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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【3章 追撃-3】

UP◆ 2013/2/1

    泣いている女性というのは、どうしてこうも可愛らしく見えるのだろう。
    薄暗い廊下に、思いもよらず飛び込んできた手負いの小鳥。
    ヴィクトールは、頬を濡らしたオスカル・フランソワを懐かしく、また甘く痛む気持ちで見おろしていた。
    まったく。あなたときたら、いつだってそうだ。
    まだ真紅の軍服を着ていた頃の彼女も、執務室でよく泣いていた。
    といっても、こんなふうに明け透けな涙を見せたことはなく、泣き出したい気持ちでいるであろう気配をぐっと軍服の中にしまいこみ、1人、窓の外に目を向けていたものだった。
    僅かばかり濡れて、艶の増している瞳。
    それは、女性だからというだけで侮られ、心無い雑言に傷つけられた末のこともあったし、絶対に報われることのない片恋ゆえのこともあった。
    ヴィクトールはいつも、それに気づかないふうを装い、長い年月をこの部屋で彼女と共に過ごした。有能な副官として。
    そして自らがこの執務室の主になった今、またこんなふうに涙する彼女とここで、2人きりになろうとは。
    久しぶりに近衛で見る彼女は、一直線に廊下を疾走してきた。
    オスカル嬢!?
    執務室を出て、まだ数歩も行かぬうち。
    いるはずのない人の登場に、平素の優雅さも霧散するほど驚きはしたものの、ヴィクトールはすぐに彼女の異変に気がついた。
    濡れた頬を隠そうともせず、女性そのものの儚さを晒している彼女。
    『オ…』
    駆け抜けていこうとした擦れ違いざま、ヴィクトールは彼女の名を呼びかけて、ここが公の場だと気づく。
    突然現れた彼女に驚きはしたが、瞬時に落ちつきを取り戻し、きちんと適切な名を呼び直した。
    『ジャルジェ准将!』
    ひじをつかまれ振り向かされて、初めて彼女はヴィクトールの存在に気づいたらしい。
    『ジェロー‥デル』
    律儀なほど約束通り、朝早くからジェローデル邸に届いた薔薇。
    “それが枯れるまで、私はこちらには参りますまい”
    そう告げた私に少しばかりの情けを感じ、会いにいらしてくださったのだろうか。
    冷静の中にも、ほんの1滴ほどの甘やかさを探したかったヴィクトールだが、
    『もう帰るところだ。離せ』
    そう言って、彼女はつかんだひじを振り切ろうとした。
    今までなら、黙って振り切られたふりをしてきたヴィクトール。けれど、今日はそういうわけにはいかなかった。
    しっとり濡れた白い頬も、かもしだす風情も、すべてがあまりにかよわく見える彼女。
    あの粗野を具現したような衛兵どもが、今のあなたを見たら、いかほど不埒な気を起こすか。
    とてもこのまま見過ごしには出来なかった。
    きっちりと拘束したひじを引き寄せ、そのままスルスルと腕の内に取りこむ。
    彼女は少々取り乱し気味で、ちょっとばかりもがいていたが、人目に触れるとマイルドな恫喝を与えてやると、虚をつかれたように力を抜いた。
    そう。それでよいのですよ、オスカル嬢。
    なにごとにもそつがなく、勘の良いヴィクトール。
    胸の奥で小さく笑うと、程よい距離感を残して、緩く彼女の頭を引き寄せた。
    そして、職務上のことのような当たり前さで、強く言った。
    執務室(そこ)で少し、休んでいきなさい」
    あやすような優しさが効果的な女性は多い。けれど、少なくとも今の彼女には、機嫌を取った甘やかしより、ストレートな命令の方が耳に入るようだった。
    慣れた言い回しの方が、従いやすいのだろう。
    「お茶でも飲んで、気を落ちつけること。あちらに戻るのはそれからでも遅くはない。あなたが武官の顔に戻られるまで、お帰しできません。よろしいですね?」
    押しつけるように言われて、彼女は黙ってうつむいた。
    きっとなにも考えたくないのだろう。エスコートされるまま執務室に引き入れられ、かつて見慣れた応接用のソファにおとなしく座らされている。
    中腰で見おろすヴィクトールが白手袋の指先でおとがいに触れ、顔をクッと上向かせても、彼女は触れなば落ちんといった危うさを漂わせ、ぼんやりと見返すだけだった。
    赤く潤んだ瞳の、見ようによってはなんと扇情的なことか。
    まったく彼女は困った人で、自分がどれほど男をそそる存在なのか、それをまるで判っていない。
    ヴィクトールは、このままくちづけてしまおうかと彼女をしばらく見つめていたが、せめぎ合う自分の中の自分に根負けし、マヌケに微笑った。
    困ったものなのは、私も同じ…か。
    ねだられて、仕方なしに抱いてやり、顔も覚えていない女ならいくらもいるというのに、なに故この無防備な姫君には、こうも手出しが出来ないのだろう。父将軍の許しさえ、得ているというのに。
    ヴィクトールはまだおろしたての白手袋の掌を、彼女の頬に押し当てた。
    薄い絹地は、塩気の効いた水分を優しく吸い上げ、それは彼女をとても落ちつかせる。しっかりと頬を包む男の手が、チャラチャラと派手やかな外見にそぐわず、力強くて…
    どうかなりそうな心を、つかまえてくれるようだった。
    『勇気を出して飛びこんでみれば、それがいかに簡単なことで、思いのほか心地よいことが判るでしょう』
    真夜中過ぎの私室の前で言われた言葉が、抵抗なく理解できるほどに。
    ――私は根底で、これを望んでいたのだろうか?
