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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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    ~*~*~*~*~*~

    私が執務室に戻ったのは、もう真夜中近かった。
    今日は丸1日、王后陛下の私的なお遊びの警護に当たっていた。
    やっと部屋に帰ってきたかと思えば、机の上には、朝にはなかった書類が並んでいる。
    「忙殺とはこのことですね」
    その1枚を取り上げ、目を走らせていると、扉がノックされた。
    「ヴィクトールさま」
    入って来たのは子飼いの従卒だった。
    武官としての才覚はないが、素直で血統正しく見目がよい。従卒として置いておくには、邪魔にならなくてちょうどいい男。
    「どうかしたか?」
    「些末なことかもしれませんが」
    「かまわないよ。言ってごらん?」
    顔も向けずに、目線だけでねめつけるように言うと、従卒はうっすらと頬を染めた。
    この男は、私にこのように見られるのが好きなのだ。
    「今日、勤務中にジャルジェ家から早馬が」
    「将軍のところへ?」
    「いえ、衛兵隊のジャルジェ准将のもとへです」
    あの方のところに早馬が?
    「お屋敷でどなたか倒れられた由」
    「こちらへは?」
    「はい?」
    「ジャルジェ将軍には使いが来なかったかと聞いている」
    私は頭の回転が鈍い者を好まない。
    従卒は私の冷ややかな声を聞いて、恐縮した様子をみせた。
    「いえ、こちらに直接来た知らせはございませんでした。
    衛兵隊での件も、ジャルジェ家から早馬があったと知った者が、気を利かせてこちらにも知らせてくれて判ったことです」
    「当然、将軍のお耳にも入っておろうな?」
    「おそらく」
    「それで将軍は?」
    「少々の残業をなさり、普段通りに勤務を終えらたようです」
    「そう」
    ジャルジェ家からの早馬。
    倒れたとする人物が夫人であれば、知らせはこちらへも来るはず。将軍も急ぎお屋敷へと戻られるだろう。
    しかし将軍はそのことを知りながら、通常の勤務をされた。
    …倒れたのは誰だ?
    あの方につながる人物。
    そして、あの方はどうしているだろう。
    気丈な方だが、しかし。
    「ご苦労だった。退がってよい」
    「あの、ヴィクトールさま。衛兵隊へ出向かれるのですか?」
    凡庸な男だというのに、こんなときだけ妙にカンがいい。
    「恐れながら、ジャルジェ准将はもう、おいでにはならないかと思いますが」
    「おまえが気にすることではない」
    私がぴしゃりと言うと、従卒は表情を曇らせた。その瞳に微かな嫉妬をにじませて。
    …おまえごときが、あの方に嫉妬?
    確かにおまえは見目麗しく、素直で可愛いけれどね。
    あの方に比ぶれば、私にとってこの男など、ものの数にも入らぬ存在。
    私は執務室の奥にある仮眠用の私室に入ると、真紅の軍服を脱ぎ、私服を手に取った。
    もし、まだあの方が兵営にいらっしゃるなら、お見舞いがてらお食事にでもお誘いできればよいのだが。
    私は手早く着替えると、従卒など置き去りのまま、将校用の馬車で衛兵隊へと向かった。

    ~*~*~*~*~*~

    「おばあちゃん?」
    俺は静かに呼びかけてみる。
    寝台の上で半身を起こし、クッションに寄りかかった姿勢でワイングラスを手にしている祖母。
    先ほどまではペラペラと勢いよくしゃべり続けていたけれど。
    閉じられたまぶた。
    穏やかな呼吸。
    奥様からいただいたお見舞いのワインを飲みながら、眠ってしまったようだ。
    手の中で傾き、今にもこぼれそうなグラスをそっと取り上げて、俺は祖母の部屋を出た。
    階段を下り、厨房へ向かう。
    扉を開けると、明日の仕込みをしている料理人がいた。
    「おう、アンドレ。マロンちゃんの具合はどうよ」
    祖母と年の近い料理人は、人懐っこく笑った。
    慈愛に満ちたその顔は、父親を早くに亡くした俺にとって、いつでも限りなく慕わしい。
    「眠ったみたいだよ」
    「そうか。一時はヒヤッとしたけど、大ごとにならなくて良かったな」
    「メルシ。一応頭を打ってるし、2~3日は安静にして様子をみるようラソンヌ先生は言ってたけど…」
    「まぁ、おとなしくはしてないだろうな」
    俺は苦笑しながらグラスを洗い、きっちりと拭き上げると棚へ戻した。
    料理人におやすみを告げ、今度は談話室に向かってみる。
    時刻はすでに真夜中近いが、何人かの使用人仲間が軽く飲みながら談笑していた。
    「あら、アンドレ。今日は大変だったわね。マロンさんはどう?」
    「今、やっと眠ったとこ。昼間たっぷり寝ただろ?なかなか眠ってくれなくてさ。ついさっきまで、しゃべりまくってたよ」
    「昼間たっぷり寝たって、あんたソレ、気絶してたんじゃないのよ」
    「そう。絵の下敷きになって」
    俺はつい、くすくすと笑った。
    「あたし見てたけど、すごかったわよ。マロンさんのヘッドスライディング。とてもご老体とは思えないほど華麗だったわ」
    おばあちゃんは今日、歴代当主の肖像画の煤払いをしていたらしい。
    天井近くに掲げられて並ぶ、バカでかい肖像画。
    ふと気がつくと、誰よりも大切な次期当主の額が斜めになっている。
    下働きの男どもを呼び、梯子をかけて直させているうち… 絵が落下した。
    『お嬢さまぁぁぁ!!』
    おばあちゃんの絶叫は、屋敷中に響き渡ったという。
    「オスカルも呆れてたよ。『絵など放っておけばよいものを』って」
    身を挺して絵を救ったおばあちゃんは脳震とうを起こした。
    もういい年齢。
    意識を無くした老人に、皆、ゾッとした。最悪の事態を想像した執事は、急ぎ俺を呼び戻そうと衛兵隊に使いを送る。
    しかし、焦った使者は、俺ではなくオスカルに取り次ぎを頼んでしまった。
    ちょうど休憩時間に入るところ。
    「ジャルジェ准将!至急、司令官室にお戻りを」
    声高な伝令に、あいつが青ざめる。
    もっともそれは、オスカルを長年見つめ続け、愛してきた俺にしか気づけないぐらい微妙なものだったけど。
    俺は素早くあいつの傍らにつくと、目立たぬように背中に手を当ててやる。
    それだけのことで、あいつがどれほど安心するか、俺にはよく判っていた。
    伝令からの用件を簡単に聞き、司令官室に向かう。
    エントランスから長い廊下を過ぎ、人の途切れた階段の陰まで来たとき、俺たちは自然と足を止めた。
    一瞬見つめ合い、そしてあいつは俺の肩へ、猫のように額をすりつけてきた。
    ――抱きしめたい。
    強い衝動に駆られた。
    でも俺はその衝動を、あいつを落ちつかせるように、ぽんぽんと背中を叩いてやるに留めたのだった。
    …オスカル…
    「あいつ、まだ帰ってないんだな」
    「ええ。今日は遅くなるとご連絡があったわ」
    「そうなの?」
    ばあや心配さに、すぐにでも帰ってくると思っていたのに。
    俺はにわかに心配になってきた。
    急な残業?だったらいいけど、まさかトラブル!?
    「悪い、おばあちゃんを頼む。酔っぱらって寝ちゃったから起きないと思うけど」
    「え!?なに?どうしたの、アンドレ?」
    「オスカル!迎えに行ってくる」
    言い終わらないうちに、俺は談話室をあとにした。
    「出た、アンドレのシスコン」
    「ほんと、病気よね」
    そんな声を背後に聞きながら。

