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【3章 追撃-1】
UP◆ 2012/12/15陽の光が燦々と降りそそぐ気持ちのよい朝。
夏らしく爽快な輝きは馬車の窓からも射しこみ、あい向かって座る2人を惜しみなく照らしている。2人がどんな心持ちだったとしても。
華やかに浮き立つ昨夜のジャルジェ邸。その裏で。
濡れた手のひらから溶けて流れた毒を、汗みずくで這いつくばって拭き清めていたアンドレと、庭園に奥まったばら園において、今宵彼女を与えると父親の許しを得た準・婚約者たる男と、ほんの少し心が触れあった気がしたオスカル・フランソワ。
レニエとの対峙の夜に引き続き、2人はまたもすれ違った夜を過ごしていた。
壁にもたれて目を閉じて、規則正しい馬の足取りに揺られている彼女は、眠っているように見える。清々しい朝陽を受けているというのに、その表情には疲労の色が濃い。
それは気難しく寄せられた眉根のせいにも思えるが、いや、落ちくぼんだ感のある目もとや、まろみをなくした頬に落ちる不吉な陰翳の故だろう。
昨日、何があった?
開口一番聞きたかったことを、彼はまだ言えていない。
住み慣れた使用人用の一室で、寝苦しい夜を過ごしたアンドレ。
エントランスで偶然見かけてしまった彼女は、余裕もたっぷりな男を連れて、自室へ引き上げていくところだった。
あのあと2人がどうしたのか。
彼女の父親でもあり、自身の上官でもある将軍に目をかけられた、婚約者気取りの派手やかな男。
緩く波うつ長髪をまといつかせ、彼女の私室でくつろいだ時を過ごしたか。それともそのあと処を移し、彼が磨き上げた光の帯のような廊下を、ゲストルームへと進んだのだろうか。
『当然だわ。お2人はもう、くちづけをかわす仲なんだもの』
耳の奥に残る侍女の言葉。
つい彼は、彼女のくちびるに見入ってしまう。
が。
「なんだ?」
目を閉じたままの彼女に声をかけられ、結局なにも言えぬまま、馬車に流れる窓の向こうへと視線を移す。
くすんだ顔色に乗せられた口紅の彩り。
その僅かな不自然さが、彼の目に見えようはずもなかった。
痛っ…
朝の点呼を終え、司令官室に戻った彼女。
まぶたのひどい腫れは引いたものの、目の充血はいっそう増している。
昨夜も眠れてはいなかった。
羽ペンを取り上げようとした指先に感じた痛み。棘でも入りこんでしまったのだろうか。
昨夜、部屋の前まで送ってくれた男は、拍子抜けするほどあっさりとオスカル・フランソワを解放した。
ばら園から並んで歩く道すがら、ほんの少しの危惧を感じていた彼女。
こんな時間に、男を部屋に近づけるなど。
今さらだが、軽はずみなことと思われた。
送られた扉の前、当たり前の貴婦人であれば、2人の関係上、儀礼としてもお茶など申し出た方がよいと思われる場面。あるいは酒などを。
耳もとに囁かれる、しゃれた雑談。
それを適当に聞きながら、自室が近づくにつれて、少しずつ気まずさが大きくなる彼女だったけれども。
「では、ごきげんよう。マドモワゼル」
警戒していた男は、きっちり扉の前まで彼女をエスコートすると、あっさり背を向けた。
…え?
その退き際は、彼女がぽかんとするほど。
「あ‥ああ。ありがとう、ジェローデル」
その薄らぼけた返答に、男は優雅な所作で振りかえる。
苦笑の混ざる、人懐っこい笑み。
「いやですね、あなたは。私をどのように認識しておられるのやら」
宮廷や近衛の兵営で見せる耽美な微笑みしか見たことのなかったオスカル・フランソワは、また新たな顔を
この男とは、長い付き合いだというのに。
2つほど年下の部下。
同じ王党派武官の伯爵家とあって、父親同士に交遊があることから、幼なじみといってもよいあいだ柄でもある。
互いに切磋琢磨する立場であったから、子供の頃にはことさら馴れ合うこともなかったけれど、連隊長とその副官という関係になってからは、職務上の確かな信頼が培われていた。
もちろん彼女にはそれだけで、しかし男の方にそれ以上の心積もりがあったのは、あの求婚騒動の第一波で初めて知ったこと。
その男を『うぬぼれるな!』と一喝し、また、自身の胸のうちで蠢く正体の知れぬアンドレへの想いを吐露した彼女だったが、続けざまに変わる状況を突きつけられる中、よく知ったはずの男の見せる新たな顔は、なぜかまた少しだけ、彼女の心を軽くした。
「送るのは、お部屋の前まで。そうおっしゃったのはあなたでしょうに」
珍しく年下っぽさを打ち出して、男は小首など傾げてみせる。邪気のない瞳をくるくるさせ。
その仕草は、神経のささくれだった彼女に、奇妙な隙を与えた。
ほんの小さな綻びからでも攻め入ってこようとするレニエ。知っていたのに教えてくれなかったマロン。アランはこそこそと彼に荷担し、アンドレは顔色も変えずに嘘をついた。
そうだ。
アンドレは平気で嘘をつく。
見えているふりで私を欺き、こんなに重大なことを、少しも話してくれようとしなかった。ほんの少しだって。
「…私‥は…」
誰を信じたらいい?