    父親の舐めるような視線に耐えきれず、部屋を飛び出したオスカル・フランソワ。
    逃げ場を求めて無意識に足が向いたのが、長年執務を取ったこの部屋だった。
    けれど。
    本当に無意識だっただろうか。
    逃げこめる場所としてだけ、ここに足が向かったのか。それとも私は?
    「…いや、違…う」
    「オスカル嬢?どうかされましたか?」
    「あ、」
    頬に手を添えられたまま、心配そうな眼差しが近づいて、彼女は鈍い思考の中で、ともかくも言葉を継いだ。
    なにか言わなければ。
    「あ…、と。‥な‥ぜ…、そう、なぜおまえはなにも聞かない?」
    「聞いて欲しいのですか?」
    質問で切り返すヴィクトールは、してやったりとでもいうようにニヤリと笑う。
    「私としては、泣き顔のあなたが私を求めて飛び込んでいらしたと、それだけでじゅうぶんなのですが」
    「な‥にをおまえは…っ!私はただ‥長年の習慣でつい‥ここに」
    そうだ、これはただの習慣なのだ。それ以上の意味はない。
    胸のモヤモヤをおもしろそうに突いてきた男に、彼女はもちろん否定をしたが、それはむしろ自分に確認する行為だった。
    「いささか動揺していたことは認めよう。だからそれを落ちつけようと、うっかり足を向けてしまったのがここだったわけでだな、私は断じておまえに…そのっ…」
    泡を食って言い訳を始めた彼女に、ヴィクトールは含み笑いを通り越し、声をあげて笑った。それはおもしろそうにクスクスと。
    「承知しておりますよ、オスカル嬢。あなたに“自惚れるな”と一喝された私ですから。――冗談です」
    「冗…談」
    「でもほら、少し元気になったでしょう?」
    上向かされたまま預けられていた首は、今は自分の意思で上げられて、きちんと男を見返している。
    それを確かめて、ヴィクトールはおちゃらけていた表情をスイと深くした。
    「…心配、しました」
    まだ顔の近いまま、一転低い声で熱く言われ、彼女はポカンと男に見とれた。
    「ジェ…ローデル…?」
    「こんなに危うげなあなたを見て、私の胸がどんなに痛んだか。あなたは少しもお考えくださらない」
    「…ジェローデル」
    「私には、それが哀しい」
    愁いを含んだ男の眼差しに彼女はとっぷり見とれ……
    そして次の瞬間、弾けるように笑い出した。
    「おま…っ、おまえ、言うようになったなぁ。初めて会ったとき、ビービー泣いていたおまえが」
    「何歳のときの話ですかっ!それに、私は泣いていたのではなく、あなたに泣かされたんじゃありませんか!」
    それはまだヴィクトールが3つか4つの頃。
    今まで会う機会のなかったジャルジェ家の末姫に、目通りが叶うという。
    同じ伯爵家とはいえ、相手は国王の信頼厚い近衛将軍家。しかも、平素公の場には姿を現さない末姫も出席するという私的な茶話会。
    ジェローデル家の当主はなかなかに勇んで、末姫と年の近いヴィクトールを伴って、ジャルジェ家を訪れた。
