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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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貴賓室へ
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    出会いは俺が8歳。おまえが7歳の頃。
    あれから約10000日が経とうという1789年7月、俺たちは死んだ。


    白を基調とした瀟洒な扉。
    俺は2~3度軽くノックする。
    「オスカル?入ってもいいか?」
    この部屋に入るときは、いつもなんとなく神経を尖らせてしまう。
    耳を澄ませ、気配を探る。
    おまえもずいぶん落ちついたから、もうそれほど過敏になることもないのだろうが…
    「オスカル?」
    応える声はない。
    変だな。
    なんだか静か過ぎる。
    「開けるぞ。いいな?」
    いやな感じがして、俺は素早く扉を開けた。
    ジャルジェ家のおまえの部屋と同じぐらいの広さのこの部屋は、元はゲストルームだった。
    部屋に入り、右手にある扉を開ければ寝室に続き、まっすぐ進めばテラスを抜けて庭に出られる。
    俺はずかずかとテラスへ向かった。今日は陽射しが柔らかかったから、午前中にカウチを出してやったのだけれど。
    窓辺でふわふわと風をはらむドレープたっぷりのレースのカーテンを、右手でざっくりと払いのける。
    すっきり開けた視界に入ってきたのは、テーブルから落ちた読みさしの本。
    転がったティ・カップ。
    そして。
    モザイクの床に膝をついてカウチに上半身を伏せ、肩を震わせているおまえ。
    「オスカル!」
    俺はおまえを抱き起こして、胸に寄りかからせた。
    「大丈夫か?」
    おまえは口もとに手をあてて、身を硬くしている。
    とりあえずテーブルに置いてあったハンカチを持たせ、背中をさすった。それぐらいしか、俺には出来ることがない。
    「吐く?ああ、がまんしなくていいから!」
    こんなおまえの姿。
    何度見ても慣れることはない。
    そしていつも、初めて見たときの衝撃を思い出す。
    司令官室でうずくまり、ひどく咳こんで、軍服を紅く染めていくおまえを。
    『オスカルっ!?』
    あのときも俺は慌てておまえに駆け寄って、胸に抱き起こした。
    あれからずいぶん経つというのに、未だ鮮明に甦る。
    こんなふうに崩おれているおまえを見ると。
    きっと何度見たって、俺には慣れることなんかできない。
    この小さな館に移ってからも、おまえは何度となく血を吐いた。そのたびに俺は、例えようのない恐怖に襲われた。
    父親を亡くしたことは、記憶にない。
    母親を亡くしたのも遥か昔で、その悲しみももはや遠い。
    年老いた祖母には、いつそういう日が来てもおかしくないけれど、もちろんたった1人の肉親であるおばあちゃんを亡くせば、きっと想像以上の喪失感に苛まれるだろうけれど、でも、それ以上に俺は、おまえを失うのが怖い。
    いつ途絶えてしまうか判らないほど荒れた呼吸の合間、おまえは懸命に耐えているのに、それでも深紅を含んだ咳は止まらない。
    肉親の縁に薄い俺。
    その宿業が、おまえに病を呼び込んだのかと思ったこともある。
    おまえの肺病を知ってから、俺は良いと聞くものにはなんでも手を出した。
    滋養のある食品、高価な薬、民間伝承、果ては占いやまじないまで。
    俺の持つ業がおまえに病をもたらしているのなら、別れてもいいと本気で思った。
    ジャルジェ家からここへおまえを移し、生活も落ちついたある夜。
    俗信めいた別れ話を切り出すと、おまえは俺のシャツをつかんで嫌だと泣いた。
    おまえがそんなふうに泣くなんて。
    激情家のおまえは昔から、俺の前ではよく泣く。
    でもそれはいつだって、人のためだった。他人のために胸を痛めて流す涙を、何度となく見てきた。
