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【指環物語 -ヴァランタンの贈り物 -】( 10000HIT 御礼 )
UP◆ 2011/4/11その夜、オスカル・フランソワは寝台に寝転び、質素な金色の指輪を眺めていた。
昼間、アンドレと宝探しをしていたのだ。
子供の頃に、海賊ごっこが高じてそれぞれの宝物を埋めて隠した。
そこを久しぶりに掘り返し、出てきたアンドレの宝物がその指輪だった。
決して質が良いとは言えないくすんだ金色の指環は、若くして亡くなった彼の母親のもの。
自分が宝物として埋めた高価なクラバット留めなどよりも、もっとずっと大切な、それは本物の宝物だ。
アンドレがそんなに大切な物を、自分の気軽な海賊ごっこのために差し出していたと知り、今さらながらに彼女は心苦しく思った。
「埋めてから何年かは、すごく気にしていた」
彼はそう言っていて、そりゃそうだろうと彼女も指環を見て思う。
埋める物など、なんだって良かった。
遊びだったんだから。
9歳のアンドレの気持ちを思うと、申し訳なさに今も胸がつまる。
午後の旧・厩舎で彼が話してくれたことを思いだす…
アンドレ・グランディエは自室の簡素な寝台の上で、煌めくクラバット留めを眺めていた。
昼間、オスカル・フランソワと宝探しをしていたのだ。
子供の頃に、海賊ごっこが高じてそれぞれの宝物を埋めて隠した。
そこを久しぶりに掘り返し、出てきたオスカルの宝物がそのクラバット留めだった。
それはたいそう美しく、よく光り、中心にはめこまれたサファイアは、彼女の瞳によく似ている。
自分が宝物として埋めた指環を彼女へ贈ったことから、そのクラバット留めは、なんとなく彼が受け取ることになった。
ろうそくの灯りに揺らめくクラバット留めに、午後の旧・厩舎で彼女と話したことを思いだす…
窓から射しこむ淡い光の中、アンドレは静かに話しだした。
「母親から聞いてはいたけれど、おばあちゃんに会うのはその時が初めてだった。
母親の葬儀のとき。
俺にはもう身寄りがなかったから、一連の儀式は近所の人がみんなやってくれて、よそ者のおばあちゃんは手を出すすきもなかった。
だから俺は自然とおばあちゃんと2人きりになってしまうことが多かったんだけど、他人同然のおばあちゃんと話が盛り上がるわけもなく、俺はなんだかびくびくしていた。
祖母と孫の感動のご対面なんて空気はまったくなくて、
おばあちゃんは終始厳しい顔をしていたから。
今思えばおばあちゃんだってとまどっていたんだろうね。
いきなり娘に死なれて、悲しむ間もなく、顔を見たこともない孫を引き取ることになって。
お屋敷に移るために身のまわりのものをまとめるように言われたけれど、実際に持って行けるものは少なかった。
ジャルジェ家から差し向けられた馬車は立派で、荷物なんかいくらでも積めそうだったけど、おばあちゃんが持って行かせてくれなかったんだ」
彼が語るに任せて、そこまで黙って聞いていたオスカルは初めて口を挟んだ。
「どうしてばあやは、そんなことをしたんだろう?」
「俺もそのときは理由が判らなかったけど、お屋敷に着いて判った。だんな様に気を遣ったんだ、って。
お屋敷にはすでに俺のために部屋が用意され、新しい生活を始めるにはじゅうぶんな支度が整っていたから。
それは一使用人、しかも子供に対するものとしては破格の扱いで、おばあちゃんはものすごく恐縮していたよ」
「ばあやもそれぐらいのこと、気にしなくてもいいのに。
たぶん父上が執事任せにやらせたことだろう?」
「ああ、そうだな。だんな様は
でもやっぱり、身分という壁があるからね。
もっいないことなんだよ、オスカル。
おまえには判らないかもしれないけれど」
彼にそう言われて、彼女は少し胸が痛んだ。