柔らかい心のひだは幾筋にも裂かれ、息をするだけでもしみるよう。
支えてくれる人は誰もいない。
がらんどうになりそうな胸の奥、真夏の夜だというのに悪寒が立ちのぼってくる。
その中で。
男の向ける瞳だけが、無垢だった。
籠絡しようと思えばどうとでも出来そうなほど、安定を欠いている今のオスカル・フランソワ。それを判っているくせに、男はいっさいの手出しをしない。
「
ひとつ間違えば、立ち去ろうとする背中を引き止めているかとも取られそうな台詞だが。
「キャリアなど」
やはり男はあどけない雰囲気をかもしたまま、おやおやとでも言いたげに彼女に瞳を寄せた。
「あなたも私という人間をよくご存知でしょうに」
申し分のない血筋と能力、そして容姿にも恵まれたかつての副官。
望めばさらなる昇進も、将軍や国王へのアピールもじゅうぶん出来る立場だというのに、不思議なほどの無欲さで彼女に尽くしてくれた。
恐らくこの男には、地位や名誉への執着などさらさらなく、あるのはただ、己の美学だけなのだろう。
「お忘れですか?オスカル嬢。あの傑作な舞踏会の夜、私があなたに申し出たことを」
近年稀に見るほどの華やかさでお膳立てされた、花婿選びの舞踏会。
最初に娘と踊る男が誰なのか。それを以てレニエは、ジャルジェ家の意向を皆に知らしめるつもりでいた。
ジェローデル家との、事実上の婚約発表。
「今思い返しても、あの夜は実に傑作だった。あなた、ご覧になりましたか?お父君、ジャルジェ将軍のお顔を」
パリで1番の仕立て屋で、贅を限りに作らせたというローブに身を包んだ娘は、いかばかり美しいだろうか。
一風変わった育て方をしたとはいえ、レニエも彼女の器量を過小評価してはいなかった。
この娘に、本来の性に叶った装いをさせたなら、どんなにか見栄えがするであろう。名だたる王家におわす尊きお血筋の姫君たちにだって、決して引けを取りはすまい。
凛々しく軍服を着こなす彼女を目で追い、レニエがこっそりとそう思ったことは1度や2度ではなかった。
『オスカル・フランソワさま、お出ましでございます!』
彼女の登場を告げる声に、もっとも胸を高鳴らせたのは、実はレニエかもしれなかった。
「あのときの将軍のご様子!失礼ながら、私は爆笑を禁じ得ませんでしたよ」
招待客の注目を一身に集めて姿を現した彼女は、それはそれは見事な礼装姿だった。着飾って居並ぶ貴公子たちの誰よりも、麗しく男前な出で立ちの。
舞踏会の華と招かれていた令嬢たちからは、うっとりとした溜め息が漏れ… そして、溜め息が途切れたとたん、嬌声があがった。
『きゃーっ』
『いやーっ』
いつも以上に凛々しく装った彼女が、手当たり次第に令嬢たちをダンスに誘い、あろうことかくちづけまでも披露し始めたからだ。
彼女の独壇場となった舞踏会。誰を気遣うこともない振る舞いに、当然、花婿候補としての心積もりで参加した者たちの不快感は、抑えきれたものでない。
『馬鹿にするにもほどがある。こんなふざけた舞踏会があるか?』
『いったい何の為に我々を集めたんだ!』
けれど彼女は平気の平左で、気色ばむ己の花婿候補を挑発してみせるしまつ。
『決闘なら受けて立つぞ?見事な舞踏会だ。今宵は共に踊りあかさん!』
その光景に、レニエは驚愕して目の玉をひんむき、あんぐりと口をあけ、馬鹿づらをさらした。
『オ…オスカル、これは!』
『ご命令通り、パリで1番の仕立て屋に作らせた最高の装いをして、舞踏会に出席してございます』
しゃあしゃあと嘯く娘に、怒り心頭のレニエはわなわなと身を震わせる。
これでは伯爵家としての尊厳も私の顔も、丸潰れではないか!