    それを俺は、なによりも美しいと思っていたけれど。
    『…そばにいてくれ…私をひとりにしない‥で…。どこへも…いかないと……アンドレ』
    もう1人では生きられないと、涙を溢れさせるおまえは透けてしまいそうに儚く、今までに見たことがないぐらい美しかった。
    こんなに衰弱したおまえを置いて、どこへも行けない。
    『死ぬまでそばにいてやるぞ』
    そんなときだと言うのに、俺はあえて“死”という言葉を使った。その言葉を避ければ避けるほど、病魔に負けてしまう気がしたからだ。
    死など怖いものか。
    そんなもの、まだ俺たちには関係ない。
    おまえの背中に見え隠れする死神の大ガマに挑むように、あのとき、俺はおまえを強く抱き、深くくちづけた。
    「だめだ、アンドレ!病が…おまえ‥ま‥で」
    腕の中でもがくおまえを押さえつけて、無理矢理にくちびるをふさぐ。
    これが俺の答えだ、オスカル。
    おまえを失うぐらいなら。
    連れていけ。
    連れていけ、俺を。
    俺はおまえの影なのだから。
    「…ふー‥っ」
    腕の中で、おまえが緊張を解き、消耗したため息をついた。それが俺を、長い回想から午後のテラスへと引き戻す。
    ぐったりとからだを預けてくるおまえ。
    「吐く?がまんしなくていいんだよ」
    「…ああ…。でも‥大丈夫だ…」
    おまえは落ちついたのか、重たそうに顔をあげた。
    咳こむと相当に体力を使うようだ。
    この様子だと、今日はもう、ろくに動けないだろう。
    きっと食欲もないに違いない。
    ここ2~3週間で特に痩せたおまえ。
    今のからだを考えると、少しでも食べさせたいのだが。
    「ちょっと横になろうか」
    俺はおまえを抱き上げて、寝室に向かう。
    「このまま抱いていてやるから、夕食まで眠るといい」
    「でも、それではおまえまでが」
    「くどいよ、オスカル。その話はもうやめよう。伝染るならとっくに伝染ってる。この館に移ってから、一緒に眠らなかった夜はないんだし」
    俺はおまえを静かに寝台へ横たわらせると、金色の髪をくぐらせ首の下に左腕を通し、添い寝をした。
    「それに、ただ一緒に眠ってただけじゃないだろ」
    俺は意味ありげに笑いながら、右手をおまえの下腹部へと伸ばす。
    「ばっ…馬鹿野郎!なにを言っている!!」
    おまえは頬を赤くしながら俺の手を払いのけ、ツンと顔をそむけたが、しばらくすると寝息をたて始めた。
    微かだけど、安定している呼吸。
    こんなふうにおまえの息づかいに耳を澄ませるようになったのも、あのときからの癖だ。
    あの夕暮れの司令官室。
    西陽に髪を朱金に艶めかせ、その朱色より、なお禍々しい紅い色にまみれていくおまえを、初めて見たあのときからの。
    おまえの寝息に合わせて目を閉じると、まぶたの裏にはあの日の光景が広がった。


    おかしいな。
    あの日、なにも知らない俺はノックを繰り返していた。
    返答のない司令官室。
    オスカル?いるはずなのに。
    「    」
    部屋の中から声ともつかないなにかが聞こえ、不審に駆られた俺は、返事のないまま扉を開けた。
    そこには。
    茜色に照らされ、1人、床にうずくまるおまえがいた。
    ひどく咳こみ、そのたびに、夕陽よりあかく彩られていくその姿。
    「オスカルっ!?」
    なんだ、これは。
    いったいなにが起きている?
    走り寄り、抱き起こした俺の手に、湿った感触が伝わった。
    じっとりと血を吸って、濃紫に色を変えたおまえの軍服の。
    「おまえ、いつからこんな!なんで言わなかった!?」
    心配を通り越して怒り出してしまった俺に、おまえは派手に血を吐きながら、うっすらと笑った。
    「大丈‥夫…だから、私から離れろ。軍服が…汚れる。ばあやに…ぶっ飛ばされるぞ」
    その落ちついた様子に、これが初めてではないのだと知れた。
    気がつかなかった。
    まったく気づかなかった!
