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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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貴賓室へ
ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    「昨夜はどうも」
    小粋に首を傾げ、すかした挨拶をしやがるガキ。
    薄暗がりの路地裏で、その子供は妙な存在感を放っていた。
    目深にかぶった帽子。
    すっぽり羽織ったマントで、肩から膝までをおおっている。
    そこから伸びた足はまだ細っこくて、そのくせ編み上げの半長靴(はんちょうか)なんか履いてるから、その足の細さが余計に際立っていた。
    襟もとをスカーフだかショールだかでくるくる巻いているもんだから、顔立ちは埋もれてろくに窺えない。
    でも、それを留めているのは結構な細工のブローチらしく、俺はポケットの中のロザリオを握り直した。
    やっぱりこの見事な装飾を施したロザリオは、こいつの落としていったものに間違いない。
    「待ち伏せか?どうしてここが判った?」
    「あなた昨日、軍服を着ていたでしょう?士官学校の教官の。街なかを巡回している国民衛兵のお兄さんたちに肩の徽章を聞いたら、あなただってすぐに判ったよ。アラン・ド・ソワソンさん。有名人だもんね」
    「皇帝に銃口を向け、失敗したバカだってな」
    そんな俺の過去を知っているのか、ガキはケラケラと笑った。
    「やらかしちゃったね」
    「人生最大のドジを踏んだと思ってるさ。狙撃なんて穏便な方法じゃなくて、ベルトレー火薬でも腹に巻いて行きゃよかった」
    「お… 穏便っ」
    狙撃を穏便と言った俺の言いぐさが面白かったのか、ガキはよりゲラゲラと笑う。
    「で?なんで俺をここで待っていた?」
    「巡回中のお兄さんたちが教えてくれたのさ。あなたがちょくちょく、この裏通りをぶらついてるってね」
    「ちっ。あいつらめ」
    この路地裏。
    俺がディアーナと出会ったのがこの辺りで、どうせそれを面白おかしく喋ってるヤツらがまだいるんだろう。
    「それで俺になんの用だ?ガキ」
    「判ってるくせに…。実は僕、昼間、士官学校に行ってみたんだよね。あなたの部屋にお邪魔しようと思って」
    「何が“お邪魔”だ。こっそり家捜ししようと思ったんだろうが」
    「ふふん」
    ガキはちょっとばかり得意げな様子を見せた。目もとの表情だけで、ふざけたドヤ顔をしているのが判る。
    「さてはおまえ」
    「学校に忍びこんだだけだよ。何もしていないさ。だってあなた、学長室から全然出ないんだもの。おまけにあの部屋、やたらと人が出入りするし」
    「当たり前だろ!」
    ユラン伍長の朝の報告・午後の報告・夕の報告。昼下がりにはお茶の時間。その合間にチョロチョロと俺の行動を見張る世話係。
    まだあの男の監視下に置かれている俺には、暇はあっても自由はない。
    しかし。
    「おまえ、どうやって学校に入りこんだんだ?」
    「まぁ、いいじゃないか。そんなこと」
    「よかぁねぇだろ。あそこは部外者がそうそう入りこめる場所じゃない。そんなやり方、どこで覚えた?いったい誰に教えられたんだ」
    「さあね。でも学校に侵入するのは、あなたが思うより簡単だよ。警備がザルだからね」
    「このガキっ、なめた口ききやがって!」
    挑発されてるふりをして、俺はガキとの間合いを少しずつ詰めていく。
    「だいたいおまえ、親は?」
    「親?」
    今夜も月が薄い。雲間に見え隠れするほのかな明かりじゃ、ガキの顔もはっきりは判らない。
    ただ、瞳が…
    まだ背も低くて細っこく、声変わりも終えてないくせに、人の意識をグイグイと惹きつける奇妙な力強さで迫ってくる。
    なんなんだ。懐かしいほどの、この緊張感。
    「子供のくせにあんな時間に出歩いて、盗っ人のまねなんかして。普通、親が黙ってねぇだろ」
    「心配する、親? …心配する…」
    ガキは口の中でブツブツとつぶやいている。
    あんな夜中に、無人のジャルジェ邸に忍びこんだ子供。とても自分の意志とは思えない。こいつの身の軽さを利用して、親が空き巣をさせているんだろうか。
    だとすればこのロザリオも、どこかの屋敷から盗んだもの?
