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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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貴賓室へ
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    夜も更け始めたジャルジェ家の庭園。
    日中は異様に暑かったものの、月が高く登る頃には、さすがに多少しのぎやすくなってくる。
    月下のそぞろ歩きが似合うぐらいには。
    「珍しいこともあるものですね」
    「私にだってたまには、花を賞でたいときもある」
    「そういうことではなくて」
    少し先を歩いていたヴィクトールは、足を止めて振り返った。
    「今宵のあなたは、晩餐に招かれた私を見て、嬉しそうな顔をなさった」
    「私が?」
    見るでもなく庭園を眺めながら、とろとろと歩いていた彼女は、ヴィクトールの言い出したことに顔を上げた。
    「まさか。自惚れるな」
    ぶっきらぼうな言いぐさ。
    けれど、ヴィクトールの柔和な笑みは消えなかった。
    「いいえ。晩餐の席に私を見つけて、あなたは僅かに嬉しそうな顔をなさいました」
    なにを馬鹿なことを。
    今までなら即座に、そう一刀両断していた。
    私がおまえを見つけて、嬉しそうな顔をしただと?冗談もたいがいにしろ、と。
    しかし。
    「……」
    なにか言おうとくちびるは動いたものの、結局彼女はなにも言えずに、また花へと目を移す。


    その日の勤務を終えて、普段通りに帰宅した彼女。
    馬車の中でもごく普段通りに彼と雑談に興じ、本当になにもかもが普段通りだった。
    ――表面的には。
    自分の部屋に帰って1人になった彼女は、長椅子へと崩れこむ。
    ひどく疲れていて……少し眠りたい。
    強い倦怠感に目を閉じるが、しかし、眠りの波が彼女をさらうことはなかった。
    うとうとしかけても、今日司令官室で起きたこもごもがまぶたの裏に映り、眠らせてくれない。
    壁際にたたずむアランに、気づかなかった彼。
    そのことに彼女は、覚悟していた以上の衝撃を受けた。
    ここは勤務中の司令官室だ。
    心の中で呪文のようにそう唱え、必死に自分を律する。
    けれどそれも、アランに気遣われた瞬間に、あっけなく崩壊した。
    いくつも年下の部下の胸を借り、泣きじゃくってしまったオスカル・フランソワ。
    彼女はそれを、少し高いところから、ふわふわと見おろしていた。
    アンドレの目は本当に見えていない。
    自ら確認した決定的な事象。
    それを真正面から受け止めて、心はざっくりと傷を負い、涙を止められない自分自身を、どこか冷めきったもう1人の自分が体から離れて眺めているような、危うい感覚。
    なんとか踏みとどまれたのは、アランの腕が力強かったからだ。肩を覆う腕の力が、ギリギリのところで彼女を彼女でいさせる。
    彼以外の男の腕の中で泣けるなんて、考えたこともなかった。
    しょせん私も、男と見ればすがろうとする、ただの女だったというわけか。
    冷笑を浮かべながら見おろす実体を持たぬ自分の声が降ってくる。
    ……駄目だ。壊れる…
    無意識にアランに強くしがみつき、しがみつかれた当の男は苦い表情をより険しくしながらも、しっかりと彼女を抱き返す。
    しかしそれも、ほんの5分程度のこと。
    『大丈夫。あんたは大丈夫だ』
    彼女の嗚咽が止まるのも待たず、アランは司令官室を出て行った。
    広い司令官室に1人放り出された彼女の中に、冷ややかな女が戻ってくる。
    それは、生まれ出でると同時に父・レニエに作り上げられた、今はジャルジェ准将と呼ばれる女。
    その女と、心を乱しきった彼女は、再びぴたりと重なる。
    彼が近衛への使いから戻る頃には、いつも通りの顔をして執務机で羽ペンを走らせていた。
    彼と雑談を交わしながらその日の勤務をこなし、帰りの馬車でも、彼女はころころと笑っていたのだが。

    夜の庭園を渡る風にまぎらせて、彼女は澱んだ胸の内をため息に含ませる。
