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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【1】

UP◆ 2011/7/1

    「アンドレ。私… 今日は帰りたくない」
    オスカル・フランソワは、いっぱいいっぱいな気持ちでそう言った。
    なぜこんなことになってしまったのか。
    判っている。
    ことの発端は私。
    軽はずみなひとことが、この事態を招いた。
    だけどこんなことになるなんて!
    彼女は重いため息をつきながら、両手で顔をおおう。
    見かねたアンドレが、扉の外の気配を気にしながらも肩を抱いてやった。
    平素の彼女なら、司令官室でそんなふるまいをすれば
    司令官室(ここ)をどこだと心得ておるかぁ!」
    と、一喝する場面。
    だが今日のオスカル・フランソワは、遠慮がちにまわされた彼の腕を咎めなかった。
    それどころか伏せていた顔を上げると、アンドレ以上に遠慮がちに、彼の腰に腕をまわしてきた。
    「アンドレ…?」
    小さな小さな声で彼の名を呼び、ねだるような眼差しで黒い瞳を見上げる。
    オスカル・フランソワの表情には愁いの色が濃く、アンドレには、彼女が精神的にかなり参っているのが判った。
    そうでなければ、公私混同を嫌う彼女が、もうすぐ終わるとはいえ勤務中の司令官室で、くちづけをせがんできたりするわけがない。
    「まだ勤務中だよ」
    抱きよせたのはアンドレが先なのに、彼はわざとそんなことを言ってみた。
    仕事とプライベートをきっちりわける彼女に、寂しい思いをさせられているのはいつもアンドレの方だ。
    たまには少しぐらい彼女をいじめてみたい。
    「ダメだろ。司令官室でそんなこと」
    「でも屋敷に帰ればもう2人きりにはなれないし、もしかしたら明日の出勤まで、会うこともできないかもしれない」
    そうなのだ。
    ここしばらく、2人は屋敷ではほとんど一緒にいられない。
    今までなら、晩餐が済み、湯浴みが済み、彼の屋敷での仕事が済めば、2人は彼女の部屋で密やかな恋人の時間を過ごしていた。
    彼の手がすくのはけっこう遅い時間だし、次の日の勤務を考えればあまり夜更かしもできないので、2人きりで過ごせる時間はそう長くはない。
    でもまだ始まったばかりの2人には、それは甘く大切なひとときだったのだ。
    なのに!
    アンドレはこのところ、ほとんど彼女の部屋に入れない。
    いや、入れなくはないのだが、でも雰囲気的にほぼ出入り禁止に近い。
    そのことを思うと、彼もつまらないいじわるをやめて、今や司令官室でしかチャンスのない2人きりの時間を堪能したくなってくる。
    腕の中の恋人の表情をうかがうと、じらされたせいなのか彼女の眼差しはいっそうせつなくなっていた。
    普段強気な彼女のそんな顔は、彼の男としての征服欲をとても満足させる。
    そんな目をしちゃ反則だろ。
    愛おしさが一気にMAXになり、アンドレが優しくお姫さまのお望み通りにしてあげると、珍しく彼女の方からくちづけを深めてきた。
    廊下から、せわしなくひとの行き交う気配や、話し声がする。
    鍵もかかっていない扉1枚へだてただけの秘密の行為。
    そのスリルに、触れるだけのくちづけでもテンションが上がるというのに、こんなふうに甘えてこられては。
    屋敷では思うように会えないことで、軽く禁欲的な状態の彼にとって、この状況はやばすぎた。
    ほんの少し前に「司令官室ではダメ」と言ったのは自分なのに、そんなことどうでもよくなってくる。
    彼はいったんくちびるを離すと、彼女の頬に乱れた髪を払った。
    2人、しばし見つめあって…
    やがて彼女は続きをおねがいするように目を閉じる。
    アンドレは腰に回された彼女の手が、自分の軍服の背をぎゅっとつかむのを感じた。
    オスカル…
    彼は悟られないぐらいに、小さく笑う。
    こんなふうに甘えることを、彼女がまだ恥ずかしがっているのがなんともかわいらしい。
    その美貌と数奇な運命で、ベルサイユ1有名な武官オスカル・フランソワのこんな姿を見られるのは、陸軍に数多いる男どもの中でも、彼ただ1人。
    そのことは、すべてにおいて控え目な彼にすら、たまらない優越感を与える。
    彼女への想いが昂ぶり、アンドレはくちびるではなく、首筋にくちづけようとした。
    が。
    「隊長、よろしいでしょうか」
    ノックとともに無粋な声。
    ダグー大佐!