『おまえには判らない』
そう、私には判らない…
「ああもう、そんな顔するなよ。
ごめん。俺の言い方が悪かった。
ここへおいで。そう。
大丈夫だよ、重くないから。あ、でもちょっと重いかな。
わっ、痛っ。やめろって。うそだよ、重くない」
アンドレはポカポカと彼を殴るオスカルの髪に指を入れると、彼女の頭を胸につけさせた。
幼い頃とは違う、彼女の体温…
「結局持って行けたのは、愛着のある品をほんの少しと何枚かの着替えだけ。
あとは、生まれた町を立つ朝に友達がくれた手紙や、記念にくれた遊び道具をいくつか。
でも、今、気がついたことだけど、もし、俺がいろんなものを持って来たとしても、ここでの生活にはそぐわないものだったと思う。
今でもそうだけど、お屋敷で支給される
お屋敷で暮らすようになってからは、みんなすごく優しくしてくれた。
あの頃はまだお嬢さま方がいらしたから、使用人も今よりずっと多かっただろ?その子供たちも、けっこういたし。
母親を亡くしたばかりで、しかも身寄りがないってことで、女性たちは甘えさせてくれて、慣れないお屋敷での暮らしやしきたりを優しく教えてくれたし、男連中は俺にも出来る仕事を作って、手取り足取り教えてくれた。
子供たちは新参者が珍しくて寄ってきたし、そもそも親たちに、俺を仲間に入れるように言い含められていたんだろうな。一週間もすると、俺はみんなと仲良くなった。
そんな頃だったね、おまえと初めてあったのは。
俺は最初、貴族社会のルールなんて知らなかったから、お屋敷に移ったら、すぐにでもだんな様にごあいさつするものだと思っていた。
でも、まず作法から教えられるとは思わなかったよ。
立ち居振る舞い、言葉遣い。
失礼のないように教えこまれてから、お目通りをお願いし、後日やっとお部屋に呼ばれて。
今は身分の高い方々はそういうものだと判っているけれど、当時はびっくりしたな。
なんて大げさなんだろう!って。
おばあちゃんと一緒にだんな様のお部屋へうかがって、本当に驚いた。
それまでは主に、厩舎や厨房なんかの使用人のエリアにしかいなかったから、当主の住む棟は初めてだったし、廊下は広いし天井は高いし、俺は相当びびってた。
当主の棟は、廊下なんて昼でもちょっと薄暗いだろ。
なんか不気味でさ。
おい、笑ってんなよ。
仕方ないじゃないか、子供だったんだから。
それまでは、一声かければ全部の部屋に声が届くような小さな家に住んでいたのが、こんなでかいお屋敷に来たんだ。夜なんて本気で怖かったよ、なんか出そうで」
想像すると可笑しくて、オスカルはくすくす笑いながら言った。
「あの頃、おまえがそんなことを考えてたなんてな。
シーツでもかぶって、寝込みを襲ってやれば良かった」
「冗談がきついよ。下手すりゃトラウマになるぞ。
でも、オスカル。今ならいいよ?
シーツにくるまって、寝込みを襲ってくれても」
横抱きにされた腕に少し力を入れられて、オスカルの頬に赤味がさした。
そしてさらに優しく抱きしめられる。
…あ‥っ…
図書室で足首に触れられたときより、もっとはしたない声をあげそうになって、オスカルはきつく目を瞑った。
落ちつけ、私。
こいつとは昔、さんざん取っ組み合いのけんかをした仲だろう?
…って今ここで目を閉じたら、私、まるでくちづけをせがんでいるみたいじゃないか!?
自分の思いつきに焦ったオスカルは目を開けようとした。
しかし、触れそうなぐらい近くに彼の眼差しを感じ、どうしていいか判らなくなってしまった。
ただ胸だけが、やたらとどきどきしている。
「いやか?オスカル」
ふいにそう問われて、彼女の緊張はいきなり振り切れた。
いやって何が?いやって何が!?いやって何が!!
固まったまま動けずにいるオスカルの胸に、彼の手が置かれた。
ちょっ…うそだろう?何、この急展開!