    ~*~*~*~*~*~

    月あかりの中、ひっそりと進む馬車。
    雲は早く、淡い影が落ちる。
    私とてもちろん、こんな時間にあの方が残っておいでだとは思わない。ご自身につながる方が倒れられたのなら、なおのこと。
    とっくにお屋敷に戻られているだろう。
    私はただ、早馬からの第一報を受けたときのあの方のご様子を知りたいだけだ。
    副官として仕えていた頃であれば、陰ながらにもお守りすることもできた。しかし、同じ陸軍とはいえ、近衛隊と衛兵隊の溝は深い。あの方が近衛を出られてから、私がお力になれる機会は皆無に等しかった。
    もっとも、私が心を砕いてきたことなど、愛する姫君は少しもお気づきではないのだが…
    私はあなたのために、けっこうな無茶を重ねてきたのですよ、オスカル孃?
    「ふ…っ」
    ため息とともに、馬車がことりと止まった。
    衛兵隊。何度来てもなじまない粗野なところだ。
    このような環境にあの方を置いておくなど、まったくもって耐えがたい。私としては、1日でも早く近衛にお戻りいただきたいところだ。
    車寄せから見上げた兵営にはところどころ灯りがあるが、司令官室付近は暗く沈んで見える。
    やはりすでにお帰りなのであろう。
    しかし、それでも私は足早にエントランスへと向かっていた。
    私としたことが、どうしてあの方のこととなると、こうも見境いがつかなくなるのか。
    『ジェローデル家のヴィクトールさま』
    血筋にも、地位にも容姿にも恵まれ、未だ社交界では婿がねにとの申し出が引きも切らぬ私であるのに、このような振る舞い。
    人が知れば、なんと笑おう。
    何よりも、自分自身が嗤えてくる。
    薄暗い廊下を進むと、数人の声が聞こえてきた。
    とりあえずそちらへ向かってみる。
    角を曲がり、続く廊下の先に灯りの点った… 娯楽室?
    声はそこから聞こえてくるのだが、ほほう、この声は。

    ~*~*~*~*~*~

    「定時過ぎにはもう帰ったって?」
    「ああ。夜勤の俺らが出てきたときは、隊長、まだ司令官室にいたよ。引き継ぎして、なんだかんだ…1時間ぐらいはいたんじゃねぇ?多分、そのあと帰ったと思うけど」
    娯楽室でサボってる奴らの返答は意外だった。
    俺はすっかり、オスカルは残業してると思いこんでいたから。
    「でもあいつ、まだお屋敷に戻ってないんだ。『遅くなる』って連絡はあったらしいんだけど、いくらなんでも遅過ぎるだろ?俺が早退したあと、なんかトラブルでもあったんじゃないのか?」
    「トラブル?ないよな」
    「ないない。あったとしても、アランが午後の訓練をばっくれて、ユラン伍長に絞られてたぐらい。いつものことだろ」
    オスカルは勤務中、少しだけおばあちゃんの様子を見に帰って来た。アランに執務を代わってもらったと言ってたけど。
    アランのやつ、訓練をばっくれたのか。
    「ああ、アランと言えば。隊長、引き継ぎのあと娯楽室に来てたよ。なんかアランと話しこんでた。礼がどうのって」
    あいつ!
    俺はいっぺんに話が見えた。
    オスカルは多分、今日の執務を代わってもらった礼に、アランを誘ってる!
    あのバカ。
    普段から、アランとは距離を置けと言っているのに!!
    俺は談話室を出ると、暗い廊下をエントランスへと向かった。