    腹の中でそんなことを考えながら、俺はガキまでの距離を結構詰めた。あと少しで手が届きそうだ。
    深くかぶった帽子から、目にかかる前髪が見えている。埋もれるようなショールにも、顔まわりを縁取る巻き毛がこぼれていた。
    黒髪?いや、暗褐色か。
    近づいて見たガキは、よりガキっぽかった。灯りのないジャルジェ邸内でやり合ったときの印象より、もっと幼く見える。
    「おまえ、いくつだ?」
    「18」
    「嘘をつけ」
    腕組みなんかして偉そうに俺を見上げてくるけれど、無理に胸を反らした姿勢はむしろ逆効果で、笑えるぐらい“大人ぶりたい子供”という感じだ。
    ただ、その威張りくさった様子はヘンにハマっていて、盗っ人のまね事なんかしている割に、すさんだ雰囲気やみすぼらしさがない。痩せた体型も、生活苦のせいではないように思える。
    どうもよく判らねぇ。
    「とりあえず家まで送ってやる。あんなまねして、親にもひと言、言っておかないとな」
    そして、ジャルジェ邸に入った方法と、このロザリオの出どころを聞かなければ。それに、もし本当に家族で盗賊なんかしてるんなら、即刻やめさせないと。
    「その先の辻で、馬車を拾うぞ」
    俺はクイッと顎を向けたが、ガキは小生意気に肩をすくめた。
    「いいよ、送ってくれなくて。僕の要件は1つだけだし、心配してくれる親なんていないからさ」
    「え…っ」
    「ああ、でも少し前まではいたよ。僕のことを心配して、限りない愛情を注いでくれた人が」
    でも、長患いの末に、枯れ果てるように死んだのだとガキは微笑った。
    「僕に会えて幸せだったって。こんな幸せに恵まれるなんて思いもしなかったって。そう言って、天使みたいに微笑んだまま呼吸を止めた」
    「あ… の、そうか。悪かったな。無神経なこと言ったみたいだ」
    こんな子供を残して、幸せな人生だったと。
    そんな人生もあるのかと思うと、俺には胸が詰まる。
    梁から吊り下がった荒縄。
    宙に揺れたつま先。
    なんの言葉も残さずに、全部1人で抱えこんで逝ってしまったディアンヌが思い出された。
    それから、もっと深い胸の奥にしまいこんだ面影も。
    「やだなぁ。そんな深刻な顔しないでよ。“長患いの果て”って言ったでしょ?本当は、もっとずっと前に余命の宣告はされてたんだ。だから、お別れするための時間はたくさんあった。僕が大きくなるのが見たいからって、医者が奇跡だって言ったぐらい頑張ってくれたからね。だからもう…」
    ガキの声が、僅かばかり震えた。
    けれどそれは本当に一瞬で、ガキはすぐに自分を立て直した。
    「だからもう、楽になれてよかったんだ。召されたばかりの頃は、奇跡でも呪いでもいいから戻って来て欲しいって僕も願ったけど、父さんなんか“バケモノになってでもいいから、逝かないでくれ”って号泣してた。 でも“バケモノ”って言い方もひどいよね」
    本人に知れたら、ブッ飛ばされそうだとガキは笑う。
    「昔は父さんをボコボコにしたこともあったんだって。僕がもの心ついたときにはもう病床の人で、父さんとけんかするところなんて、見たこともなかったけど」
    「そう…か」
    父親はいるのか。
    心配しない父親というのもなんだか引っかかったけれど、俺は少し安心して、ガキを家に帰すことをまず、優先することにした。家と親が確認できれば、あとは追々聴取すればいい。
    「よし。じゃあその父親とやらに、きっちりおまえを引き渡さないとな。ほら、行くぞ」
    「え~!?それはずるいんじゃない?アラン・ド・ソワソンさん」
    「何がだよ」
    「僕のことばっかり聞いてさ。気がついてる?あなたが今、誰かを悼む顔をしてること」
    「な…っ、」
    「ディアンヌ・ド・ソワソン」
    久しぶりに、他人に呼ばれたその名。
    「妹さん、若くして亡くなったんでしょう?」
    このガキ。
    …何者だ?