彼女の鼓動はさらに高まって、乱れ始めた自分の呼吸が耳障りに感じる。
これじゃそこらの変態みたいだ。
息づかいだけは押さえないと!
特異な育ち方をしているが、彼女にも女の恥じらいがある。
というか、実は並みの女以上にありすぎる。
懸命に自分を落ちつかせて、でも体中の感覚が、彼の手が置かれたところに集中してしまう。
そこだけ妙に重く感じて、無理に呼吸を押さえようとしたら、息苦しくて胸が震えた。
それをアンドレはどう取ったのか。
「ごめん、オスカル。大丈夫、何もしないよ」
そう言うと、1度は胸に置いた手で、彼女の髪をゆっくりと梳いた。
何…も‥しないのか?
ほっとしたような、拍子抜けしたような、妙な気分にオスカルはなった。
いや、なんかして欲しいわけじゃないけど、でも…
私はただ、あんまり息が上がっている自分が恥ずかしかっただけで、おまえを拒んではいないんだぞ?
多少は…なんかしても…‥いいんだぞ?
彼女は目を開けると、意を決して、その気持ちを伝えようとした。
拒否しているわけではないのだと。
「アンドレ、あの…。私、おまえになら」
それなのに。
「当主の棟でごあいさつが済むと、次は奥方の棟に連れて行かれて、奥さまとお嬢さまたちにお目通りしたんだ」
アンドレは、なに事もなかったように話の続きを始めた。
おいっっ!!
結構な覚悟で気持ちを伝えようとしていたオスカルは、心の中で総崩れになる。
こいつ、自制心の強いヤツだとは思ってたけど、でも、もうちょっと押してくれてもいいんじゃないか?
そりゃ昔、おまえが想いをぶつけてくれたあの時に、私は全力で拒否したけれど、でも今は違うのに。
おまえになら、な‥にをされても…いいって、思い始めたのに。
……アンドレの鈍感!
鈍感さにかけては自分の方が数段上なのに、あっさり引いてしまった彼に、オスカルはじれったさを感じた。
だいたいどうせこうなるのだったら、いっそあの時やっ… あの時結ばれてしまえば良かったのだ。
そうすれば私だってもっと早くフェルゼンを忘れられたし、私たちだってもっと早く始まっていたのだし。
彼女の中で、あの時泣いて嫌がったことなど、今はどこかに置いておかれている。
本当に欲しかったら、奪ってくれてもいいのに。
ふとそんなふうに思って、彼女は自分でびっくりした。
奪って欲しい…なんて。
ダメだ、私。
本当にどうかしてる。
今はアンドレの話に集中しないと。
密かな煩悩にまみれた彼女だったけれど、気を取り直して、淡々と語り始めた彼の言葉に耳を傾けた。
「次期当主の棟も、ものすごく豪華で重厚で、この棟の主がひとつ年下の女の子だなんて、俺には信じられなかった。
おばあちゃんからは、とてもおきれいなお嬢さまだって聞いていたけれど、奥方の棟でお会いした上のお嬢さまたちは、どなたもそれぞれに美しかったから、当然そうだろうと思ってた。楽しみだったなぁ。どんな女の子の遊び相手をするのかなって」
「で、そのお嬢さまとやらは美しかったのか?」
胸の奥にまだ煩悩を秘めたまま、半笑いでオスカルは聞いた。
「次期当主の棟のホールから大階段を見上げたとき、陽射しが一筋さしていて、その光の中におまえがいた。
金髪が光に透けて、白い肌も透き通ってしまいそうで、俺は天使の彫像を思いだしたよ。母親と通った教会の、天使の彫像を。
ほとんどすべての物を置いて行かなければならなかった生まれた町の」
そこまで話すと、アンドレは黙ってしまった。
オスカルは伏し目がちに彼の表情をうかがうが、そこからは何も読み取ることはできない。
「お母上を…思いだしている?」
彼女はそっと問うてみた。
するとアンドレは、吐息のように小さく笑った。
「いや。俺は母親の顔を覚えていない。忘れたんだ」
母を亡くした当時、アンドレは8歳。
覚えているには幼過ぎるか。
「違うんだ、オスカル。忘れたんだよ。
忘れてしまったんじゃなくて、忘れたの」
「?」
怪訝な顔をする彼女に、アンドレは再び問わず語りを始めた。
「お屋敷に来てしばらく、みんな優しくしてくれて、俺はすぐに仲良くなったと言ったよね。
だけどそれも長くは続かなかった。
おばあちゃんが厳しかったから。
大人たちには俺を甘やかさないよう釘をさして回ったし、子供同士で遊んでいればものすごく怒られた。