    自分の迂闊さと、こんな大事なことを黙っていたおまえへの腹立ちで、俺はどうにかなりそうだった。軽い混乱に言葉も出ず、ただ強く抱いてやることしかできない。
    おまえは俺から離れようと弱々しく抗っていたが、やがて、ふぅっと意識を失った。
    「!」
    おまえの口もとに耳を寄せ、息をしていることに安心したあの瞬間を、俺は今も忘れられない。
    力なくもたれかかったおまえを抱えて、どれぐらい呆けていたのか。
    俺を正気に戻したのは、アランだった。
    「隊長より、おまえの方が病人みたいな顔してんな」
    ハッとして、司令官室を見まわした。
    「大丈夫だ。俺しかいねぇ」
    執務机にガラ悪く腰かけているアラン。片膝立ててひじをかけ、胸元を血で染めたおまえを見おろしている。
    驚く様子はかけらもなかった。
    「…知っていたのか」
    「けっこう前から、なんとなくな」
    ずっとそばにいた俺には、まるで気づけなかったというのに。
    「パリの下町に行けば、こんな死にぞこないゴロゴロいる。顔を見りゃ判るさ。こちとら見慣れてんだよ」
    「アラン、貴様っ!」
    俺は片手でおまえを抱いたまま、アランに向き直った。
    「こんなときに、言っていいことと悪いことがあるだろう!」
    「うるせぇ。知ってたって……知ってたって!この女が必死になって隠そうとしてんのに、俺に何が言える!?1番近くにいるおまえがちっとも気づかないのをヤキモキしながら、それでも何も出来なかった俺の気持ちがおまえに判るかよ!!」
    溜めこんだ憤りを吐き出すようにそう言うと、アランは射し込む西陽にまぶしそうに顔をしかめ、目線を外した。
    おまえを密かに愛しているこの男の気持ちを、なぜ俺は汲んでやれなかったのか。
    アランが平気でいられたわけがない。
    この男の押し殺した想いは、かつての俺そのまま。おまえと想いが通じ合えた今でさえ、あの頃の苦しさは忘れ得ないというのに。
    粗暴なふりをして、アランは苦渋に満ちたその表情をまぶしさにまぎれさせている。
    「悪い」
    「別に…。仕方ねぇよ。隊長は、誰よりもおまえに気づかれたくなかったんだから」
    誰よりも俺に。
    その気持ちも判らなくはない。
    でも。
    愛しているなら、誰よりも俺にだけは打ち明けて欲しかったよ。オスカル。
    「なぁ、アラン」
    俺はアランを見込んで、1つ、頼みごとをした。
    「おまえにしか頼めない」
    「……判った」
    アランは立ち去り難そうなそぶりを見せたが、足早に司令官室を出て行った。
    アランのこの私情を交えない判断の良さには、いつも感心する。
    本当は、おまえのそばにいたいだろうに。
    人目を避けるために陽が落ちるのを待って、俺はおまえをラソンヌ先生のところへ運んだ。できればすぐにでも医者に見せたかったけれど、この状態のおまえを誰かに見られるわけにはいかない。
    イライラしながら夕闇を待ち、先生のもとへと駆け込んで…
    絶望的な診断を聞いた。
    「あと半年?」
    そんなこと…嘘だ!
    目を覚ましたおまえを連れて帰る道すがら、俺たちは終始無言だった。
    いや、おまえは何度か話しかけようとした。
    けれど、怒気を隠さない俺を見て、結局はおとなしくしていた。からだがつらいのもあったのだろうけど。
    血に汚れた軍服が侍女たちの目に触れぬよう、裏口からこっそり屋敷に入ると、俺たちはまっすぐおまえの部屋に向かった。
    燭台に火を点けてまわる俺を、おまえは扉のそばで突っ立って見ている。
    「座れ」
    「……」
    俺は気まずそうにしているおまえの二の腕をつかんでぐいぐいと歩かせ、長椅子へと突き飛ばした。
    「痛っ…。病人になにをするのだ」
    おまえは勝ち気な目で見返す。
    「病人?だったら少しは病人らしくしてみたらどうだ」
    俺はおまえを見おろしたまま、目をそらさなかった。
    今のおまえは手負いの小動物だ。威勢のよさも、虚勢でしかない。
    「おまえ、仕事辞めろ」
    「断る」
    即答だった。
    「辞めてどうするというのだ?」
    「どこか空気の良いところで静養して…」
    「そして?半年がせいぜい数ヵ月伸びるだけのことだろう。それになんの意味がある?」
    おまえはへらへらと笑った。
    「私が半年後に死のうが1年後に死のうが、なんの違いがあるというのだ」
    虚勢の隙間に、本当は怯えているおまえが俺には見えた。
    まずい。オスカル。
    自棄になってる。
    これでは医師に言われた半年すらも、危ういかもしれない。
