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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【16】

UP◆ 2011/10/8

    まだ朝焼けにもならない早朝。
    彼は軽快に馬車を走らせている。
    何気ない白いシャツとキュロット。
    でもよく見ればシャツの仕立ては質が良く、襟や袖口には同色の絹糸で手のこんだ刺繍が施されている。
    その上にジレを重ね、きっちりとクラバットをつけた姿は、オスカルさまとその恋人(ハゲ上がってブサイク)の御者役にふさわしい。
    彼は手綱を取りながら、ひとつのことに気を取られていた。
    例の「勝負下着」の一件だ。
    夕暮れの司令官室。
    彼女は、侍女たちにすすめられて勝負下着選びのファッションショーに興じていたのだと、赤面しながら白状した。
    …ふーん。勝負下着選び、ね。
    この機に乗じない手はない。
    彼は一気に彼女を追い落としにかかった。
    「俺に見て欲しいと思わなかった?」
    甘く優しく、でも意地悪く問い詰め、彼女が目をそらそうとしても許さない。
    「『一夜を一緒に過ごしたいんだ。私などでよかったら、アンドレ・グランディエの…』だったね。
    俺のなに?ただひと晩を一緒に過ごすだけ?」
    うしろから抱いたまま、耳たぶを食むようにそう囁くと、彼女の肩がびくんと揺れた。
    「おまえ、聞いて…?」
    彼女がやっとの思いで告げた台詞。彼は寝落ちして聞いていなかったはずなのに。
    あのとき、緊張で掠れた声で口にした言葉。
    それをこんなふうに切り札として使われるなんて。
    「ず…るい、アンドレ」
    なかばくちびるをふさがれながら言い返してみても、もう手遅れだった。
    自分が言ってしまった言葉、言い逃れることはできない。
    「さぁ答えて、オスカル?」
    口調は優しいくせに、くちづけは強引に深められていく。
    「アンドレ、私…」
    どうしようもなくなった彼女は、1度は彼を誘ったくせに、それでもまだ迷う一点があるのか切れ切れに言った。
    「出発までには…前向きに…検討‥‥しておく…」
    彼は司令官室でのその出来事を思い出しながら、慣れた手つきで馬車を繰り、背後の小窓に目をやった。
    御者台のうしろにあるその小窓には、内側からカーテンが引かれていて、彼女の姿は見えない。
    それどころか、馬車の側面にある窓にもゆったりとしたドレープを描いたカーテンが引かれ、中の様子をうかがうことはできなくなっている。
    今朝、目を覚ますと彼は自分の支度より先に、馬と馬車の様子を見に行った。
    ジャルジェ家の紋章の入っていない、お忍び用の馬車。
    それは、かつてオダリスク風に着飾った彼女を、外国の伯爵夫人として舞踏会へと運んだもの。
    お忍びだからと置いていかれ、他の男のために初めてローブに身を包んだ彼女を、アンドレは苦い想いで見送った。
    その気持ちはもう記憶の底だったが、あの夜の彼女の美しさは鮮明に覚えている。
    「バカだな、俺」
    馬の首を撫でてやりながら独り言ちた。
    恋人同士になってからの、初めての夏。
    誰も知らない2人きりの1日。
    そして、もしかしたら『1日以上』になるかもしれない休日。
    オスカルは今、確実に俺だけを見てる。
    あいつの昔の恋なんて、もう怖くないはずだろ?
    彼はもう1度馬車に目をやってから自室に戻り、記憶を上書きするために支度を始めた。
    ジュリが選んでおいてくれた服にさくさく着替え、すっかりと御者になりきった姿を何度も確認する。
    予定の時間には、きちんと使用人用の裏口に降りていた。
    オスカルは…まだ、か。
    彼はしばらく待ってみる。
    メインエントランスを使えば目立つ。
    彼女にも屋敷を出るのは裏口からだと言ってあるのだが。
    それにしても遅くないか?
