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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    ああ、しくじった。
    とっさのこととはいえ、まさかこんな展開になるとは。
    今夜はやけに積極的な彼女に超好感触をいだき、ダッシュで湯浴みから戻ったアンドレ。
    しかし、待っていたのはお楽しみの恋人ではなくて、ガサ入れ中の侍女だった。
    さすがに長年の幼なじみ同士、だてに100回以上隠れんぼをしてきた仲じゃない。彼にはオスカル・フランソワがクローゼットに潜んでいることに、ピンときていた。
    だが。
    たはは。
    今、彼の目の前にあるのは、軽く上向いて、ツンと捧げられた侍女のくちびる。
    チュウしてって言われてもなぁ。
    恋人がすぐそばのクローゼットに隠れて、建具の隙間から自分の行動を凝視しているかと思うと、とてもじゃないがくちづけなんかする気になれない。
    そんな恐ろし、いや、不誠実なこと。
    いつもの彼なら、自分をずっと想ってくれていたという女性を傷つけないよう、優しく巧妙に煙に巻いてしまう場面。
    彼女には言えない話だけれど、告白されることが珍しくないアンドレ。こういうことには実のところ慣れていて、恨まれずにふるそのテクニックには、なかなかのものがある。
    だが、今夜はそんなことを言っている場合ではなかった。
    やたらと積極的な彼女に攻めこまれて、1度統治を諦めた領主の言うことなど、暴民どもはもう聞かない。
    今や乗りに乗っている暴徒の群れ。
    このままじゃ俺、早い、いや、やばいかも。
    30過も過ぎて、それなりに経験のあるいいオトナが、初めての夜にあまり不甲斐ないところは見せられない。
    ましてや相手は処…初心者なのだ。
    落ちつき払って、悟りきったように見られがちな彼だけれど、男特有のつまんない見栄はやっぱりある。
    何ごとも最初が肝心。
    オトナのオトコとして、ちょいと余裕のある姿を彼女に植えつけておきたいアンドレは、湯浴みの最中にセルフサービスで自己調整を図ってきた。
    彼女とゆっくり夜を愉しむには、フル充電の自分では危険過ぎる。ガツガツして怯えさせては元も子もないし、何より。
    あいつ。たぶん、いや、絶対“初めて”なんだよな。
    彼の経験した女性の中に、今まで処…そういう人はいなかった。つまり今夜は、彼にとっても“初めて”ということ。
    初めてのおまえに、初めての女が初めての俺。
    うーん、大丈夫だろうか。
    彼女が部屋に忍んで来てくれると聞いてから、単純に喜んでいた彼ではあったけれど。
    俺が喜んでちゃ、ダメなんだ。あいつを安心させてやらないと。それにはまず……
    “コレ”が問題、か。
    彼の足と足の間で、既にギンギ…活躍する気まんまんの立派な珍しい棒。
    ま、俺にとっては珍しくもないモノだけど、あいつにしてみれば、じゅうぶんに珍しいモノ、だろうなぁ。
    彼はおもむろにソレを手に取り、ちょっとばかりの脳内イメージを借りて、調整を図ってみる。
    が、それもけっこう手間なく済んでしまったりして。
    …どんだけなんだ、俺。
    我ながら引くほどの体の正直さに、半ば情けないものを感じたけれど、でもそれぐらい、今夜にかける想いは強い。
    悪いがナターシャ、君にかまっているヒマはない。
    なかなか行動を起こさないアンドレに、侍女が小さく袖を引っぱりながら、ダメ押しとばかりにつぶやいてきた。
    「よかった。あたし、これで諦められる」
    憐憫を誘う、かぼそい声。
    男ならグラッとくるところだが、その台詞が効いたのは、彼ではなくて、なんと彼女の方だった。
    『諦め…られる。よかった。これで諦められ…る…!!』
    コンティ太公邸の庭園で、胸を震わせてそうつぶやいた自分。それをまざまざと思い出したのだ。
    青春の苦い思い出。本当に不器用だったけれど、どれほど一途にフェルゼンを愛したことか。
    想いを断ち切るために、ただ一夜の舞踏会に賭けた私。あのときの私と同じ思いを今、この侍女はしているのだ。
    そして、まだ記憶に新しい、試合帰りの馬車の中。
    すれ違う想いの中、ふられたと思いこんだ彼女も、捨て身で彼を誘ったのではなかったか。密やかに葬られる短い恋の思い出に、どうか抱いて欲しいと。
    身を引くために、せめてくちづけが欲しいという侍女。
    なんと憐れな。
    「…うう」
    彼女は侍女に負けないぐらいの勢いでぼろぼろと涙をこぼすと、そっとクローゼットの扉を開けて、ヌッと顔を出した。
    ひぃっ!