    「除隊はアンドレ、おまえこそがすればいい。喜べ、こんなじゃじゃ馬のおもりからやっと解放されるぞ」
    「ふざけるな!」
    俺は思わず、青白い頬を張り倒していた。
    子供の頃こそ全力で取っ組み合いの殴り合いもしたけれど、俺が声変わりを終え、2人にはっきりと力の差が出てからは、バレない程度に加減してきた。
    けれど、このときばかりは久しぶりに、俺は遠慮なく手を挙げていた。
    「オスカル、本気で言ってるのか?」
    「ああ、本気さ。私など見捨てて自由になれ。もう好きにするがいい」
    殴られてうつむいた姿勢のまま、おまえの表情は髪に埋もれて見えない。
    「判ったよ。たった今から俺は自由だ。おまえの指図は受けない」
    くるりと背を向け扉へ向かう俺を、おまえは追おうとはしなかった。
    そしてその日以降、俺は衛兵隊での無断欠勤を続けた。
    それについておまえはなにも詮索しなかったし、1班でも特別話題にならなかったのは、おまえが適当に処理していたからだろう。
    屋敷で顔を合わせても、お互い人前では大人の対応をしていた。幸い俺たちが長い幼なじみの友情に終止符を打ち、特別な関係に変わったことは誰も知らない。当たり障りのないことを話し、周囲の人間に異変を覚られるようなヘマはしなかった。
    あの無断欠勤の日々に、俺がなにをしていたか。
    本当のことを、おまえは今も知らない。
    倒れたおまえをラソンヌ先生のところへ担ぎ込む直前に、俺がアランに頼んだこと。
    それは、近衛隊へ赴き、ジェローデル少佐と秘密裏につなぎを取ることだった。


    倒れた翌日も、なに食わぬ顔で出勤したおまえ。
    俺は、使用人仲間には勤務がずれたふりをして、午後から屋敷を出ると、近衛の兵営へと向かった。
    かつて長年通った懐かしくもあるそこを、1人で訪れるのはなんとも妙だった。
    いつだって俺の傍らには、金糸のように艶めくおまえの髪が揺れていた。けれど今、それは永遠に失われようとしている。
    そうなるぐらいなら!
    俺はとまどうことなく、今はジェローデル少佐の部屋である近衛連隊長の執務室の扉をノックした。
    「お待ちしていましたよ、アンドレ・グランディエ」
    久方ぶりに見る少佐は、相変わらずの優雅さだった。
    まさに貴族の決定版というたたずまい。
    おまえも相当に貴族丸出しだけれど、かもしだす雰囲気は武人としての色が濃い。しかし少佐には、いかにも宮廷になじんだ煌びやかさがある。それが少佐を軽薄にも見せていて、真正面に座っているアランは、あからさまな嫌悪感を発していた。
    気をつけろよ、アラン。
    その男は見た目より、ずっと骨太で切れ者だ。
    「あの方がお倒れになったことは、そこにいる衛兵隊の班長とやらに聞きました。それでグランディエ。君は私にどのような用件があると?」
    少佐は眼差しで、俺に座るよう指示してきた。ちょっと見は友好的にも見える表情をしているが、その目は笑っていない。
    俺はアランの隣に座ると、単刀直入に切り出した。
    「少佐。あなたはまだ、オスカルを愛していますか?」
    「突然時間を取れと言ったかと思えば、何を不躾な」
    話にならないとでも言うように、少佐は鼻さきで笑った。
    が。
    「わざわざ私を訪ねて来るからには、相応の理由がある。そう思ってよいのでしょう?」
    小賢しい嘘など許さない、少佐の怜悧な瞳。
    俺は臆さず受け止めた。
    「よろしい。ではお答えしましょう。私は今もあの方を愛している。変わらずに。そしてこれからも。聞かずとも、君には判っていたのではありませんか?グランディエ。だからここに来たのでしょう」
    「…はい」
    「ならばためらわずに用件を言ってみてはどうです?」
    口を開く繊ほどの間に、おまえとのたくさんの場面が思い浮かんだ。
    初めて会ったときのことや、遠乗り、誕生日、初出仕の朝。まだ恋を知らなかった頃のおまえ。そして、やっと想いが通じたときのこと。恋人同士としての短い時間。
    手放したくはない。
    けれど。
    俺は喉をふさぐような熱い感情をぐっと飲み下し、用意していた台詞を絞り出した。
    「もう1度、オスカルに求婚してください」
    「お‥まえ、なに言ってんだよっ」
    声を荒げて立ち上がるアランを無視して、俺は少佐に頭を下げた。
    「少佐なら、だんなさまも祝福してくださる。一刻も早く結婚して、あいつを退役させてください。あなたにならできることです」
    「それは、あの方がそれだけお悪いのだと。そう受け取ってよいのですね?」
    「………主治医は…半年だと…」
    「半年?」
    どんなときでも物憂い微笑みを崩さぬ少佐。
    しかし、俺はそのとき初めて、この男の素顔をかいま見た。