    「フランス衛兵隊時代。少尉だったあなたは、手篭めにされそうになった妹さんを守るために、上官を殴り倒した。そのことが原因であなたは一兵卒に落とされ、軍人としての出世の道を絶たれた」
    そうだ。
    あのまま俺は、1班の班長という中途半端な立場でウダウダとくすぶるはずだった。
    けれど。
    あの人との出会いが俺を変えた。
    そして、あの人との別れが俺をさらに変えた。
    あの人が愛した衛兵隊は俺が守る。絶対に将軍にまで上り詰めて、あの人の目指したフランスを俺が叶えるのだと。
    野望を剥き出しに猛っていた俺があの男の目に止まったのは、運命だったんだろう。
    ただ俺には、それを利用しきる器量がなかった。あの男の副官、“将軍”なんて呼ばれて、この国を動かしている気になって、まんまとあの男に踊らされていただけ。
    でも。
    なぜこのガキがディアンヌのことを、俺の衛兵隊時代を知っている?
    真っ先に考えられるのは、俺の狂信的な支持者だ。
    あの革命で市民側に寝返り、一気に将軍まで駆け上がった俺を、大げさなほど英雄視しているヤツは多い。
    あのとき衛兵隊を率いて大きな決断をしたのはあの人なのに、民衆の記憶なんて曖昧なもんで、たかが一兵卒だった俺を、類い稀なカリスマ性で人心を束ね、革命を成功に導いた司令官だと思っている。
    勝手に作り上げられる俺の誇大妄想物語は無責任に広まり、影響を受けやすい若者たちが、こぞってそれを真に受けた。信奉者を自称するヤツらが俺の過去を嗅ぎ回ったり、古い関係者を訪ね歩いたりして、ずいぶん迷惑もかけたし嫌な思いをしたこともある。
    このガキも、そういった手合いなんだろうか。それで、俺に多少のつながりがあるジャルジェ邸までもを、漁ろうとしたんだろうか。
    「おまえ、俺の何を知っている?何を嗅ぎ回っているんだ」
    「いやだな、不審な目をして。僕はそんなに怪しい者じゃない。あなたには多少の興味を持っているけど、かつてあなたに群がっていた、ストーカーまがいの狂信者とは違うよ」
    ならば、あの男に銃口を向けた俺に期待する、新たな流れの一派なのか。

    “皇帝を倒して、あの華やかなりし時代を取り戻そう”

    あの男が立て続けに金と労力を注ぎこむ“遠征”に疲れきった市民たちの間からは、近ごろそんな思想が滲み始めていた。それはアンギャン公ルイ・アントワーヌの謀殺とも言える処刑によって、ある階層、そして王を戴く諸外国にまで広がっている。
    太陽王の治めた、強く華麗なランス。
    革命を起こし、王と王妃を断頭台に送っても、市民たちの生活は変わらない。そうなれば人の心は勝手なもので、自分たちが葬り去ったそう遠くない時代を懐古し始めた。

    『だって。マールスはあたしを、お姫さまにしてくれるって言ったんだもの』

    そうだ。
    この路地裏で再会したディアーナも、あの王と王妃のいた時代の偽せ物の夢にすがっていた。


    あれは夜間の外出も回を重ね、監視のキツさも緩んできた頃だった。
    行く店、帰る時間も縛られることはなくなり、見た目上なら、俺はあの男から結構な優遇を受けていた。
    豪華な住まい、名誉学長という地位。豊かな生活。
    昔を知る仲間には、却って良かったんじゃないかとすら言われ、俺の本当の気持ちを理解してくれるのはユラン伍長だけだった。
    あの日もお行儀よく飲んでいた俺は、酔っ払い過ぎないうちに帰ろうと路地裏へ出た。ある程度顔の知られた俺が表通りを歩けば、ろくなことにならない。人目を避けて歩くのが、もう癖みたいになっていた。
    時おり娼婦の立つ、ジメジメした裏通り。
    賑やかな気配もすれ違う人も少なく、俺は少し先、馬車の拾える四つ辻へ向かう。
    そのとき。
    『ビシッ』
    ある意味聞き慣れた、人を殴る音がした。
    殴る… 正確に言えば“平手で頬を張り倒す音”。
    こんな路地裏、けんかなんて珍しくない。普段なら俺も、気に止めなかった。
    でも、聞こえてくるその音は一方的で、ところどころに混ざるのは。
    女の呻き声?