    男児に恵まれなかったジャルジェ将軍が、嫡子として教育しているという末姫。
    いったいどんな娘なのか。
    まさかとも思うが、将来ヴィクトール(むすこ)の出世の妨げになどなりはしまいな。
    そんな興味や危惧の入り混じった好奇心を抱きつつ、父伯爵は息子を諭した。
    『同じ伯爵家ではあるが、あちらは大したご権勢だ。ジャルジェ将軍は、末姫のオスカルさまを殊の外可愛がっておられるという。くれぐれも失礼のないようにな』
    まだ幼いヴィクトールは、素直に頷いた。
    そして、初めて会う2歳年上の美少女をみとめるなり、ころころと駆け寄り…
    「いきなり拳で殴られたんです。父親に殴られたこともないのに。普通泣くでしょう!?」
    「おまえが私を『おすかるちゃん』などと呼ぶからだ」
    「違います!私はちゃんと『オスカルさま』と言いましたよ。子供の舌足らずで『オスカルちゃま』になってしまっただけで!」
    「いーや!確かに『おすかるちゃん』と言っていた!ガキのくせに、妙に達観した生意気な子供だったぞ、おまえは」
    「それはお互い様でしょう。あなたこそ、相当に厭世的で根暗な子供でしたよ」
    「ああ、それは悪かった。おかげさまで悩み深き生い立ちだったものでな」
    「だから!」
    ヴィクトールは彼女を囲い込むような体勢で、ソファに腰をおろした。
    「だから、『胸につかえた悲しみや、肩に背負った苦しみを、みんな私に預けてはみませんか』 そう申し上げているのです。オスカル嬢」
    「…あ」
    右手はいつの間にやら指先をつながれ、左手は男の背中側へと回されてしまっていて、気がついたときには、彼女はすっかりとヴィクトールのポジションの中にいた。
    「大丈夫。固くならないで」
    さらに空間を詰めるヴィクトール。
    「待…」
    「無体なことはいたしません。ただ少し、慣れていただきたいだけです。今の私たちの…適切な距離に……」
    「…適切な…?」
    「そう」
    ヴィクトールは涼やかな忍び笑いと共に、くちびるをオスカル・フランソワの耳もとに触れさせた。
    「…っ」
    からだがびくんと動いたけれど、それは彼女がそう思っただけで、上手に抑えこまれたからだはろくに動いていない。それでも当然、ヴィクトールにはその震えは伝わっており…
    まったく以て、我が姫君は危なっかしくていらっしゃる。
    男どもの中にどっぷりと身を置き、その雄々しさはいや勝るというのに、彼女の初心(うぶ)さときたら、宮廷に出入りしている十や十二のマセた小娘の方がよほど堂に入るほど。
    親になにを吹き込まれたのか『ヴィクトールさまぁん♥』などと妙なしなを作ってすり寄ってくる初潮もまだのおじょーちゃんたちに辟易しているヴィクトールにとって、一歩踏み出されたときの彼女のうろたえ振りはつくづくと危うく思え、楽観できたものではなかった。
    目の届く近衛なら、まだいい。父将軍の威光もあり、彼女に不埒なふるまいを仕掛ける痴れ者などいない。
    けれど、衛兵隊となれば?
