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【3章 追撃-2】
UP◆ 2013/1/26ちょっとした手当てを終えると、軍医と衛生兵は出て行った。
2人の他に、誰もいなくなった衛生室。
アランの苛立ちは治まっていない。
「あ~、スゴいたんこぶ」
彼はひょうきんな口調で、右目の上の生え際あたりをさすった。
言うまでもなく、階段から落ちた際に負った傷。
他には手首にちょっとした擦り傷と、くちびるの端を切ったぐらい。
「ま、これぐらいで済んでよかったけどさ」
彼がくちびるの傷を確認するように、もごもごしながら言うと、アランの苛立ちは一気にピークに達した。
「おまえ、よくそんなヘラヘラしてられるな。下手すりゃ大けが、運が悪きゃ首の骨でもポッキリいってたかもしれないんだぞ」
「だから、この程度で済んでよかったって言ってるじゃないか」
のらりくらりと、掴みどころのないアンドレ。
「おまえにだって、ヤツらがわざと剣帯を緩めたのは判ってるんだろう?」
「いや、上から降りて来られた俺には逆光だったし、足元ばかりに意識がいってたから」
人目がある場所では、見事なほどに自然なふるまいを見せる彼だけれど、さすがに1人のときには不便さが露わになるのだろう。
見えにくい足元に注意を払いながら階段を昇り、人の気配に顔をあげたときにはもう、足を取られていた。ぐらりと体勢を崩し、階段を転げ落ちる自分に為す術もなく。
憤りを抑えきれないアランだったが、被害の当事者に落ちついた説明をされ、さすがに勢いを削がれた。
「そ…うだったか」
「でも」
「なんだ?」
「いや、なんでもない」
彼はすっくと立ち上がると、アランを扉へと促す。
体のあちこちが鈍く痛んだが、顔に出せばアランを刺激するだけ。
軽快なフットワークを意識して、食堂へと足を向けた。
すでに訓練は再開していて、廊下には人も少ない。歩きやすいことが、彼には助かった。
廊下を歩くときには、いつだってハラハラするのだ。
行き交う人がもし、話しかけてきたら?
瞬時に対応できるだろうか。
顔で判断するには、今の彼の視力では、相当に近づかなければならない。
皆、揃いの軍服を着て、おおむね似通った背格好。見分けにくい事この上なかった。
『よう、アンドレ!』
『え…、ああ、どう‥も』
彼女の前で不意に呼びかけられて、相手が誰だか判らずにとまどう自分。想像するだけでも冷や汗が出る。
もっともっと、気を引き締めなければ。
できる限りそばについて、手を貸してくれているアランの存在が、つくづくとありがたかった。
しかし。
アランもまた、ただ都合がいいだけの男ではない。
彼の左側を歩きながら、死角から注意深くその様子を探っていた。
ついにバレてしまった真実。
腕の中で激しく肩を震わせていた女隊長はまだ、アンドレになにも切り出してはいないようだ。
必ず来るそのとき。
アンドレはどうなる?
俺はどうする?
予想はまったくつかない。
そして、先ほどの事件の際に彼女の見せた様子。
気丈なはずのあんたが?
蒼を通り越して、蝋のようになってしまった顔色を隠しきれていなかった。
なににあれほどショックを受けていたのか。
特権意識に満ち満ちた近衛の兵士が、末端の衛兵に嫌がらせするなど珍しくはない。もちろん舎屋に乗りこんでまでとはやり過ぎだけれど。
ディアンヌの一件以来、上層部とは細かな衝突を繰り返しているアラン。小競り合いには慣れきっていて、幸か不幸かそれ以上、彼女への勘ぐりが及ぶことはなかった。
が、しかし。
アランには、彼に聞かずにいられぬことがある。
閑散とした食堂に着くと、厨房の奥から勝手に飲み物を出してくるなり、まずは軽めに切りこんだ。
「なにを言いかけた?」
「なんだよ、いきなり」
糺す口調に、彼は質問で返してよこしたが、アランはさらに押す。
「衛生室でなんか言いかけただろう?」
「ああ、あれか。本当にたいしたことじゃないぞ?」
「なら、言ったっていいじゃないか」
「うーん… でも、なんて言ったらいいのか」
訓練中、将校に伝令役を頼まれて、快く引き受けた彼。
無意識に人の多めな廊下を避け、遠回りにはなるが、回廊を廻って奥の階段に向かった。
思えばその間に、近衛の若手たちは彼を見失ったのだろう。慌てて上階を探したに違いない。焦って長い廊下を見回して、そしてもう1度階下へ戻ろうとしたとき、遅れてやってきた彼と出くわしたのだ。
“逆光で判らなかった”
アランにそう答えた彼だったが。
見えない分、耳が敏感になっているアンドレには、姿を見る前から、折れた階段を下って近づく複数の足音に気がついていた。
漂う妙な空気。
まるで、こちらの気配を窺っているような…?