    俺はひと角折れた小路をそっと窺ってみた。
    薄汚れた道の端、男が背を向けて、座りこんだ女を張り倒している。
    『ひ…っ ……ぁ…っ』
    殴られるたびにあがる、抑えた悲鳴。
    それだけで俺には、女が殴られ慣れているのが判った。
    こんなときは、騒げば騒ぐほど男の暴力は加速する。
    それが判っているらしく、女はなすがままに殴られていた。男の気が済むのを、じっと待っているようだった。
    『今夜中に金がいるんだよ。さっさと客を取ってこい』
    腕をつかんで、強引に立たせようとする男。
    『で…も、もう無理なの。判るでしょ?』
    暗い路地の隙間に、女の頬が涙でてらてらと光る。
    『ぐだぐだ言わずにとっとと稼げ!おまえなんか、どうせ他に取り柄もないんだからな』
    男は立たせた女を蹴りつけた。
    『やめて。ぶってもいいから、蹴るのはやめて』
    『俺に命令する気か!』
    体を守るように、丸くしゃがみ込んだ女を執拗に蹴る男。
    関わるべきじゃない。
    そう思った。
    今の俺の立場。
    揉め事を起こすわけにはいかない。
    でも。
    『いい加減にしとけよ』
    俺は、男の肩をガッと掴んでいた。
    『んだよ、てめぇはっ』
    男は振り向きざま凄んでみせる。
    絵に描いたようなチンピラだった。
    『そこまでにしとけ。じゃなきゃその女、余計売りもんにならなくなるぞ』
    『おっさんには関係ねーんだよ』
    男は俺の腕を振り払ったが、俺はそのまま男の手首を捉えて捻りあげた。
    『痛っ、痛いぃっ!』
    さっきまでさんざん女を殴っていたくせに、呆気なく泣きの入った男。
    俺は心底うんざりして、男を小路から連れ出すと、表通りまで引いていき、賑わいの中に蹴り込んでやった。
    『覚えてろよっ!』
    気の利かない捨て台詞を吐いて、逃げていく男。
    はぁぁ。汚いもんに触っちまった。
    そう思いながら裏道に戻ると、女がつかみかかってきた。
    大きな黒目がちの瞳。緩やかな頬の線。
    この女!