    うっそりと抱えている後ろめたさを払拭したかった。
    そうだ。
    ジェローデルの言うことは間違っていない。
    私は晩餐の席にこの男の姿を見つけ、ほっとした。
    それが嬉しそうに見えたというのなら、そうなのだろう。
    自室に戻って緊張が抜けたせいか、ぐったりと重いからだをなかなか起こすことができなかった彼女。
    死んだ魚のように長椅子に転がり、侍女の再三の呼びかけにようやっと身を起こして部屋を出る頃には、既に晩餐は始まっていた。
    席につく前に、遅刻の無礼をひと言と、伏し目がちな目線を父親へ向ける。
    が。
    彼女の目を引きつけたのはレニエではなく、父の認めた婚約者として、食卓でくつろいだ表情を見せている元部下だった。
    「…ジェローデル…」
    今日は来ていたのか。
    いつもなら煩わしく思う、その男の訪問。
    だが、今夜ばかりは救われた気がした。
    ――アンドレと2人きりにならずにすむ。
    咄嗟にそう思ってしまったのだ。
    彼をそんなふうに思ったのは、幼い頃からのつき合いの中で、初めてのことだった…

    ガラガラと車輪の音も軽快に、退勤後の2人を乗せてジャルジェ家へと帰る馬車の中。
    彼女は彼の視線をずっと感じていた。
    父との取り引きを気取られたかと思うと落ちつかず、全身が敏感になってしまっている彼女にとって、その視線は苦しい。
    アランとの一件で赤味の増した目や、腫れの引かないまぶた。
    静かな隻眼が、その辺りをさまよっているのが判る。
    どの程度、見えているのだろう。
    一連の婚姻騒動。
    そのことで彼が、我が事のように胸を痛めているのは、彼女もちゃんと知っている。
    それは父親の意向で本来の性を否定され、にも関わらず、今また近衛将軍家の血を絶やさぬために女へと引き戻されようとしている彼女の心情を、彼が誰よりも細やかに理解してくれているから。
    そっくりと心をうつし取ったかのように、2人は同じ痛みを共有している。
    当然だろう?
    幼い頃から本当の兄弟のように過ごしてきたのだもの。
    そう理由づけてみるが、その答えが今日は、うまく飲み込めなかった。
    兄と弟のような関係。
    彼とのことは、すべてそのひと言で整理してきた彼女。
    それは、ある時期までは本心から。
    そして、ある時期からは意識的に。
    『欲しいというなら、この命もくれてやる。だから』
    馬車に揺らされる見えない目線に心は乱れ、彼女の胸の奥の暗がりに、消し去ったはずの記憶が染み出てくる。
    すっかり忘れたと思っていたその場面は少しも色あせておらず、彼女は無意識に手首をさすった。
    『愛している。オスカル、愛している!』
    あのとき力まかせにつかまれ、手首に薄く残ったあざ。
    それが消えるまでの数日、彼女はどれだけ人目を怖れただろう。そして彼を。
    あの出来事から2人は、意識的に兄弟の図式を演じてきた。
    お互いにわだかまりを感じながら、それでも一緒にいるためはそうするしかなかった。
    離れることなど考えられなかった。
    彼は、彼女への想いゆえに。
    彼女は、彼への友情ゆえに。
    だってそうだろう?
    幼くして両親を亡くしたアンドレ。
    唯一の肉親を頼ってジャルジェ家に身を寄せ、彼女付きの従僕となり、それ以外の生き方を彼は知らない。
    彼女がことを荒立てて、あの出来事がレニエの耳に入ったなら、彼の立場では悪くすれば手打ち、良くても無一文で路頭に放り出されるのは間違いない。
    今さら土を耕して糧を得ることが出来るとも思えず、かと言って客商売が似合うとも思えない。手に職があるわけでもなし、薄汚れた裏町でうらぶれていくしかないのは想像に難くない。
    そうなれば、マロンだってどれだけ悲しむか。
    長年、友情を温めあった彼に、そんな仕打ちができるはずがなかった。
    あれは男の気の迷い。
    このままそぉっとしまって、なかったことにしてしまえばいいのだ。そうすれば、なにもかも今まで通り。2人の友情は変わらない。
    そう思って。
    しかし。
    ……友情?
    そ‥うか。
    どうにも今日、うまく飲み込めない部分がそこだと、彼女は気づく。
    アンドレは友情から、この婚姻騒動に胸を痛めているのだろうか?