    心配になった彼は、部屋まで迎えに行ってみた。
    けれど。
    「いない…?」
    行き違いになったのだろうか。
    慌ててアンドレが裏口に戻ると、侍女の1人が彼を捕まえた。
    「御者のお役目、がんばってね。でも、くれぐれも気を確かに持ってよ。オスカルさまが大切なのは判るけど、アンドレのシスコンは度を超えてるんだから。
    間違っても逆上なんてしないでね?」
    「大丈夫だよ。それよりオスカルは?」
    彼が辺りを見回すと、見送りはジュリしかいないはずなのに、なぜか侍女たちがうようよしている。
    「オスカルさまなら、もう馬車にお乗りよ。
    待ちくたびれていらっしゃるわ」
    え!?もう馬車に?
    顔を見に行こうとする彼を、侍女が引き止めた。
    「ダメよ、アンドレ。今日のオスカルさまはハゲ上がってマニアックな恋人だけのものなんだから。
    あなたに先にあのお姿を見せるわけにいかないわ」
    いつの間にか他の侍女たちも集まり、彼はぐいぐいと御者台に押し上げられた。
    あのお姿?
    そのひとことに軽いひっかかりを覚えたが、目を赤くしたジュリに手を振られてしまえば、ぐずぐずしてもいられない。
    彼は恋人の顔も見ないうちから、御者として出発せざるを得なかった。
    「ほんと、慌ただしい出発だったなぁ」
    当然『前向きな検討』の回答も聞けていない。
    あいつ、なんで急に馬車で行きたいなんて言いだしたんだろう。
    ……女のコの日、とか?
    だとしたら、いくら彼女が前向きに検討してくれたって無駄なこと。元庭師の妻・ジゼルがどんなに歓待してくれても、お泊まりはおじゃんになる。
    せっかくの夏の休日。それはもったいなさ過ぎた。
    いや、待てよ。
    なにもお泊まりをやめることはないか。
    夜着姿のあいつを抱いて眠るだけでも…ってソレ、余計辛抱たまらんことになるなぁ。ああ。
    彼は千々に心を乱しながら、ようやく明け初めた街中を抜け、馬車はいよいよ田舎道へと入ってゆく。

    「ほほう」
    なかなか良い出で立ちではないか。
    オスカル・フランソワは御者台のうしろの小窓から、そっと彼のようすをうかがった。
    うしろ姿しか見えないが、珍しくクラバットなんか着用しているらしい。
    湖を渡る風が黒髪を揺らし、白いクラバットがふわりと舞う。
    そんな彼をちょっと想像しただけなのに。
    …だめ。
    不覚にもときめいてしまった。
    いけない。これではいつもと同じだ。
    しっかりしなければ。
    このお出かけで主導権奪還を狙う彼女、これしきのことでうろたえてはいられない。
    でも。
    彼に手を引かれて湖畔を歩くところを思い浮かべたら、一気にきゅんときた。
    頭の中の彼には、ドレス姿の自分がよく似合っている。
    やっぱり女装して良かった。
    今までは、くちづけが欲しくても、彼が察してくれるのを待っているだけだったけれど。
    この甘やかな戦闘服を着ていれば、ちゃんと目を見ておねだりできる気がする。
    いや、くちづけばかりではなく。
    燭台の、揺れてほのかな灯り。
    抱き上げられた腕から、寝台の上にそっと降ろされる。
    背中に並ぶ小さな白蝶貝のボタンが、彼の指先で上からひとつひとつ外されていき、ローウェスト気味にゆったり結われた大きなリボンをほどかれるのを、少し不安な気持ちで、でもされるがままに目を伏せている…
    そんなことも、この姿でなら自然に思えてくる。
    彼女はレースの手袋をつけた両手を胸に当て、自分の決意と向き合った。
    元庭師の妻・ジゼルがどんなに迷惑そうだったとしてもかまわない。
    本日はお泊まり決行だ。
    ドレスの力を借りて、ようやく本気のやる気にスイッチが入ったのだ。
    この勢いには乗るしかない。
    待たせたな、アンドレ!