    暗い隙間から 雁首 (がんくび)を突き出した彼女に、アンドレが声にならない悲鳴をあげる。
    涙の溜まった真っ赤な目。暖炉の灯りにゆらゆら照らし出された首は、怪奇ものの様相を呈していたのだ。
    涙をこらえようと、しかめた眉がいっそう恐ろしい。
    侍女を抱き寄せる格好になってしまったことが、そこまで彼女を怒らせたかと、彼は相当にびびったのだが。
    ―― いけ、アンドレ。
    ―― は?
    アイコンタクト。
    どうやら彼女はくちづけしろと言っているらしい。
    ―― おまえ、なに言っ‥
    ―― 私が許す。減るものでなし、思い出のひとつやふたつ、作ってやるがいい。
    ―― そんなむちゃくちゃな!
    ―― このいじらしいばかりの想いに、貴様、情けというものを知らんのか。冷たい奴め。
    ―― そういう問題じゃ…って、おい!オスカル?オスカルっ!?
    彼女は云うだけ云うと、ヌヌッと首を引っ込めて、ピタリと扉を閉めた。
    暗くて狭いクローゼットの中。
    ついつい耳をそばだててしまう。
    アンドレが。
    私のアンドレが、他の女と今、まさに!
    ばくばくしてくる胸に、彼女は何度も深呼吸する。
    落ちつけ。落ちつくんだ、私。
    たかがくちづけじゃないか。減るものでなし、そもそも私が許したのだ。あまりに侍女の想いが哀れだったから。
    だから。
    でも。
    ……まさか、あやつ“ふたまたもイケる!”などと思ってはおるまいな?
    その発想に、彼女はワナワナと血圧が上がってめまいを感じ、 件 (くだん)の夜着にしがみつくと、乱れた呼吸 を繰り返した。
    おのれ、アンドレ。私はそこまで許してはおらんぞ!
    クローゼットから放出される、ピリピリしたテンション。
    それは彼にしっかり伝わっており、アンドレはちゃっちゃとくちづけを済ませると、名残惜しそうな侍女の背中を押して、部屋から追い出した。
    「ふ―っ」
    大きく息をつきながら、きっちり内鍵をかける。
    それで少しだけホッとして、彼は寝台にどさりと座りこんだ。
    やれやれ、これでやっと2人きり。
    もう、安心していいんだよな?おばあちゃんはもう寝てるだろうし、時間的には、大サロンの宴もまだまだ盛りなはず。
    それでも、ちょっと疑心暗鬼になっている彼は、廊下の気配に耳を澄ませてみた。
    …うん、大丈夫だ。
    慎重に気配を聴いて納得すると、彼はそろそろとクローゼットへ近づいた。
    「オスカル?」
    彼女の返事はない。
    「…オスカル?」
    やっぱり、侍女とのくちづけに怒っているのだろうか。
    自分でけしかけておいて?
    でも、女ってそういうとこあるし…
    「オスカル、開けるよ?」
    彼が注意深く扉を開く。
    すると。
    うわぁ。
    一気に流れ出してきた、甘く可憐な芳香。
    おまえから香ったときには、ごくほのかなものだったのに。
    狭いクローゼットに彼女が隠れていたせいで、香りがこもってしまったのだろうか。
    それにしても、なんなんだ?この香り。
    なにか気持ちをざわめかせ、体を内側から熱くする、なんとも魅力的な…
    彼はつかのま香りに気を取られ、それから慌てて視線を愛する恋人へと向けた。
    彼女は顔を伏せてうずくまっていて、ブラウスの白い背中だけが淡く浮かんで見える。
    本意ではないにせよ、傷つけてしまったのか。
    それとも、倒れたという湯あたりのせいで、また具合が?
