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【100年の恋獄・中】(2013 / 夏企画&100万HIT御礼)
UP◆ 2013/7/15月に照らされた川面。
ゆっくり近づき欄干から見下ろすと、それは揺らぐ光の道のように見える。
石畳を打つ踵の音は意外に高く、まだ少々距離があるというのに、男は振り向いた。
……アンドレ・グランディエ。
あれから15年もの月日が経とうというのに、その男は恐ろしいほどあの頃のままだった。
「お久しぶりです、ジェローデル少佐」
「なぜ、私と判った?」
「軍靴の音がしました。それに」
グランディエはまるで見えているかのように歩いて来ると、私の前で止まる。
「あなたの靴音は、昔から華やかだった。自信に溢れてよく響き、オスカルへの求婚にお屋敷へと通われるその音を聞くたびに、俺はどれだけ怯えたことでしょう」
盲いた瞳で笑った。
「何を笑う?グランディエ」
「あの頃、あれだけ疎ましいと思った靴音を、今、懐かしいと感じていることに」
グランディエはくるりと踵を返すと、橋を対岸へ向かった。
「俺たちを見つけるのは、少佐。きっとあなただと思っていました」
「私が来ると判っていたと?」
ほのかに射しては陰る月の淡きに、漠とした足元。
けれど背を向けて進む男の歩みには、いっさいの迷いがない。
先ずはついて来いと言わんばかりの後ろ姿に、私は黙々と歩いた。
1歩1歩と刻むごと、あなたの眠る場所へと近づいている…!
ようやく訪れるその瞬間に、私は何を思うのだろう。
やがて石畳は徐々に下草がらみの小径へと変わり、そう深くもない森へと続いた。
土や草木の匂い。
木々の葉から漏れ出ずる月光のさやけさ。
静謐過ぎて、奇妙な力を感じた。
なにやら人ならぬものの意志に圧され、濃い緑の匂いに思考が歪められていくような。
どうか…している。
きっと気が昂ぶっているせいだろう。
「…は…ぁっ」
私でも息の切れた頃、ようやくグランディエが足を止めた。
「ここがあの7月に、俺が目指した場所です」
箱庭の街の郊外、ぼんやりと口を開ける洞窟の入り口。
「聖母に告げられたという?」
ありありと懐疑を含んだ私の声を、グランディエはさらりと受け流す。
そして問わず語りを始めた。
「7月13日。あのテュイルリーで、俺は死んだはずでした」
そうだ。
『誰かオスカルを止めて!』
王后陛下の悲鳴と共に幕を開けた悲劇。
最初に飛び込んできた報告は、テュイルリーでの発砲と動乱。そしてグランディエの戦死だった。
あの方の盾になったのだと。
でもそれは、誤報だったはず。
「あのとき俺は、極めて死に近いところにいました。死んだと言っていいぐらいに」
この男、何を言い出す?
「そして視たのです。翌14日のバスティーユを。オスカルを待つ運命を」
あの方の運命。
そうだ。
私こそが変えられたかもしれない、あの方の運命。
強引にでも、あなたを娶っていれば!
「狙撃され崩れ落ちたあいつの骸は、無残なものでした。それがあの美しかったオスカルとは思えないほど」
司令官を潰せと、あの方が集中砲火を浴びたのだとは聞いていた。軍人ですら、目を背けたくなる光景だったと。
「けれど、あいつを見舞う悲劇はそれに留まりませんでした。市民たちの共同墓地に、仮の埋葬をされたオスカル。その墓が狂信的な王党派によって暴かれ、あいつの遺骸は野ざらしにされたのです。まるで見せしめとでもいうように」
「貴様、何を言っている!気でも触れたか!?」
聞くに耐えぬ戯れ言に、私は思わず声を荒らげた。
けれどグランディエは、それをまったく意に介さなかった。
「俺は強く祈りました。誰でもいい。オスカルの運命を変えてくれと。必死に祈って祈って…… そして声を聞いたのです」
「聖母降臨だと?」
「さぁ。見えない俺には判りません。それに俺にはどうだってよかった。あいつの運命を変えてくれるのなら、神だろうが悪魔だろうが」
「そんな…
「そうかもしれません」
グランディエは薄く笑うと、また少し歩いた。
そして。
「どうぞ、ジェローデル少佐」
こぢんまりした山荘。
開かれた扉から中へと入り、さらに奥の扉を示された。
「こちらへ。あなたが探し求めたものです」
私は自らノブを握り、静かに扉を押し開いた。
「これ…は…」
窓を大きくとった部屋は、密度の濃い空気が発光しているよう。
蒼く淡く、そこにあの方がいた。
オスカル…嬢…?