『オスカル!!』
烈火のごとき怒りの咆哮。
しかしそれも、彼女が手引きした衛兵隊の隊員たちの乱入にかき消され。
「本当に、あのときの将軍の間抜けっぷりときたら!憤怒のあまり真っ赤になったさまなど、泡を吹いた蟹さながら。恐れ多いことながら、私は人目もはばからずに笑い転げてしまいましたよ」
狂瀾を既倒に廻らす、オスカル・フランソワの反撃。
事態の収拾に大わらわな父親を豪快に笑い飛ばしながら、彼女は自らの花婿を選ぶための舞踏会をエスケープしたのだった。
「まぁ… あの夜は私も、やり過ぎたと思わないでもないが」
「よろしいのではありませんか?将軍の御為にも。たまの刺激は脳の老化の防止になりますから」
「おまえ、今、さらっと恐ろしいことを言ったな。そのうち本当に父の不興を買うぞ」
「さぁ… なににせよ、私はあの舞踏会で、あなたがおとなしくローブ姿をお見せになるとは思っておりませんでしたのでね。あの茶番劇は、楽しく見物させていただきました」
「だからおまえだけは、あれほど落ちつき払っていたわけか」
「…オスカル嬢。やはりあなたは、あの夜の私たちを忘れられずにおいでだ」
わざとらしい高笑いに笑い疲れ、ふらりと庭園に出た彼女。
無体な要求を突きつける父親にまんまと一杯食わせることができて、胸がすくはずだったのに。
『あは。あはは…』
じんわりと浸蝕してくる寂寥感。
この一件で、私に求婚しようなどという馬鹿は1人残らずいなくなる。
それが彼女の目論見だったはず。
それなのに。
なぜこんな気持ちになる?
予想外の心の揺れに、あの夜、彼女はむしり取ったばらの花びらを噛みしめたのだった。
「どうされたのでしょう、オスカル嬢。今宵のあなたは、あのときと同じ顔をしていらっしゃる」
「…おまえの気の回し過ぎだ」
「そうでしょうか」
それまで無害な
…いけない。
頭の奥深くで、自分自身の声がする。
いつもの彼女であったなら、そんな声を感じる間もなく動いている。けれど、心もからだも鈍く疲れた彼女には、反応することができなかった。
男はさらにまた少し、彼女との間合いを詰め。
「覚えておいででしょう?あの夜の私たちを。
『欲しいと思ったことがあるはずだ。平凡な女性としての幸せ。差しのべられた優しい手を拒み続ける自分に、涙したこともあったはずだ』」
「やめろ、ジェローデル」
「『私のこの胸でよければ、いつでもあなたを受けとめる用意がある』」
「聞きたくない!」
「本当に?ならばあなたは今すぐにこの扉を開けて、お部屋へお戻りになれば良いだけなのですよ?」
男は指1本だって、彼女に触れていない。
だというのに。
彼女は金縛りにでもあったかのごとく、動くことが出来なかった。このあと男が言う台詞も、その言葉のあとに、舞踏会の庭園でなにをされたのか、判っていても。
「『胸につかえた悲しみや、肩に背負った苦しみを、みんな私に預けてはみませんか… 涙もすべて…』」
「ジェロー…デル」
「今宵、私の胸は必要ですか?オスカル嬢。それが友情だとしても」
「ジェロー…デル?」
この男は、なにを言っているのだろう。
長くなってきた扉の前での立ち話に、いささかの疲れとぐらぐらとした浮遊感が訪れる。
…まず…い。
彼女の思考能力は、散漫になりつつあった。
「ここへおいでなさい、オスカル嬢。勇気を出して飛びこんでみれば、それがいかに簡単なことで、思いのほか心地よいことが判るでしょう」
彼女へと、差し広げられた腕。
…ぐらり。
強くなっていく浮遊感のまま、彼女はそこへ倒れこんだ。
しっかりと受けとめる男の胸。
「…あ」
巧みに引き寄せられて密着する腰に、幼なじみの従僕との慣れた抱擁が頭をよぎる。
…違…う。私の知っている胸は。今、私の欲しい腕は…
けれど。
彼はいつも通りの笑顔で、嘘をついたのだ。
そして彼女がもし、これからもアンドレの腕を望むのなら、彼の残された瞳は。
背筋を這い上がってくる怖ぞ気にゾクリとし、一瞬気が遠のく。