    「調子、悪いのか?だったら今夜は…」
    彼が遠慮がちに声をかけると、彼女はうずくまったまま首を振った。
    ではやはり、侍女のことを気に病んでいるのだろうか。
    「ナターシャ…とのこと、だけど。俺も知らなかったんだ、あのコの気持ち。でも、悪かった。おまえには不愉快な思いをさせてしまったな。こんな夜なのに」
    「不愉快などと。私にだって、あの侍女の気持ちは判るつもりだ。だがな、アンドレ。先ほどのくちづけ」
    来た!やっぱりソレか!!
    理不尽だが仕方ない。彼はそう思って心中身構えた。
    が。
    「まさかおまえ、舌など入れていないだろうな?」
    なっ。なんだそりゃ!?
    彼は人生において、生まれて初めて目が点になった。
    何を考えているのだ、このお嬢さまは。
    「すっ、するもんか。そんなコト!」
    「ほぅ。…していない、か。私にはいつもそうだから、てっきりそれがおまえの性癖なのかと思った」
    「性癖って言うなぁっ!普通だ、普通!」
    「そうか、普通か。いずれにせよ良かった。自分で言い出したことながら、やはり少々 嫉妬 (やけ)てしまって…
    だから、私もちょっと頑張ってみた」
    そう言うと彼女は顔を上げ、彼に手を差し伸べた。
    なんだかまた、少しふらふらしはじめている。
    借りた手をグイッと引いて、彼女は立ち上がり。
    「どう、だろうか」
    「おま…え!」
    「思ったよりは、似合う気がするのだが」
    クローゼットから出てきた彼女は、照れ隠しからか、大仰にくるくると回って見せた。
    彼が一目惚れした夜着をまとったオスカル・フランソワ。
    すごい。女の子みたいだ!
    「こっち。ちょっとこっち来てオスカル」
    彼は彼女の後ろにまわると肩を押し出し、明るい暖炉の前まで連れて行く。
    白い肌に白い夜着。飾られたリボンやフリル。
    揺れる照り返しに金色の髪が朱金に艶めいて、くちびるもずっと紅く見えて。
    「童話に出てくるお姫さまみたいだ」
    「おいおい」
    ちょっと言い過ぎだと、はにかむ彼女。見とれる彼のまっすぐな視線を受け止めきれずに、がらにもなく頬を赤らめてうつむいた。
    か…わいい。それにこの夜着、やっぱりよく似合ってる!
    「あ。そうだ」
    彼は恭しく彼女の手を取ると、丁寧に椅子に座らせた。
    床に引きずる夜着のすそを整えてやりながら、彼は、雑貨店での顛末を要領よく話して聞かせる。
    彼女は、彼が急ぎ用意してくれたというシーツへと目をやり、いっそう頬を赤くした。
    これからそこで行われることが、彼女には透けて見えたのだろう。
    彼はそんな恋人の様子にますます今夜への期待感を高め、机の引き出しから、純白のチュールにくるまれた小さな包みを出してきた。
    「これが、そのマダムから贈られたという?」
    彼は頷いて、彼女の手に包みを乗せた。
    「なんだろう」
    「なんだろうな」
    2人は一緒に片方ずつリボンを引いて、包みを開いてみた。“皆さま!新郎新婦、初めての共同作業です”
    そんな台詞、さながらに。
    手のひらサイズの小さな包み。
    けれど、開いてみれば、それはたっぷりとしたチュールに十重二十重にくるまれていて、くるくると解いていくと、中から出てきたのは5粒のドラジェだった。
    「『ご結婚、おめでとう。幸せなお2人へ』」
    「?」
    「これを渡すとき、マダムがそう言ってくれたんだ」
    「それで、ドラジェを」
    1粒1粒が幸福のキーワードを表すという、 古 (いにしえ)より、結婚式を彩るほんのり美しい色合いのお菓子。
    そして。
    ああ…そうか。
    小さな包みをぐるぐるとくるんだチュール。
    そういうことか!
    祝福の言葉をくれたときに、いたずらっぽくキラリと光ったマダムの瞳。気のせいかと思ったけれど。
    彼はドラジェを包んでいた不必要に大きなチュールを手に取ると、ふわりと広げて彼女にかぶせた。
    こういうことだったんだ!