    ブイエ将軍の管理下。
    彼女になにがあったとしても、決して助けはしないだろう。見て見ぬふりをすることはあっても。
    それに。
    囲い込まれて、耳もとにくちづけられた彼女が、視線を不安定にさまよわせるのは、初心(それ)だけでないものがある。
    ――アンドレ・グランディエ。
    あの男だ。
    いつだって、あなたの胸のどこかしらにあの男がいる。
    今もこうして心を揺らして、そう、あの花婿選びの舞踏会の夜のように、私へとぐらつくご自分を感じていながら、結局あなたはあの男へと引き戻されていく。
    自覚なさっているのか、いないのか…
    「なにを考えていらっしゃる?」
    「な‥に…って、こんな状況で……なにも考えられるものか!」
    半ギレ気味に言って、彼女はつながれた指を振りほどいた。
    ヴィクトールはそれを追うこともなく、ちょうどよいタイミングでノックされた扉をふり返った。
    「おや、お茶の用意が整ったようですね」
    「お茶…?」
    そういえば、この部屋に引き入れられて呆けていた暫しの間に、戸口辺りに人が来ていたような。
    あれは当番兵にでも、お茶の支度を指示していたのか。
    「お待たせしました」
    品よく入ってきた近衛兵は、優雅な所作で茶器を並べていく。彼女も見知った、ヴィクトール付きの従卒。
    近衛連隊長時代の気分が甦り、自然と背筋が伸びた。
    それがスイッチになったのか、オスカル・フランソワの表情には、見る間に重々しさと余裕が戻っていく。
    お茶の支度が整い、従卒が退がる頃には、彼女はいつも通りのジャルジェ准将として、そこに座っていた。


    「いたたっ」
    彼は使用人用の自室の寝台の上に座り、半裸のからだをひねった。
    やっぱりあちこち痛む。
    腕を回してみたり、腰を捻ってみたり。
    あの転落事件から時間が経ち、打ちつけたところは変色したあざになり始めている。場所によっては腫れてもいるようだった。
    でも。
    これぐらいで済んでよかった。
    彼は改めて、ホッと息をつく。
    もし、大けがでもしていたら。
    隊長の管理能力が問われる上に、彼女の勤務に帯同することもできなくなる。
    今は信頼関係の築かれた隊員たちと彼女。着任当初のような問題が起きる恐れはもうないだろう。それに、万一なにかあったとしても、彼女のことはアランが守ってくれる。
    だが。
    誰よりも近くそばにいて、彼女を支え守るのは
    「俺でありたい」
    しかし、それもいつまで続くのか。
    ……まだ、見える。
    “まだ”。
    では、その先は?
    「ああ」
    苦しい息を吐き出し、シーツをギュッとつかむ。
    2人きりになりたい、オスカル。
    せめて昨夜、あの男とどんな時間を過ごしたかだけでも知りたかった。
    彼女が微笑って話してくれたら、きっとなにもかも飲みこめる。そうしてみせる。
    オスカル。おまえが幸せそうに笑ってくれるなら、俺は。
    ――コツコツ
    静かな部屋に、控えめなノックの音がした。
    「ん?」
    彼はシャツを手に取り、軽く返事をする。
    「おばあちゃん?湿布持ってきてくれたの?」
    「いや、私だ」
    そぉっと扉を開き、細く開けた隙間から半分だけ顔をのぞかせたのは、彼女だった。
    「オスカルっ?なんでおまえが……えーっ!?」
    「入ってもいいか?」
    「あ、うん。でも、ちょっ」
    彼は慌てて、シャツに袖を通す。
    けれど彼女は、最初の“うん”で、部屋に入ってきてしまっていた。
    なんとか袖が通っただけで、胸をはだけっ放しのアンドレ。
    「悪い。ちょうど…着替えてて」
    予想外の彼女の訪問に、彼はあたふたしたままシャツをかき合わせた。
    けれど。
    「そのままでいい」
    「へっ?」
    彼女はやにわに彼の肩をつかみ、ズルズルと寝台の方へ引いていく。
    「ちょっ…オスカルっ!?」
    わけの判らない彼にはきっぱりとした抵抗もしづらくて、グイと寝台に寄りきられた挙げ句、突き飛ばされた。
    いきなりの乱入と乱行。
    「なんなんだ、オスカル!だいたいおまえ、まだ勤務時間中だろう?」
    「うるさい。黙って脱げ」
    「うるさいってな、隊長がこんなところでサボっ……って、脱‥げ?」
    「早退してきたんだ、おまえに会いたくて」
    ……俺に、会いたくて?
    意外過ぎる言葉をポンポンぶつけられ、彼の動きは止まる。
    「…おま…、なに言って…」
    「ああっ、もういい」
    まどろっこしくなったのか、彼女は突き飛ばして座らせた彼の背後にまわり、シャツを引き下ろした。
    「おいっ!」
    振り返ろうとした彼を、細い指がぐッと押さえる。
    そのまま、なにも言わない彼女。
    「…オスカル?どうした?なにかあったのか?」
    首をふっているのが、振り返りかけた隻眼の端に映る。
    やがて、すべすべした頬が、むき出しの背中に押し当てられた。
    どきんっ!
    一発で高鳴る彼の胸。
    神経が過敏になって、背中全部がピリピリする。
    息遣いまでが皮膚を震わすようで、触れてもいない彼女の胸の感触まで伝わる気がしてきた。
    落ちつけ、俺。
    今、背中にさわさわと触れているのは、ブラウスだけだ!


    彼女の真意が判らぬままどくどくと脈打ち始めた血流を、彼は深い息を吐き、押し殺す…


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