    いつか会った娼婦だった。
    涙に濡れて、頬っぺたを腫れ上がらせて、でもやっぱりその面差しはディアンヌによく似ていた。
    …ああ。
    でも、そんな俺の想いとはまるで関係なく、女… ディアーナはギュッと、俺につかみかかっていた。
    『彼は!?彼は大丈夫なの?マールスにヒドいことをしなかったでしょうね?』
    『おまえ何言ってんだ?こんなボコボコに殴られて、その上“客を取れ”って言われてんだぞ。しっかりしろよ』
    強く肩を揺すると、ディアーナはようやく俺に気づいた。
    『あ。おにいさんはこの間の、』
    しかし、いくらも喋らないうちにウッと口もとを押さえた。
    それから激しく嘔吐(えず)き出したもんだから、俺は仕方なしに背中をさすってやった。
    『あんた、もしかして?』
    ディアーナはそれには答えなかったけれど、苦しそうな息をしながらボソリと言った。
    『本当は優しい人なの。今日はちょっと、機嫌が悪かっただけ』
    『機嫌って、身重の女を殴るなんざ、そういう問題じゃないだろうよ』
    『ううん。彼は今、おうちがとっても大変なの。どうしてもお金がいるのに、あたしがこんなことになっちゃったから。ビックリしたのよ。きっとそう』
    ディアーナは、俺に対してというより、自分に言い聞かせているようだった。
    『金がいるってあんた、あの男のためにこんな商売してんのか』
    『…彼はお客さんだったの。私はブーランジェリーの売り子だった。毎日パンを買いに来てくれて、仲良くなって』
    2人が恋人同士になるのに、大して時間はかからなかったという。そして聞いた、男の身の上話。
    『彼のおうちはね、元は大貴族なんですって。お父さまが伯爵で、王妃さまのお気に入りだったの。でも革命でお父さまは断頭台に送られて、お屋敷も財産もみんな取り上げられちゃって、今はしたこともない貧しい暮らしになってしまった。そのせいでとても傷ついてるの。だからときどき、あんなふうに…』
    『ふうん』
    『でももうすぐ、貴族の人たちが力を合わせて皇帝を倒して、時代を元に戻すんですって。そうしたら、彼が亡きお父さまのあとを継いで伯爵になるの!お金が要るのは、お屋敷を買い戻すためなのよ。だから…』
    『あの男に娼館を紹介されたわけか』
    『…そう。本当はイヤだったけど、でも今、彼を助けてあげられるのはあたしだけ。それに彼の身分が伯爵に戻ったら、あたしはいずれ伯爵夫人。花園のある大きなお屋敷に住んで、お姫さまみたいなドレスを着て暮らせるの。彼がそう言ってくれた』
    ディアーナの話を聞きながら、俺は頭痛がしてきそうだった。
    ヒモ男の典型的な手口じゃないか。
    『それであの男、なんて伯爵だって?』
    『ジョルジュ家とかって。将軍家だから、軍神のような子になるよう“マールス”って名付けられたんだそうよ。素敵でしょう?あたしの源氏名も、彼が考えてくれたの。“ディアーナ”。女神さまの名前だよって』
    そう言ったディアーナの顔は、パンパンに腫れていても、嫁ぐ日を心待ちにしていたディアンヌによく似ていた。
    なんの曇りもなく、夢見るような瞳で微笑んでいたディアンヌの。
    『とりあえず、男と早急に相談しろ』
    どうせ捨てられるんだから、早く目を覚ませとは言えなかった。
    『ありがとね、おにいさん』
    ディアーナは、ニコと笑って俺に背を向けた。
    娼婦とヒモの痴情のもつれ。
    身重でもあることだし、俺は今度こそもう、ディアーナと会うことはないと思っていた。
    けれど。
    次にディアーナに会ったのは数カ月後。まさに最悪な事態の真っ最中だった。


    そのとき俺は、行きつけになった酒場で1人、飲んでいた。
    通りのはずれの小汚い店だけれど、いつもちょうどよく混んでいる。俺がフラリと紛れ込んだって、皆、胡散臭さそうな一瞥をくれるだけ。『あんたもしかして』なんて話しかけられたことなど1度もなく、それが俺には居心地良かった。
    しかし、そんな他人には無関心な店の空気が、その日は急に揺らいだ。
    入って来たばかりの客が、店主の男に告げた声。