やがて踊場に姿を見せた3人は見るからに若そうで、近衛の白い軍服を着ていた。
ああ。
彼の胸に、ほのかな懐かしさが広がる。
思い出す、14歳の彼女。
まだあどけなさの残る頬に、瞳が誇らしく輝いていた。
士官学校も終えぬうちから、未来のフランス王妃付き将校の候補として大尉の階級をいただき、希望だけに満ちていたあの頃のオスカル・フランソワ。それが深い苦悩に続く、運命の始まりだとも知らず。
そんな懐古と共に、彼は年若い近衛兵たちとすれ違った。
その瞬間。
スッと足元に差し込まれた美しい剣。
――は…っ!
気づいたとき、すでに彼は天を仰ぐようにバランスを崩していた。
‥まず‥い。
真っ逆さまに倒れていく中、思考だけが妙にゆっくりと流れていく。
もし
ブイエ将軍をはじめ、彼女の存在を快く思わない者はまだまだ多い。どこをどう突つかれて失脚へと追い込まれるか、ここでは少しの油断もできなかった。
だからこそ、必死の思いで見える芝居を続けてきたのだ。なにかの時には、命をかけても盾になってやろうと。
しかし、そんな決意も、今はなんの役にも立ちはしない。つかまるところさえなく、後頭部から大理石の床に打ちつけられるのは必至と思えた。
が。
ぐいっ。
はためく軍服の裾が、強く引かれた気がした。
変化する落下の軌道。
身体能力の高い彼は咄嗟にそれを利用し、身体をひねらせる。その機転のおかげで、階下までの転落は免れなかったものの、ダメージは最小限に止められ。
「ふ…ん。足を引っかけてきたクセに、手を貸してもきたと?」
彼から聞きだした話に、アランは怪訝な顔をする。
「だから、判らないんだって。裾を引かれた“気がした”んだよ。気のせいかもしれないし、そうだったのかもしれない。姿勢を崩した拍子に、裾が軍靴の踵にでも引っ掛かったのかもしれない。なにしろあっという間で、俺にも本当に判らないんだ」
追い被せるように彼は付け加えたが、アランはしばらく気難しげな顔をして安酒を飲んでいた。
……安酒?
「ってアラン!勤務中になに飲んでるんだ」
「なにって、酒だろうよ。この距離でも判らないほど、悪くなってんのか?」
確かにアランの手にする酒瓶は、彼の目にはぼやけているが、酒の匂いははっきり判る。
「そういうことじゃないだろ!」
「そうカリカリすんなって。元々ココはこんなとこじゃねぇか」
アランはかつて見せていた下卑た笑いをしてみせたが、彼にムッと押し黙られて、やっと本題に入る気になった。
「あの女、どうしてる?」
「?」
「隊長だよ。屋敷ではどんな様子だ?今日もひどく充血した目をしていた。身のこなしも鈍いし… また貧血でも起こしてんな、ありゃ」
「そう‥か」
彼の脳裏に、男と部屋へ向かう彼女の後ろ姿が浮かぶ。
今日も目の赤味は治まっていないという彼女。
あのあと、少佐とあいつに何があった?
彼の脳裏に映った次のビジョンは、彼女の寝室だった。
屋敷側がゲストルームを用意したことを知っていても、それでも彼にイメージされたのは、彼女の寝室だった。美しく整えられたゲストルームより、彼にはもっとリアルな場所。
そこで。
燭台の小さな灯り。
その頼りない光の輪の中に、シーツにくるまった彼女がいる。
涙をたっぷり含んで、重そうなまつげ。
半裸の男が寄り添って、彼女の耳になにかを説いている。おそらくは、これからの自分たちの幸福な未来について。
小さく頷きながら聞いていた彼女は、やがて目を上げる。
ゆっくりと覆い被さっていく男の背中へ、おずおずと腕をからませ…
「アンドレ?」
今までに見たことのない険しい表情に、アランは彼の肩を揺すった。
胸の奥の、後ろめたい塊。
もしかして…アレがバレた!?
2人きりの司令官室で、彼女を腕の中に抱きしめたアラン。
あのことを、アンドレに知られたのか?