「まさか、こんなことが」
会いたさがつのり、私は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
小さな部屋の中央に置かれたデイ・ベッド。
おっとりと微睡むがごときたたずまいで、あの方がいらっしゃる。
懐かしく麗しい、追憶のままのあなたが。
「グランディエ、これはどういう…」
私はあからさまに動揺していた。
この私が人前でうろたえるさまを見せるなど、幼少より振り返っても覚えのないこと。しかもこんな、平民の前で。
「死線を彷徨う俺の視たもの。そして声」
それは、グランディエの願いを叶えてはくれなかったという。人の生き死には変えられないのだと。
「しかし、懸命に祈り、あるかなきかの命を差し出して懇願する俺に、声は応えてくれました」
このピレネーの麓、マッサビエルの洞窟奥に秘された湧き水にあの方の骸を浸せば、命こそ還りはしないが、傷ついた身は癒えようと。
「元の美しい姿を取り戻したあいつを、今度こそ手厚く葬ってやればいいという声の導きのままに、俺はもの言わぬ骸となったオスカルを連れてパリを離れたのです」
幸いだったのは、13日の出動に際し、あの方にジャルジェ家には戻らぬ覚悟があり、それなりの支度が出来ていたこと。それを旅支度と変え、グランディエは混乱の渦中ながらの無稽を重ね、自らも瀕死の身で此処まで辿り着き…
「あとはあなたが今、ご覧になっている通りです。少佐」
「そんな、馬鹿なことが」
にわかには信じられぬ心地のまま、私はデイ・ベッドに近づいた。
おとぎ話の姫君のように眠るあの方。
私は頬へと指を伸ばしたが、自分の腕に力が入っているのかいないのか、感覚までもが歪んでいる。
しかし、その感触だけは鋭敏に伝わった。
「なんと冷たい」
私はその冷たさに膝をついた。
『バスティーユが白旗を掲げました!』
転げるように飛び込んできた将校の顔色。
息を飲んだ王后陛下。
『バスティーユが陥落…?なぜそのようなことに!』
『恐れながら陛下。市民側の司令官は、衛兵隊を率いて謀反を図ったジャルジェ准将であったと。その指揮があまりに的確であったゆえと聞き及んでおります』
『どうしてオスカルが?わたくしたちには確かに、友情があったと思えたのに!!』
激しく取り乱す王后陛下。
しかし。
『されども陛下、ご安心くださいませ。あの謀反人はバスティーユ陥落の際、既に粛正済みにございますから』
『そんな!』
絶句し泣き伏した王后陛下と、おろおろするだけの国王陛下。混乱を極めているらしき王宮の気配。
それらを、私は黙って眺めていた。陶器で作った仮面のごとく、近衛連隊長の顔のままで。
そして、今日までその仮面を外せぬまま。
けれど。
指先に触れたあの方の頬は芯から冷たく、しかし、あの舞踏会の宵と同じに柔らかかった。
「オスカル嬢!」
私はあの方を引き止めなかった。
こうなる予感をじゅうぶんに感じていながら、なにがしかの理由を引き合いに出し、ついに最後までお引き止めしなかった。
『ただひとつの愛の証です。身を引きましょう』
それは真実の想いだったのか。
いや、違う!