    兄と弟であるなら、そうあって然るべき。
    だが。
    彼が意識的な疑似兄弟関係の下で、あのときの気持ちを育て続けていたとしたら?
    そんな。
    あるはずがないと彼女は思う。
    あれ以来彼女は、彼の私室に出入りすることをやめ、気安い夜着姿を見せることもやめた。一時期はまったく彼を部屋に入れず、就寝前に共に談笑するひと時も拒んでいたほど、アンドレに対して線を引いていた。
    さすがに今ではそこまで徹底していないが、寝む前の時間を持ったとしても、彼も以前のようには長居せず、必要以上に近づいて来ることもなく、2人の間に男女の気配が立ちのぼることは2度となかったのだ。
    これだけきれいに想いを無視されて、それでもなお、彼が熱情を持ち続けているとは思えない。
    今日、彼女が司令官室でひどい立ちくらみを起こしたことだって、おそらく気づいている彼。
    常よりキレの悪い彼女の身のこなしを、他の誰が気づかなくとも、彼は必ず見抜く。
    それは、きっと深い友情に由来するもの。
    そうなのだろう?アンドレ。
    向けられた、見えてはいない瞳を彼女は凝視する。思わず知らず前のめりになり、彼へと指先を伸ばしていた。
    ゆらゆらと馬車に揺れる、ただ1つの黒曜石。
    ……ゆら…ゆ…らと…
    「どうか、したのか?」
    空虚になっていく彼女を、彼の控えめな声が呼び戻した。
    「ぁ」
    伸ばした指先は、彼に柔らかく握られている。
    少しの間、呆けていたらしい。
    「どうした?」
    慈愛の深い、黒い瞳。
    幼いときから常にあった眼差しなのに、今日の彼女には、無性に懐かしく感じられた。
    これではまるで、別れの準備をしているようじゃないか!
    「いや、なんでも」
    そう言いながら、さり気なく指先を解こうとし、でも。
    指先が、熱かった。
    それは体温などではなく、からだの内側からこみ上げてくる熱さ。
    「ア‥ンドレ」
    ろくに見えていないはずなのに、すべてを見守ってくれているような、彼の眼差し。
    …友情、だけなのか?
    一瞬ふわりとよぎった想いに、彼女は愕然とする。
    なにを考えているのだ、私は。
    けれど、心に浮かんだこの疑問に、からだの方が正直に反応した。
    胸の奥とも違う、もっと深いところが、じんわりと熱っぽくなる。今までに感じたことのない“なんだか変”としか表せない感覚。
    ‥いや‥だ‥
    「ごめん!」
    微かにつぶやいた言葉に、彼が慌てて手を離した。
    「違う、アンドレ。私は」
    手を握られたのが、嫌だったのではない。
    自分の中に、唐突に生まれた感覚が怖かっただけ。
    馬車の揺れすら、その感覚を増幅するようで、そこから意識をそらしたい彼女は、どうでもいいバカ話を始めた。
    明らかにねじ曲げられた会話。
    しかし、賢い彼はそれに乗る。
    あの出来事のあと、日常を取り戻すために2人、不自然に明るい会話を繰り返した日々を、アンドレは忘れていない。
    屋敷に着くと、車寄せから彼女の私室へと並んで歩きながら、彼は今宵所望の酒を尋ねた。
    「今日も酷く暑かったし、キリッと冷えた白でもどうだ?」
    そんなふうに水を向けたが。
    「オスカル?」
    「…え?……ああ、そうだな。おまえに任せる」
    少し遅れた笑顔を見せて彼女は答え、でも、その笑顔のそらぞらしさに、彼は気づいたかどうか。

    「ほぅ… こちらですね?あなたが誕生されたときに、ジャルジェ将軍が作らせたという薔薇は」
    彼女はたいして当てもなく庭園をふらついているつもりでいたが、ヴィクトールには目的があったらしい。
    広大に整えられたフランス式庭園の幾何学模様を抜け、夫人の見事なオランジュリーを過ぎ、すでに嫁いだ彼女の姉達の愛でた可愛らしい泉をさらに進むと、次期当主・オスカル・フランソワの花園に出る。
    手入れの行き届いた、繚乱の花々。
    その中に、ひときわ手厚く世話をされているのが容易に判る一角がある。