    ~*~*~*~*~*~

    「馬車がお入り用でしたら、こちらへどうぞ」
    私がそう声をかけると、アンドレ・グランディエはギョッとしたように振り返った。
    そこを一気に拘束し、有無を言わさず馬車へと連れこむ。
    「行ってくれ」
    私の性分を知る御者は、四の五の言わず、馬車を出した。
    充分スピードが乗ったところで、私は向かい側の座席に、隻眼の従僕を放り出す。
    「ジェローデル大尉!?」
    「今は少佐だよ」
    「そういうことではなくて!なぜあなたがここに?いったいどういうつもりです!?」
    ふふん。
    平素は小憎らしいほど落ちつき払ったこの男が慌てている。なるほど、このような顔もできるのだな。
    これはなかなか愉快だ。
    「ジャルジェ家から早馬があったと小耳にはさみましてね。どなたかが倒れられたと」
    「だからなんだと言うのです?」
    「まぁまぁ、そう好戦的にならずに。私はただあの方に、お見舞いを申し上げたいだけですよ」
    私がそう言うと、従僕は目を伏せ、馬鹿丁寧に言った。
    「それはそれは。こんな時間にもかかわらず、お気遣い傷み入ります。主人に代わりまして、深く御礼申し上げます。ジェローデル少佐殿」
    言葉使いは穏やかなものの、その口調のはしばしには皮肉なニュアンスが込められている。
    「しかしながら少佐。残念ですが、主人はすでに勤務を終え…」
    「もういいよ、グランディエ」
    私は滔々と語ろうとする従僕を押しとどめた。
    慇懃無礼な口上など、聞くだけ無駄だ。
    「先ほどの、娯楽室でのお話を聞かせていただきました。
    思うに君は、今、あの方がどちらにおいでか予想がついているのでしょう?」
    あの方は今、アランとかいう男と一緒にいるらしい。
    礼…とは、今日の早馬の件と関係があるのだろうか。
    いや、ないわけがあるまい。
    「私の記憶違いでなければ、確かアランとかいう男は、あの方に対して大変愚劣な行為を仕掛けた首謀者と聞いているのだが」
    「今はよく従っていて、オスカルもアランの能力は買っています」
    私に皮肉を言うことで、かなり落ちつきを取り戻した従僕は憮然と言う。
    が。
    甘いな。
    今はどうあれ、そういった要素のある男とあの方が2人きりでいること自体が、非常に由々しき問題だというのに。
    あの方はどうにもすきが多くて困る。男の目から見たご自分が、どれほど魅力的かをまるでお判りでない。
    そして、ご自分がどれほどかよわい身であるか、まったく自覚していらっしゃらない。
    男が本気になれば、あなたを思うままにするなど、造作もないというのに。
    「君は嘘が下手だね」
    「嘘なんて!」
    「ならば、なぜそれほどに心配する?」
    従僕はぐっと押し黙った。アランという男に警戒心を抱いている証拠だろう。
    「さぁ、グランディエ。あの方のところへ案内してくれませんか?ここで私と小競り合いしているうちに、あの方の身に間違いでもあったらどうします?」
    「少佐!」
    「それとも君をこのままジャルジェ家までお送りしても…
    私はよいのですがね」

    ~*~*~*~*~*~

    俺が御者に行き先を告げると、少佐は満足そうに座席に身を沈めた。
    なぜこんなことになったんだろう。
    何にしても、少佐が俺から離れる気がないことだけは判る。
    判るけれど… 俺は少佐を案内する気なんかなかった。
    アランだけでもヤバいのに、この上少佐までなんて、冗談じゃない。
    だいたいアランと少佐が顔を合わせたら、どんなことになるか。貴族を激しく嫌悪するアランと、ド貴族の少佐。考えたくもない。
    オスカルは多分、俺が連れて行ったことのある店のどれかにいる。1番可能性の高いのは、1班のメンバーとも何度か行った居酒屋だけど。それともダンスフロアのある、あの店だろうか。
    馬車が繁華街の入り口で止まる。
    俺は少佐に促され、馬車を降りた。
    いつもは市民で賑やかな通りだけれど、夜更けとあってさすがに人もまばらだった。
    俺はときどきあいつを連れて歩く店並を歩きながら、めまぐるしく考えていた。
    オスカルの居そうな店には行かない。でも、まったく行ったことのない店では少佐にバレる。
    どうする? …どうする!?
    あいつと行ったことはあるけど、今は絶対にあいつがいない店。少佐にいろいろ詮索されても上手く取り繕えそうな…
    そんな都合のいい店あるかよ。
    しかし。
    この切羽詰まった状況に、救いの女神が現れた。
    「あら、アンドレぢゃなぁい?お久しぶり。やっと思い出してくれたのね」
    …ってコレ、女‥神…か?
    でも。
    ええい、乗っとけ!
    俺はマダムに手を引かれるまま、その店に入っていった。
    さもそこが、目的の店だったとでも言うように。

    ~*~*~*~*~*~

    「来てくれて嬉しいわ、アンドレ。私のべべちゃん」
    アンドレ・グランディエは店の主人に抱きつかれ、あまつさえ、頬にくちづけまで受けていた。
    ほう。
    この男にこちらの趣味があったとは。真面目くさったふりをした、つまらない男だと思っていたが。
    「ふふ」
    私が吐息のような笑いを洩らすと、マダムが振り返った。
    「はじめまして、ムッシュウ。ようこそ」
    マダムはローブのすそをついとさばくと、私に向き直り、優雅に一礼した。
    いかにも安っぽい盛り場の、それに似合った安普請な店だというのに、マダムとやらの着ているものは、安物とは言えなかなか趣味が良かった。
    「ほほう。これは」
    私のことを、金に飽かせた鼻持ちならぬド貴族だと揶揄する輩もいるようだが… まったく見くびられたものだ。
    金のある・無しなど時の運。
    趣味の良さばかりは、金では買えない。
    現にベルサイユに集う金持ちどもの、揃いも揃って趣味の悪いこと。金をかけることがお洒落だと思っている。
    その点、このマダムには、なんとも言えぬ趣味の高さがうかがえる。
    私は一目見て、この店とマダムを気に入った。
    そんな私の思惑に気づいたのだろう。
    マダムは、そのセンの者らしい笑みを浮かべた。
    「あなたも‥こちら側の方…ね?」
    「たしなむ程度にね。でも基本、ストレートですよ」
    「どうだか」
    マダムはたおやかに笑ったが、アンドレ・グランディエには意味が判っていないようだった。
    無粋な奴め。
    もっとも、見回してみれば混んだ店のどの客も、嬌声を上げる女やら下卑た男やら、風流とは無縁な奴ばかりだった。
    こやつら、ゲイバーを何だと思っているのであろう。
    私の出入りするそのセンの店は、客だとて、どこまでも耽美なものだが。
    「べべちゃん、今日は素敵なお客さまを連れて来てくれたのね」
    マダムが私たちを奥へと案内する。
    しかし、無粋な従僕はそれを手で制した。
    「ごめん、マダム。今日は客じゃないんだ。人を探してる。あいつ、来てないかな?」