私は怖かっただけだ。
平民と争って、負けることが。
私の浅はかなプライド。
本当に誇るのであれば、どれほどに見苦しくても足掻いてみればよかったのだ。ただの男として、このしがない従僕と同じ泥の中で。
私は汚れるのが怖かった。たかが平民ごときと本気で争い、敗北し、あの方を奪われることに耐え難かっただけ。
そして、私よりもこの従僕を選んだあの方を、心の奥底では憎んでいたのだ。
容姿、身分、財力。何においても秀でていると思われる私より、グランディエに惹かれ、とまどいつつも愛し始めていたあの方を。
「だから私はあなたを止めなかった」
あの方が、冷たい頬で眠っている。
それはすべて、私のつまらぬ虚栄心のため。
私に本当の愛があったのなら、あの方をお止めし、何等かの術を以てグランディエと結びつけることもまた、出来ただろう。そんな策など、今ならいくらでも思いつける。
『気難しそうにしかめっつらしてるけど、実はてんで青いんだもの』
あの宿屋の女にすら見抜けた私自身の本質を、なぜ私こそが気づけなかったのか。
こんなにもあの頃のままで、それなのにもう、この美しい器の中にあの方はいない。
それはすべて、私という男の未熟さの果て。今さら気づいたとて、決して取り還すことの叶わぬ!
「すべては… 私という…男、の」
滑り落ちる涙。
それはあの方の頬の冷たさと相まって、余計に熱く感じられる。
私はその涙を止める気もなく、嗚咽を隠す気もなかった。
恐らくグランディエは、私の卑小な心の在りようを、とっくに見抜いていただろうから。
「冷たい、でしょう?」
少し離れて見ていたグランディエは、そうつぶやき、デイ・ベッドに近づいた。
「俺がいくらあたためても、少しもあたたまらない。こんなに出動前夜と変わらないのに」
その深い眼差し。まさか。
「グランディエ?」
「ええ、見えています」
やはり、か!
「洞窟の泉はオスカルの無惨な傷を跡形もなく癒やし、俺の負った傷をも癒やしてくれました。そして、この目も」
グランディエはそう言うと、額髪をさらりとかきあげた。
もうずっと昔、「黒い騎士事件」以来に見る双眸。深淵をのぞき見て、少しばかりの畏怖を覚えるような、艶めいた
「けれど、この目は俺の宿業のようなものなのでしょう。あるいは俺とオスカルを繋ぐ絆の証。完全に治ることはありませんでした」
この小さな山荘の、あの方の側でだけ、見えるようになるのだとグランディエは微笑った。
それだけで、望外の喜びだと。
「空になったこの器に、泉の力が満ちているのかもしれません」
「そう、かもしれん」
あの方の頬に触れたままで私が頷くと、グランディエは燭台に灯を点し、手渡してきた。
「こうするとほら、灯りが映えて顔色に赤味が射すでしょう?」
ますますとあの頃に近づくあの方の姿に、私は魅入った。
「しばし、お2人で。俺は隣の部屋にいますから」
「いや、」
あの方のすべては、グランディエのものなのだ。最初から。
私が割りこむ余地もなく。
「気遣いは無用だ」
それでもグランディエは、静かに部屋を出て行った。
「あなたにも、2人きりで話したいことがおありでしょう?少佐」
私はあの方の眠る場所に花を手向けたかった。
ただそれだけだと思っていた。
死に顔を見ることもなく逝き別れた、私の唯一のひと。
あなたは風の精のように、逝ってしまわれた。
けれどようやく此処まで辿りつき、私が対面したものは、醜悪な己自身だった。
それこそがあの方を、このような運命に押しやった。
それを、詫びなければ。
無意識に封印し、あえて気づこうとしなかったこの姑息な気持ちを、やはりグランディエには見抜かれているのだ。
そしてこんな私でも、許されるのならもう1度だけ、口に出したい言葉がある。
「オスカル嬢、私は…」
明け方の月に響く靴音。
私はもと来た道を、グランディエと歩いていた。送らずともよいというのに、ついてきたのだ。
どうやらまだ、話し足りないことがあるらしい。
私より少し退がり気味に脇へ付くのは、従僕の頃の癖なのだろう。
「実は、少佐」
「なんだ?」
「少佐は、また日中にでも出直していらっしゃるとおっしゃいましたが」
「そうだが、何か?」