彼女は男の胸にしがみつき、それをやり過ごした。
そして。
不意にぶっつりと抱擁は断ち切られる。
「今、私たちにあるのは“友情”という名の信頼なのでしょう?ならば、今宵はここまでです」
めまいに曖昧な焦点で、彼女は男を見上げる。
「ジェロー…デル…?」
「私ももう少し善人ぶりたいのですよ。あなたの気を惹くために」
男は鈴を転がすようにクスクスと笑いながら、それでも彼女の額にくちづけた。
「おやすみなさい、オスカル嬢。睡眠不足はお肌の大敵です。そうお若くはないのですから」
「ジェローデル!」
男は笑いを小さく残し、今度こそ本当に背を向けた。
暗い廊下を去っていくが。
1度だけ振り返ると、小さな注文をつけてきた。
「あなたは先ほどから私の名を連呼していらっしゃいますが… そろそろ名字ではなく、名前で呼んでいただきたいものですね」
ジェローデル大尉、あるいは少佐。もしくはただ“この男”と捉えていた求婚者。
それが“ヴィクトール”という名を持つ1人の男性だということを、この夜、彼女は初めて認識したのだった。
「あっ…!」
うっかりと昨夜の出来事に、いや、時間でいえば数刻前の出来事に気を取られていた彼女。
止まった羽ペンの先では、書類に大きなインクのしみが出来ていた。
いけない。しっかりしなければ。
とりあえずインク瓶のふたを閉め、ペンを置き直す。
汚れてしまった書類を片付けようと、彼女はてきぱきと手を動かしたが。
「っ…」
指先が、またじっくりと痛んだ。
きっと、夜明け前のばら園で花を摘んでいたときに、棘が刺さってしまったのだろう。
帰るヴィクトールを見送ったあと、寝台に身を横たえはしたものの、眠ることはできなかった彼女。
結局ふらふらと庭園へ出て、鴇色のばらを摘んでいた。
白に見紛うばかりの淡くうすい鴇色の花びらは、ベルベットのよう。
丁寧に摘み取り、手ずから花束に仕立て、ジェローデル邸へと届けさせた。
その花が枯れるまで、屋敷には顔を見せないとヴィクトールは言ったが。
「この暑さでは」
きっと幾日も保たないだろう。
いや。
どのみち与えられた時間は短いのだ。花がどれだけ咲こうが枯れようが、レニエの定めた刻限はやってくる。
ああ。
思わずぎゅっと手を握りしめ、指先に痛みと熱さが甦る。
棘は人差し指の腹に潜りこんでいるようだった。じんじんと脈打っていて。
彼女はそこに爪を立てた。
こりこりと引っかき、ぐりぐり押しこみ。
じく…っ。
大騒ぎするほどではない、せこい痛み。
血が出ているわけでもなく、傷口があるわけでもない。それなのに、妙に癇に障るいやらしい痛みに、彼女は夢中になる。
わざとそこをいじりまわして。
見えなくなっていく目に、彼が隠していた痛み。
そんな孫を見守るマロンの痛み。
それに比べたら…
気がつけば指先は真っ赤に腫れて熱を持ち、けっこうな痛みになっていた。
「こんなことをしたって」
己の愚行に涙が浮かびそうになったとき、いきなり司令官室の扉がブチ開けられた。
「なにごとか!」
ノックもなく開けられた扉。
尋常な事態ではない。
「隊長、アンドレが!アランも!!」
隊員の緊迫した声。
彼女は報告もすっ飛ばして廊下に出た。
「なにがあった?」
「それがよく判らないんです」
小走りで先導されながら、彼女は状況を聞く。
それは午前の訓練が始まって、2時間ほども経った頃だった。
彼女に確認を取りたい事項ができ、指揮を任されていた将校がアンドレを呼んだ。
ちょっとした伝令代わり。
いつものことと、彼も屈託なく引き受けて、司令官室へと向かった。
が。
「そのアンドレのあとを、近衛の若い白服が3人ほど、つけていったというんです」
「近衛だと?」
訝しんだアランは、訓練を放り出してあとを追った。
彼の姿を目視したのは、舎屋の奥に見える階段。
上っていくアンドレと、なぜか下ってきた近衛の兵士たち。
別の廊下を使い、先回りしたのだろうか。しかし、なぜ?