    ~*~*~*~*~*~

    「あいつって… あの金髪のキレイなコ?」
    良かった。マダム、覚えていてくれた。これで少佐をなんとかできる。
    「そう。ここにいるんじゃないかと思って来てみたんだけど」
    俺はしれっと出まかせを言った。
    あいつがアランを連れてゲイバーになんか来るわけがない。俺だって、お屋敷の女の子たちが連れてってとせがむから、オスカルも一緒に数回来たことがあるだけだ。
    「いいえ、べべちゃん。あのコは来てないわ」
    「そうか」
    俺はがっかりしたふうを装って、少佐に言った。
    「申し訳ありません、少佐。てっきりあいつはこの店にいると思っておりまして」
    俺はここで少佐を帰し、本命の店をあたるつもりでいた。
    あいつがいると思われる店は、どれもここから1本それた通りにある。
    「あいにく他には心当たりもありません。ですので、今日のところはもう」
    俺は少佐を押し出すように、店を出ようとした。
    でも。
    「ダメ。帰さないわよ、べべちゃん」
    マダムに袖を引かれた。
    「あ‥の、マダム、また近いうちに来るから!あの金髪と一緒にね。だから」
    俺は反論したけれど、屈強な男のオネーサンたちに両脇を抱えられてしまった。
    「ちょっ、マダム!?」
    今日は男に拉致られる日なのか?
    もちろん俺は全力で抵抗を試みたが、オネーサンたちも女のふりしてさすがに男。両脇から抑えつけられてはまったく歯が立たない。
    俺はズルズルと店の奥に引きずり込まれた。
    え!? 個室の… VIP ROOM? なんで!?
    「あのね、べべちゃん。あなたたち、当店『ベルサイユの薔薇族』の10万人目のお客さまなのよ」
    マダムは婉然と微笑んだ。
    「嬉しいわ、記念すべき10万人目のお客さまがイケメンの2組だなんて!安心なさいな。今日は店のおごりよ」
    「いや、そういうことじゃなくてマダムっ!」
    「まずは記念のスペシャルドリンクをお出しするわね」
    って、話を聞けよ!
    マダムは優雅にVIP ROOMを出て行ってしまった。
    俺はあとを追おうとしたけれど、両側をオネーサンに抑えられ、ソファに座らされた。
    ああ、握った手に指をからめてくるな!髪を撫でるな!!
    なんでこんなことに。
    本日2度目の台詞が浮かぶ。
    「くっくっくっ」
    俺が悪戦苦闘していると、出し抜けに笑い声がした。
    なんとも嬉しそうなその声に顔を向けると、少佐が超くつろいだ様子で、俺を見て笑っている。
    両脇にいる男のオネーサンを、指の先でかまいながら。
    「君は実に傑作だな、アンドレ・グランディエ」

    ~*~*~*~*~*~

    あの方がこの店にいない以上、私がここにいる必要はないのだが、それにしてもゲイとは何故これほどまでに押しが強いのだろうか。
    「諦めろ、グランディエ。逃げることは不可能なようだ」
    「少佐までそんな。あなた、オスカルが心配じゃないんですか!?」
    …心配?
    「私は徒労と思われることはしない。それにね、グランディエ。あの方は馬鹿ではない。
    密室に連れ込まれたのならまだしも、あの方はご自分の意志で、アランとかいう男を誘ったのだろう?それなりに安全な場所を選んでおいでだろうよ」
    「でもあなたは」
    「ああ、確かに『あの方の身に間違いでもあったら』とは言ったがね。一衛兵ごときのつまらない男と噂にでもなれば、あの方の御名に傷がつく。これも立派な間違いだろう?君が何を想像したのかは、私の窺い知れぬこと」
    姑息とも取れる言い分に、従僕は一瞬苛立った様子を見せたが、しかし、諦めがついたのかソファに深く座り直した。
    よしよし。
    私は改めて、しげしげと従僕を眺めまわした。
    あの方が常にそばに置き、片時も離さぬ男。
    ちょうどよい。
    この男には、じっくりと聞いてみたいことがあったのだ。
    「お待たせ、べべちゃん。もう1人の素敵な方も」
    不意に扉が開いて、マダムが顔をのぞかせた。
    「お邪魔していいかしら?それともお取り込み中?」
    ふざけたシナを作り、茶目っ気たっぷりにマダムは聞いてきたが、その瞳は理知的だった。
    …おもしろい。
    このマダム、なんとも私の気に入るところがある。
    「そうだな。若干のお取り込み中だ」
    そう答えると、マダムは扉の隙間からするりと入ってきた。
    「ではお飲み物のご用意だけ。10万人目のお客さまのために、特別にご用意しておいたお酒なの」
    マダムは無色透明な酒が入ったゴブレットを、音もなく私と従僕の前に置いた。
    ふわりと独特な香りが広がる。
    「御用が済んだら、私たちもかまってちょうだいね」
    艶やかに笑い、小ぶりなキャラフをテーブルに据えると、マダムはソファに侍っていた嬢たちを連れて出て行った。
    私はゴブレットを手に取ると、ひとくち飲んでみた。
    ……この酒!