    2人は一瞬で2メートルぐらい距離を開けた。
    彼女はなにごともなかったような理性的な態度で大佐に入室を許すと、その日最後となる仕事をこなし始める。
    アンドレは少し離れたところで資料の整理などをしながら、しばらくオスカル・フランソワと大佐のやり取りを見ていた。
    彼女の、なかなかのポーカーフェイスぶり。
    おりこうさんだね、オスカル。仕事に私情は持ちこんじゃいけないもんな。
    彼女がふと、彼の視線に気がついた。
    すると。
    くすっ。
    アンドレが意味ありげに微笑み、自らのくちびるを指先で触れて見せた。
    そのとたんに、ぽぉっと染まる彼女の頬。
    まだオスカル・フランソワのくちびるには、彼の忍びこんだ感覚がしっとりと残っており、彼女は連鎖的に先ほどまでのふるまいを思い出した。
    彼にくちづけをおねだりした自分自身の。
    彼女は動揺を抑えようとしたが、それでも思わず目が泳ぐ。それは彼女を見慣れているアンドレにしか判らないほどの微妙なものだけれど。
    どうしたの?オスカル。仕事には私情を持ちこんじゃダメだろう?
    彼のくちづけひとつで簡単にうろたえてしまう。
    そんな彼女の様子は、アンドレに極上の満足を与えるのだ。


    発端は、ほんのささいなことだった。
    留守部隊へ行かねばならぬ都合ができ、オスカル・フランソワは普段通り、彼を伴って出向いた。
    用件自体は滞りなく済み、その帰り、2人はちょっと寄り道をした。
    ジャルジェ家御用達の宝飾品店。
    「作らせている 装飾品 (もの)が少し遅れているのだけれど。パリへ行くなら、進み具合を見てきてくれないかしら」
    出勤直前、屋敷を出るときにアンドレがジャルジェ夫人から頼まれたためだ。
    華やかに高級店が並ぶメイン通りから1本奥まった小路にあるその店は、隠れ家的な雰囲気で、昨今の金で爵位を買う成り金などには判らぬ高雅な渋みがある。
    馬車では乗り付けられないため、メインの大通りに彼女を残し、アンドレだけが店に向かった。
    彼女はおとなしく、彼が戻るのを待っていたのだが…
    馬車の小さな窓から外に目を向ければ、通りの反対側は河に沿っており、川面に陽光が反射してまぶしい。
    風が街路樹をさやさやと揺らすのに気を引かれて、ふらりと馬車を降りた。
    彼女は大路を渡ると、水面をのぞきこむ。
    雑排水の流れこむ河はそう美しいものではないが、それでもゆったりとした瀬音や、少し涼しい河を渡る風が心地よかった。
    気分がリラックスして、なんとなくアンドレのことなんか考えてみたりする。
    こんなふうに彼を想うようになるなんて、自分でもまだ信じられない。
    かつてアンドレに情熱的過ぎる告白をされたとき、彼女には想い人がいたし、そもそも彼をそんな対象として見たこともなかった。まるっきり無邪気に、兄か親友のように思っていた彼からの激白は、彼女にとって喜びどころかショックでしかなかった。
    はずなのに。
    無意識に押し殺していた胸の奥の揺らぎに気づいてからは、情けないほど早かった。
    自分の中で日ごとに増す、彼の重さ。
    今さら気取るわけじゃないけれど、何をしていても、彼にどう思われるかと気になって緊張する。
    自分でもバカだと判っている。
    隊員たちを怒鳴りとばす声にも、近ごろはどうもドスが利かない。
    今まで当たり前だったことまでなんだかぎこちなくなってしまい、彼に至近距離で笑顔を見せられたりなんかしたら…ああ。
    ほんとにダメだ、この頃の私。
    彼女が毎日こんなに緊張してどきどきしているのに、彼の態度はこれまでと変わらない。