    胸の中にちょっとだけ引っかかっていたいくつかのピースが、すっきりと1枚の額におさまる。
    なぜこんなに、この夜着に惹かれたのか。
    マダムの意味あり気な瞳。
    無駄なほど大きい、包装用のチュール。
    全部がひとつに合わさって、それは花嫁姿の彼女になる。
    彼が一目惚れした夜着。今思えばそれは、あまりにもウェディングドレスに似ていたのだ。
    「ああ…きれいだ」
    思いがけないことに、気丈なはずの彼女の瞳にも、薄く涙が浮かんでいる。
    「あんまり見ないでくれ」
    「ムリ」
    嬉しいのと気恥ずかしいのが入り混じり、視線を外したがるオスカル・フランソワ。
    けれど彼は、彼女のおとがいをすくって顔を向けさせると、穴があくほどじっっくりと見つめた。
    それからベールがわりのチュールを上手によけて、彼女のくちびるをふさぐ。
    もちろん舌は、しっかり入れたりなんかして。
    恋人同士になってからというもの、何度も激しいくちづけをかわしていた2人。でも、今夜のくちづけほど、離れるのが難しかったことはない。
    だって、このくちびるを離したら。
    ―― このまま、そうなるのだろうか。
    ―― このまま、そうしていいんだよな。
    そう意識してしまったら、離すタイミングが見つからない。
    くちづけは今までで最長を記録し、やがて彼女の体がぐらりと(かし)いだ。
    やばっ。
    とっさに彼は優しく彼女を支え、それから耳もとで密やかに聞いてみる。
    「寝台に…行こっか?」
    『オスカル、遠乗りに行こっか!』
    少年の頃の、まだ高い彼のの声が不思議に思い出されて、彼女の胸はいっぱいになった。
    別れを告げる幼なじみの日々が懐かしくて、懸命に息をしてみても、酸素が入ってくる気がしない。
    くらくらと浮遊感が増して、瞳を寄せてくる彼がひどく扇情的に見えてきた。
    どうかしている。まったく今宵の私はどうかしている。
    そう思う気持ちも、体の中に沁みてくる香りに押し流され、徐々にどうでもよくなっていく。
    “このまま、もう…”
    それでも彼女は、抱き上げようとする彼の腕をやんわりと抑えた。
    「待って」
    「ダメ。もう待たない、オスカル。もう待てない」
    情熱的かつロマンティックに訴える彼。
    しかし、彼女は落ちつきたいのだと言って、飲み物を所望した。
    昼間からろくに食事も取れていない彼女は、緊張と長すぎるくちづけも重なって、喉がカラカラになってしまっている。このままでは、彼とがっぷり四つ、とはいけない恐れを感じたのだ。
    なにか飲ませて欲しいとおねがいする彼女の声は、確かに少し掠れていて、彼は肩をすくめると、日中に侍女が持ちこんできたワインを持ってきた。
    ジャルジェ夫人から届いた、見舞いの品。
    窓辺に置かれていたそれは、けっこういい感じに冷えている。慣れた手つきで栓を抜き、2人きりのプチ晩餐会のために用意しておいたグラスに注ぐアンドレ。
    それは日々の給仕のおかげで流れるような所作だったけれど、しかし、彼のぴっちりしたキュロットの中では、すでに相当な動乱が起きていた。
    あ…歩きにくっ。
    地方で起こった小さな一揆は、一気に中央へと駆け上がり、今や棒国の首都は完全に占拠された状態。
    そこに彼の意思の入りこむ余地は、きれいさっぱりなかった。
    しかも。
    諸々に気を取られて彼はちっとも気づいていなかったが、夜着姿の彼女!
    胸元の合わせや、見ごろのところどころがレース仕立ての切り替えになっており、当然その部分は透けていて…
    オスカル。おまえ、もしかしてコルセット着けてない?
