を失う日が来たら、皆に知られる前にお屋敷を辞めよう。そして、どこかのんびりした田舎町に移り住み、孫の世話をしながら余生を過ごそう。
屋敷の階段の数をかぞえ、それを懸命に体に記憶させている孫の姿を見たときから、マロンはそう決意していた。
医師の前で、アンドレに向けられたマロンの視線。
『判ってるね、もし…。もし、知られたら…』
彼はそれにしっかりと頷き返し、レニエには秘密にして欲しいと自らも言葉を重ねた。
あの日から、まだそれほど月日が経ったわけではない。
あの時にはまだ、ぼやけながらも、ものの形や距離感はつかめていたというのに、今の彼にはもう、かなり近づかなくては何もかもが判然としなくなってきている。
視力の減退は、医師の予測よりも、ずっと早かった。
「アンドレ、そろそろレニエさまに隠しておくのも、限界じゃないのかね?」
フェルゼンからの手紙。
近い将来動く事態に備え、ラソンヌ医師は軽くかまをかけてみる。
今は水面下で動いている事柄が、果たしてオスカル・フランソワの、そしてアンドレのためになるのか、医師には判らなかった。
ならば、せめてアンドレ本人に、能動的な判断をさせてやりたい。
出奔の末、若くして亡くなったマロンの娘を知る医師は、父親のような気持ちで彼に問うたのだった。
レニエの張り巡らす、綿密な蜘蛛の糸。
オスカル・フランソワの強さと、それとは紙一重の脆さを知り抜いた父親の計略から、彼女が逃がれられるとは思えない。
すべてを知ったとき、この青年の気持ちはどうなるのだろう。
所詮、どれほど愛したところで、彼の身分では、伯爵家の令嬢を得ることなど叶わぬのだから。
「どうだろう、アンドレ。レニエさまにすべてを打ち明けてみては。そして治療に専念するなり、でなければ、オスカルさま付きを離れて、お屋敷の中で出来る仕事を身につけるなり… もう、そういう時期にきているのではないかな?」
お屋敷の中で出来る仕事。
やんわりとぼかした表現に、彼は苦笑する。
医師が言いたいのは『お屋敷の中で出来る仕事』ではなく、『目が見えなくても出来る仕事』なのだと。
でも。
「祖母がそれを望んでいませんから」
歪んだ笑顔を見せたまま、彼は席を立ちかけた。
これ以上、してどうなるという話でもない。
して愉快な話でもなかった。
それに。
「もう、お屋敷に戻らなければ」
あまり帰りが遅くなれば、何をきっかけに彼女が感づくか判らない。
診察代を払おうとする彼に、医師の方が慌てた。
『アンドレを屋敷に帰さないように。今宵はいよいよ例の話を進める。上手く引き留めるのだぞ』
レニエからきつく、言い渡されていた。
どうしたものかと思いながら、医師は書棚から分厚いカルテの束を取り出す。
それらはすべて、オスカル・フランソワの診察記録。
アンドレを引き留めるには、もっとも有効な話題だった。
「ときにアンドレ。オスカルさまのご体調なのだが」
思わせぶりにカルテを繰る医師の手つきに、彼は吸い寄せられるように、座り直したのだった。
「ふ―…っ」
長いため息を吐きながら、先日のことを思い返していた彼は、自室の窓辺から離れた。少しでも目のためになればと遠くを眺めることは、もはや彼には癖のようになっている。
あの日は結局、彼女の病状についてもさほど変わったことは聞けず、ただのらりくらりとした会話が続いただけで、なんで使いに出されたのかも判らぬまま、得るものもなく、まったく以て徒労でしかない一晩だった。
そんなことで屋敷をあけてしまった夜に限って、彼女はレニエに激しく責め立てられたらしく、真っ赤に泣きはらした目をしており…
無理しても帰ってやれば良かったと、彼は後悔しきりだった。
詳しく話を聞こうにも、今度は彼女に近衛への使いに出されてしまうし、どうにも自分たちはすれ違っている気がする。
ようやく2人きりになれた帰宅の馬車の中でも、彼女は妙に熱っぽい気配で見つめてきたり、そうかと思えば、急にばか話を始めてみたり。
…やっぱりどこかおかしい。
もどかしさの募る彼は、今夜はゆっくりと話を聞いてやろうと心積もりをしていたのだが。