    むしろ、とまどう彼女を観察している気配すら感じられる。
    ちくしょう、あいつ…
    最近ではもう、彼のことが憎たらしくなってきた。
    私ばかりが翻弄されて、そんなのずるい。納得いかない。
    今まで何年も彼を翻弄してきたのはオスカル・フランソワの方なのに、恋する彼女にとってソレはソレ、コレはコレ。
    形勢不利なこの状況、どうしてくれようか…
    柔らかい風に吹かれながらそんなことを考えていると、目の先を長身で黒髪の男が通りかかった。
    それはアンドレではなく、もちろん彼女も見間違えたりしない。でも少しばかり気になって、目で追った。
    その青年は小走りに彼女の前を通り過ぎると、街路樹に寄りかかって人待ち顔をしていた女の子に声をかけた。
    どうやら待ち合わせのようだ。
    女の子がパッと嬉しそうな顔をすると、青年は背をかがめて、そのくちびるにチュッ♥とくちづけた。
    若いカップルのその様子が絵に描いたように初々しく爽やかだったものだから、道行くひとたちは皆足を止め、一様に笑顔になる。
    女の子が青年の腕に飛びつくと、彼はその手を取って、祈りのときのようにお互いの指をからませた。
    2人はそのまま手をつないで河沿いの道を歩いて行き、やがて見えなくなり…
    オスカル・フランソワは半ば口を開けて、ぽかんとそれを見ていた。
    が。
    徐々にムラムラと怒りが湧いてきた。
    …公衆の面前でくちづけなどと、なんてふしだらな。
    お‥音まで聞こえたしっ!
    軍務となれば前衛的で斬新な発想をするオスカル・フランソワなのに、こと恋愛になるとガッチガチに保守的になってしまう彼女は、実は古風な女なのかもしれない。
    未婚の若い男女が、ひっ‥人前でくちづけなんて!
    夕暮れが近いとはいえ、まだ陽も高いというのになんたる破廉恥!!
    ………私もやってみたいぞ。
    だって。
    だって彼女はいつもすごくがまんしているのだ。
    人に知られてはいけない身分違いの恋。
    勤務中は今まで以上に気を引き締めているし、屋敷にいたって、目ざとい侍女たちに見抜かれないようにとても注意している。
    でも。
    私にだって、ときにはみんなに「おまえは私のもの」と言いたくなるときがある。
    アンドレとこうなる前の彼女はまったく眼中になかったが、一緒に飲みに出かければ、居合わせた女性客たちが彼をチラチラ見ているのが今は判る。
    屋敷にいたって彼は誰にでも優しいけれど、その優しさに期待している侍女がいることにも気がついた。
    だけど彼女には何も言えない。
    この恋を守りたかったら、彼女がすべきなのは今まで通りの兄弟ごっこ。人前では、男としてのアンドレには、関心のないふりをしていなくてはならないから。
    初めての 両思い (こい)にずるずると引きずられつつある彼女には、それがとてもつらいのだ。
    想うひとに想われて、初めて彼女は、自ら死を選んだシャルロットやディアンヌの気持ちが判った。もし今アンドレに「一緒に死んでくれ」と言われたら、何も聞かずに毒の入ったワインを飲みほせる気がする。
    だって…私はもう1人でなんて生きられない。
    人を愛したら強くなれると思っていたのに、自分がこんなに弱くなってしまうなんて思ってもみなかった。
    さっきの女の子みたいに、人目もはばからず彼の腕にまとわりつきたい、とか…
    あんなふうに指をからませて街を歩いてみたい、とか…
    ひとまえで‥く‥ちづけ…されたい、とか…
    そうすれば誰からも、私がおまえのものだと判るのに…とか。
    私がそんなことを思うようになるなんて!!