    もう彼女に臆する気持ちはなかった。
    世の男女が昔からくり返している営みなのだ。多少の不安はあるが、そう怖れることもない。
    だいたいすべてにおいて器用な彼のこと。うまくやってくれるに決まっている。
    昨夜、彼女は眠りにつく前、秘蔵の発禁本を何冊も読み返して予習をしたけれど、どのパターンも女はぼんやりしていれば男が勝手にことを運んでいた。
    もうちょいアレなものは、まぁ、アレだったが、それはまだ私たちには関係なかろう。
    なら、大丈夫だ。
    「…母上…」
    衛兵隊着任後、すぐに起きた陵辱未遂事件。
    彼に助け出され、ほっとしたとき、彼女は自然と母を思った。
    そして今日も。
    ……母上。今宵、私は。

    「―――ル?」
    うとうとしていた彼女は、呼びかけられて目を覚ました。
    母へ思いを馳せ、そして彼と愛しあうイメージトレーニングを入念に行っているうちに、寝落ちしたようだ。
    昨夜はなかなか寝つけなかったし、支度が早朝からだったこともあり、馬車の揺れが心地よくてつい眠ってしまったらしい。
    「おーい、オスカル?」
    馬車を繰りながら、彼が後ろ手に小窓を叩いていた。
    「かなりベルサイユから離れたし、そろそろこっちに来るか?」
    そう言われて、彼女はカーテンの隙間から外を眺めた。
    おお!
    景色はすっかり緑の濃い森の道。
    御者台に座ったら、さぞ気持ちがよいだろう。
    「行く」
    彼女が短く告げると、馬車は静かに路肩へ停められた。
    普段、御者台に座ることなどない彼女。
    馬車で行くと決まったときから、これも新たなお楽しみの1つだったのだ。
    が。
    「オスカル?どうかしたのか?」
    彼は不審に思い、声をかけた。
    彼女がなかなか馬車から降りてこないのだ。
    ヘンだな。女のコの日の不都合とか?
    彼は御者台を降り、扉の前に立った。
    けれど、開けていいものか判らない。
    うーん、どうしよう。
    彼が困惑していると、中から弱々しい声がした。
    「アンドレ、助けてくれ」
    「は?」
    「1人じゃ無理だ」
    何やらよく判らないが、彼女は困っているらしい。
    助けてという言葉に、彼は急いで扉を開けた。
    そこには。
    ありえない姿をしたオスカル・フランソワがいた。
    「おまえ、嘘‥だろ」
    額から頬、おとがいへとフェイスラインを覆う何重ものフリル。すっぽりと被せられたその帽子で、顔がかなり隠されている。
    喉もとには帽子を留める大きなリボン。
    豊かな髪は左肩へと緩やかに編み降ろされていた。
    絶妙な露出具合の胸元。
    袖は肩の辺りがふんわりとふくらみ、けれどひじから手首まではぴったりとタイト。そしてひじから先はまた優雅に広がっていた。
    袖口に重なるフリル。手首をリボンで締めたレースの手袋。
    「オスカル、おまえ…」
    ドレスの裾に埋もれ、彼女は向かい合わせの座席の間にうずくまっていた。
    どうやら裾がうまくさばけず、コケたらしい。
    「いったい何をやってるんだ?」
    ぽかんとした彼を見て、彼女は自らのマヌケぶりに臍を噛んだ。
    せっかくのドレス姿。
    颯爽と披露したかったのに。
    転んだ拍子にドレスの裾を踏んでしまっているらしく、無理に立とうとすると生地がピンとひきつれる。
    どこかにつかまろうにも、ひじの辺りがぴったりとタイトな袖は腕が曲げづらく、繊細な手袋も指先に力が入りにくかった。
    情けないことだが、今は彼に助けてもらうしかない。
    いちいち大仰に男の手を借りる貴婦人を見ては鬱陶しいと思っていた彼女だったが、どうしてそうなるのか体験してみてやっと判った。