    「なんと美しい。将軍にうかがってはおりましたが、これほどとは」
    ヴィクトールは、キュロットが汚れるのを気にするふうもなく、花壇の土塊にのめり込むように膝をついた。
    宮廷でも若い姫たちをときめかせ、その親たちからはぜひ婿がねにと引きも切らないヴィクトール。
    近衛連隊長の要職に劣ることのない容色は、もちろん彼女と並んでも見劣りすることはない。
    そこもまた、レニエの気に入るところだった。
    ヴィクトールは、その美しい顔を花びらに埋め、浮世離れした雅びさで香りを楽しんでいる。
    そんなキザな仕草も、この男には似合うのだ。
    『あれの誕生を祝って作らせた薔薇は、月の光がよく似合う。どうだ?あれを連れて、少し庭など巡ってみては』
    晩餐の席での、レニエの勧め。
    ヴィクトールは躊躇なく頷いたが、彼女がこの提案に乗るとは思っていなかった。
    レニエと夫人、そしてヴィクトールが、会話と料理人の自慢の腕を楽しみ、なごやかなひと時を過ごしているとき、いつだって彼女は、無機質な顔をして食卓にいる。
    たいして食も進まず、談笑に参加するわけでもなく、当主であり上官でもある父親の命令で、ただ、そこにいるだけ。
    食後のカード遊びや、ちょっとしたダンス、クラブサンやバイオリンの演奏などをいくらレニエが示唆してみても、彼女はデザートが運ばれてくるなり、これで命令は果たしたと言わんばかりに席を立っていた。
    それだけに、今宵に限って、彼女が素直にヴィクトールのあとについて庭園に降りたのには、誰もが驚いた。
    『珍しいこともあるものですね』
    ヴィクトールがそう言うのも、無理からぬことだったのだ。
    「珍しいと言えば」
    花びらに顔を埋めていた男は、その(おもて)を彼女に向ける。
    「いくら四季咲きとはいえ、この時期にこれだけ見事に薔薇が開くのも、珍しいこと」
    ヴィクトールは女の頬でも撫でるように、優しく花冠のフォルムを包む。
    しっとりとした手触り。
    雲の流れに射す光の角度が変わると、花びらも微妙に色合いを変えた。
    純白とも見紛う、清廉な姿。
    陽の(もと)で見れば、本当に微かな、砂糖菓子のように儚い鴇色なのだとか。
    しかし、その醍醐味ともいえる繊細さも、風情を知らぬ者にはただ白く映るだけ。
    「まるでオスカル嬢、あなたのようだ」
    ヴィクトールは小さく独り言ち、そして立ち上がると、彼女へと近づいた。
    「将軍がおっしゃられたのです。“あの薔薇は、朝露に濡れた姿が1番美しいのだ”と」
    「朝…露?」
    ヴィクトールの言わんとすることを察知し、ほんの少し、後ずさる彼女。
    「そして、将軍はこうもおっしゃられた。それを今宵、確かめてみるがよいと。私に、お許しくださる、と」
    武人だというのにしなやかな指が伸びてきて、彼女の頬に触れ、腰を引き寄せる。
    「オスカル嬢?」
    グッと力の入る拳。
    咄嗟に男の手を振り払おうと上げかけた腕は、ぎこちなく止まる。
    優雅に近づいてくるヴィクトールの瞳と香りに、花婿選びの舞踏会が思い出されていた。
    正確にいうならば、その舞踏会をぶち壊し、エスケープしたあとの、庭園でのことを。
    『愛しています…美しいかた……』
    見つめる瞳に捕縛され、惑わされるまま、あの夜の彼女は身動きさえできなかった。
    初めて女として抱き寄せられ、くちびるをくちびるで慈しまれる感覚。
    『あ…』
    ヴィクトールの巧みな愛撫は心地よく、ふぅっとそのまま身を預けてしまいそうになる。
    でも次の瞬間、彼女はハッと気を取り直すと、ヴィクトールを突き飛ばし、脱兎のごとく逃げ出していた。
    好きでもない男に誘惑されて簡単にくちびるを許し、ほんの一瞬とはいえ、心地いいと感じてしまったあの夜。
    それは、男女の機微にまだ潔癖な彼女には、罪悪感と嫌悪感のみをもたらした。
    『しょせん私も、男と見ればすがろうとする、ただの女だったというわけか』
    違う!