自室に戻った彼が、手早くお仕着せに着替えて、厨房へと手伝いに向かったとき、屋敷全体に華やいだ来客の気配が広がった。
見なくたって判る。
今や習慣化されつつある、ジェローデル少佐の来訪だった。
いかにも艶やかで雅なその男に、ポーッとなっている侍女たちは多い。
ジェローデルもまた、ちゃんとそれを踏まえていて、侍女にまで小粋な仕草をしてみせるものだから、その登場はいやでも華々しいものになる。
彼はそのにぎにぎしい空気を避けて、地下の酒蔵へと向かった。
「今日も酷く暑かったしな」
すっかり食も細くなってしまった彼女のために、少し上等なワインでも冷やしておいてやろうと、彼は真剣に選び始める。
今、気になるのはワインのことだけ。
ジェローデルの来訪などなんとも思っていないかのように集中してワインを選び、彼は晩餐の終わりに備えた。
来客にうきうきとした屋敷の空気の中、自分だけが1人でいるのも癪な気がして、彼は使用人用の談話室などに行ってみる。
そこでは給仕にあたっていない侍女や従僕が、貴人たちの食事が終わるまでの間を、おしゃべりしたり軽食をつまんだりと、思い思いに過ごしていた。
「あら、アンドレ。今日は給仕を外れたの?」
「まぁね」
「なんか飲む?」
「ありがとう。気が利くね。ちょうど喉が乾いてたんだ」
人当たりのよい笑顔を作り、皆の談笑に加わる彼。
しかし、その胸の内では、どうにも気にかかる場面がくすぶっている。
あの、眼差し。
馬車の中で手を差し伸べて、赤く潤む瞳で見つめてきた彼女。
あれはなんだったのだろう。
晩餐がすみ、2人きりになったら聞いてみようと彼は決めていた。
馬車の揺れにあのまま見つめられていたら、きっと抱きしめていた。誓いを破って、くちづけていたに違いない。
「…本当に、俺という男は」
ごく小さく独りごちてみるが、けれどほんの少しだけ、彼の胸を揺らすものもあった。
あの、眼差し。
彼がもう1度情熱をぶつけたら、許してくれそうな瞳をしていた。
自分でも、馬鹿げていると判っている。こんな思い込みに、今までだって、数え切れないほど振り回されてきたのだから。
けれど彼は、オスカル・フランソワという人間を誰より深く理解していた。彼に限って、彼女を間違うわけがない。
俺があいつの瞳を読み違えるなんて、あるはずが。
「ああ」
彼のため息に、使用人仲間が怪訝な顔をしたが、乱れる想いに胸の重さは増す。
オスカル。早く会いたい。
いつもなら、食事がデザートに移るとともに、無粋なほどの勢いで席を立つ彼女。
その夜もそうなると思って、彼はじっと時間をつぶしていたのだが。
「ちょっと、大ニュース!」
飛びこんで来た侍女に、使用人たちが振り返った。
「オスカルさまが、ついにヴィクトールさまと2人きりになられたの!」
「えぇっ!?」
侍女の持ちこんできたニュースに、談話室は一気に沸き上がった。
「今、お庭をお散歩されてるわ」
「うそ!とうとう!?」
「今夜は月がとってもきれいだから、きっとロマンティックでしょうねぇ」
「オスカルさまのばら園は、今が1番の見頃よ。やーん、素敵っ」
姦しく盛り上がる侍女たちの声に混ざり、男連中も俄然、活気づき始めた。
「ついに、かぁ」
「これは少佐も勝負に出るんじゃないか」
「いよいよ?」
「最低でも、くちづけぐらいはするだろ」
「だな。いかにも遊び慣れてそうだし」
憧れ満載の妄想に盛り上がる侍女たちと、現実的な妄想に盛り上がる従僕たち。
そこに、さらなる新たな情報がもたらされた。
談話室の扉をぶち開けて、飛びこんで来たジャルジェ夫人付きの侍女2人。
「ちょっと聞いて。大ニュース!」
「遅い!みんなもう知ってるわよ。オスカルさまとヴィクトールさまがお庭でプチデートされてるんでしょ?」
「違うの!」
「違う?」
「違わないけど、違うの!」
晩餐も終盤に入り、デザートに入る頃、給仕に入っていた使用人たちは、そろそろオスカル・フランソワが無遠慮に席を立つと身構えていた。
いつもその瞬間には、怖ろしいほどの緊張が走る。
1歩間違えば、レニエが彼女を張り倒しかねない。