激しく泣きじゃくっていた彼女。
あのときアランが感じたものは、自分でも意外なことに優越感だった。
とうとう彼の秘密が露呈した。
それを共有できるのは、俺とこの
彼を出し抜いているという、捻れた悦びが湧き上がっていた。
事実、こっそりと想ってきた女は、知ってしまった秘密を受け止めきれず、熱い涙を胸に押しつけている。今まで見せてくれなかった、素の姿で。
…隊長。
抱く腕にグッと力を込めると、より深く顔を埋めてきた。
あの5分ほどの時間。
それがアンドレに知られてはいないかと、今さら勤務中に酒など持ち出して、探りたいのはそのことだったのだ。
けれど。
隻眼に浮かぶ色合いには、今までとは異質な切迫感がある。
「どうした、アンドレ。やっぱり屋敷でなにかあったのか」
いっそう険しく寄せられる眉。
「アンドレ!」
「…さぁ」
「さぁって、なんだよソレ」
「昨日も、お屋敷に戻ってからは会ってないんだ。あいつとは」
「でもおまえ、隊長の部屋には出入り自由なんだろう?」
アランの誇大された言い方に、彼は気が抜け、眉を緩めた。
「まさか。子供の頃じゃあるまいし」
身勝手な告白をし、もう兄弟のふりは限界だと覚ったあの日から、彼は呼ばれない限り、彼女の部屋に近づいていない。
「それにな、アラン」
彼は強い自制の力で、いつも通りの穏やかな従僕顔を取り戻して言った。
「昨日は少佐が来てたんだよ」
「あの、キザったらしい近衛連隊長か」
彼女とその男との経緯は、アランだって知っている。
「でも隊長はずっと拒否してるんだろう?そいつとのこと」
「俺もそう思ってた。昨日までは」
――『当然だわ。お2人はもう、くちづけをかわす仲なんだもの』
侍女の漏らした小さなつぶやきは、もう何十回と耳の奥で繰り返されている。
「あいつ、な。昨夜は少佐と2人きりだったんだ。たぶん、夜明けまで」
「なん…っ…、」
アランはなにか言いかけたが、でもそれを見つけられず、中途半端に言葉を切った。
きまりが悪くて目線が泳ぎ…
隊長のいっそう赤く潤んだ瞳。それは昨夜あの近衛連隊長と……だったからなのか?
手にした酒瓶を一気に飲み干すと、アランは無言で席を立ち、次の酒を持ってきた。手慣れた仕草で封を切り、またゴクゴクと飲みくだす。
質の悪い酒が喉に焼けて、大きな息を吐いた。
「ふーっ。そんで?おまえはそれを黙って見てたのか」
「真夜中過ぎに、部屋に向かうあいつと少佐を見かけた。だんなさまが許したことだ。俺には何も言えない」
「へぇ~、丁稚奉公もそこまでいくと見事だな。逆に尊敬するわ」
聞き出そうとしたこと以上の話。
後ろめたさは簡単にかき消され、お門違いとは思いながらもフツフツと腹が立ってくる。
「惚れた女が好きでもない男に抱かれんのを、黙って見送るとはな。その上、いつも通りに仲良くご出勤?気が知れねぇ」
「仲良く、だと?」
なんにも知らないくせに。
寝苦しい夜明け。
彼は目を覚ますとともに、厩舎へ向かった。
すでに動き出している厨房に顔を出し、料理人にマロンへの伝言を頼む。
「ちょっと蹄鉄が気になる馬がいるんだ。たぶん出勤までかかると思うから、おばあちゃんに伝っといてもらえる?」
「おお、朝からご苦労だな」
マロンと年の近い料理長が、親しみ深い笑顔を見せて、いくつかのパンを放ってくれた。
彼はそれを味気なく頬張りながら、出勤ギリギリまで厩舎に籠もり、うわさ話に喧しい侍女たちと顔を合わせるのを避けていたのだ。
昨夜のこと。
もし“そう”だったのなら、彼女の口から聞きたかった。
そして彼自身にも、自分から聞きたいことがあった。
しかし、どれもひと前で口に出来ることではない。
馬車で2人きりになったら。
司令官室で2人きりになったら。
そんなふうに先送りして、そしてようやく腹が決まって、切り出そうとしていたのが、あの伝令を頼まれたときだった。
「じゃあ、今聞きに行けばいいだろう?隊長は司令官室にいるんだし、訓練中の今なら、誰の邪魔も入らない」
「いや、あいつは俺に早退するよう言ってたろ?」
『軍医の診察が済んだら、屋敷に帰れ。私への挨拶になど来なくていい。命令だ』
振り向くこともせず、そう言い捨てて立ち去った彼女。
その背中にも、言葉にも、拒絶の気配を彼は感じていた。