「恐らくそれは、出来ません」
「あ …ああ、そうだな。もちろん迷惑であれば、私も無理には」
なにしろ深夜の急な邂逅で、ただ無遠慮に乗りこんでしまった私は、それこそ花すら手元にない。
少し大きな街まで戻り、眠るあの方と、それを護り続ける従僕… いや、その恋人に何かしら見繕おうと思い、まだ明けやらぬ山荘を後にしたのだが。
「いいえ、そういうことではありません。ただ、俺に残された時間が、もうあまりないということです」
「この上なにを」
立ち止まった私を追い抜いて、グランディエは橋を渡り、中ほどで振り返った。本当に久しぶりに、この橋の上で再会したときのように。
「この地に来て、俺は1度だけ、また声を聞きました。そして朧気な姿も。けれど、アケロはあまりにも霞み揺らめいていて、今でもなんなのか判りません」
だから自分では、それを“
「アケロとの約束では、元の姿を取り戻したオスカルを、俺はすぐにも埋葬しなければなりませんでした。この世ならざるものを、私欲だけで留めることはならぬと。それは俺にも当然だと思えました。そして今度こそ、暴かれることのない美しくて静かなところへあいつを弔い、墓を守って暮らし、いずれは俺もそこへ」
「けれど、そうはしなかった」
否、出来なかった。
「はい。久しぶりに両の目ではっきりと見ることの出来たオスカルは、記憶の中に重ね合わせてきたオスカルよりも、さらに美しかった。それが器に過ぎなくても、俺にはもう、とても土に還すことなど出来ませんでした」
…ああ。
「きっと私でもそうだったろう」
グランディエは困り顔で頷き、それから川へと顔を向けて、欄干に手をついた。
「アケロは激怒していました。俺の懇願を憐れに思い、願いを聞いたのに、と。そして罰をくだされました」
「罰…とはいかなる?」
「もしオスカルの姿を人に見られることがあれば、あの夏アケロに差し出した俺の魂を、すぐにも召し上げようと」
「!」
ならばなぜ、この男は私をあの部屋へと導いた?黙ってやり過ごすことも出来たであろうに。
「俺には判っていました。いつかあなたの来ることが。だって、少佐。あなたも真実オスカルを愛した人だから。あいつの眠る場所を探さずにはいられない。実際そうだったでしょう?」
「…そうだ。その通りだ」
きっと行方を追い続け、いつかは必ず辿りついていた。
それが今だっただけのこと。
「そしてね、少佐。召し上げられた俺の魂は、100年間、煉獄の炎に灼かれるのだそうです。アケロの慈悲を謀った贖罪に。それは死ぬより辛い責め苦だそうです」
「そんなことが… いや!きっとそれは疲れきった心の見せた妄想だ。そうに決まっている!」
しかし、私はあのオスカル嬢のお姿を見ているのだ。
ああ!
私はもう、頭がおかしくなりそうだった。
それとも私はとっくにおかしいのだろうか?あの方を失った夏から。
「最後の選択を迫るアケロに、俺の答えはNonでした。例え空の器だとしても、あいつを見続けていたいと。そしてそれ以降、アケロは現れていません」
「どうしてだ、グランディエ。なぜ」
「煉獄の炎に灼かれながら、俺が想うのはきっと、オスカルのことだけ。業火の苦しみを、あいつへの想いだけをよすがに100年…」
グランディエは背を向けて橋の欄干に手をついたまま、肩を震わせクックッと笑った。
「人が召されて天へと昇り、もし新たな人生を与えられるとしたら。何もかもを忘れ、新しい名、新しい身分、新しい恋に出会って愛しあう?俺にはそんなもの要らない。あいつへの想いを抱いて100年、業の炎に灼かれる方がよほど…… 幸せです」
「グランディエ、貴様」
狂っている!
「いいえ、少佐。もうすぐ陽が昇る。そうすれば俺の体は一瞬で塵となり、これが妄想や狂言じゃないことがあなたにも判るはず。ほら少佐、感じるでしょう?朝の訪れを。満ちる光が。ああ!」
触手を伸ばす陽光。
それは蜂蜜のようにねっとりと、グランディエの体を這いあがっていった。
“下・Bitter end”
“下・Lovely end” につづく
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