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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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貴賓室へ
ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    月に照らされた川面。
    ゆっくり近づき欄干から見下ろすと、それは揺らぐ光の道のように見える。
    石畳を打つ踵の音は意外に高く、まだ少々距離があるというのに、男は振り向いた。
    ……アンドレ・グランディエ。
    あれから15年もの月日が経とうというのに、その男は恐ろしいほどあの頃のままだった。
    「お久しぶりです、ジェローデル少佐」
    「なぜ、私と判った?」
    「軍靴の音がしました。それに」
    グランディエはまるで見えているかのように歩いて来ると、私の前で止まる。
    「あなたの靴音は、昔から華やかだった。自信に溢れてよく響き、オスカルへの求婚にお屋敷へと通われるその音を聞くたびに、俺はどれだけ怯えたことでしょう」
    盲いた瞳で笑った。
    「何を笑う?グランディエ」
    「あの頃、あれだけ疎ましいと思った靴音を、今、懐かしいと感じていることに」
    グランディエはくるりと踵を返すと、橋を対岸へ向かった。
    「俺たちを見つけるのは、少佐。きっとあなただと思っていました」
    「私が来ると判っていたと?」
    ほのかに射しては陰る月の淡きに、漠とした足元。
    けれど背を向けて進む男の歩みには、いっさいの迷いがない。
    先ずはついて来いと言わんばかりの後ろ姿に、私は黙々と歩いた。

    1歩1歩と刻むごと、あなたの眠る場所へと近づいている…!

    ようやく訪れるその瞬間に、私は何を思うのだろう。
    やがて石畳は徐々に下草がらみの小径へと変わり、そう深くもない森へと続いた。
    土や草木の匂い。
    木々の葉から漏れ出ずる月光のさやけさ。
    静謐過ぎて、奇妙な力を感じた。
    なにやら人ならぬものの意志に圧され、濃い緑の匂いに思考が歪められていくような。
    どうか…している。
    きっと気が昂ぶっているせいだろう。
    「…は…ぁっ」
    私でも息の切れた頃、ようやくグランディエが足を止めた。
    「ここがあの7月に、俺が目指した場所です」
    箱庭の街の郊外、ぼんやりと口を開ける洞窟の入り口。
    「聖母に告げられたという?」
    ありありと懐疑を含んだ私の声を、グランディエはさらりと受け流す。
    そして問わず語りを始めた。
    「7月13日。あのテュイルリーで、俺は死んだはずでした」
    そうだ。
    『誰かオスカルを止めて!』
    王后陛下の悲鳴と共に幕を開けた悲劇。
    最初に飛び込んできた報告は、テュイルリーでの発砲と動乱。そしてグランディエの戦死だった。
    あの方の盾になったのだと。
    でもそれは、誤報だったはず。
    「あのとき俺は、極めて死に近いところにいました。死んだと言っていいぐらいに」
    この男、何を言い出す?
    「そして視たのです。翌14日のバスティーユを。オスカルを待つ運命を」
    あの方の運命。
    そうだ。
    私こそが変えられたかもしれない、あの方の運命。

    強引にでも、あなたを娶っていれば!

    「狙撃され崩れ落ちたあいつの骸は、無残なものでした。それがあの美しかったオスカルとは思えないほど」
    司令官を潰せと、あの方が集中砲火を浴びたのだとは聞いていた。軍人ですら、目を背けたくなる光景だったと。
    「けれど、あいつを見舞う悲劇はそれに留まりませんでした。市民たちの共同墓地に、仮の埋葬をされたオスカル。その墓が狂信的な王党派によって暴かれ、あいつの遺骸は野ざらしにされたのです。まるで見せしめとでもいうように」
    「貴様、何を言っている!気でも触れたか!?」
    聞くに耐えぬ戯れ言に、私は思わず声を荒らげた。
    けれどグランディエは、それをまったく意に介さなかった。
    「俺は強く祈りました。誰でもいい。オスカルの運命を変えてくれと。必死に祈って祈って…… そして声を聞いたのです」
    「聖母降臨だと?」
    「さぁ。見えない俺には判りません。それに俺にはどうだってよかった。あいつの運命を変えてくれるのなら、神だろうが悪魔だろうが」
    「そんな… (たわ)ごとだ。死線を彷徨う貴様の見た幻にすぎない!」
    「そうかもしれません」
    グランディエは薄く笑うと、また少し歩いた。
    そして。
    「どうぞ、ジェローデル少佐」
    こぢんまりした山荘。
    開かれた扉から中へと入り、さらに奥の扉を示された。
    「こちらへ。あなたが探し求めたものです」
    私は自らノブを握り、静かに扉を押し開いた。
    「これ…は…」
    窓を大きくとった部屋は、密度の濃い空気が発光しているよう。
    蒼く淡く、そこにあの方がいた。

    オスカル…嬢…?