    ~*~*~*~*~*~

    「妙なことになってしまいましたが、とりあえず乾杯といきましょうか」
    少佐は先にひとくち飲んでいるくせに、俺にゴブレットを掲げてきた。
    乾杯?少佐が俺と?
    いかにも気位高く、俺をはっきりと見下している少佐が乾杯を求めてくるなんて本当に意外で、俺は誘われるままにゴブレットを取り上げると、軽く縁を合わせた。
    口に含んだ酒は、香りはまろやかなのに、体を一瞬で熱くさせるような強いもの。
    あいつが喜びそうな酒だ。
    「今、あの方のことを考えたでしょう?」
    「さ‥ぁ」
    「やはり君は嘘が下手ですね」
    少佐は含み笑いをした。
    「何がおかしいんです?」
    「失礼。君がそれだけ四六時中あの方のことを考えているのに、あの方は君の想いにあまりにも無関心なのでね」
    早馬からの一報を聞き、階段の陰で、俺の肩に額をすり寄せて顔を埋めてきたあいつ。
    確かに俺の気持ちを少しでも考えてくれているなら、そんなことはしないだろう。懸命に抑えている俺の心を乱すようなまねは。
    「少佐は何か思い違いをしていらっしゃいます。私がオスカルを気にかけるのは主家の令嬢だからであって、それ以上の気持ちはありません」
    少佐から目をそらし、俺はくいくいと酒を飲んだ。
    していて楽しい話じゃない。
    値踏みするような少佐の視線に、少しずつイライラしてくる。
    イライラして…… しゃべり過ぎる。
    「あいつは幼なじみで、妹みたいなものです。いや、弟か。粗暴でキレやすくて、あいつと一緒にいるたびに、子供の頃には本当に、ろくでもない目にばかり合っていましたよ」
    「それなのに愛してしまったと?」
    「だから妹か弟のように思っていると言ってるでしょう!?」
    こんなにイラつかせて、少佐は俺に何を言わせたいのか。
    俺は目の前にいる男を睨み返す。
    血筋も地位も容姿にも恵まれた、純血種の貴族。
    オスカルに堂々と、愛を告げられる資格を持つ男を。
    「君がいつからあの方を愛し始めたのか、少々気にかかっただけですよ」
    俺がいくらあいつを妹のようなものだと言っても、少佐は信じる気がないようだった。
    「では少佐、あなたはいつからオスカルを愛し始めたんです?」

    ~*~*~*~*~*~

    あの方を妹のように思っていると言い張る男。
    まったく見え透いたことを。
    この従僕があの方を愛していることなど、誰の目にも明らかだというのに。
    「君があの方と幼なじみであるように、私もあの方とは幼い頃からおつきあいがあるのですよ、グランディエ。あの方と君が出会う以前から。
    互いの父親同士に親交があるのでね」
    同じ王党派武官の伯爵家。
    年が近いせいもあり、あの方と私は、なにかと引き合いに出されたものだ。
    『ジャルジェ家のオスカルさまとジェローデル家のヴィクトールさま、どちらが優れておいでかしら』
    「私は少なからず、あの方には負けたくないと、子供っぽいライバル心を抱えていた。実際まだ、子供でしたしね」
    つきあいがあるといっても、父親のお供で年に数度、顔を合わせる程度。
    私が恋に落ちたのは、士官学校に入ってからだった。
    「士官学校時代のあの方は… 先ほど君も言っていたけれど、粗暴でキレやすく、常に荒れまくっていましたよ」
    女性が武官を目指す。
    その偏見、差別、好奇の眼差し。
    あの方でなくとも荒れたくもなるだろう。もめごとは日常茶飯事で、乱闘になることも珍しくはなかった。
    そしてあの方は、学問にしても武術にしても負けるということがなかったので、妬みの入り混じった嫌がらせはとどまらず、あの方が努力すればするほど、立場は辛いものへとなっていった。
    「そんなある日、私はたまたま校舎の裏庭であの方を見かけた。何をなさっていらしたと思います?」
    思い当たることがないらしく、従僕は首を振った。
    「あの方はね、手負いの猫の手当てしをしていたんですよ」
    弱ったところをカラスにでも襲われたのか、その猫は生傷だらけで、ぼろ切れのようだった。
    汚らしく、触る気にもならないような猫。
    あの方は優しく声をかけながら、警戒する猫に少しずつ近づいていった。
    「あの方はハンカチを取り出すとそれを裂き、特に深手な後ろ脚に巻いてやりました」
    そして小汚い猫を抱き上げると、歌うような声で言った。
    『おまえ、うちへ来るか?』
    怒声ばかりあげている平素とは打って変わった、少女そのものの声だった。
    「私はいたく興味をそそられ、あの方のそばへと近寄っていきました。すると、当然なのですが、猫は大変驚いて…
    あの方を蹴りつけて、脱兎のごとく逃げ去ってしまった」
    あの方がひどくがっかりしたご様子だったので、私はとても悪いことをしたような気がして、声がかけられなかった。
    それでも、あの方の寂しげなお顔に立ち去り難く、なんとなく見つめているうちに気がついた。
    あの方の手元に、僅かばかりの血の色が見えることに。
    「あの方はけがをされていた」
    「猫の爪で?」
    「私もそう思ったのですが」
    でもそれは、ひっかかれてできた傷などではなかった。
    「擦過傷だったのですよ」
    猫の傷に巻いてやろうとハンカチを裂いたとき、擦り切れてしまったのだろう。じくじくとした創の表面から血が滲んでいた。
    「私はとっさにあの方の手を取り… 固まってしまいました」
    「?」
    「つかんだ手首が、あまりにも華奢だったもので」
    手首ばかりではない。手のひらも指先も、びっくりするほど頼りなかった。
    もちろんあの方が女性だということは判っていた。けれど、あのようなお育ちな上、なまじ子供の頃から見知っていたので、ことさら女性と意識したことはなく。
    「たかだかハンカチを引き裂く程度のことですら、傷ついてしまう白く柔らかい手。
    そのとき初めて、気づきました」
    「あいつが女だと?」
    「いいえ。あの方の背負う傷に」
    細い指に剣を握り、人一倍粗暴に振る舞うことで、自身の弱さを必死に覆い隠そうとしている不器用な少女。
    ジャルジェ家の嫡子という仮面の下、逃げていった猫に見捨てられたような顔をする、寂しがりやな本当のあの方自身。私はそれに、気づいてしまった。
    「あの日、初めて私はオスカル・フランソワという女性に出会い、恋に落ちたのですよ」
    そして、私だけが知るあの歌うような声で、私の名を呼んで欲しいと。