そんなことを一瞬で考えながら、妙な予感を覚えたアランは、ともかく彼に追いつこうと急いだ。
そのとき。
すれ違う直前、近衛の兵士の剣帯が緩んだ。
抜け落ちる、宮廷儀式用の優美な剣。それは隻眼の彼の死角から、膝の間に差しこまれ。
『アンドレ!』
どうしてやることも出来ず、アランは目の先で転げ落ちている彼を見ていた。
しかし。
アランが見たのは、それだけではなかった。
白い軍服の手もと。
『てめぇら、やりやがったな』
小さな呻き声を漏らし、うずくまっている彼。
遅ればせながら追いついたアランは、彼を背中に回して庇いながら吠えかかる。
『わざと剣帯を緩めただろう!』
『なにを言うかと思えば。偶発的な事故でしょうに。ねぇ?』
品よく笑いあう、近衛の兵士たち。
『事故だと?よくもヌケヌケと!』
つかみかからんばかりのアランだったが、その肘を押さえたのは彼だった。
『やめろ、アラン。俺なら大丈夫だから』
年若い白服といえども、階級は2人より上。ここで争うのは分が悪い。
彼はそう判断したのだろう。
けれどアランがおさまるわけがなく。
「もう隊長になんとかしてもらうしか!」
息を切らして問題の階段へ向かいながら、ようやく状況の説明が終わった。
「しかし、それはアランの主観なのだろう?他に目撃者は?」
「いません。1番早く駆けつけたのはユラン伍長でしたが、それも、訓練をほっぽり出したアランを連れ戻そうとしただけで。ちょうどアンドレが階段を落ちてくるところだったと。でも隊長!アランがこんな嘘をついて、なにになるっていうんです?」
「判っている!」
彼女が現場についたときには、すでに人だかりが出来ていた。
そしてその輪を割って、近衛の兵士たちが引き上げるところだった。
「これは隊長。お久しゅうございます」
優雅な礼を取る顔ぶれは、彼女が近衛連隊長として指導したこともある新兵たち。
「此度の件、私に言うべきことは?」
「特に、なにも」
「なにもない、と?」
「はい。先ほど私どもの不手際で、些細な事故が起きてしまいましたが。しかしそれは個人的なこと。アンドレ・グランディエには、後ほどお屋敷の方へ見舞いの品など届けさせましょう」
「些細なことだぁ?ひとつ間違えば、大ケガしてたかもしれないんだぞ」
納得のいかないアランは、立ち去ろうとする背中に噛み付いた。伍長に羽交い絞めにされていなければ、きっと飛びかかっていたことだろう。
けれどそれは、軽く手を上げた彼女に制された。
「この件は私が預かる」
「でもっっ!」
「私が預かると言っている」
抑揚のない静かな声。
なおも言いつのろうとしたアランは息をのむ。
彼女の顔色が、幽鬼のように青白かったから。
隊長、あんた何にそれ程ショックを受けている?
「将校は全員持ち場へ。隊員たちは指揮に従うように。私は司令官室に戻る」
彼女はそう言って背を向けたが、その間際、誰にも気づかれないほどの素早さで、彼を盗み見ていた。
「アラン、悪いがアンドレを衛生室へ連れていってやってくれ」
「俺なら大丈夫だぞ、オスカル」
明るくしっかりした声音で、彼は話に割って入ろうとしたが、彼女はもう歩き出していた。
「アンドレ。おまえは軍医の診察が済んだら、そのまま屋敷に帰れ。私への挨拶になど来なくていい。命令だ」
「オスカル!?ちょっと待…」
背後から聞こえてくる彼の声から逃げるように、彼女はずんずんと歩を早め、やがてそれは駆け足になり。
「はぁっ… はぁっはぁっ…っ」
司令官室に飛びこむと、きっちり扉を閉めてへたり込んだ。
そのまま扉に寄りかかったが、座っているというのにぐらぐらとめまいがする。
「…ぅぐっ」
こみ上げてくる吐き気に、口もとへ手をあて、きつく目を閉じた。
転落の衝撃か黒髪を乱し、くちびるの端に血をにじませていた彼が、いやでもまぶたの裏に浮かんでくる。
故意に傷つけられたアンドレ。
狙ったのは、誰だ?
判っていることを、彼女はあえて自問する。
彼の見えにくい目を利用したやり口。
それは“拒み続ければこうなるぞ”という警告。
私にさえ関わらなければ、おまえは…!
蒼白になりながら、背中を伝う冷たい汗に、彼女は湧き上がってくる震えを止めることができなかった。
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