    「まさか、こんなことが」
    会いたさがつのり、私は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
    小さな部屋の中央に置かれたデイ・ベッド。
    おっとりと微睡むがごときたたずまいで、あの方がいらっしゃる。

    懐かしく麗しい、追憶のままのあなたが。

    「グランディエ、これはどういう…」
    私はあからさまに動揺していた。
    この私が人前でうろたえるさまを見せるなど、幼少より振り返っても覚えのないこと。しかもこんな、平民の前で。
    「死線を彷徨う俺の視たもの。そして声」
    それは、グランディエの願いを叶えてはくれなかったという。人の生き死には変えられないのだと。
    「しかし、懸命に祈り、あるかなきかの命を差し出して懇願する俺に、声は応えてくれました」
    このピレネーの麓、マッサビエルの洞窟奥に秘された湧き水にあの方の骸を浸せば、命こそ還りはしないが、傷ついた身は癒えようと。
    「元の美しい姿を取り戻したあいつを、今度こそ手厚く葬ってやればいいという声の導きのままに、俺はもの言わぬ骸となったオスカルを連れてパリを離れたのです」
    幸いだったのは、13日の出動に際し、あの方にジャルジェ家には戻らぬ覚悟があり、それなりの支度が出来ていたこと。それを旅支度と変え、グランディエは混乱の渦中ながらの無稽を重ね、自らも瀕死の身で此処まで辿り着き…
    「あとはあなたが今、ご覧になっている通りです。少佐」
    「そんな、馬鹿なことが」
    にわかには信じられぬ心地のまま、私はデイ・ベッドに近づいた。
    おとぎ話の姫君のように眠るあの方。
    私は頬へと指を伸ばしたが、自分の腕に力が入っているのかいないのか、感覚までもが歪んでいる。
    しかし、その感触だけは鋭敏に伝わった。
    「なんと冷たい」
    私はその冷たさに膝をついた。
    『バスティーユが白旗を掲げました!』
    転げるように飛び込んできた将校の顔色。
    息を飲んだ王后陛下。
    『バスティーユが陥落…?なぜそのようなことに!』
    『恐れながら陛下。市民側の司令官は、衛兵隊を率いて謀反を図ったジャルジェ准将であったと。その指揮があまりに的確であったゆえと聞き及んでおります』
    『どうしてオスカルが?わたくしたちには確かに、友情があったと思えたのに!!』
    激しく取り乱す王后陛下。
    しかし。
    『されども陛下、ご安心くださいませ。あの謀反人はバスティーユ陥落の際、既に粛正済みにございますから』
    『そんな!』
    絶句し泣き伏した王后陛下と、おろおろするだけの国王陛下。混乱を極めているらしき王宮の気配。
    それらを、私は黙って眺めていた。陶器で作った仮面のごとく、近衛連隊長の顔のままで。
    そして、今日までその仮面を外せぬまま。
    けれど。
    指先に触れたあの方の頬は芯から冷たく、しかし、あの舞踏会の宵と同じに柔らかかった。

    「オスカル嬢!」

    私はあの方を引き止めなかった。
    こうなる予感をじゅうぶんに感じていながら、なにがしかの理由を引き合いに出し、ついに最後までお引き止めしなかった。
    『ただひとつの愛の証です。身を引きましょう』
    それは真実の想いだったのか。
    いや、違う!
    私は怖かっただけだ。
    平民と争って、負けることが。
    私の浅はかなプライド。
    本当に誇るのであれば、どれほどに見苦しくても足掻いてみればよかったのだ。ただの男として、このしがない従僕と同じ泥の中で。
    私は汚れるのが怖かった。たかが平民ごときと本気で争い、敗北し、あの方を奪われることに耐え難かっただけ。
    そして、私よりもこの従僕を選んだあの方を、心の奥底では憎んでいたのだ。
    容姿、身分、財力。何においても秀でていると思われる私より、グランディエに惹かれ、とまどいつつも愛し始めていたあの方を。