    この程度のドレスでこうなのだ。
    ベルサイユに集う貴婦人たちのメガトン級なローブを着た日には、きっと1人では何もできやしない。
    「アンドレ、呆けていないで手を貸せ」
    なんの前触れもなく、女装オスカル・フランソワを見せられた彼は、珍しく動揺していた。
    偶然にも、朝にはフェルゼンのためにローブを着た彼女を回想していた彼。
    まるで心を見透かされたようで、動揺は必要以上に激しい。
    しかも。
    あの舞踏会のときの彼女は、自分らしさを失わぬ高雅なローブ姿だったのに、今日のオスカル・フランソワはやたらと甘口だった。
    もちろんパニエをつけているわけでもないし、髪を高く結い上げているわけでも、アクセサリーで飾り立てているわけでもない。
    大貴族の令嬢というよりは、ちょっとしたお金持ちのお嬢さんという感じだが、それがかえって彼女の冷たく見えがちな近寄りがたさを打ち消していた。
    平素のオスカル・フランソワを見慣れたアンドレには、ぶざまにコケている彼女でも、度肝を抜かれるほど女の子らしく見える。
    彼はしばらく見とれたあと、慌てて彼女の手を取り、助け起こした。
    自分で馬車を降りようにも足元がおぼつかない彼女。
    最終的には彼が抱き上げて降ろし、そしてそのまま御者台へと運び上げた。
    彼女を抱き上げることなど珍しくない彼だが、今日は勝手が違っている。
    なにしろ彼女は女装している上に化粧までしているのだ。
    ごく薄いナチュラルメイクではあるが、土台がいいのだから、その効果は絶大だった。
    整った顔というのは、ともすれば高飛車に見られることもあるが、今日の彼女は、その強すぎる目ぢからがうまく中和されている。
    くちびるもいつもより紅味がさして、艶めいて…
    やばい、オスカル。すっごいかわいい。
    しかも抱き上げた目線の真下には、普段よりずっと露出された胸元がきてしまい、朝っぱらから見事に彼の煩悩を揺さぶってくる。
    白くて柔らかそうな、そして見えそうで見えない谷間の陰影。イライラするようなギリギリのラインは、もう計算ずくで誘っているとしか思えない。これが『前向きな検討』の暗黙の返答かと、つい勘ぐってしまう。
    彼女を隣に置いて再び走り出したものの、彼は気が散って仕方なかった。
    これじゃまるで、オスカルに一方的な片思いをしていた頃みたいだ。未だにこんな気持ちになるとは…
    恋人同士になってからというもの、2人きりのときは彼が完全に空気を掌握していた。
    男女のことに疎い彼女。
    教えることは山ほどあったし、ほんの少し優しくいじめてやるだけで困ったような瞳をする彼女がかわいくて、余計にいじめたりしていたけれど。
    なんだか今日は風向きが違わないか?
    ちらりと彼女の様子をうかがってみる。
    と、彼女がじぃっと見つめているのが判る。
    青い瞳が熱っぽく潤んでいるようだ。
    馬車の揺れに合わせて胸元の飾りも揺れていて、遠慮なく彼の欲望を煽ってくる。
    うわ‥。そんな目で俺を見るなよ。期待するじゃないか。
    彼はたまらず目をそらし、でも、ちょっと色っぽい眼差しと胸元が気になって、ついチラ見してしまい…
    ドツボにはまっていた。
    ガキか俺は。でも、ああ。
    彼女の瞳が熱っぽいのは単純に寝起きだからで、馬車から降りようとしてコケたのも、実は寝ぼけていて、うっかりキュロットと同じ感覚で動いたからなのだが、そんなの彼の知ったことではない。
    なんだか久しぶりに彼女に押し負けているようで、彼は落ちつかなかった。
    そしてオスカル・フランソワの方は……
    手綱を取る横顔。
    瞳をじっと見つめてみる。
    すると、彼は見とれたように2~3秒見つめ返したあと、サッと顔をそむけた。
    照れたようなその仕草。
    これ!これ!!