しつこいほどのおばあちゃんに、だんだん誰も表立っては俺にかまわなくなったよ。
今はそんなことないけれどね。
おばあちゃんの目の届かないところでなら、みんなコソコソと優しくしてくれたけど、それはいっそう俺を寂しい気持ちにさせた。
おばあちゃんは少しでも早く、俺を自立させたかったんだろうね。仕事を覚えさせて、このお屋敷で役に立てるように。おばあちゃんももう年だから、いつ自分がいなくなっても、俺がお屋敷に置いてもらえるようにと。
でもその当時はそんなこと判らなくて、どうしておばあちゃんはこんなに意地悪なんだろうって、辛くて仕方なかった。
やがて俺は誰とも話さなくなり、母親と幼なじみの友達と生まれた町のことばかり空想して過ごすようになった。
表面上は明るくしていたし、与えられた仕事はきちんとこなしていたけれど。
でも、子供の強がりなんて大人にはバレバレだろう?
執事から見た俺は、
そのことはだんな様や奥さまに報告され、俺はオスカルさまの遊び相手にはふさわしくないんじゃないかという話になったようだ。
おばあちゃんが、俺をお屋敷に置いてもらえるようにとしたことが、裏目に出てしまったんだ。
その夜、おばあちゃんは部屋に来て、俺が持ってきたわずかばかりの私物を全部取り上げた。
捨てるんだって言って。
おまえはもうどこにも行くところなんてない。
だから忘れろって。
ただ一心にお屋敷に仕えろって言ってね。
俺は泣いて頼んだよ、返してくれって。
全部忘れるから、仕事も覚えるから、だんな様にも信頼されるようになるから、だから返してって。
『どこにも行くところなんてない』
生まれた町にも、もう戻れない…
その言葉は心底恐ろしく、その日を境に俺は、母親の顔も幼なじみたちの顔も、町のことも、ほとんどを思い出せなくなったんだ」
一人語りをしていたアンドレは、シャツが熱く濡れていくのに気がついた。
「オスカル?どうした?」
彼女は彼の胸に額をつけて顔を見せようとはしなかった。
ただ不自然に呼吸を震わせて、声を殺している。
「なんで泣くんだよ」
アンドレは彼女の背中を優しく撫でてやった。
「知らなかったから。だっておまえはいつでも笑っていて、剣なんてめちゃくちゃ下手だったし、馬は怖がるし、字はろくに読めないし…
私にいくら罵倒されてもへらへらしてるから、おまえはバカなんじゃないかと思ってたぐらいだ」
「バカっておまえ、そりゃあんまりだろ」
「やっぱりバカだったじゃないか。こんなことを黙っていたなんて!」
オスカルは涙を伝い落としながら、彼につかみかかった。
「言ってくれたら良かったんだ。私なら、ばあやを止められたんだから。そうだろう!?」
「落ちついて、オスカル」
彼は手のひらで、彼女の頬の涙を拭った。
「おばあちゃんは正しかったんだよ。お屋敷に来たときから、俺は破格の扱いを受けていた。それはだんな様の、おばあちゃんへの信頼の証とも言える。
それに、オスカルさまのおそば仕えとして恥ずかしくないように、衣類なんかも上質なものが与えられていたし、おまえと一緒に家庭教師の授業も受けさせてもらった。
子供の頃は、昼食やおやつなんかも一緒に取ってたね。
俺用の剣も作ってもらったし、ある程度馬がこなせるようになると、なんとなく俺専用っぽい感じの馬もできてしまったし…
もし俺が、この扱いを普通に受け入れていたら、どうなっていたと思う?間違いなく、他の使用人たちから強い反感を買っていたと思うよ。そういう意味では、お屋敷にいられなくなったかもしれない。
おばあちゃんが俺にひどく辛く当たることで、俺には同情が集まったけど、それぐらいでちょうど良かったんだ。
それに、俺が受けていた恩恵を当たり前に思って育っていたら、俺は自分を特別な人間だと勘違いしていただろうね。
今、俺が他の使用人より優遇されながらも、みんなと仲良くやれているのは、その頃のことがあったからなんだよ」
でも。
そうだったとしても、アンドレの払った代償は大きすぎる。
「母親の顔を忘れたなんて」
形はどうあれ両親に愛され、ばあやにも慈しまれて育った彼女。幼い頃のアンドレの孤独を思うと、涙が止められなかった。
「でもね。俺には天使がいた」
…え?