    ~*~*~*~*~*~

    からのゴブレットに酒が足されていく。
    少佐の語りを聞くうちに、いつの間にか飲み干していたらしい。
    俺の知らないあいつの顔。それがあるのは仕方ない。
    でも。
    「君もなかなかいける口ですね」
    そう言いながら、少佐はキャラフを手に酒を注ぐ。
    この貴族然とした男が、平民の俺に酒を注ぐとは。
    「なかなか厳しい表情をしているね、グランディエ。
    私がいつからあの方を愛し始めたのか、聞きたがったのは君ですよ。それとも君の知らないあの方のお話は、お気に召しませんでしたか?」
    少佐はふいに、俺との間合いを詰めてきた。
    「そんな話はいくらでもありますよ。私は長いこと、あの方の副官を務めてきましたからね。例えば…」
    少佐の指先。
    軍人だというのによく手入れされた爪には光沢があり、少佐はその指先で、俺の頬を撫であげた。
    なんだか妖しげなその肌触りに、俺はぞくりとする。
    微かに引っかかる爪の感覚が熱かった。
    「この顔、この瞳。君を譲り受けたいという貴婦人方からの申し出が数多あったことを、君は知っていますか?」
    俺を、譲り受けたい…?
    「どうやら何も知らないようですね。
    しかし、君があの方の愛人だという、まことしやかな噂が横行していることぐらいは、知っているでしょう?」
    その噂は、俺たちが宮廷に上がり始めるとすぐに流れ出した。あいつはどこへ行くにも俺を帯同したし、宮殿内に与えられたあいつの私室に俺が泊まることもあったから、それでそんな噂が立ったのだと思っていたけれど。
    違うのか?
    「まぁ、最初は面白半分の噂話だったのですけれどね。
    でもやがて君は宮廷に集う貴婦人たちの間で、隠れた人気を博していった。
    直接アプローチしてくるご婦人もいたでしょう?」
    あいつが近衛にいて、まだポリニャック夫人が台頭してくる前は、確かに俺にもそういうことがよくあった。
    こっそりと届けられる花やプレゼント。
    そして寝所への誘い。
    俺は丁重かつ速やかにお断りしていた。何よりも、潔癖過ぎるほどのあいつに知られたくなかったから。
    「けれど、本当に御身分のあるご婦人では、自ら平民にアプローチなどできるわけもない。お立場がありますからね。
    そこで貴婦人方は、あの方に正式に君の身請けを申し出たのですよ。相応の代価を払う代わりに、君を譲って欲しいとね」
    「でもそれでは… 断ればあいつの立場が」
    ジャルジェ家は大貴族だけれど、伯爵家でしかない。身分で言えば、上には上がいくらでもあり、そういった方からの申し出を断れば、どんな不興を買うか判らない。
    そんな話があったことなど、俺はまったく知らなかった。
    「ええ。断ればあの方の出世に響くことにもなりましょうね。でもあの方は、降るように来るお申し出を、ばさばさと切り捨てておいででしたよ。
    そのことで、身分ある貴婦人たちの間からは『生意気な小娘が』と、結構なご不興を買っていらっしゃいましたが」
    俺がいることで、少しでもオスカルを支えてやれたら。
    そう思ってきたけれど、俺の存在があいつの足枷になっていたとは!
    俺はゴブレットをつかむと、苛立ち紛れに一息に飲んだ。
    「でも、このことであの方と君が愛人関係にあるという噂は、一気に信憑性を増した。君を手離そうとしないあの方のご様子に、『氷の花と謳われるオスカル・フランソワを、そこまでとりこにさせるとは』と、君の男としてのステイタスは、ずいぶん上がったのですからね」
    「冗談じゃない」
    あの頃のあいつがどれほど一生懸命だったか。フェルゼン伯への想いをひた隠しにして。
    それを…
    「俺のせいであいつの名誉が汚されるぐらいなら、有閑マダムの玩具になった方がマシだった。それにそうなっていれば、あいつは僅かばかりにでも、有力貴族を見方につけられたかもしれないのに」