しかし、今夜は違った。
レニエと準・婚約者たるその男は、なにやら目交ぜをし…
ジェローデルは、美しいデザートの器を残したまま優雅に席を立つと、彼女に近づき椅子を引いた。
心地のよいタイミングで差し出される男の手。
末娘がそれを取り、ほんの少し肩を押されるように、フランス窓から庭園へと出るのを、レニエは目を細めて頷いていた。
そして呼ばれた、夫人付きの2人の侍女。
『ゲストルームを整えてくださいな』
『ヴィクトールさまがお泊まりに?』
『ええ、そう。でもお部屋はおひとかた向きのお部屋ではなくて…お湯殿のある逗留用のお部屋をご用意してね。それから夜着と、お酒の支度も。お酒は少し、強めのものがいいわ』
効かないかもしれないけれど、と夫人は
「奥さまはね、『夜着とグラスは、2つずつ用意しておいてね』っておっしゃったの!」
「きゃーっっ、それって♥」
夫人付きの侍女の報告に、どうしようもないほど色めき立つ談話室。
その喧騒の中、壁際で遠巻きに見ていた1人の侍女の小さなつぶやきが、見えにくいぶん敏感な彼の耳をひきつけた。
「当然だわ。お2人はもう、くちづけをかわす仲なんだもの」
「どういうことだ!」
アンドレの鋭い語気に、人の輪に加わらなかった内気な侍女が、怯えた顔をする。
「ああ、ごめん。君を咎めているんじゃないんだ。ただちょっと、オスカルが…」
「判るわ。心配なのね。幼なじみですものね」
「まぁ、そんなところだよ。だから」
彼が待ちきれぬように、先を促すと、侍女はとつとつと語ってくれた。
オスカル・フランソワの花婿選びの舞踏会の夜、裏庭でこっそりと落ち合って、くちびるを重ねていた2人の様子。偶然見てしまった、その場面を。
しかし、それを聞いた彼は、引き下がらなかった。
「本当に?」
「え?」
「本当に見たの?本当にくちづけしてた?絶対?」
「あ…の、そんなふうに問い詰められちゃ、あたしだって困るわ。間近で見張ってたわけじゃないし、その瞬間には、オスカルさまのお顔はヴィクトールさまの陰になってしまわれたんだもの。でも」
自分にはそう見えたのだと、侍女は続けた。
「そりゃ、もしかしたら、見間違いかもしれない…けど」
彼の顔色をうかがうように、おどおどと言葉が付け足される。
「……悪かった」
つい詰問調になってしまったことを、彼は素直に謝った。
侍女を責めたって仕方ない。
それよりも。
オスカル、本当なのか?
できることなら、今すぐにでも庭園に向かいたい。
肩を掴んで問いただして。
けれど。
談話室の扉が開けられ、年かさの侍女が顔を出し、皆に声をかけた。
「さぁさぁ、みんな!だんなさまと奥さまは、とうにお食事を終えられて、お部屋へお引き取りですよ。おしゃべりはそろそろにして、片付けを始めてちょうだい」
「大変!」
レニエ付き、夫人付きの侍女や従僕は、軽く身なりを見直して、それぞれの主人のもとへと慌ただしく談話室を出て行く。
残った者も、晩餐のあと片付けをするためにゾロゾロと部屋を出る中、彼はそっと皆から外れた。
庭園へ向かいたい気持ちを抑え、ゲストルームの方へ回ってみる。
こんな行動。
誰かに見咎められたら、けっこう気まずい。
彼は慎重に廊下を進み、いくつもあるゲストルームの中でも、もっとも奥まった扉を細く開けた。
逗留用の部屋は他にもあるが、きっとこの1番よい部屋だと確信していた。
案の定、扉の隙間からは灯りがさしている。
スルリと中へ入り込むと、少し甘めのよい香りが漂っていた。
彼の部屋なんかより、ずっと広い居間。マントルピースの上には、こぼれんばかりに生花がいけられている。
小さな沐浴スペースの扉は、開いたままになっていた。
きっと今頃、屋敷裏では下男たちが湯浴み用の湯の支度に追われているに違いない。
彼はそこには立ち入らず、さらに奥の扉へ進んだ。
豪奢な天蓋付きの寝台が置かれた寝室へと。
やはりそこもふんだんに花が飾られ、優しい香りが漂っていた。
大きな窓から月の光がよく入り、蒼く染まった室内。
見えにくい彼の目にも、寝台の上に、真新しい夜着が並べられているのが判った。
嘘だろ?