そうだ。
出勤の馬車で顔を合わせたときから、彼女は目線を合わせようとはしなかった。どこか張りつめた気配を漂わせ、彼との会話を言外に避けていた。
「あいつがああいう言い方をしたときは、絶対なんだよ。オスカルは普段、俺に命令はしない」
「あぁ?」
「意外か?まぁ、あいつはいつもあの調子だから、意外に思えるのも無理はないが。あいつはな、アラン。俺には普段、命令はしないんだよ。『~してくれ』、言わば“依頼”だな」
「…あ、」
ああ、そうか。
そう言いそうになって、アランは言葉を抑えた。
2人のそばにいるとき、なぜかチリチリと感じる苛立ち。
“~しろ”或いは“~しておけ”
それがアランに言い渡される彼女からの言葉だった。はるかに高い階級の上官なのだから、それは当然のこと。
けれど、アンドレには。
“~してくれ”“~して欲しいのだが”
決してあからさまではない、他の者との微妙な違い。
…これ、か。
アンドレという男に心を許し、僅かに甘える女の匂いを俺は無意識に感じていたのか。
「ちっ」
気づきたくなかったことを気づかされ、アランはまたグイと酒を呷る。
「だから、あいつが俺にああいう言い方をしたとき、それは絶対なんだよ」
好きな女が求婚者と2人きりの夜を過ごしたというのに、近衛の若造どもにあんな理不尽な目に合ったばかりだというのに、しらっとした顔で状況の分析をしている男。
わけが判んねぇ。
どの件に関しても、まったく部外者の立場だというのに、アランには腹の中で煮えている感情の持って行く先が見つからない。
むっつりと黙り込んだアランに、彼は肩をすくめて席を立った。
食堂から出て行く後ろ姿。それを目の端にとらえながら、アランはヤケクソな勢いで酒を流しこみ続ける…
「グランディエが今しがた、帰宅したようですが」
「そうか。ご苦労、退がってよい」
彼女は待っていた報告に、小さなため息をつく。
人だかりの階段で盗み見た彼は、くちびるの端に血を滲ませていた。
…私のせいだ。
そう思うと、とても目を合わせることは出来なかった。
「はーっ」
もう1度、今度ははっきりしたため息をつき、彼女は重いからだで立ち上がる。
…ぁ。
強い立ちくらみを感じたが、それでも足早に司令官室を出た。
胸の、焼けるような焦燥感。
将校用の馬車に乗り込み、御者を急き立てて向かわせた先は。
「ようこそのお見えで、ジャルジェ准将」
申し分なく整った美しい敬礼。
馬車の扉を開けに駆け寄った下っ端の近衛兵が、久しぶりに会う彼女にまぶしそうな眼差しを向けていた。
思い出と懐かしさの詰まった
「将軍はどちらに?」
「執務室においでです。ただいまお取り次ぎを」
「要らん」
勝手知ったる古巣の近衛。
彼女は臆することもなく廊下を進むと、将軍の執務室をノックした。
誰何されることもなく開かれる扉。
出迎えた将軍付きの従卒は、突然現れた元近衛連隊長に驚きもしなかった。それどころか、当たり前のように彼女を内へ通すと、入れ違いに恭しく一礼し、退出していく。
簡潔なまでに手際良く用意された、父と娘の時間。計っていたような。
彼女はレニエに、冷ややかな目を向けた。
「どういうおつもりです?」
「さて、“どういう”とは?」
「何を今さら。
「おお、そのことか」
さも、今思い出したとばかりのおっとりとした抑揚。
「父上!」
「そう気色ばむな。アンドレとて、たいしたけがもしていなかろうが」
「運が良かっただけです」
「いやいや。あやつらには、充分なさじ加減でことを起こすよう言い含めておいた。アンドレが重傷を負うことなど、最初からありはせん」
「なんということを!」
「まことになんという不手際であろう。あれほど上手くやれと言ったのに、騒ぎになるなどと。下手をすれば近衛隊と衛兵隊の間につまらぬ軋轢を引き起こすところであったな」
うっすらと笑って言ってのけたレニエに、彼女は怒りで身の震える思いがした。
「なぜ、このような」
「ふふん。なぜ?」
レニエは彼女を挑発するように、さらに薄ら笑う。
「おそらくおまえは、軽傷を負ったアンドレを屋敷に帰らせた」
「はい」
「ここへこうして、抗議に来るために」
「…はい」
「そして私にも、おまえに用件があった。そう度々アンドレに“職務上の”という言い訳は使えまい?」