    そしてその瞳の奥に、オスカルへの確かな愛を。
    大丈夫だ。少佐にならおまえを任せられる。
    「診断を受けてから、オスカルは一切の治療を拒否しています。でも、だからこそ、退役してきちんと静養し、しっかりした治療を受ければあるいは!だんなさまと少佐のお力をもってすれば、それができる。……一平民の俺には、できないことです」
    「だからってアンドレ!」
    予想もしていなかった展開に、アランが気色ばむ。
    「いいのかよ、それで。隊長の気持ちは?おまえの気持ちはどうなるんだよ!」
    「頼むから落ちついてくれ、アラン。あいつの気持ちは俺には判らない。ただ、すごく自棄になっているのは確かだ。このままでは治療も受けずに無理を重ねて、医師に言われた半年すらも危ういだろう。それを黙って見ていることなど、俺にはできない」
    「それで結婚か!ばかばかしい。やってられるかよ!!」
    アランはあっという間に怒りを爆発させて、荒々しく部屋を出て行った。
    「まったく粗野な。これだからあの方を衛兵隊などに行かせたくなかったものを。あの男、大丈夫なのですか?」
    アランがおまえに不利益なことを口外するわけがない。
    「ああ見えても、アランは聡い男です。オスカルの信頼も深い。心配ありません」
    「ふ…ん。あのような男を、あの方が」
    少佐はあきらかに不快そうな顔をしたが、しかしそれはほんの一瞬で、すぐに俺に話の続きを促した。
    「私に夫としてあの方を庇護して欲しいと。それが君の望みというわけですか」
    「はい。だんなさまとあなたなら、無理やりにでもオスカルを除隊させることができるでしょうし、嫌がっても治療を受けさせることができるはずです」
    「ええ。可能でしょうね。ジャルジェ将軍なら、あの方に気づかれぬように除隊の手続きを完了できるでしょう。そしてその後、将軍が私にあの方をお任せくださるのなら、それこそ強制的に治療を受けていただきますよ。監禁してでもね」
    少佐の声が頭の中にがんがん響く。
    俺はこの男になにを頼んだ?
    それで良かったのか?
    ほかに方法はなかったか!
    …ああ…
    この部屋に来てまで、俺はなにを迷っているのだろう。悩み抜いて決めたことだというのに。
    僅かな迷いでも、おまえには見抜かれる。
    言わなくては。
    これが俺にできる最善と信じて。
    「差し出たことだとは判っています。でもどうか…少佐、もう1度オスカルに」
    2人押し黙る息苦しい沈黙。
    腕を組み険しい表情をしていたが、そんな姿もまた、少佐は優雅だった。
    「2つ3つ、考えたいことがあります。グランディエ、私も忙しい身の上だ。今日はもう、これでお退がりなさい」
    執務用の机に移り、書類へと目を落とし始めた少佐が俺を視界に入れることはなく、俺もそれ以上なにも言えずに、その日は部屋をあとにするしかなかった。
    少佐から、追っての連絡があるまでのひと月ほどの間を、俺は気も狂わんばかりにイライラして過ごした。
    こぼれていく時間に。
    その間、出会って以来最悪ともいえる関係に陥った俺とおまえも、1週間経ち、半月経ちするうちに、少しずつお互いに歩み寄り始めた。
    自分に残された時間を惜しむおまえと、おまえと過ごせる時間を惜しむ俺。
    2人、離れていることなどできなかった。
    深夜のおまえの部屋で、寄り添い合うひとときを取り戻していた。
    「いけない、アンドレ。離してくれ。こんな…だめ‥だ…!」
    病がうつるかもしれないと、嫌がるおまえを腕の中に閉じこめて、強引なくちづけをする。
    何度もくちびるをふさいで、ブラウスを開き、白い肌にくまなく指先を這い回らせて。
    でも、最後の一線までは越えなかった。
    おまえは少佐の花嫁になるのだから。
    抑えた熱い夜。
    俺は一縷の望みにすがるように、おまえに退役を迫り、療養に専念してくれと頼む。
    「難しい病だが、助かるひとがいないわけじゃない」
    俺のくちびるを素肌に受け、甘い息を吐きながら、それでもおまえは嫌だと言う。
    「微かな希望に懸け、それが叶わないものだと思いしらされるぐらいなら、このまま…」
    力なく、そうつぶやくだけのオスカル。
    おまえを他の男に渡すぐらいなら、同じ病を得て共に。


    少佐からの呼び出しがあるまでの夜ごと、俺は数え切れないほどおまえにくちづけ、生きることへの執着を引き出そうとした。そうでなければ、俺にも病魔が乗り移ればいいと願ったけれど、その行為は結局、ただおまえを疲れさせただけだった。


    下につづく
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