    本っ当に信じられない。
    しかも相手がアンドレ…って最悪だろう?
    彼女は彼の女関係をまったく知らないが、アンドレにはこちらの男関係を100%知られている。つまり、男性とおつきあいをした経験がゼロだということを。フェルゼンへの秘め続けた片恋も、たぶんバレているだろう。
    おまけに彼は、オスカル・フランソワという人間を誰よりよく知っている。今さら彼を相手に女らしくなんてできないし、どうせ似合うわけもない。
    こちらの手のうちはすべて見透かされているのだ。
    これほどやりずらいことはない。
    でも。
    1度ぐらいはあんなふうに、人目も立場も身分の壁も取っ払って、ただの恋人同士として街を歩いてみたいと彼女は思った。いつもすごくがまんしているのだもの、それぐらいのささやかな欲望は叶ってもいい気がする。
    …言ってみようかな?
    らしくないと、きっと笑われる。
    でも、ちょっと手をつないでブラブラできれば、彼女の気はすむのだ。人前でくちづけとまでとはいかずとも、手をつないで歩くぐらいなら彼も拒否はしないと思われる。
    さてこの話、どう運んだものだろう。
    2人とも仕事帰りの軍服姿なので、今すぐにというわけにはいかない。となると、次の休みにでもさりげなくどこかに誘ってみるとか?
    うーむ…
    用を済ませたアンドレが馬車へ戻ると、彼女は河沿いに並ぶ街路樹の下で突っ立っていた。
    なにやら決意を秘めたような表情で、威風堂々と仁王立ちしている軍服姿のオスカル・フランソワはけっこう目立っている。
    あいつ何やってるんだ?
    彼女のもとへと、アンドレも大路を横切った。
    「オスカル?」
    声をかけても、彼女は妙に真剣な表情のままだ。
    「何かあったのか?オスカルってば!」
    「…え?ああ!アンドレ!!戻ったのか。ね、アンドレ聞いてくれ。私さっき」
    勢いこんで話しだそうとしたオスカル・フランソワを、彼はいったん押し留めた。
    手にした美しい小箱を見せる。
    「奥さまの注文されていた 宝飾品 (もの)だよ。ちょうど完成したところだったから、お預かりしてきた。これだけ高価なものを持ち歩くのは、ちょっと落ちつかないな」
    「そ…うか。判った。では早々に屋敷へ戻るとするか。母上も早くご覧になりたいだろうし、私の話は急ぐものではないから」
    どうせ話すなら、戦略を練った方がいいしな。
    言うが早いか、彼女の足はすでに馬車に向いている。
    「お屋敷での用が済んだら、ショコラでも淹れて今夜も部屋へ行くよ。遅くなるかもしれないけど、話はそのときでいいか?」
    「かまわない」
    オスカル・フランソワもアンドレも、あとになって思った。
    このときさっさと話しておけば良かったのだ。
    そうすれば、こんなことにはならなかったと。
    でもそんなのは、あとからだから言えること。
    そのときの2人は特に何も考えず、馬車の中でも取りとめのない会話を楽しみながら、ごく普通に帰宅した。
    そのあとも、彼女は普段通りに晩餐を終え、湯浴みを済ませ、彼の方は給仕をしたり祖母に頼まれた雑用をこなしたり、ごく日常的に時間は流れた。
    だからその日の夜も、約束通り彼がショコラを持って部屋を訪れれば、お待ちかねの恋人の時間が始まると彼女は思っていた。
    彼もそのつもりだった。
    しかし、ふり返ってみれば、この日が平和に過ごした最後の夜になったのだ。
    いや、この日の「うっかり」がすべての発端になったのだから、すでに平和なわけがなかったのだ…
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