    「だから私はあなたを止めなかった」

    あの方が、冷たい頬で眠っている。
    それはすべて、私のつまらぬ虚栄心のため。
    私に本当の愛があったのなら、あの方をお止めし、何等かの術を以てグランディエと結びつけることもまた、出来ただろう。そんな策など、今ならいくらでも思いつける。
    『気難しそうにしかめっつらしてるけど、実はてんで青いんだもの』
    あの宿屋の女にすら見抜けた私自身の本質を、なぜ私こそが気づけなかったのか。
    こんなにもあの頃のままで、それなのにもう、この美しい器の中にあの方はいない。
    それはすべて、私という男の未熟さの果て。今さら気づいたとて、決して取り還すことの叶わぬ!

    「すべては… 私という…男、の」

    滑り落ちる涙。
    それはあの方の頬の冷たさと相まって、余計に熱く感じられる。
    私はその涙を止める気もなく、嗚咽を隠す気もなかった。
    恐らくグランディエは、私の卑小な心の在りようを、とっくに見抜いていただろうから。

    「冷たい、でしょう?」
    少し離れて見ていたグランディエは、そうつぶやき、デイ・ベッドに近づいた。
    「俺がいくらあたためても、少しもあたたまらない。こんなに出動前夜と変わらないのに」
    その深い眼差し。まさか。
    「グランディエ?」
    「ええ、見えています」
    やはり、か!
    「洞窟の泉はオスカルの無惨な傷を跡形もなく癒やし、俺の負った傷をも癒やしてくれました。そして、この目も」
    グランディエはそう言うと、額髪をさらりとかきあげた。
    もうずっと昔、「黒い騎士事件」以来に見る双眸。深淵をのぞき見て、少しばかりの畏怖を覚えるような、艶めいた射干玉(ぬばたま)色の。
    「けれど、この目は俺の宿業のようなものなのでしょう。あるいは俺とオスカルを繋ぐ絆の証。完全に治ることはありませんでした」
    この小さな山荘の、あの方の側でだけ、見えるようになるのだとグランディエは微笑った。
    それだけで、望外の喜びだと。
    「空になったこの器に、泉の力が満ちているのかもしれません」
    「そう、かもしれん」
    あの方の頬に触れたままで私が頷くと、グランディエは燭台に灯を点し、手渡してきた。
    「こうするとほら、灯りが映えて顔色に赤味が射すでしょう?」
    ますますとあの頃に近づくあの方の姿に、私は魅入った。
    「しばし、お2人で。俺は隣の部屋にいますから」
    「いや、」
    あの方のすべては、グランディエのものなのだ。最初から。
    私が割りこむ余地もなく。
    「気遣いは無用だ」
    それでもグランディエは、静かに部屋を出て行った。
    「あなたにも、2人きりで話したいことがおありでしょう?少佐」

    私はあの方の眠る場所に花を手向けたかった。
    ただそれだけだと思っていた。
    死に顔を見ることもなく逝き別れた、私の唯一のひと。

    あなたは風の精のように、逝ってしまわれた。

    けれどようやく此処まで辿りつき、私が対面したものは、醜悪な己自身だった。
    それこそがあの方を、このような運命に押しやった。
    それを、詫びなければ。
    無意識に封印し、あえて気づこうとしなかったこの姑息な気持ちを、やはりグランディエには見抜かれているのだ。
    そしてこんな私でも、許されるのならもう1度だけ、口に出したい言葉がある。