    よどんだ店の中では、よく響いた。店の前に、血を流した男がうずくまっていると。
    国民衛兵を呼ぶとか呼ばないとか、そんな声も聞かれ始め、俺は席を立った。
    それは野次馬根性なんかじゃなくて、国民衛兵隊が呼ばれれば、顔見知りに会うかもしれないという鬱陶しさからだった。
    1人でホッと出来る場所。
    そこを知られたくない。
    そんな気持ちから、俺が飲み代を払って外へ出ると、“うずくまっている男”とやらは、なんとあのマールスだった。
    二の腕と太もも辺りに、ざっくりした切り傷を負っている。裂けた布地に染みるほど出血していたが、でももう落ちついているようだった。
    圧迫して安静にしていれば、命に別条ないだろう。
    『おまえ、その傷どうした?』
    俺がのぞき込んで話しかけると、マールスは俺を覚えていたのか、ヘンな悲鳴をあげて走り去った。
    あれだけ走れりゃ、死にゃしないだろう。
    それよりも。
    俺はもの凄くイヤな予感がして、血の跡に目を凝らしながら石畳をたどった。
    大出血でもなかったから、その跡も途切れがちで、俺は何度も見失いながら、それでもなんとか袋小路の奥でディアーナを見つけた。
    が。
    『来ないで!』
    ディアーナは、手にしたナイフで喉を突こうとしていたところだった。
    『そのナイフ、どうした?』
    『護身用よ。娼婦なんかやってると、ホントに頭のおかしい客に当たることもあるから』
    『客…って、あんたまだ娼婦やってたのか』
    ジリジリと近づく俺にも、そろそろ目立ち始めた下腹が見て取れる。そして、ひどく殴られたらしく、歪んだ顔も。
    それを見れば、ここで何があったのかは容易に想像がついた。もう利用価値のなくなったディアーナに、男がすべてをぶちまけたんだろう。
    『来ないでって言ってるじゃない!!彼はね、あたしなんか愛してなかったんだって。本当は恋人がいて、その人と結婚するんだって!あたしが稼いだお金で式を挙げるの!!』
    ディアーナの瞳はギラギラと光っている。
    『あたしをお姫さまにしてくれるって言ったのに』
    袋小路にケタケタと響く笑い声。
    『あたしは薄汚い女なんだって。誰の子だか判りゃしないっ…て。そんなもん押し付けられちゃ迷惑だって!!』
    あのときディアーナの目には何も見えていなくて、作り物みたいに禍々しく煌めいていた。
    梁に粗末な荒縄をかけたとき、ディアンヌもこんな目をしていたんだろうか。俺のことなど少しも思い出さず、ただ絶望だけに命を吸いつくされて。
    『彼があたしの幸せのすべてだった』
    『やめろ!』
    目の前にいるのがディアンヌなのかディアーナなのか。
    もう何も考えられず、俺は闇にほの白い刃に手を伸ばしていた。


    惚れた男の言うまま、でっち上げの夢物語を信じたディアーナ。
    もしかしたらこのガキも、誰かにおかしな作り話を吹き込まれて、こんなことをしているのかもしれない。
    路地裏で、俺を見据える子供。
    「おまえの目的はなんだ?なぜ、ジャルジェ邸に入った?」
    「今、こうしている目的なら、昨夜の落とし物を取り返すため。そしてあの屋敷に入った目的なら、母さんの忘れ物を取りに行っただけさ。あなたに邪魔されちゃったけどね」
    「母…さんて、おまえ」
    「返してくれないかな、ロザリオ。あなたが持っていても、故人の意に背くだけだ」
    ガキの言葉に、胸がざわめく。
    「故人、だと?」
    「ああ、そうさ。あれは僕に譲られた形見の品だよ。メダイの裏の文字を見たでしょう?」
    急激に喉が乾いて、声が掠れる。
    「おまえ、名前…は?」
    ガキは現れたときと同じく、小粋に一礼して見せた。
    「僕はフランソワと呼ばれている。とある事情で正式には名乗れないけれど。姓はグランディエだ」
    “正式には名乗れぬ名”
    ――亡命?
    あの7月の!?


    とっさには言葉が見つけられず、俺はポケットの中でメダイの感触だけを探っていた。


    5につづく
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