    ~*~*~*~*~*~

    私の話に、従僕は思いのほかショックを受けているようだった。まさか自分の預かり知らぬところで、自身があの方の妨げになっていたとは思いもよらなかったのだろう。
    私はその気持ちに追い討ちをかけてやった。
    「私もそう思いますね。それにあの方だって、ちらりとはそんなことを思ったかもしれない」
    苦渋を隠せぬ瞳を向ける男に、私は再び酒を注いでやりながら、さらに間合いを詰めた。
    「権謀術数渦巻くベルサイユでのし上がるには、どうすればよいか知っていますか?」
    私は従僕の肩にひじをかけて、顔をのぞき込む。
    「え?あ‥の、少佐!?」
    瞳をじっと近づけられて、どぎまぎと慌てる従僕の手にゴブレットを握らせ、私は耳もとで囁いた。
    「金、脅し、ときには謀殺。さまざまなやり方がありますけれど、1番効果的なのはね。
    寝所でおねだりすることなのですよ」
    「少っ…少佐、あなた何を言ってるんです?」
    「君に、欲求を持て余した有力貴族のマダムたちをたらしこむ器量があったのなら、少しはあの方の助けにもなったでしょうにねぇ。
    …役立たずな。
    私など『女の連隊長には従えぬ』と、あの方への反感を露わにする将校どもを黙らせるのに、どれだけ多忙な夜を過ごしたことか」
    「将校どもって、多忙な夜って、あなたまさか」
    従僕は、控え目だが端正なその顔に、あからさまな驚愕の色を浮かべた。
    「何もそう驚かずとも。男ばかりの軍隊勤め。珍しいことではありますまい?そうでなくとも、耽美は近衛の代名詞。昔から名だたる武将の傍らには、見目麗しき美少年がいたではありませんか」
    私が薄ら笑いながら、さらに近づいて漆黒の髪に指を入れると、従僕は手にした酒をグッと飲み干し、ゴブレットを置くふりをして私と距離を取ろうとした。
    私には、逃がしてやる気などないというのに。
    「悪い冗談はやめてください」
    「悪い冗談?それは私がこうして君に触れていることかな?それとも、あの方のために、私が反対勢力の将校どもを色仕掛けで抱き込んだことかね?
    抱き込んだ… ふふ。まさに抱き込んだわけだが」
    私が大サービスでボケているというのに、従僕はクスリとも笑わなかった。
    なんと失礼な奴だろう。
    「どっ、どちらにも決まっているじゃないですかっっ」
    常から取り澄まし、物静かな従僕づらしたこの男が、思うさま慌てている。
    それが私にはおかしくてならなかった。
    ならばついでにもう少し慌てさせてやろう。
    「貴族というのはね、享楽に関しては貪欲なのですよ。
    快楽を貪るのに、男も女もないとは思いませんか?」
    私は従僕の太ももに手を置くと、微妙な加減で撫でまわす。
    「ちょっ… 少佐、本当‥にっ」
    とまどいと苛立ちの混ざった声をあげる男の肩に、私はよりそってやった。
    その途端にはじける違和感。
    この香りは…
    「そういうことでしたか」
    発せられた言葉に、従僕はきょとんとした。
    けれど私はかまわず続ける。
    「私もあの頃、あの方と君が愛人関係にあるという噂を信じてはいませんでした」
    あの方は、近衛の職務を悠々とこなしておられた。見た目には。
    でも、副官として常にお側近く仕え、あの方を密かに愛してきた私には、あの方が偏見や反感に耐え、秘めた恋にそっと涙しているのを知っていた。
    でも、今は?
    「でも…今は?グランディエ」
    「どういう意味です?」
    「香りがするのですよ、君の肩先から。あの方の香りがね」
    「…っ!」
    それは、もう消えたに近い、本当に…本当に微かな残り香だった。おそらく誰も気づくまい。
    あさましくもあの方に捕らわれた私でなければ。
    あえかに存在を主張する朧な香り。
    従僕はまるで、心を読まれまいとでもするように、表情を固くした。
    「かまわないよ。君からあの方の香りがしようとも。
    ただ、あの方の軌跡を、私にも分けていただければ」

    ~*~*~*~*~*~

    俺は少佐の言う意味が判らなかった。
    あいつの軌跡…?
    でも少佐が俺のシャツの釦をするすると外し始めて理解した。
    「少佐!あなたは誤解している!俺とオスカルは…っ…少‥佐」
    男にしては細くてしなやかな指がシャツの中に入り込み、素肌を泳ぎまわる。
    指先の冷たさにぞくりとし、いつになく感覚が鋭どかった。
    「やめてください。おふざけ‥が‥過ぎる」
    「これがあの方の指だったら、君はそんなことを言うのかな?」
    「だ‥から俺とあいつは何もないと…言っている‥でしょう」
    「あの方の香りをまとわせて、どの口がそのようなことを言うのだろう。いっそふさいでしまいましょうか」
    嘘…だろう!?
    優雅に首を傾け近づいてくる少佐に、俺は本気で身の危険を感じた。