    思う壺なリアクションを見せる彼に、彼女は達成感でいっぱいだった。
    御者台へ移ってから早1時間以上、彼女はこんなことを何度も繰り返している。
    いつもだったら、至近距離で見つめあえば目をそらすのは彼女の方。漆黒の瞳にのぞきこまれると、今さら彼にときめいている胸の内を全部知られてしまうようで、見つめあってなんかいられなくなる。
    でも今日は。
    手綱の先に目を向ける彼が、本当は彼女を意識しているのが手に取るように判った。
    彼と恋仲になってから、こんなふうに余裕が持てたのは初めて。
    主導権奪還の予感をびんびんに感じて、彼女は密かにニヤリと笑った。
    朝っぱらから忙しい思いをして支度した甲斐があったというものだ。
    もっとも、実際に忙しい思いをしたのは彼女ではない。
    侍女たちの方がよほど忙しかった。
    彼女の髪を整える者、化粧を施す者。
    それを邪魔しないように彼女に靴下を履かせる者。
    透けるほどに薄い上質な絹の靴下は、太ももあたりまでたくし上げられ、繻子織りのリボンでガーターベルトに吊られている。
    侍女たちの目から見てもそそられるような、ちょっとエッチな彼女のランジェリー姿。
    それを迷いに迷ってようやく決まったドレスに包んでいく。
    すべての作業が平行して進む中、彼女は鏡を凝視していた。
    どんどん女仕様に作り変えられていく自分。
    思っていたよりずっとワクワクする。
    出来上がったときには、フェルゼンに披露したのともまったく違うタイプの貴婦人になっていた。
    すごい、私!やればできるじゃないか!!
    すごいのはそこまで持っていった侍女たちの方なのだが、それはそれ。彼女は真剣に鏡をのぞきこんでいる。
    自分ではなかなかイイ感じだと思うけれど、彼もそう思ってくれるかは判らない。
    無謀だったかな…
    少しばかり心配になってくる。
    コンティ太公妃の舞踏会のときは、ただもう夢中だった。
    初恋を諦めるためのローブ。
    フェルゼンがどう思うかなんて、少しも考えなかった。
    ただただバレなきゃいいと。
    でも今回はちょっと違う。
    彼をびっくりさせて、そのすきに恋の主導権を奪取する。
    そう思う心の裏には、アンドレにきれいだと思って欲しい、彼を喜ばせたいという気持ちがあるのだが、彼女自身、それに気づいているのかどうか。
    むしろそんな気持ちの揺れは、長いつきあいのジュリにこそよく判った。
    鏡をのぞき込む彼女の両肩に手を置くと、力づけるように囁く。
    「とてもよくお似合いですわよ、オスカルさま。自信をお持ちなさいませ。
    きっと喜んでくれますわ。優しいひとですもの」
    出発のとき、彼女以上の寝不足で目を赤くしたジュリは、額に祝福のくちづけをしてくれた。
    この腹心の侍女の気持ちを無駄にしないためにも、今宵こそは彼と結ばれようと、彼女はさらに決意を深める。
    もしジゼルが超客人嫌いだったとしたら、この際もう、野外でもよい。
    蛍なんぞが舞っていれば、それはそれで風流ではないか。
    アンドレ、おまえが望むなら、相当恥ずかしいところまでつきあう覚悟はできているぞ!
    …いったい最初からナニをするつもりなのか。
    予習の発禁本のおかげで頭が少ぉしおかしくなっているオスカル・フランソワと、そんな彼女をチラ見するのを止められない彼。
    妙な緊張感をはらんだまま馬車は順調に進んだ。
    お互いにドキドキを隠しているから、何気ない会話でも心の探り合いのようで妙にときめいてしまう。
    「急に馬車で行きたいなんて、こういうことだったんだな」
    「ふふ… まぁな。驚いたか?」
    「当たり前だろ!まさかおまえがそんな姿で来るなんて誰が想像する?
    それに、ちょっと見、おまえだとは判らないよ。
    女ってすげぇ」
    賞賛ともつかない感嘆をされ、彼女はくすくすと笑った。
    「これもエマの提案なのだが、乗ってみて良かったと思っている。私はな」
    でも、おまえはどうなんだ?