「もう、おぼろげな記憶でしかない母親の、教会で祈る横顔。
幼かった俺は、母が祈りを捧げるあいだ、いつも天使の彫像を眺めていた。
初めて次期当主の棟で光の中に立つおまえを見たとき、あの天使が降りてきたんだと思ったよ。置いてきた町の」
私などが天使に見えたなんて、やっぱりバカだおまえは。
「海賊ごっこで宝物を埋めたあと、俺はよくここに来ていた。手元にあっても、いつおばあちゃんに取り上げられるか判らないから、宝物として埋めた指環。
寂しくなるとここに来て、地面に手を当てていた。
でもある時、俺は気がついたんだ」
その言葉に、オスカルは思わず顔を上げた。
まさか、おまえ。
「ある日俺がここに来たら、おまえがいて、膝を抱えて泣いていた。俺は気配を消してそれを見ていた。
はじめはよく判らなかったけど…
その日からおまえの様子に注意していたら、やがて気がついた。おまえはときどき、ここに泣きに来ていたんだ。もう人の来る心配のない古びた厩舎に。
おまえはどれだけだんな様が理不尽に厳しくても、どれだけぶっ飛ばさても、涙ひとつ見せなかったね。
俺は「貴族の跡継ぎ」とは、そんなものかと漠然と思っていたけど。
期待ゆえか、おまえの努力をちっとも認めないだんな様。
それなのに、上のお嬢さま方が覚え立ての下手なダンスを披露するのを、大げさに誉めるだんな様の親バカな顔を、おまえがどんな気持ちで見ていたか。
おばあちゃんにも、信頼する侍女にも、おまえはその気持ちを言うわけにはいかなかった。
おまえは男であらねばならなかったから。
ほんの5分か10分、感情を爆発させるように泣いて、でもそのあとは涙の跡も見せずにお屋敷に戻り、平気な顔で剣の稽古を続けるおまえ。
俺の前でも笑っている天使。
あの時から、おまえは俺にとって特別な存在になった。
たくさんの侍女たちにかしづかれる小さな次期当主。
でも本当のおまえは、いつもひとりぼっちだった」
人目を避けて隠れて泣く彼女を痛々しく思い、天使の顔に、生まれた町への憧憬と母親への思慕が入り混じって、気がつけば愛していた。
つのる想いが暴走して、彼女を傷つけたこともあるけれど。
「全部必要なことだったんだ。
だって今、天使は俺の腕の中にいる」
涙を止められない彼女は、声を立てないようにくちびるを噛んでいて…
バカなのはおまえだ、オスカル。
もう我慢しなくていいのに。
「そろそろ泣き止んでくれませんか、お嬢さま。普段強気なおまえにこんな儚げな顔を見せられると、男としては押し倒してしまいたくなるのですが」
あえて軽口をたたくと、オスカルは微妙な笑顔で「判った」とでも言うように、こくこくと頷いた。
頷いた拍子に、また涙が落ちてしまったけれど。
…こんなに長く一緒にいても、知らないことってあるんだ。
彼女は幼なじみの顔を見て、あらためてそう思う。
子供の頃からずっと、アンドレのことは自分が守ってやるのだと思ってきた。
あのアントワネットさま落馬事件のときも、彼への嘆願のためなら何も恐れなかった。
でも。
そんなのはちっぽけなこと。
彼がずっと何も言わずに見守り続け、払い続けてきた代償に比べれば。
「参ったな…」
この男の強さに、きっと私はかなわない。
ならば。
「私を全部、預けていいか?」
瞳に涙を残したまま、彼女は問いかけた。
答えは聞かなくても判っているつもりだった。
でも。