    ~*~*~*~*~*~

    従僕の怯えた瞳。
    本当におまえは面白いよ、アンドレ・グランディエ。
    私はくちびるをギリギリまで近づけて、思わせぶりにいたぶると、一転耳もとで優しく言った。
    「私の指は気持ちいいですか?」
    「いいかげんにしろ」
    ほう。反抗的な…。
    こんなときですら、相変わらずいい目をする。
    「ときにグランディエ。君は今、体が熱くて仕方ないだろう?そしてとても敏感になっている」
    「そんなこと」
    「気がつきませんでしたか?10万人目のお客さまのためのスペシャルドリンクには、そのような効能があるようですよ」
    私はどうにもこらえられなくなり、今やすっかり蒼ざめた従僕を放り出してクツクツと笑った。
    「殿方たち、そろそろお邪魔してもよろしいかしら」
    私が笑い転げていると、扉が開いてマダムが顔を出した。
    「ちっとも呼んでくださらないんだもの、来ちゃったわ。
    …って、あら、べべちゃん。素敵なカッコして。もしかして、お取り込みの真っ最中だったかしら?」
    強姦されかけた女のように、呼吸を乱れさせて襟元を掻き合わせるグランディエを見たマダムは、世にも嬉しそうな声をあげた。
    「彼は本日がデビューなんだ。サービスしてやってくれ」
    私が笑いを噛み殺しながら言うと、マダムはにっこりと頷いた。
    「もちろんよ、10万人目の特別なお客さまですもの」
    その言葉が合図のように、嬢たちが次々と現れ、隻眼の従僕に侍り始めた。
    私は席を立つとソファの背から回りこみ、黒髪のかかる首筋あたりでそっと囁きかけた。
    「そう怖がらずともよいのですよ。オトコのツボはオトコが1番…ね。今宵は今までに知らなかった悦びを知ることになろうな、グランディエ。
    私を謀かろうとした罰です。君は最初から、私をあの方のところへ案内する気など、なかったのだから」
    「貴様っ」
    「安心しろ。このことは、あの方には秘密にしておいてやる」
    言い捨てる私に、従僕はつかみかかろうとした。
    が、四方八方から伸びてくる嬢たちの腕にからみつかれ、あっけなくソファへと沈んでいった。
    「ぎゃあ~~~」
    よい鳴き声だな、グランディエ。
    断末魔のごとき悲鳴を聞きながら、私はマダムを伴ってVIP ROOMを出た。
    「お帰りになってしまうの?」
    「今宵はね。私のぶんも彼と楽しんでくれ。
    いや、『彼で』、かな?」
    「まぁ、悪いひと。こちら側なだけでなく、サディストなのね」
    「よく言うね。私がこちら側の人間でないことぐらい、一目見たときから判っていただろう?
    すべてはマダムの筋書き通り。
    私はそれを、少しばかり利用させていただいただけだ」
    「なんのことかしら」
    ゆったりと毒を含んで笑うマダムに、私は適当に料金を支払った。
    「あらヤダ、こんなに!? 今日は店のおごりだと言ったでしょう?」
    「この店が気に入っただけだ。10万人記念の祝儀だと思えばいい」
    マダムの感謝のくちづけを頬に受け、私は店をあとにした。
    馬車を待たせている大通りまで、1人たらたらと歩く。
    「もうすっかり真夜中過ぎか」
    白く浮かぶ半月に雲が早く、石畳に影が落ちては光が射す。
    通りにはもう人影はなかった。
    あの店に入ってマダムと目が合った瞬間、私には判った。
    瞳の奥の、抑えた嫉妬。
    マダムのグランディエへの恋に。
    きっと彼女は自分の思い人が誰を愛しているか、気づいている。
    だからマダムはずっと待っていたのだ。グランディエがあの方を伴わずに店に来るのを。
    『あなたも‥こちら側の方…ね?』
    そう問われた刹那、私とマダムはお互いの思惑を探り合い、そして私が『たしなむ程度』と応えたことで、マダムは私が敵ではないと理解した。
    そして成立した今宵の共犯関係。
    あの男を、愛する姫君のお側から排除したい私と、堕としこみたいマダムと。
    2言、3言交わすだけで通じ合えたのは、お互い捻れた想いを抱える者同士だからだろう。
    ふふ。あの男、本気で怯えていたな。
    私の言うことを真に受けたとみえる。
    まぁ実際、貴族や軍人の中には男色家も多いし、あのようなところで男の情念たっぷりに詰め寄られたら、信じるのも仕方がないと言えようか。
    もっとも、私があの方のためにいささかの無茶をしてきたことは、あながち嘘ばかりではないのだが。
    それにしたって、私がそこらの駄犬に食指を伸ばすわけがなかろうに。
    「ふ‥ぅ」
    歩きながら、私は思わず息を吐いた。
    ほんの少し飲んだだけだというのに、体が熱い。
    まったくあのマダム、とんでもない酒を用意してくれたものだ。
    『スペシャルドリンクには、そのような効能があるようですよ』
    そう告げたときの、あの男の表情!
    今、思い出しても秀逸だ。
    安心するがいい、アンドレ・グランディエ。
    あの酒は、ただのパンチの効いた密造酒。
    暗示にかけられた君の体がどんな反応をするのかは、私の知ったことではないがね。
    恐らくあれは、マダムが気に入った男を惑わせる為の酒。私とあの男が10万人目の記念の客だということですら、疑わしいものだ。
    あの従僕。今ごろ、どうなっていることやら。
    これをきっかけに、あちら側にでも目覚めてくれぬものだろうか。
    そこはマダムの手腕に期待したいところだが、どうしてどうしてあの男、温和な顔をして実に狡猾だ。
    きっと上手に逃げてくることだろう。
    それにしても…オスカル嬢。
    あの方はもう、お屋敷にお戻りであろうか。それともまだ、この月あかりのどこかにいらっしゃるのだろうか。
    「お帰りなさいませ、少佐」
    大通りの四つ辻まで来ると、馬車に近づく私に気づいた御者が扉を開けた。
    「ご苦労。待たせたね」
    私は御者の目をじっと見つめてそう言った。
    この男は私にこのように見られるのが好きなのだ。
    しかし。
    「……どうした?」
    御者の目線が何かを気にしている。
    「いいえ」
    「言ってみろ」
    「はい…。先ほど、そこの小路の先で男同士のカップルがダンスをしておりまして」
    「ほう?」
    私はそちらに目を向けた。
    けれど月は流れる雲にちょうど隠されてしまった。
    霞みのような薄い雲。
    闇に紛れるほど暗くはなく、しかし、小路の奥が見通せるほど明るくもない。
    人がいると思えば、いるようでもあるが…
    「この先にちょっと面白いゲイバーがあるのだ。きっとその客だろう」
    「ゲイバー… 左様でございますか」
    御者の控えめな嫉視を感じながら私が乗り込むと、馬車は静かに走り出した。
    雲が流れ、石畳に月あかりが戻る。
    私はなんとなく気にかかり、窓から小路の奥に目を向けたが、そこにはもう、誰もいなかった。


    FIN
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