フリーエリア2


もうすぐ私の愛する人の誕生日が終わる。
 彼はまだ帰ってこない。
 昨日の夜から顔を合わせてすらいない。何故なら私がそう仕向けたから。わざとすれ違うように勤務を入れた。ここ数日は勤務中も屋敷でも距離を置いていた。彼は訝しんでいるだろうか。或いは自分が何か私を不機嫌にするようなことを仕出かしたのかも知れないと気に病んでいるだろうか。
 時折、寂しそうな表情を見せたり、物言いたげな熱い視線を送って寄越したが、私も「氷の花」と呼ばれた女である。何事も無いかのようにやり過ごした。
 今日はもう休むから誰も部屋に来ないように、と侍女達には言っておいた。部屋の照明も小さく絞ってある。戻ってきても彼の方から私の所へ来ることはないだろう。
 日付が変わる前に戻ってくるだろうか。一班の連中に「誕生祝い」とかなんとか言われて、娼館なんぞに連れて行かれていなければいいが。


 私が7歳の時に彼はうちに来た。それから毎年、彼の誕生日には贈り物をした。彼がまだ文字を習い始めたばかりの頃は外国のお伽話が綴られた本。揃って宮廷に上がった年には銀の懐中時計。翡翠のカフス留めは彼の瞳の、その深い黒の中に微妙に混ざった緑色を連想させた。
 贈り物選びは毎年悩む。暦が8月を告げるとやってくる楽しい憂鬱。
 なのに、彼は私がほぼひと月悩みに悩んで決めた贈り物に対し「分不相応な…」と言って恐縮するのだ。毎年。
 私は彼の口元が「わぁ」とほころぶさまが見たいのに。
 そうして[来年こそは]という意気込みを残して私の8月は終わる。
 今年は……?


 3週間前、私は口の堅い仕立職人に初めて自らの意思でドレスを発注した。淡い水色の絹地に上質なレース。胸元にはオペラピンクのリボン。それらは彼と初めて出会った日に吹き渡っていた風を、流れていた雲を、今が盛りとばかりに咲いていた躑躅を思い起こさせる。
 誰の手も借りずに着られるように型は極限までシンプルにした。薄い布を幾層も重ねて、控え目ではあるがパニエを着けずとも膨らむよう工夫したスカート。あの舞踏会の時のように、コルセットをギリギリと締める必要もない。
今夜初めて袖を通した。
レース。
リボン。
このオスカル・フランソワが、だ。
髪形も一人ではままならないので、捻って留めただけだ。それでも自分をラッピングしている時の高揚感は格別だった。


 23時35分。
 遅い。
 まさか、本当に娼館に?
 「お前、今日が誕生日なんだってな?祝ってやるから俺達につき合え」
そんな声が頭の中に渦巻く。
安香水の匂いが立ち込める酒場で女達の嬌声の中央にいる彼の姿が浮かぶ。頭を振って否定しようとするのだが、今度は安物の敷布の中で誰かと睦み合っている様子が浮かんでしまうのだ。
 嫌な考えを払拭しようとブランデーの瓶に手を伸ばしかけ、止めた。飲み過ぎた醜態はこれまでに幾度も見せたが、今日は彼の誕生日である。あとで接吻する時に私の息が酒臭かったりしたら興醒めだ。
 何処かで馬の嘶く声が聞こえた気がして、窓辺に駆け寄り目を凝らす。だが、見えるのはぽっかりと開いた夜の世界だけ。さきから座っては立ち上がり、窓の外を確認しては落胆する。その繰り返し。私は一体何をしているのだろう。
 闇夜だった。
 不意に梟が飛び立つ羽音がしてギクリとする。
 彼の不在が身に沁みてくる。
何処かで賊に襲われているのではないか?追い剥ぎに遭ったりしているのではないか?
 かつて私は自分の浅慮から彼を失いかけたことがある。その時の恐怖がまざまざと思い出され、思わず両手で自分自身を抱き締めた。


 微かに門扉が軋む音がする。  
 帰ってきた。
 良かった。間に合った。
 頃合いを見計らって、大判のストールを羽織ると深夜の廊下に滑り出た。逸る気持ちを、こみ上げてくる微笑みを抑え、足音をたてないよう裸足で明かりの落とされた裏階段を一気に進む。
彼の部屋の前で呼吸を整え、扉を叩く。
  「誰?」
私は静かに扉を開け、中へ忍び込んだ。
 ああ。私はまだ一言すら発していないのに、どうしてそんなに嬉しそうな顔をする?
 私は羽織っていたストールをするりと落とした。


「誕生日おめでとう。今年はこれだけしか贈り物を用意してやれなくてすまない」



fin
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