    私は。
    私の知っているくちびるは。
    私の知っているくちづけは。
    あのとき感じた、胸の疼き。
    からだが熱くなってとろけそうな。
    それは今日、帰宅の馬車の中で感じた、あの奇妙な感覚と同じもの……?
    「なんて表情(かお)をしているんです?」
    ほとんどくちづけの体勢に入っていたヴィクトールは、動きを止めた。
    月下に影の射す、彼女の白い顔。
    「さながら、初めての恋にとまどう少女のような顔をしておいでだ」
    ただし、その眼差しは、私に向けられたものではないが。
    それは愉快とは言い難いことであったが、いちいち追及し、咎めだてるほどヴィクトールも安い男ではない。
    彼がくちづけを止めたのは、もっと大事なことに気づいてのこと。
    「恋…などと。勘ぐるのもいいかげんにしろ」
    近寄せ過ぎた男に、彼女は遅ればせながらの危険を感じ、ヴィクトールの胸を押し返しす。
    腰に添えられていた手を払うと、彼女はあっけなく自由になった。
    慇懃無礼に押しの強いこの男。
    レニエが今宵、彼女を許したというのなら、もっと迫って来てもよさそうなものだが。
    「お部屋にお戻りなさい、オスカル嬢」
    「は?」
    「嫌ですね、まったく。そんなにあからさまに不審な目をしなくても」
    「いや、だって…父がおまえに…そのようなことを…ならば」
    言いにくそうに表現をぼかす彼女に、ヴィクトールはクツクツと笑う。我が愛する姫君は、30を過ぎてなお、なんとうぶなお方だろうかと。
    「あなたがどうしてもそうして欲しいとおっしゃるなら、それでもよいのですが」
    そんなことより、ヴィクトールには彼女の顔色の方が気になった。
    遠目には判らなかったが、やつれた感のある頬と精気に欠ける瞳。血色よく見せかけるために乗せられた口紅。
    ちょっと普通ではない。
    何より決定的だったのは、頼りないほどの腰の線。
    以前に知る彼女のそれとは明らかに違う、病的な細さ。
    彼女をそこまでやつれさせたのが自分だと思うと、とても手出しなどする気にはなれない。
    ヴィクトールは再び花壇に膝をつくと、真珠のように艶やかな薔薇たちにくちづけた。
    「この薔薇をお手ずからお選びになり、私の屋敷に届けさせてくださいませんか?そうすれば、その花が枯れるまでは、私はこちらに参りますまい」
    「ジェローデル…?」
    「ですから、どうかもう少し、ご自身をおいといいただきたい。でないと私も」
    立ち上ったヴィクトールは、今までに見せたことのない、茶目っ気溢れる表情を浮かべた。
    「でないと私も、いつまでたっても不埒な振る舞いができません。早く元気になってくださらないと!
    ああ、せっかく将軍が今宵、あなたをお許しくださったというのに!!こうして善人ぶっているのも、男にはけっこうつらいものがあるのですよ?」
    おおげさに肩をすくめて飄々と言うヴィクトールに、彼女のくちびるにも小さな笑みが浮かんだ。
    「馬鹿か?貴様は」
    この男。こんな砕けた面もあったのか。
    父の部屋に呼びつけられてより、ずっと張り詰めていた心に、少しだけ風が通る。
    「さぁ、もうお行きなさい、オスカル嬢。
    それともお部屋まで送りましょうか?」
    わざとふざけた口調のヴィクトールに、彼女はこの男なりの気遣いを感じた。
    それまでいくら愛していると言われても、その言葉は少しも心に響かずに、ただ違和感を覚えるばかりだったのだが。
    彼女はヴィクトールの申し出に、迷いながらも頷いた。
    「扉の前まで、だぞ?」


    事態は依然膠着状態で、進展も好転もしてはいなかった。
    ただ、のちに振り返ってみると、この夜は確かに、彼女にとっても彼にとっても、そしてヴィクトールにとっても分岐点のひとつではあったのだ。
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