    湯浴み前、膝に乗って甘えてきた彼女の感触をよく思い出してみる。
    押しつけられた、女の体の柔らかな感触。アレは。
    ―― ぷちっ
    自分の中で、あの《ブラビリ事件》もしくは《青いレモン事件》以来、封じてきた掛け金が弾けるのを感じ、彼はワインボトルをわしづかみにすると、ゴクゴクと飲みくだした。
    暖炉の炎にチロチロと照らされ、薄くて上質な下着までもが透けてしまい、ちく…バストトップが見え隠れする花嫁衣装もどきの愛する女。
    ダメだ、俺。ほんとに待てない。
    かくなる上は。
    隻眼が妖しく光り、冷たいワインの喉ごしにホッとした様子の彼女を捉えた。
    彼はもう1度ボトルを煽ると、それを口移しに彼女へと流しこむ。
    「な‥ん‥」
    不意をつかれた彼女は当然驚き、パタパタと暴れたが、彼がくちびるを塞ぎ続けると、やがてくったりとおとなしくなった。
    よし。
    彼はその反応に満足と安心を覚え、彼女を抱き上げる。
    夜着のすそをゆらゆらさせながら寝台まで来ると、ゆっくりと彼女を降ろし、丁寧に寝かせた。
    「ど…して?私は待ってと言ったのに」
    完全に暴徒の群れの管理下に置かれた暴れん棒。
    「悪いがこれ以上待たされたら、優しくできる自信がない」
    「そうか。それは…困るな」
    2人はどちらからともなくクスクス笑い、それから揃ってちょっと神妙な顔をする。
    ―― では。
    ―― いよいよ。
    お互い大きく息をつくと、彼女から漂う香りが2人を包み、奇妙なほどいかがわしい気分になってくる。
    次々と襲ってくる浮遊感と、彼にじゃれつきたい欲求が戻ってきて、彼女は少しとまどった。
    おかしい。こんなの、どうにもおかしい。
    落ちつこうと深呼吸するたびに頭に霞がかかり、考えることが難しくなっていく。
    彼のくちびるの触れたところが熱くて、彼が体をたどる手の軌跡も熱くて、徐々に高くなる体温に芳香も増す。
    …香りだ。
    湯あたりなんかじゃない。すべてはこの香りのせい。
    あの湯浴みのとき、初めてかいだこの香りは、確かに彼女の根幹を揺さぶり、惹きつけた。
    甘く可憐で控えめな香りの中にそっと仕込まれた官能の気配。彼女は無意識にそれを感じ取っていたのだ。
    この香りに引きずられ、彼に恥ずかしい姿を見せてしまうのは、容易に想像できること。
    だからって、どうして今さら止められる?
    この夜を意識したときから、彼女の中にも、蜂起を決意した暴民たちは隠れていたのだ。
    もはや幼なじみ両国の暴徒の群れは互いに手を組み和合を求め、2人の中に残る旧・幼なじみ体制の残党を果敢に一掃していた。8歳と7歳から続いていた懐かしくも古き時代は凍りつき、セピア色の化石となっていく。
    長きの時を経て、ようやくひとつになろうとする両国に、新体制の象徴のオベリスクが勃つ、いや、建つのだ!
    香りに毒され、ちょっとおかしくなっている彼女の頭の中。
    そうか、“コレ”はオベリスクだったのか…
    体の中心に、今まで知らなかった痛みを感じ、でも、痛みだけではないものも感じながら、彼女はアンドレが用意してくれたまっさらなシーツをギュッとつかんだ。
    慣れ親しんだ滑らかな感触とは違う、素朴な質感。
    それは、肌触りはよいけれど、どこか冷ややかな絹とは違って、無骨な力強さで彼女を受け止め、そして温かだった。
    ……ああ、おまえだ。

    かくて、長きに渡る2人の幼なじみ時代は、暴徒の群れに引き起こされた革命により幕を下ろされ、新しい時代へと完全にシフトしたのだった。

    嬉し恥ずかしな共寝の目覚め。
    熾火で温められていた晩餐の品は、夜明け前の朝食となり、ほぼ1日、なにも食べていなかった彼女を大変喜ばせた。
    賢くて気さくな店主の作る料理は彼女の大のお気に入りになり、小さなブラッセリーは今や2人の行きつけの場所となった。
    アンドレ・グランディエと、その妻・フランソワーズ。
    この店でだけは、2人はごく普通の夫婦として振る舞い、たびたびのろけ倒しては、気のいい店主を閉口させ続けたのである。


    FIN
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