    「オスカル嬢、私は…」


    明け方の月に響く靴音。
    私はもと来た道を、グランディエと歩いていた。送らずともよいというのに、ついてきたのだ。
    どうやらまだ、話し足りないことがあるらしい。
    私より少し退がり気味に脇へ付くのは、従僕の頃の癖なのだろう。
    「実は、少佐」
    「なんだ?」
    「少佐は、また日中にでも出直していらっしゃるとおっしゃいましたが」
    「そうだが、何か?」
    「恐らくそれは、出来ません」
    「あ …ああ、そうだな。もちろん迷惑であれば、私も無理には」
    なにしろ深夜の急な邂逅で、ただ無遠慮に乗りこんでしまった私は、それこそ花すら手元にない。
    少し大きな街まで戻り、眠るあの方と、それを護り続ける従僕… いや、その恋人に何かしら見繕おうと思い、まだ明けやらぬ山荘を後にしたのだが。
    「いいえ、そういうことではありません。ただ、俺に残された時間が、もうあまりないということです」
    「この上なにを」
    立ち止まった私を追い抜いて、グランディエは橋を渡り、中ほどで振り返った。本当に久しぶりに、この橋の上で再会したときのように。
    「この地に来て、俺は1度だけ、また声を聞きました。そして朧気な姿も。けれど、アケロはあまりにも霞み揺らめいていて、今でもなんなのか判りません」
    だから自分では、それを“あ れ(アケロ)”と呼んでいるのだと、グランディエは苦笑した。
    「アケロとの約束では、元の姿を取り戻したオスカルを、俺はすぐにも埋葬しなければなりませんでした。この世ならざるものを、私欲だけで留めることはならぬと。それは俺にも当然だと思えました。そして今度こそ、暴かれることのない美しくて静かなところへあいつを弔い、墓を守って暮らし、いずれは俺もそこへ」
    「けれど、そうはしなかった」
    否、出来なかった。
    「はい。久しぶりに両の目ではっきりと見ることの出来たオスカルは、記憶の中に重ね合わせてきたオスカルよりも、さらに美しかった。それが器に過ぎなくても、俺にはもう、とても土に還すことなど出来ませんでした」
    …ああ。
    「きっと私でもそうだったろう」
    グランディエは困り顔で頷き、それから川へと顔を向けて、欄干に手をついた。
    「アケロは激怒していました。俺の懇願を憐れに思い、願いを聞いたのに、と。そして罰をくだされました」
    「罰…とはいかなる?」
    「もしオスカルの姿を人に見られることがあれば、あの夏アケロに差し出した俺の魂を、すぐにも召し上げようと」
    「!」
    ならばなぜ、この男は私をあの部屋へと導いた?黙ってやり過ごすことも出来たであろうに。
    「俺には判っていました。いつかあなたの来ることが。だって、少佐。あなたも真実オスカルを愛した人だから。あいつの眠る場所を探さずにはいられない。実際そうだったでしょう?」
    「…そうだ。その通りだ」
    きっと行方を追い続け、いつかは必ず辿りついていた。
    それが今だっただけのこと。
    「そしてね、少佐。召し上げられた俺の魂は、100年間、煉獄の炎に灼かれるのだそうです。アケロの慈悲を謀った贖罪に。それは死ぬより辛い責め苦だそうです」
    「そんなことが… いや!きっとそれは疲れきった心の見せた妄想だ。そうに決まっている!」
    しかし、私はあのオスカル嬢のお姿を見ているのだ。
    ああ!
    私はもう、頭がおかしくなりそうだった。
    それとも私はとっくにおかしいのだろうか?あの方を失った夏から。
    「最後の選択を迫るアケロに、俺の答えはNonでした。例え空の器だとしても、あいつを見続けていたいと。そしてそれ以降、アケロは現れていません」
    「どうしてだ、グランディエ。なぜ」
    「煉獄の炎に灼かれながら、俺が想うのはきっと、オスカルのことだけ。業火の苦しみを、あいつへの想いだけをよすがに100年…」
    グランディエは背を向けて橋の欄干に手をついたまま、肩を震わせクックッと笑った。
    「人が召されて天へと昇り、もし新たな人生を与えられるとしたら。何もかもを忘れ、新しい名、新しい身分、新しい恋に出会って愛しあう?俺にはそんなもの要らない。あいつへの想いを抱いて100年、業の炎に灼かれる方がよほど…… 幸せです」
    「グランディエ、貴様」
    狂っている!
    「いいえ、少佐。もうすぐ陽が昇る。そうすれば俺の体は一瞬で塵となり、これが妄想や狂言じゃないことがあなたにも判るはず。ほら少佐、感じるでしょう?朝の訪れを。満ちる光が。ああ!」
    触手を伸ばす陽光。
    それは蜂蜜のようにねっとりと、グランディエの体を這いあがっていった。


    “下・Bitter end”
    “下・Lovely end” につづく
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