「では、私をここに呼び寄せる、それだけのためにアンドレを傷つけたと?」
たかがそんなことのために…
この先も、どんな些細な理由でレニエが彼を傷つけるか判らない。
怒りでたぎりかけていた血がゾッと冷えて、一瞬ふつりと集中が切れかける。
この警告は決して途切れない…
ふらつきそうな不安定感を、父親をグッと睨み返すことで彼女は踏み留まった。
それを受け止めるレニエの視線は、胸の内まで舐めまわすよう。
父親の目には、周到に張り巡らせた細い糸に、絡め取られてもがく娘が視えている。
これでよい。
命令し、頭から押さえつけても無駄なこと。
類い稀に、強い心を持った娘。そして、その強さを支えているのは、幼いときから影のように共にあった、あの女の忘れ形見。
ならば話は簡単だった。
娘の心には、うっすらと傷をつけてやるだけでよいのだ。
あとは否定しがたい現実を突きつけ、そして見えなくなってきているアンドレの危うさを目の前にチラつかせてやれば。
人の痛みに敏感なこの娘は、心の傷を自分で開く。
知らぬふりでそっとしておけばよいものを、触れずにはいられず突つきまわし、自ら大きく傷口を広げていくことが、彼女を知り尽くしたレニエには判っていた。正しさに魅せられて、自虐に偏りがちな娘の性格を。
無意識に胸に手をあて、落ちつこうとしている彼女。
その姿は、レニエを存分に満足させるものだった。
今日のところは、ここまででよい。
やり過ぎれば、また彼女に反発という力を与えるだけ。
それに。
次の手筈はもう、整えてある。
気をよくしたレニエは、話題を自分の用件に切り替えた。
「ときにオスカル。調査は進んでおろうな?」
時間を与える代わりに、アンドレの協力者を探ること。
転換を見せた質問に、それでも彼女は的確に反応した。
「残念ながら」
胸中にはレニエへの怒りや自責の念、遡り途切れ目のない後悔などがせめぎ合い、まだ混迷しきっていた。それに飲まれてしまえば楽なのに、習い性というものなのだろう。混乱しきることも出来ず、彼女は冷静に残る心の一部で計算をしていた。
アンドレの協力者。
それがアランであることは、伏せておいた方がいい。手札のない今、少なくとも、アランをこちら側に取りこむまでは。
「数人までは絞りこめておりますが、協力者が1人とも限りませんし」
「ふふん?」
疑わしそうな、父親の目。
まずい。見透かされる!
彼女は伏し目がちに視線を逃がした。
そして、小さな声で言ってみた。
「怖くて」
だが。
言ってみたら喉の奥がグッと詰まり、目元がじんわり滲んできた。
「オスカル」
「…申し訳…あり‥ま‥」
そんなつもりもなかったのに、瞳に溜まりだした涙はみるみるうちにぷっくり膨らみ、もうこぼれそうになっている。
「失礼‥しますっ」
口もとを押さえ、彼女は部屋を飛び出した。
長い廊下に硬質な靴音が響けば、ぎりぎりで留まっていた雫が伝い落ちる。
レニエの気をそらそうと、その場しのぎに言ったはずの言葉は、本人も気づかぬ内の本心だった。
また彼が傷を負う。
今回のことはまだいい。作為的に起こされた事故。
でも、この先は?
見えなくなっていく彼。
落馬?銃器の取り扱い?
危険なことはいくらでもある。
いつでも2人が一緒にいるとは限らない。アランも常にそばにいるわけじゃない。
左目だけでなく、この次こそは命までも?
今まではただ、運が良かっただけ。今日のようなことが、もっと悪い形でとっくに起きていてもおかしくはなかった。
父の企みよりも、それがなにより恐ろしい。
涙を止められないまま闇雲に走って走って、そして
「――あっ」
不意に現れた人に、いきなりひじをつかまれた。
「オ… ジャルジェ准将!」
「ジェロー‥デル」
「なぜあなたがここに?」
「もう帰るところだ。離せ」
彼女は腕を振り払おうとしたが、男の手はびくともせず、逆にすっぽりと抱き寄せられた。
「こんなお顔では帰せませんね。誰ぞに見咎められたらどうなさいます?」
「‥それ‥は」
一瞬怯んだその隙に、彼女は元・自分の部屋、今はその男の部屋である近衛連隊長の執務室へ引き入れられていた。
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