急転直下の展開に、心がついていかなかった。
寝台のそばには、小ぶりで洒落た円形のテーブルが寄せてあり、上等なブランデーとグラスが置かれている。
彼はしばし、それらを凝視し。
いきなり身をひるがえすと、自室へと駆け戻った。
はぁはぁと息を切らしながら後ろ手に鍵をかけ、簡素な机の引き出しの裏を探る。
ちょっとした細工をしたその場所に、カサリと触れたもの。
彼はそぉっとそれを取り出した。
もう見ることはないと思っていた、白い紙の包み。
ぴっちりとたたまれた薬包紙には、ほんの少量の粉末が入っている。
無味無臭の…毒。
これを初めて手にしたときも、彼は相当に追い詰められていた。
『苦しませはしない……。限りない愛のうちに死ねるのだと、きっと確信させてやろう。だから…』
あのときも、彼は彼女に殺意を抱いた。その愛情の純粋さゆえに。
しかし今は、はっきりと違う種類の殺意を感じている。
これを、ゲストルームのブランデーの中に…
彼は薬包紙を握りしめると、踵を返した。
再び暗い廊下を走り、階段を降りてホールを横切り、さらに走るが。
「うわっ」
ゲストルーム近くの、角を曲がった途端だった。
出会い頭にぶつかり、すっ転んだ彼の頭上から、したたか熱い液体が降り注ぐ。
「あっつ…」
湯を運ぶ下男たちと、鉢合わせしたのだった。
「アンドレさん!どうしてこんなところに」
「大丈夫ですか?」
立場は平民だけれど、次期当主のお気に入りで宮廷にも出入りしていた彼に、下男たちはオロオロする。
突っ込んで来たのはアンドレの方だというのに、平謝りに手を差し出した。
「いいから」
「でも」
「放っといてくれ」
「でも、アンドレさん」
恐縮した様子で、動けずにいる下男たち。
「いいから!ここは俺が片付けておくから、おまえたちは向こう側の廊下を使って、湯浴みの支度を進めるんだ。早く!」
そう言い付けながら、彼は腹の底から嗤いがこみ上げてくるのを、止められなかった。
何が悲しくて、彼女とジェローデルのための湯浴みの指示など出しているのか。
手の中でふやけていく薬包紙に、余計嗤えてきた。
ほんの少しの粉末は、すっかり溶けてしまったことだろう。
それでも彼は、下男たちを追い払ってしまうと、念入りに床掃除を始めた。万が一、床に毒が残っていて、思いもよらない犠牲者が出たのではかなわない。
──今頃オスカルは、庭園で少佐と。
冷たい床の光沢に、愛する女の姿が浮かぶ。
うすく目を閉じて、男の胸にうっとりともたれかかった、オスカル・フランソワの幻影が。
彼はそれを掻き消すがごとく一心不乱に床を磨き、気がつけばゲストルームの扉が並ぶ長い廊下を、すみずみまでピカピカに磨き上げてしまっていた。
じっとりと汗をかき、息まで切らして、俺はいったい何をやってるんだ?
這いつくばった姿勢から顔を上げれば、1番奥まったあの部屋へと続く、磨き抜かれた艶やかな光の帯が霞んで見える。
まるでバージンロードみたいだな。
自分の発想にいたたまれなくり、彼はのっそりと立ち上がった。さっさとここから立ち去りたいのに、湯と汗で濡れた服が体に纏わりついてくる。
「…鬱陶しい」
思わず漏らした言葉は、濡れたシャツやキュロットに向けられたものなのか。
湿った衣擦れの音を立てながら、彼は自室へと向かったが、メインエントランスに差し掛かった刹那、柱の陰へと身を潜ませた。
彼女とジェローデルが入って来たのだ。
柱1本を隔てただけの2人は、並んで大階段へ向かう。
まさか、オスカルの部屋へ!?
こんな時間に、俺以外の男を部屋に入れるというのか。
なぜ今夜急に、こんなことになったのだろう。そんな予感は少しもなかったのに。
柱に張りつき、彼は必死に目を凝らす。
階段を上がっていたジェローデルが不意に長身をかがめて、彼女の耳もとに何か囁いたようだった。
笑って応える彼女の気配。
男の髪が、彼女の頬や肩にかかっていた。彼にはそこまで、見えてはいないはずだが…
大階段から2人の姿が消えると、彼は暴れ出しそうな気持ちを歩調に込めて、荒々しく自分の部屋に戻った。
濡れたシャツを脱ぎ捨て、窓辺に寄ると、月は木々の端にまだ蒼かった。
オスカル…オスカル…!
強く念じながら、心の奥深くに耳を澄ます。
子供の頃から、不思議なインスピレーションでつながっていた2人。
もし今、おまえが呼んでくれるのなら、その場でだんなさまに射殺されてもかまわない。ともに手を取り、どこまでも逃げて…
オスカル!
祈るように彼女の名を呼び続けるアンドレに、応える声は聴けなかった。
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