「オスカル、おまえ判ってないな」
彼は苦笑混じりに言った。
「預けるも何も…おまえにそんな自由はないよ。
おまえは全部、俺のものなんだから」
手の中に降りてきた天使。もう誰にも渡さない。
おまえ自身にだって。
「判った?」
彼らしくない強引な物言い。
少し前なら頭にきていたかもしれないのに、彼女は自然と頷いてしまった。束縛されることなど大嫌いなはずなのに、彼の言葉に縛られて、それを悦んでいる自分がいる。
彼の手のひらの上で、急激に変わってゆく自分が怖い気がした。
…でも、大丈夫だ。
手の中の指環を強く握る。
すれ違いかけたこともあったけど、やっぱりつながっていた。
この絆に、もはや抗う気などない。
「本当の私は…‥さっ‥寂しがりで、やきもち焼きでっっ…
意外と面倒くさい女だぞ?」
彼女は真っ赤にながらそう言ったのに。
「おまえ、昔からかなり面倒くさい女だったけど」
これには彼女もウケてしまった。
そうか、私って面倒くさい女だったのか。
じゃ、いっか…
くすくすと笑いながら、2人は、人目につくギリギリまで手をつなぎながら屋敷へと戻ったのだった。
そんな午後のことを、それぞれ自分の部屋の寝台の上で思い出していた。
初めての「恋人」に、まだとまどうばかりの彼女。
日ごとに彼への想いが増して、引きずられる自分を止められない。
このままじゃ私、勤務中のポーカーフェイスも保てないかも…
そんな自分がやっぱり少し怖いけれど。
でも、大丈夫。
おまえがこれを預けてくれたから。
彼からのヴァランタンの贈り物。
オスカルは、まだ人に見られるわけにはいかないその指輪にくちづけると、大切に、しまった。
きらきらと光るクラバット留めに、恋人の濡れた瞳を重ねていたアンドレは、ふと時刻に気がついた。
まずい、もう寝ないと。
最近は、それまでにも増して彼女の部屋に入り浸っているから、朝の屋敷の仕事には余計気を使っている。
彼はクラバット留めを、包んであったレースのハンカチに戻し、納めてあった封筒を手に取った。
ジャルジェ家の紋章の入った封筒の、その上質な手触…り?
あれ?
指先に微妙な違和感を覚え、アンドレは封筒をよく開いてみた。
奥にたたんだ紙片が貼りつけられている。
爪の先でそれを剥がし、揺れる燭台の灯りに開いてみた。
そこに並ぶ文字は、8歳の子供の
もちろん、予想に漏れず血判状だった。
その誓いの言葉を読んで、アンドレは吹き出した。
あいつ、昔から頭は良かったけど…
やっぱり子供だったんだな。
そういえばこの海賊ごっこは、何番目かのお嬢さまのご結婚式のすぐあとだった気がする。
しんあいなるアンドレ・グランディエ
いつかこの宝物をほりかえすとき、おまえがこれを目にすることはあるだろうか。
今、おまえのとなりにおれはいるか?
きっといると信じている。
顔を見ていうのは苦手だから、この血判状にちかう。
おれたちはずっといっしょだ。
病めるときも、すこやかなるときも、一生。
おまえへのしんらいは変わらない。
おれの本当の宝物はおまえだ。
時を超えて届いたその手紙は、不思議なほど今を暗示している。
「本当の宝物はおまえだ」
アンドレにとって、幼きオスカルからのその手紙こそが、ヴァランタンの贈り物となった。
FIN
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