    そんな含みを込めて黒い瞳を見上げると、彼はまた照れた表情で手綱の向こうへ目をそらした。
    女装した彼女を見たときの彼の気持ち。
    もちろんびっくりしたし、すごくかわいくて、深めにあいた胸元も気になって、本っ当に理性はグラグラで。
    でもその裏側に秘めた彼の本心は、どんなに言葉を尽くしても、きっと彼女には伝わらないだろう。
    ……ずっと、ずっと優しくしてやりたかった。
    懸命に男らしくあろうとする彼女が痛々しくて、何度、もういいからと押しとどめようと思ったことか。
    どんなかっこうをしていても、オスカル、おまえは女なのだから。
    でも、それはできなかった。
    女性として扱えば、彼女はどれほど傷つくだろう。
    彼にはそれがよく判っていた。
    けれど今日、彼女は女の姿をして来てくれた。
    驚きよりも嬉しさがまさった彼の気持ちは、きっと誰にも判らない。
    この夏の1日だけは、彼女をとびきり優しく、大切にエスコートできる。女性として扱ってよいのだと。
    俺にとっておまえは昔から、いつだってずっと女の子だったよ。
    うまく言葉にしようのないこの想いは、彼女に覚られてはいけなかった。一歩間違えば、彼女の人生を否定しているとも取られかねない。
    彼はわざと照れた顔をして、目をそらすしかなかったのだった。

    天気にも恵まれ、さわやかな夏の休日。
    彼の想いと彼女の決意を乗せて、馬車は湖の村へと予定通りに近づいていた。
    途中、ジュリの持たせてくれた軽食で休憩を取ったが、彼はオスカル・フランソワをていねいに抱き上げて馬車から降ろし、木陰に敷いたシートまですら歩かせなかった。
    「ちょっ…、アンドレ、大げさ過ぎやしないか。いくら不慣れだとは言え、私は1人で歩けるぞ」
    腕の中で文句を言うお姫さまを、彼は軽やかに無視して世話を焼きまくった。
    彼が彼女の世話を焼くのはいつものことだけれど、今日はいつにも増して懇切丁寧で、世話を焼くというよりは、もはや甘やかしに近い。
    「おまえ」
    どうしたのだ?
    彼女はそう問いかけようとしたが、やめた。
    彼がすごく楽しそうだったから。
    それに。
    このあとのことを考えると、彼がこれぐらいの過保護っぷりでいてくれた方が、ありがたい気がする。
    このあと――今宵のことを。
    なにやら快活に語っている彼の話を、彼女は全然聞いていなかった。
    それよりも、陽射しに透けていつもより明るく見える髪の色や、くちびる、手や指先の動きにばかり気を取られていた。
    この男と、私は。
    そう思うと軽くめまいがしてくる。
    どうした私、しっかりしろ。
    これでは主導権奪還などままならない。
    彼女は自分を盛大に叱咤激励すると、ずりずりと彼ににじり寄った。
    予習の次は演習だ。
    彼女は自分からくちづけるという奇襲作戦に出た。
    しかし。
    彼は驚くことなく簡単に彼女をからめとり、腕の中に抱き込んでしまった。
    「じっとしてて、オスカル」
    「なん…」
    「いいから」
    彼はオスカル・フランソワをきっちり拘束したまま、彼女のくちびるを舌先だけでたどった。
    「!」
    触れるか触れないか、ギリギリの曖昧さで。
    「…待っ…」
    「動くな。化粧が落ちる」
    奇襲をしかけたつもりが、またしても返り討ちにあった彼女。
    結局、彼の気のすむまでもてあそばれて、解放されたときには、めまいはよりいっそう強くなっていた。
    「さぁ、もう行かないと。立てますか、お嬢さま?」
    小ばかにしたような半笑いで言うアンドレ。
    悔しい。こいつ、女慣れしてる!
    おまえ、今までどれだけ遊んできたんだ!!


    妙なやきもちという要素が加味された彼女を乗せ、馬車はいよいよ湖の村へとあと少しのところまで来た。
    しかし。
    順調と思われた行程に、ちょっとしたアクシデントが起きた。
    それが、この旅のみならず、帰宅後の2人にまで影響を及ぼすことになるとは、予想できるはずもなかった。

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